一話 狸だらけの街
「狸、狸、狸……いや、ほんとに多くないですか?」
田畑と緩やかな山並みを抜け、のんびり揺れながら走ってきた信楽高原鉄道の電車が、小さな信楽駅に滑り込む。車窓から見えたのは、向かいのホームいっぱいに並ぶ、百体ほどの狸たちだった。本物ではない。信楽の窯元で作られる陶器の置物だ。
駅を出た神崎イサナは、思わず呟いた。
ロータリー、商店街、窯元の門構え——どこを見ても、にこにこ顔の狸の焼き物がずらりと並び、まるで観光客を出迎えるようにこちらを見つめている。さらに駅前には、高さ五メートルはあろうかという巨大な大狸が、堂々たる姿で立っていた。
神崎イサナ。
冥府庁——この世とあの世の狭間に存在する霊的行政機関の「調査課」に所属する新人調査官。
かつて、生きたまま“向こう側”に足を踏み入れた経験を持ち——それがきっかけで、この奇妙な職に就くことになった。
各地に現れる怪異や不可解な出来事の背後を探り、解決へ導くのが彼らの任務だ。
「信楽焼といえば狸だ。観光資源でもあるしな」
隣に立つ黒野アイリが、変わらぬ無表情で言う。
冷静沈着を絵に描いたような冥府庁の先輩調査官であり、神崎のバディでもある。
「いや、わかりますけど……ここまで並んでると圧がすごいというか、視線を感じますよね、めちゃくちゃ」
「気にしすぎだ」
「いやいや、アイリさん、見てくださいよ、あれ」
神崎は商店の軒先に並ぶ狸たちを指差した。一体一体が表情豊かで、腹を突き出して笑っている。
「……あれ、今、何だか目が合った気がしません?」
「焼き物だから、動かないはずだ」
「“はず”って言いましたね? フラグですよそれ」
アイリは無視して、淡々と補足を加えた。
「信楽の狸は“笠八相縁起”といって、八つの縁起を一体に込めて作られている。見た目もユーモラスだが、怪異と結びつく存在ではない」
「八つ? そんなに?」
神崎は近くの狸に近づき、しゃがみ込んで一体をじっと見つめた。
「たとえば、頭の笠は“思いがけない災難への備え”、大きな目は“周囲をよく見て正しく判断する心”」
「おお……たしかに、やたら目ぇ大きいですね、この子」
「通帳は“信用”、徳利は“徳を持て”、お腹は“度量の広さ”、顔の笑みは“愛想よく”、尻尾は“最後まで事を成す力”。そして——」
アイリは一拍おいて、神崎の視線の先を見やった。
「——金袋。つまり“金運”だ」
「ちょ、ちょっとそれ、最後に出していいやつでした?」
神崎は思わず引きつった笑みを浮かべる。アイリは何がまずいのか解せないという顔をしている。
神崎は軽く誤魔化すように咳払いをしてから、改めてたぬきの置物を眺めた。
「なんかこう……福を呼ぶ八点セットって感じですね。愛想・徳・信用・金運……そういえば、他の地域でもたまに店先なんかに置かれてますね」
「他抜き、と言って他の商売相手に勝てるという縁起担ぎの意味もあるんだろう」
二人がそんなふうに話していると、ふと、コロリと何かが転がる音がした。
神崎が視線を下げると、小さな狸の焼き物がひとつ、道の端に向かって転がっていた。
「……あれ?」
そっと拾い上げると、その狸もにこにこと笑っていた。
けれど、その笑顔がどこか、ほんの少しだけ——。
悪戯っぽく見えた気がした。