エピローグ
帰り道。
二人は信楽高原鉄道のホームに並んでいた。
遠く山の稜線に霞がかかり、線路沿いの新緑が、風にふわりと揺れている。
初夏の日差しが透けて、足元の影だけが、濃く地面に落ちていた。
「……あっついですね、今日」
神崎が、手に持った饅頭の袋で顔をあおぐ。
首筋には汗がにじみ、額にもうっすら光るものが浮かんでいた。
「五月って、もっと爽やかなもんだと思ってたのになあ……」
「お前が三つも饅頭食べるからだ」
「暑さと甘さは別問題ですよ。糖分は疲労回復の特効薬です」
神崎は懲りずに笑いながら、最後の一個をアイリに差し出す。
「……アイリさんも、どうです?」
「いらない」
迷いなく返された一言に、神崎は肩をすくめて、近くのベンチに腰を下ろした。
その瞬間だった。
荷物の隙間から、ころんと何かが転がり落ちた。
「あ、これ……」
拾い上げた手のひらにあったのは、丸っこい顔をした小さな狸の焼き物。
この街に着いた日に道ばたで拾い、届け先も分からずそのまま持ち歩いていたものだった。
神崎は、その丸い顔を見つめる。
見覚えのある、笑っている顔。
「……もしかして」
呟いた言葉は風に流れ、聞こえたのか、どこか遠くでふわりと笑い声がした気がした。
「アイリさん、これ……」
神崎が顔を上げると、アイリは空を見たまま、淡々と告げた。
「持っていけ。調査資料だ」
「……いいんですか?」
「“誰か”が、そうしてほしいんだろう」
その言葉に、神崎は何も言わずに頷いた。
狸の焼き物は、手のひらの中で静かに笑っていた。
——昨日、鬼ごっこで笑っていた、あの子の笑顔に、どこか似ていた。
「……忘れないで、ってことかな」
神崎が空を見上げてつぶやく。
初夏の風が、葉を揺らし、木々の影がさざ波のように揺れた。
その中で、列車の音が遠くから近づいてくる。
狸の焼き物が、神崎のポケットの中で、かすかに揺れた。
◇
小さな風の音が、ホームに静かに広がっていく。
二人は言葉もなく、それぞれに空を見上げていた。
やがて——。
二人を乗せた列車は、がたん、と音を立ててゆっくりと発車する。
神崎は窓際の席に座り、ポケットから焼き物を取り出す。
その顔を、もう一度だけ、静かに見つめた。
——どこにでもある狸の置き物。
でも、確かに“出会った”と感じられる顔だった。
外の風景が、少しずつ遠ざかっていく。
のどかな田園、ゆるやかな山の稜線。
線路沿いに、小さな風車と花束が置かれているのが見えた。
春風に揺れるその光景に、胸が静かに鳴った。
——「忘れないでね」
昨日の笑い声が、心の中にふわっとこだまする。
神崎はそっと狸の焼き物をポケットにしまい、目を伏せた。
「覚えてるよ」
列車の車輪が、ゆっくりとトンネルへと入っていく。
薄暗さの向こうに、また新しい町がある。
そして——きっと、まだ誰かが、どこかで待っている。
(完)