第25話 赤き獣の暴走と、黄金の衝撃
咆哮の余韻が、まだ胸の奥で震えていた。
奈落の中層。薄暗い踊り場に、血の匂いと鉄の匂いが渦を巻く。
血塗れの赤鬼は、ひしゃげた足場の縁に立ったまま、こちらをじっと見下ろしていた。赤い瞳と、黒鋼の大剣の刃が互いを映し合う。
「……来るぞ」
そう呟いた瞬間、そいつの姿が掻き消えたように見えた。巨体のくせに、視認が遅れるほど速い。
赤い影が縁から跳び下りる。次の瞬間、目の前には拳があった。
「っ──!」
反射で大剣を振り上げる。480キロの黒鋼と、強化外骨格で覆われた拳が、真正面から激突した。
ガギィィィィン、と耳をつんざく金属音が鳴り響く。
腕の骨がきしみ、足場ごと全身に衝撃が突き抜けた。至近距離で赤鬼の顔が歪む。だが、その目に痛みの色は一切ない。ただ、獲物の強度を測るような冷たい光だけが宿っていた。
「た、竹内!」
背後からレイの声が飛ぶ。
「大丈夫だ!」
短く叫び返しながら、俺は拳をいなす。外骨格の腕を滑らせるように大剣を流し、足場の縁ぎりぎりまで後退した。
足場が大きくきしむ。さっき応急補修したばかりの支柱が悲鳴を上げている。
だが赤鬼は、追撃を急がなかった。巨体のくせに、一歩、二歩と下がる。俺との距離を一定に保ったまま、横にじりじりと回り込んでくる。
真正面からの力押しだけではない。わざと視線を外し、死角を作ろうとしている。
(……軍の格闘データってやつか)
さっきの拳も、ただのぶん殴りではなかった。俺の大剣の軌道を読んだうえで、その「抜ける方向」を狙って打ち込んできている。普通のモンスターに、そんな器用な真似はできない。
「君、今の受け止めてる時点で十分おかしいからね!? 自覚はある!?」
レイの悲鳴ともツッコミともつかない声が飛んできた。
「まあまあ落ち着け」
「落ち着いてるのは君だけだ!」
舌戦をやっている暇もなく、赤鬼が再び踏み込んできた。今度は真正面ではない。大きく右腕を振りかぶって見せて、直前で軌道を変える。右拳のフェイントから、左肘でえぐるように殴りかかってきた。死角を正確に刺す、人間くさいコンビネーションだ。
「っらあ!」
俺は一歩横へズレ、大剣を斜めに立てる。赤鬼の肘が鉄板を叩く。衝撃を切り裂くように受け流し、体ごと回転して力を逃がした。
足場の縁が嫌な音を立てる。いなしきれなかった衝撃が腕に痺れとして残った。
だが、その瞬間、腕の奥に別の感覚が走る。胸の内側で、薄く灯る光。視界の隅に、簡易インターフェースが浮かんだ。
【チャージ +1】
最初の拳。いなした肘。防いだダメージと流した力が、じわじわと積み上がっていく。
チャージは、“いまこの瞬間の火力ブースト”じゃない。現場で背負った負荷のレシートみたいなものだ。受けた分だけ、後でまとめて清算できる。
「【スロウ・フィールド】!」
レイの詠唱とともに、赤鬼の足元の空間がわずかに歪んだ。空気の粘度が上がったように、脚の動きがほんの少しだけ鈍る。
その一瞬を逃さず、俺は踏み込んだ。黒鋼の刃の側面で、赤鬼の胴を薙ぐ。
手応えは、岩でも肉でもなく、金属に近い鈍さだった。表皮に埋め込まれた強化外骨格が衝撃を吸収し、血はほとんど飛ばない。代わりに、埋め込まれた魔石が一瞬だけチカッと明滅した。
「……硬すぎない?」
背後でレイが呻く。
「だが、通ってる」
俺は短く返した。衝撃そのものはゼロではない。装甲の奥にある肉と骨には、じわじわと荷重が伝わっている。何より、チャージがまた一つ増えた。
【チャージ +1】
受けた衝撃。弾いた力。ぶつけた質量。全部がチャージの中に溜まっていく。まだ、黄金には遠い。
赤鬼が低く唸った。その動きが、はっきりと変わる。さっきまで俺の上半身ばかり狙っていたのに、今度は足元へ拳を叩き込んできた。
踊り場の隅に拳がめり込み、ドゴンと岩と金属がまとめて吹き飛ぶ。床の一角が大きく抉り取られた。
「っ……!」
重心が崩れる。足を取られた俺は、とっさに大剣を杖代わりにして踏ん張った。
赤鬼は間髪入れず、別の箇所にも拳を叩き込む。足場を壊せば相手のバランスが崩れる──さっき俺が岩トカゲを落とした崩落を、しっかり“学習”している。
「……あいつ、学んでる!」
レイが舌打ちまじりに叫ぶ。
「だろうな」
俺は抉れた床を一瞥し、残った支柱の位置を一瞬で把握した。
赤鬼は俺の真似をしようとしている。だが、その壊し方はあまりにも雑だった。
「壊し方が下手だ」
「今そんな評価してる場合か!?」
「構造を見てない。『ここ殴ればこの辺落ちるだろ』っていう勘だけで崩してる。現場荒らしの典型だ」
足場に走る亀裂の向きと、荷重の流れがちぐはぐだ。不細工な崩落だ。下手に真似されると、後で直す人間が一番困るやつ。
本来なら、怒鳴りつけたいところだが、今はそれを利用する。
「レイ」
俺は振り返らずに声を飛ばす。
「何だい!」
「踊り場の真ん中まで下がれ。そいつを中央に引きずり込む」
「中央? 一番落ちたくない場所だと思うけど?」
「一番、支点が集まってる場所だ」
踊り場の中心には、見えない梁が何本も通っている。ここを狙えば、上も下も、ある程度まとめて落とせる。逆に、今赤鬼が殴っている端っこばかり壊されると、予想外の連鎖崩落が起きかねない。
「ここに誘導する。そいつが一番深く踏み込んだ瞬間──」
俺はちらりとレイを見る。
「一番デカい花火を上げる。固定できるか」
レイは一瞬、ぽかんとした顔をしてから、呆れたように笑った。
「……やっぱり君、頭おかしいよ」
「現場にいる時点でお互い様だろ」
「そうだな。分かった」
レイはポーチから小さな銀の指輪を取り出し、指にはめる。魔法陣が刻まれたリングが、淡い光を帯びた。
「奥の手を使う。本来は暴走しかけた進化種を一時拘束するための呪具だ。出力は対人間仕様に落としてあるけど……あいつには足りるはずだ」
レイが深く息を吸い込む。
「全魔力を使う。一回限り。発動中は一秒もたない。その一秒で終わらせろ」
「任せろ」
俺は踊り場の端まで下がり、赤鬼に向かって大剣を突きつけた。挑発するように、刃先をちょん、と持ち上げる。
「こっちだ、現場荒らし」
赤い瞳がわずかに細くなった。次の瞬間、赤鬼は床を蹴る。
足場が付き上がるように震え、巨体が真正面から一直線に突っ込んできた。さっきのようなフェイントはない。覚えたてのテクニックなど捨てて、ただ最短距離で叩き潰しに来る。これはこれで、分かりやすい。
俺は大剣を構え、受け止める角度を調整する。
拳と刃がぶつかる。再び全身を揺さぶる衝撃。足の裏が滑りそうになるが、今度は自分から滑らせる。わざと後方へ退き、赤鬼を踊り場の中央へと引き込んでいく。
拳を流しながら、数歩分後ろへ下がる。ここが、支点の集まる場所。ここで──溜める。
チャージが一気に加速する。受けた衝撃、いなした力、打ち込んだ反撃。その一つ一つが、芯の方へ吸い込まれていく感覚。
【チャージ +1】
【+1】
【+1】
黒鋼の刀身の内側で、何かが蠢いた。刃の根元から、薄黄色の光がじわじわと滲み出し、やがて刃全体に広がっていく。第二段階。まだ足りない。
赤鬼の膝が、脇腹を狙って飛んできた。咄嗟に大剣の腹で受け止める。完全には殺しきれず、肋骨が悲鳴を上げた。肺から空気が漏れる。
それでも踏ん張る。歯を食いしばり、足をねじ込む。
【チャージ +1】
黄色が濃くなる。ほとんど金色に近い光が大剣にまとわりつく。視界の隅でインターフェースが点滅した。
【チャージ 10】
【段階3】
【倍率300%】
──届いた。
「レイ!」
俺が叫ぶと同時に、レイは指にはめたリングを掲げた。銀の輪から青白い光が弾ける。
「【グラビティ・チェーン】!」
短い詠唱と共に、踊り場の空間に鎖のような魔法陣が走る。重力の向きがねじれ、赤鬼の足元から黒い鎖が伸びた。実体はない。しかし、足を床に縫い付けるような圧が一瞬だけ生まれる。
赤鬼の動きが止まった。本当に、一秒にも満たない瞬きの間だけだ。筋肉が軋む音が聞こえるほどの力で、そいつはすぐに鎖を引きちぎりにかかる。
だが、その一瞬で十分だった。
黒鋼の大剣が、黄金色に眩しく輝く。光と熱と、これまで積み上げてきた負荷。全部が一振りに収束していく。
「解体開始だ」
俺は、赤鬼そのものには狙いをつけない。最初から決めていた場所──踊り場の中心、足元の岩盤。この棚を支えるキーストーンへと大剣の先端を向ける。
「まとめて落ちろ!!」
叫びと同時に、リリースする。黄金の衝撃が、大剣から解き放たれた。
ズドォォォォォン!!
耳をつんざく爆音と共に、刃が岩盤にめり込み、そのまま下の層まで突き抜けた。衝撃波が蜘蛛の巣状に広がり、踊り場全体に亀裂が走る。支柱が一本、また一本と折れていく。
拘束を振りほどいた赤鬼が、咄嗟に踏み込みを変えようとする。だが、それより早く足元の床が崩れた。
一瞬の無音。そのあと、一気に世界が落ち始めた。
奈落の中層を形作っていた巨大な岩棚が、赤鬼ごと、下の闇へ向かって滑り落ちていく。
「うおっ──!?」
「ちょ、ちょっと待て待て待て待て!!」
俺とレイも、同時に足場を失った。視界がひっくり返り、崩れ落ちる岩盤と舞い上がる砂煙だけが目に入る。身体が宙に投げ出され、奈落の底へ吸い込まれていく。
「レイ!」
「分かってる!」
レイは落下の中で魔導銃を抜き、壁面へ銃口を向けた。
「【アンカー・ボルト】!」
乾いた破裂音。魔力を帯びた鋼の杭が一直線に飛び、縦穴の壁に突き刺さる。突き刺さった杭から光るワイヤーが伸び、俺とレイの身体に絡みついた。
腰に強烈な衝撃が走る。内臓がぐっと引き戻される感覚。それでも、完全な自由落下は免れた。崩れ落ちる岩棚の縁をかすめるように通り抜け、そのすぐ下を、赤鬼と瓦礫の塊が轟音と共に通過していく。
赤黒い巨体が、岩の塊と一緒に闇の奥へ飲まれていく。その姿はすぐに見えなくなった。落下音は、なかなか聞こえてこない。どれだけ深いんだ、この奈落。
「……っ、はぁ、はぁ……」
壁にぶら下がったまま、俺は大きく息を吐いた。指先が痺れ、チャージの反動と落下のストレスで全身がバラバラになりそうだ。
横を見ると、レイも額から汗をだらだら流しながら、同じように荒い息をついていた。
「君、本気で……現場解体に命賭けすぎだろ……」
「お前の“安全帯”がなかったら、今頃一緒に落ちてたな。助かった」
かろうじて笑いが出る。
「礼はギルド経由で請求書にして送ってくれ」
レイはいつもの調子で返したが、その声はわずかに震えていた。それを指摘しないくらいの優しさは、俺にもある。
しばらく二人して壁にぶら下がったまま、乱れた呼吸を整える。やがて、ようやく下の方から鈍い落下音が響いてきた。いくつもの岩がぶつかり合う音。その中に、一瞬だけ混じったような気がする。獣の咆哮のような、そうでもないような。
──聞こえたか。
自分でもよく分からない。
「……頑丈なゴミだったな」
思わず口から漏れた言葉に、レイが吹き出す。
「相変わらず評価がひどい」
「現場からしたら、壊しても壊しても動く重機なんて、クレーム案件だろ」
そう言いながら、俺はワイヤーを辿って近くの出っ張りに足を乗せ、何とか身体をずらして新しくできた段差の上に腰を下ろした。レイも魔導銃からワイヤーをリリースし、隣に座る。
目の前には、さっきまで俺たちが立っていた踊り場の“断面”が広がっていた。巨大な岩棚が抜け落ちた後、ぽっかりと空洞が開いている。その奥に──おかしなものが見えた。
「……おい」
思わず声が低くなる。
「何だ、あれ」
崩れた岩の奥から、別の空間が顔を出していた。自然の洞窟とは明らかに違う。壁がまっすぐで、岩肌ではなく滑らかな灰色の板に覆われている。金属とコンクリートの中間のような、人工的な材質。
その中央に、分厚い扉がはめ込まれていた。四角い輪郭、角に並んだボルト。扉の真ん中には、見慣れたマーク──軍のエンブレムが、色あせながらもはっきりと刻まれている。
レイが乾いた笑いを漏らした。
「……嘘だろ」
「こんなところに」
「“裏口”があるのかよ」
奈落の中層。ダンジョンの岩盤の裏側に、わざわざ人間が作った通路。自然の構造ではありえない直線と直角。軍のマーク付きの扉。
俺たちはしばらく、その光景から目を離せなかった。
赤鬼は、おそらくまだどこかで動いている。奈落のさらに底で、瓦礫の下から這い出そうとしているかもしれない。だが、今この瞬間、目の前に現れた“現場”は別だ。
「レイ」
「何だい」
「ギルドのマニュアルに、『Bランクダンジョン中層・軍の裏口』なんて項目、あったか?」
「あるわけないだろ」
レイは目を細める。
「ここから先は、完全にマニュアル外だ」
扉の隙間から、かすかに風が吹き出していた。土と血と魔力の匂いではない、人工の空調の匂い。機械の熱と油の気配が混じった空気だ。
俺は大剣の柄を握り直した。
「現場が増えたな」
「増えすぎだよ」
そう言いながらも、レイの口元には皮肉まじりの笑みが浮かんでいる。
「でも、こういうイレギュラーこそ、僕らみたいな“バグ”の出番だろ」
まだ俺たちは友達と呼べるほど親しくはない。ただ、同じ現場に立つ“同業者”として、見るべきものが一致しているだけだ。
奈落の中層。崩れた岩盤の奥で、軍の扉が無言のまま、俺たちを招いていた。




