五話 別れのとき
神崎は、工房の中を駆け回っていた。
「おーい! そろそろ隠れる場所、なくなってきたんじゃない?」
跳ねる狸の焼き物たちをかき分けながら、息を切らして声を張る。動き回る焼き物の合間をすり抜けるのは、まるで障害物競走のようだった。
「ははっ……。これは予想外の難易度だ……!」
「ムダに楽しそうだな」
アイリの冷静な声が背後から聞こえる。
「アイリさん! いい加減、見物してないで助けてくださいよ。そろそろ体力限界です」
「私は“鬼”じゃない。つまり、私が捕まえたところで意味はない」
「理屈はそうですけどぉ!」
そう言いながら、神崎はひときわ勢いよく転がってきた狸をよける。
その瞬間だった。神崎は、背後の空気がふっと揺らぐのを感じた。
——来た!
反射的に振り返り、空を切るように腕を伸ばす。
手のひらが、ふわりとした柔らかな温もりをとらえた。
「……つかまえた!」
その言葉と同時に、霧のように淡くかすんだ男の子の姿が、目の前に現れた。
一瞬、目をまんまるにして——すぐにぱっと笑顔になる。
「お兄ちゃん、すごい!」
透明な声が響いた瞬間、工房の空気が凍ったように静まる。
跳ね回っていた狸の焼き物たちも、ぴたりとその動きを止めていた。
「……ねえ、遊ぶの、もうお終い?」
男の子は、名残惜しげに神崎の手を見上げた。
「……うん。もう、十分遊んだよな?」
霊はしばらく無言のまま、じっと神崎の手を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。
「……うん」
「……ちょっと、寂しいね?」
ぽつりと漏らすと、霊は神崎の袖をきゅっと握った。まるで、最後のひとときを手放したくないかのように。
神崎は、そっとその小さな手を包み込む。
「でもね、君がここにいたこと、俺たちはちゃんと覚えてるよ」
やわらかく微笑んで続ける。
「狸の置物を見るたびに、きっと思い出す。ここで一緒に遊んだことも。ここの狸たちだって、きっと君のこと忘れたりしないさ」
「……ほんと?」
「本当だよ」
その一言に、霊はようやく顔を上げた。
そして——
「ありがとう」
風の音に溶けるような小さな声を残し、少年の姿はふっと消えていった。
神崎が一度まばたきをすると、棚の上にいた狸たちが、いつの間にか元の位置に戻っていた。整然と並び、まるで最初から動いたことなどなかったかのように。
ただ、空気の色だけがほんの少し、変わっていた。
工房の隅に漂っていた淋しさは、今やかすかに温かい。
「……終わりましたね」
ぽつりと呟いた神崎に、アイリが静かに頷く。
「……お前の言った通りだったな」
「え?」
「“遊びたかっただけ”というのは、たぶん正解だった」
棚の一角に目を向けたまま、アイリは続ける。
「霊がこの世に残る理由は、悲しみや怒りとは限らない。あの子が遺したのは……“楽しい思い出を作りたかった”という、純粋な願いだった」
あの子がここへ来る途中、何かが起きたのかもしれない。それはもう、誰にもわからないけれど。
神崎は、そっと笑みを浮かべた。
「でも、よかった。ずっと誰かと遊びたくて、でも誰にも気づいてもらえなくて。きっと、狸たちが寂しさをまぎらわせてくれてたんですね」
「確かに。長くこの場に留まっていた割に、黒霧化もせず、霊魂の純度も高かった」
「最後に狸たちと、思いきり遊べて。旅立つときの思い出が“楽しかった”で終われたなら、それで十分ですよ」
「……そうかもしれないな」
まだ幼すぎて、自分が亡くなったことすら分かっていなかったのかもしれない。
それでも——最後に感じたぬくもりと、笑顔と、やさしい声。
それだけは、きっと忘れない。
アイリの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。冷たい硝子のような瞳の奥に、かすかな温もりが灯っていた。
彼女はしばらく棚の奥を見つめていたが、やがて静かに言った。
「……あの子だったから良かった。お前のやり方は、運が悪ければ別の結果になっていた」
神崎は、うなずきもせず、反論もせずに、ただ「分かってます」とでも言いたげに笑った。
それを見て、アイリもほんの一瞬だけ目を細める。
しばらく沈黙が続いたあと、神崎がぽつりと口にする。
「止めないでくれて、ありがとうございました」
アイリは答えなかった。
けれど、否定もしない。それが彼女なりの答えだった。