第27話 暴走試作機ベータと、出口を賭けた1分間
重い足音は、確かに近づいていた。
奈落側へ続く通路と、軍施設の制御室とを結ぶ灰色の廊下。非常灯だけがぼんやりと灯るその先で、空気がわずかに震える。
金属と油の匂いが濃くなる。床を踏みしめる振動が、壁を通してこちらの足裏まで届いてきた。
「……レイ」
「ああ、聞こえてる」
西園寺レイは、魔導銃のグリップを握りしめたまま前方を睨んでいる。顔色は悪い。赤鬼戦と、その後の侵入・ログ奪取で、魔力も体力もすっかり削れていた。
俺も人のことは言えない。肋骨はまだきしむし、両腕は鉛みたいに重い。それでも、大剣を手放すわけにはいかなかった。
壁の端末では、赤いランプが点滅を続けている。
『非常封鎖シーケンス 進行中』
『全シャッター閉鎖まで 残り──60秒』
無機質な表示が、淡々とカウントを刻んでいた。
「60秒、か」
思わず呟く。
60秒で、こいつをどうにかするか。60秒で、こいつから逃げ切るか。どちらも簡単じゃない。
そんなことを考えている間に、そいつは姿を現した。
廊下の奥。うっすらと白い霧が湧いたかと思うと、その中から一体の機械じみた巨体が歩み出てくる。
赤鬼みたいな生々しい肉の塊ではない。灰色の装甲板が層を成し、その隙間から油圧シリンダーと人工筋肉が覗いていた。
人間の3倍まではいかないが、2倍ちょっとはあるだろう。肩幅は扉いっぱい。腰には、廊下の天井に届きそうなほどの縦のライン。
頭部にはセンサーらしきレンズが3つ並び、その下に無表情なマスクが取り付けられている。胸部には、見覚えのある軍のエンブレム。そしてジャンク品みたいな注意書きプレート。
右腕だけが、妙に異様だった。
関節だらけの油圧アームの先に、巨大なハンマーとクランプを合体させたような工具がついている。先端は平らではなく、コンクリートブレーカーみたいに尖っていた。壁ごと何かを砕くための形状だ。
そいつは、次の一歩で床を軽く踏み鳴らした。
ドン、と空気が揺れる。床板がミシっと沈む。周囲の壁に微かなヒビが走った。
「……何だ、あの現場荒らし専用機は」
思わず口から出た言葉に、レイが乾いた笑い声を漏らした。
「名称、出た」
彼は近くの壁端末に素早く指を走らせる。制御室から引き継いだアクセス権を使って、このフロアの防衛システムに接続しているようだ。
端末の画面に、簡易的な仕様書がポップアップした。
「防衛用機動兵器 β-2 試作機……想定任務、ダンジョン構造破壊、および敵性探索者の行動域制限」
「ダンジョン構造破壊?」
「要するに、“通路ごと敵を潰す重機”だな」
レイが淡々と言う。
「自己再生能力は赤鬼ほどじゃないが、短時間の出力は同等。対魔装甲、物理出力重視。冷却ユニット……露出気味。連続稼働時間には制限あり、と」
「短距離全力ダッシュ型ってことか」
「そういうことだ」
β-2。ベータ。
そいつは、俺たちの会話なんか気にしていないという風に、一定の速度でこちらに歩いてくる。足音はどんどん大きくなり、振動も強くなっていく。
壁の端末が、再び無機質な声を流した。
『非常封鎖シーケンス 進行中』
『全シャッター閉鎖まで 残り──50秒』
「楽しいタイミングだな、おい」
「全然楽しくない」
レイが短く言い返す。
ベータの頭部センサーが、こちらを向いた。3つのレンズが、俺とレイを交互にスキャンするように動く。
その動きに合わせて、ベータの胸のあたりで何かが点滅した。内部の演算装置が、標的の優先順位を決めているのだろう。
……そして、そいつは迷いなくレイの方へ向かって一歩踏み出した。
「おい、そっちじゃないだろうが」
「合理的な判断だ。サポーターから潰すのがセオリーだからね」
レイは苦く笑いながらも、足を引かない。魔力の残量がほとんどない状態で、彼に真正面から戦う手段はない。それでも退がらないところが、この男の嫌いになれないところだ。
「後衛から狙うな。現場のルール違反だろ」
俺は一歩前に出て、大剣を構えた。
黒鋼の刃が、薄暗い非常灯の光を鈍く弾く。
ベータがその動きに反応した。センサーの光が、今度は俺の方へと集中する。
次の瞬間、そいつは床を蹴った。
さきほどまでの重々しい歩みとは別物の速さだった。
巨体が一気に加速する。油圧シリンダーが悲鳴を上げるほどの圧力で伸び縮みし、装甲板の隙間から白い蒸気が噴き出した。
「っ──!」
俺は反射的に大剣を振り上げた。
ベータの右腕が唸りを上げて振り下ろされる。コンクリートブレーカーの先端が、真っ直ぐこちらの顔面を狙っていた。
黒鋼と工具がぶつかる。
ドゴン、と鈍い音。衝撃で足場が沈み、背中の壁がきしんだ。
腕にかかる負荷が、赤鬼の一撃に近い。だが、決定的に違うものがあった。
握った柄の向こう側で、何かがぬるりと滑った。
ベータの工具の先端から、液体のようなものが広がり、黒鋼の表面を覆っていく。いや、液体ではなかった。極低温の冷却ガスか、冷却剤だ。
触れた場所から、きしきしと嫌な音がする。黒鋼の表面に白い霜が一瞬で走り、肌理の細かい金属が硬く、脆く変質していく気配があった。
「……金属冷却か」
レイが低く呟く。
「対重装甲用。装甲を凍らせて、脆くしてから砕くタイプだ。赤鬼が“殴り殺す重機”なら、こいつは“構造を殺す重機”だな」
「ろくでもないことだけは分かった」
俺は歯を食いしばりながら、ベータの腕をいなした。
べったりと付着した霜が、大剣の側面を滑り落ちる。黒鋼の表面に入ったごく細いヒビが、【構造欠陥】の視界にうっすらと映った。
危険信号だ。防御の角度を間違えれば、そのうち大剣がへし折れる。
「こいつとまともに殴り合ったら、剣が先に死ぬぞ……」
「そうなるな」
レイは、ほとんど笑っていなかった。
ベータは一撃で俺を粉砕できなかったのが意外だったのか、一瞬だけ動きを止めた。センサーが微かに光り、内部で計算をやり直している。
次の瞬間、そいつは俺ではなく、廊下の側壁に向かって拳を叩き込んだ。
ドガァン、と凄まじい音がした。
壁が内側から爆発したみたいに抉れ、コンクリート片と鉄骨が雨のように降ってくる。頭上の天井板が落ちかけ、電線がぶら下がった。
粉塵の向こう側で、ベータはまた一歩進む。別の柱に拳を叩き込み、また別の壁を抉る。
通路が、あっという間にボロボロになっていく。
「……現場荒らしにも程があるだろ」
「むしろ“現場を荒らすことが仕事”なんだよ、こいつは」
レイは咳き込みながら言った。
「敵の逃げ道を塞ぎ、視界を奪い、足場を壊す。ダンジョンの構造自体を武器にするタイプの兵器だ。探索者が戦いやすい現場を、徹底的に潰す」
「現場監督が聞いたら泣くな」
「軍は泣かない」
そんな会話をしている間にも、端末のカウントは進んでいく。
『残り──40秒』
前方のシャッターが降り始めているのが見えた。分厚い鉄板が、ゆっくりと天井から下りてくる。そのさらに奥には、ダンジョン側の通路へと続く薄暗い空間。
奥へ抜けるには、あのシャッターの下を潜らなければならない。
一方で、背後の方からも、別のシャッターの閉まる音が聞こえてきていた。どのみち、ここでぐずぐずしていれば、前後を完全に塞がれる。
「レイ」
「分かってる」
レイは端末に指を走らせる。
「このフロア図によると、ダンジョン側との接続通路の手前に、ひとつだけ“防爆シャッター”の区画がある。他より厚くて重い。こっちからは簡単に開けない代わりに、向こうからも簡単には押し広げられない構造だ」
「要するに、“一番壊したくない扉”ってことか」
「逆に言えば、“一番挟むのに向いている扉”だ」
レイは端末から目を離さずに続ける。
「ベータの行動パターンは単純だ。敵を追いながら、その周囲の構造物を優先的に破壊する。──だったら、その一番堅いシャッターの前で、柱を狙って折ればいい」
「シャッターを落として、あいつを挟み込む、か」
「この出力なら、君の一撃で局所的な変形くらいは起こせるだろう。施設全体を落とす必要はない。必要なのは、“あいつが二度と通れない程度に歪ませること”だけだ」
端末の画面には、シャッター周りの簡易断面図が表示されていた。俺はそれをちらりと見て、すぐに頭の中で組み立て直す。
シャッターを支えている両側の柱。梁の位置。荷重の逃げ道。どの一本を、どの角度で打てば、シャッターが“落ちるところまで落ちて、それ以上は落ちない”か。
【構造欠陥】が、そこだけを撫でるように教えてくれる。
「できるか」
レイが短く問う。
「現場は予算も時間も足りない。必要なとこだけ壊すのは、いつもの仕事だ」
俺は答えた。
「問題は、そこまで誘導できるかどうかだ」
ベータは、こちらの相談なんか関係ないと言わんばかりに、着実に距離を詰めてきていた。
俺は大剣を構えたまま、ゆっくりと後退する。
壁際には近づかない。天井の落ちかけている箇所からも距離を取る。ベータの拳が壁を抉ったときに、落ちてくる破片が“盾”になる位置を計算しながら下がっていく。
「レイ、右側に寄れ。そこは天井が落ちたら一緒に潰れる」
「了解」
レイは足元のガレキを踏まないように気を付けながら、俺の少し後方に位置を取る。その肩越しに、迫るベータを睨んでいた。
「ベータの出力、まだ全開じゃない。冷却ユニットのランプが安定してる。ここからが本番だ」
「十分、うるさくて重いがな」
「軍の評価基準はもっと厳しいんだろう」
ベータが腕を振り上げた。
今度は真正面からではない。壁際の柱を狙っている。そこを壊せば、この区画の天井の半分が落ちるだろう。
「おい、それは壊すな」
俺は即座に踏み込んだ。大剣の側面でベータの腕を打ちつけ、柱から狙いを逸らす。
冷却剤がまたしても黒鋼に付着する。白い霜が広がり、細いヒビが1本、2本と増える。
「竹内!」
「まだ折れねぇよ!」
そう叫んだが、正直なところあまり自信はなかった。
大剣の芯の方はまだ健在だが、表面層のダメージは無視できない。チャージも、さっき赤鬼を落とした黄金リリースほどではないにせよ、じわじわと溜まり始めている。
【チャージ +1】
受けた衝撃と、受け流した力。その一つ一つが、刃の内側に蓄積されていく。
「前方のシャッターまで、残り20メートル。封鎖まで30秒!」
レイの声が飛ぶ。
「全力で走るぞ!」
「走りながら守れってか!」
「それが君の仕事だろう!」
理不尽な注文をされている気がしたが、否定できなかった。
俺は大剣を構え直し、ベータの真正面からわずかに斜めにずれた位置へと移動する。通路の中央ではなく、少しだけ左側。右側には、わざと大きな傷を付けた柱が1本ある。
ベータのセンサーが、その柱の“傷”を捉えたのが分かった。
プログラムされた優先順位が、その傷を「破壊すべき弱点」として認識したのだろう。ベータはそこへ腕を振り下ろそうとする。
「こっちだ、現場荒らし」
俺はあえて、その柱ギリギリの位置に立った。
ベータの攻撃が、柱と俺の両方を巻き込む形になる。
少しでも演算性能が残っているなら、標的の優先順位をどうするか迷うはずだ。柱を優先するか、人間を優先するか。どちらも一気に壊そうとするか。
ベータの動きが、一瞬だけ鈍った。
そのごく小さな隙に、俺は大剣を振り上げて、わざと柱側へと身をさらす。
ベータは、結局柱を優先した。拳の軌道がわずかにずれ、柱へと向かう。
その瞬間、俺は横へ転がった。
拳が柱を掠める。わずかにコンクリート片が飛び散るが、致命的な破壊にはならなかった。ベータは予定していた破壊量を得られなかったせいか、わずかに間の抜けた姿勢で止まる。
「……今の、当たってたら死んでたぞ」
「君、仕事熱心すぎる」
レイが顔をしかめて言った。
「見ろ、前だ!」
前方のシャッターは、すでに半分以上降りていた。
その向こう、わずかに見えるのは、ダンジョン側の岩の通路。奈落の縦穴へ通じる、帰り道。
「ここで終わるわけにはいかないな」
俺は息を整える暇もなく、走り出した。
ベータは、目の前で逃げられかけている獲物を追うように、再び加速した。
床が沈み、壁が揺れる。心なしか、出力が上がっている気がする。冷却ユニットのランプがわずかに点滅し始めていた。
あと少しで、オーバーヒートするのだろう。だが、その前にこっちが潰される。
「レイ!」
「分かってる!」
レイは息を切らせながら、端末を操作した。
「ダンジョン側通路手前のシャッター周りの構造データ、こっちに出した。柱は計4本。左右2本ずつ。そのうち1本が“キーストーン”だ。そこを折れば、シャッターが落ちて、あとは重量と摩擦で止まる」
「どれだ」
「右から2本目。君なら分かるだろう」
端末の簡易図だけでも、十分だった。
右から2本目の柱は、他の3本とは違う位置に梁が乗っている。荷重の流れの太さが違う。そこを折れば、シャッターの右側が一気に落ち、その斜めの歪みがベータの頭と胴体を挟み込む。
【チャージ +1】
【+1】
ベータの拳をいなしながら、俺はシャッター手前の区画まで走り込んだ。
分厚い金属板が頭上から降りくる音がする。シャッターの縁が、既に俺の肩くらいの高さまで下りてきていた。
「残り10秒!」
レイの声が、背後から飛ぶ。
「──全部使うぞ」
俺は足を止め、大剣を構え直した。
黄金にはほど遠い。だが、刃の内側には、さっきから受け続けているベータの出力が蓄積されている。銀色に近い、淡い光が刀身から滲み出していた。
【チャージ 7】
【段階2】
【倍率200%】
十分だ。
ここで、施設全体を落とす必要はない。
必要なのは、この1本だけを折ること。
ベータが後ろから迫る。シャッターの前で、俺とレイとベータが一直線に並ぶ形になっていた。
ベータの腕が、再び振り上げられる。今度こそ、俺もレイも柱もシャッターもまとめて叩き潰すつもりだろう。
「レイ!」
「これが本当に最後の一手だ!」
レイは魔導銃を構え、残っていたわずかな魔力を振り絞った。
「【スロウ・フィールド】!」
短い詠唱と共に、ベータの足元の空間がわずかに歪む。時間の粘度が一瞬だけ上がる。ベータの動きが、ほんのわずか──人間の感覚で言えば、瞬き1つぶんだけ──鈍った。
それで十分だった。
俺は、右から2本目の柱に向けて踏み込む。
「現場で一番やっちゃいけないことを、現場でやってやるよ」
大剣を振り下ろした。
狙うのは柱の真ん中ではない。荷重が一番集中している、梁のすぐ下。そこを、刃ではなく腹で叩く。
黄金ではなく、銀色の衝撃が走る。
ズシン、と鈍い音。柱の内部に走っていた鉄筋が軋み、コンクリートが砕けた。
亀裂が一気に広がる。柱の下半分が崩れ落ち、上半分がシャッターと一緒に沈み込む。
右側のシャッターの縁が、勢いよく落ちた。
ちょうど、その下にベータの肩と頭があった。
ベータは、拳を振り下ろす途中だった。わずかに鈍らされた動きでは、落ちてくるシャッターを避けきれない。
分厚い金属板が、ベータの外骨格の上にのしかかる。
ガギィィン、と耳障りな音。ベータの肩の装甲がひしゃげ、内部の構造が圧し折られる。
ベータは全身の力でシャッターを押し戻そうとするが、荷重の方向と、支点の位置が最悪だ。右側だけが大きく歪んだせいで、自分自身が「楔」としてシャッターと床と壁の間に噛み込まれてしまっている。
左側の柱と梁が辛うじて踏ん張り、シャッター全体がそれ以上沈み込むのを止める。
ベータの外骨格が、ギシギシと悲鳴を上げた。
「今だ!」
レイが叫んだ。
シャッターとベータの隙間は、もうほとんどない。それでも、人ひとりが腹ばいになってギリギリ滑り込める程度のスペースは残っていた。
「行け!」
「お前先に行け!」
「君の方がでかい!」
「うるせえ!」
こんな状況でも口喧嘩になるのが情けないが、悠長なことを言っている場合ではない。
レイが先に身を投げ出した。床に腹を擦りながら、シャッターの下を転がっていく。
そのすぐ後を追って、俺も大剣を抱え込むようにして滑り込んだ。
背中を、ベータの腕が掠めた。
あと数センチ遅れていたら、背骨ごと持って行かれていただろう。
シャッターの向こう側に転がり出る。
そこは、軍施設の人工的な廊下ではなく、見慣れた岩の通路だった。壁はざらりとした岩肌。空気は湿っていて、土と魔力の匂いが濃い。
『奈落の竪穴』の中層。ダンジョン側の世界だ。
背後では、ベータがシャッターを押し広げようとする金属音が響いていた。
ギギギギ、と装甲がきしむ音。油圧シリンダーが限界まで伸びきっている音。
だが、その音には“余裕”がなかった。
右側のシャッター支点は、既に崩れている。左側の柱と梁がかろうじて全体を支えているせいで、これ以上シャッターが持ち上がる余地はない。
ベータは、自分自身を楔にしたまま、構造と全力で引き合いをしている状態だ。
「……あれ以上は、広がらないな」
俺は壁にもたれながら、短く言った。
「柱を1本だけ折って、2本残した。右は落ちたが、左と中央の梁が踏ん張ってる。あいつがどれだけ足掻いても、シャッターは10センチも上がらない」
「本当に、よくそんなギリギリの壊し方で済ませられるな……」
レイは、へたり込んだまま天井を見上げた。
「現場は、必要なとこだけ壊さないと怒られるんだよ」
俺も、その場に座り込む。膝が笑っていた。腕の震えも止まらない。
シャッターの向こうで、ベータの足掻く音が徐々に弱くなっていく。冷却ユニットのランプが点滅を繰り返し、最後には赤く点きっぱなしになった。
オーバーヒートだ。
「さて」
レイが、ぐったりとした体を起こしながら端末を確認する。
「ベータは封じた。ログは外に出した。軍の裏口は──」
彼が言い終える前に、背後の岩盤が低く唸った。
軍の通路とダンジョンを繋いでいた部分が、徐々に崩れ始めているのだ。ベータとシャッターのせいで、荷重バランスが崩れたのだろう。
天井の岩が小さく崩れ、粉塵が舞う。俺たちがさっき抜けてきた隙間も、あっという間に瓦礫で埋まりつつあった。
「裏口も、これで閉鎖だな」
「本来の意味の“閉鎖”じゃないけどね」
レイは苦笑した。
「軍にとっても、ギルドにとっても、ここはしばらく“立ち入り禁止の現場”になるだろう」
「現場荒らしの重機を2台も突っ込んだ結果だからな。自業自得だ」
俺は小さく息を吐いた。
背後の音は、やがて完全に途絶えた。そこにはもう、軍の廊下も、ベータも、シャッターもない。ただの岩盤の壁だ。
「戻るか」
「戻れるか、だな」
レイは立ち上がりそうとして、足をもつれさせかけた。俺は慌てて腕を貸す。
奈落の縦穴までは、まだ少し距離がある。赤鬼との戦闘と崩落で、地形も変わっているだろう。慎重に進まなければならない。
それでも、さっきまでの「出口が完全に消えるかもしれない」という状況に比べれば、ずいぶんマシだ。
「……ああ、そうだ」
レイが思い出したように端末を取り出した。
「遥に状況を送っておかないと。ログの転送状況も気になる」
「妹に、どこまで話すつもりだよ」
「全部だよ。君の家族なんだから」
レイはあっさりと言った。
端末の画面に、小さな通知が表示されている。
『ログ転送 完了』
『解析進行中』
さらに、その下に新しいメッセージが現れた。
『遥:データ解析、ひとまず終わった。今どこ? 無事なら、これを見てほしい』
そこまで読んで、レイの指が止まる。
「どうした」
「……いや。遥から、もう一件来てる」
彼は少しだけ躊躇してから、メッセージを開いた。
画面には、短い一文が表示されていた。
『遥:お兄ちゃん。このリストに、“うちの苗字”がある』
胸の奥が、嫌なふうに冷たくなった。
「苗字?」
「竹内、という意味だろうね」
レイは深く息を吐いた。
「覚醒者候補リスト。軍が“要注意人物”としてまとめていた名簿の中に、竹内の名前だけじゃない、“竹内”という苗字がいくつかあったらしい」
「……」
「詳細は、戻ってからだ。今ここで感情を爆発させても、状況は変わらない」
そう言ってレイは、端末の画面を閉じた。
俺は、何も言わなかった。
親父の顔が、ふと頭に浮かんだ。
ダンジョンとは無縁の、どこにでもいる中年サラリーマン。そう思っていた。いや、そう思い込んでいた。
軍と学校とダンジョン。そこに「竹内」の文字が並んでいるのだとしたら──。
「今は、生きて戻るのが先だ」
自分言い聞かせるように口に出す。
レイが、少しだけ微笑んだ。
「そうだな、涼太」
初めて、自然に名前で呼ばれた気がした。
奈落の縦穴へと続く通路は、ところどころ崩れてはいたが、まだ道としての体を保っていた。
俺たちは互いに肩を貸し合いながら、慎重に足を進める。
やがて、目の前に巨大な暗闇が広がった。
奈落の竪穴。見上げれば、はるか上方にかすかな光点が見える。見下ろせば、底の見えない闇が口を開けている。
中層の岩棚は、ひとつ消えていた。俺たちが赤鬼ごと叩き落とした、あの巨大な足場だ。その代わりに、崩落の瓦礫が新しい足場をいくつか作っている。
自然と人工と、戦闘の結果が混ざり合った、いびつな景色だった。
「……まだ、出口までは遠いな」
「近道は全部、自分たちで壊したからな」
レイが苦笑する。
俺も笑った。
この先、軍がどう動くのか。ギルドがどう出るのか。世間がどう騒ぐのか。遥が、親父が、どう巻き込まれていくのか。
考えることは山ほどある。
だが、今この瞬間だけは。
「とりあえず、今日の現場はここまでにしておこうぜ」
「賛成だ」
俺たちは、縦穴の中腹に新しくできた小さな足場に腰を下ろした。
上の方から、かすかに風の音と、人の声のようなものが聞こえた気がする。
地上では、もう何かが動き始めているのだろう。
ここはまだ、その入り口に過ぎない。




