11 新しい絵
包帯を巻いた足を引きずって作業部屋に入る。部屋の床は、柿本の努力によっておおむね綺麗に掃除され、棚は元の位置に立て直され、絵具の飛び散ったソファーは、濡れた布で拭き取ったせいかまだ湿っていた。退去時にかなり修繕費を持っていかれるであろうことは変わらなかったが、まだここで絵を描けるくらいの秩序は取り戻していた。
部屋の真ん中で私は、新しいキャンバスを張った。イーゼルは壊れていたので、壁に立てかけるようにしてキャンバスを立てる。絵具は色が欠けていたので、唯一無事だった黒のペイントスプレーだけを持って、キャンバスの前に立った。
私は私のことが大好きで大嫌いだった。それを確認するために自分を傷つけ、他人を傷つけた。芸術に対してもそうだ。他人の事を馬鹿にしてばかりだったのは、自分自身のことも馬鹿にしたかったから。保科と同じように、私は私の好きなものがわからない。ミュージアムスペースの現代アートとその観客を馬鹿にしたのは、自分も結局同じものを創っていることを認めたくなかったから。雨月の言葉や演奏に魅せられたのは、あこがれてしまっていたから。あこがれは理解から最も遠いことだった。尊い存在の近くにいるだけで、自分も尊くなれるはずがないのに。駅のホームのバンドマンの音楽に対する態度や方針に腹が立ったのは、自分自身が本当はその通りで、それを認めたくなかったから。本当は自分を表現したかったのを見抜かれたことで動揺したのだ。Vチューバ―に嫉妬するのは、心の綺麗さが羨ましかったから。
本当は何もわかってない。何も目指してない。ただ、大量の画材を使って、自分を描きたかっただけだった。それを、見られて、評価されて、褒められたかっただけだった。昔と何も変わらず、今も私は愚かにも、私を中心に世界が回ってると思っている。
スプレーを思い切りキャンバスに吹き付ける。
なんて自己中!なんという自己愛だろう!でもそれでいいと思った。
保科とは早ければ今日、破局を迎えるだろう。だがしかし、それがなんだというのだろう?結婚?世間体?将来の資産?そんなものはもはやどうでもよかった。彼を失ったとて、私の周りには本当に大切なものが何か少し残るはずだ。
私は別に、ひとりぼっちではなかった。そういえば、ずっと前から。帰る家と家族、私を理解してくれる友人が数人。私の、私を表現した絵を好きだと言ってくれたファンが一人。それで十分だった。私が本当に身に着けるべきものは、社会の無言の圧力に従い、発狂しないように耐え忍ぶ体力ではなかった。私に必要だったのは、ふとした瞬間に訪れる孤独への耐性だったのだ。いつか寂しくなった時、縋る旦那がいたら一時的な苦しさが軽減されるだろうし、お金があれば贅沢な気晴らしができるだろう。でもそれでは駄目なのだ。私は、美しさを求める純粋で崇高な芸術家にはなれないが、一般社会人として生きていくにはあまりに芸術の世界を愛していた。芸術だけでは生きられないが、芸術なしでも生きていけない、中途半端な社会不適合者なのだ。
この絵に神様は宿らない。でも、確実に私は宿る。
汗が目に垂れてきて額を拭う。目の前には黒く、荒々しい絵があった。たぶん、これが私だった。
「ただいま」
顔を上げると、部屋の前に保科が立っていた。暗い目の奥で炎のような怒りが燃えているのがわかった。おそらく、風呂場からベッドルームまでの水滴の足跡や、乱れたシーツを見た後なのだろう。
「ずいぶん堂々とした浮気だね」
保科は作業場の床を見下ろした。色とりどりの絵具の染みと、黒くなった血痕が残っている。
「柿本さん?それとも、アーティスト関係の、俺の知らない誰かかな」
「私たち、別れよう」
平手が飛んできて、私は吹き飛ばされる。歯を食いしばる暇もなかったので、唇の端が犬歯で裂けた。
「俺は三冬のことをちゃんと愛していたし、大事にしていた。それを伝えることも怠ったつもりはない。君が望む部屋を借りたし、収入が無い時は支えた。画材も買った。仕事でクタクタだったけど毎日料理をして、掃除も洗濯もした。全部それは君から愛してもらうためだ!三冬、君は俺を裏切ったんだ」
この男は、性欲のことを本当に愛だと信じている。
「ごめんなさい」
「そいつのことが好きだったのか?なら何で今まで言わなかった?」
「好きじゃないよ。でも無理やりされたわけじゃない。私は最初から誰の事も愛してなかっただけだったんだ。今日、それに気づいた」
全部自分のために相手を利用していただけ。
「俺のことも最初から?」
「うん、最初から」
歯を食いしばったが、しばらく待てども平手は飛んでこなかった。代わりに、ひどく呆れ果てたような声が降って来た。
「あのな、そんな生き方だといつか破滅するぞ。言わなくてもいい言葉はある。それを言わなくても要件を達せるような、ただの気持ちの吐露はある。それを抑えきれずに言っちゃうと、別れる人に無駄に恨みを買うぞ」
なぜ私は今、これから関わりを絶つ相手から説教をされているのだろう。我が家の窓ガラスを割ったら、ブラジルの人が「乱暴はよくない」と叱りに来たみたいな、意味不明な滑稽さがあった。言葉を返すようだが、その説教こそ、心の中に留めておいて、言わない方がいい言葉なんじゃないだろうか。
「君は浮気した私を恨んで、刺し殺しに来るつもりなの」
「刺さない。君には失望したから、もうどうだっていい。家を追い出して金輪際会わない。どこかで野たれ死んでも気にしない」
「じゃあ私を責めないでよ」
保科は私のことを最後までわかっていなかった。私は自分のことが大好きで大嫌いなのだ。好きでもない男に股を開くような自傷行為をするくらい、自分の肉体に対して思い入れがない。刺されることや恨みを買うことを、今更どうして怖がるだろうか。
「三冬、君のことが全然わからない」
「それがわかっただけでも、お互いが別れるべき立派な理由になるね」
「俺と別れられて君は幸せになれるの?」
この期に及んでこの男はハッピーエンドの可能性を探っている。
「そこをどうして君が気にするの?」
「普通、元恋人のその後は気になるよ。多少は」
「どうだっていいんじゃなかったの」
「聞かなきゃよかった」
「この別れは別にハッピーエンドじゃない。全部の物語がハッピーエンドで終わる訳ない。言うならばメリーバッドエンドだね」
キャンバスをちらりと見る。真っ黒な円の中に、一筋、白く細い、とぎれとぎれの線が光っている。私自身を表現したこの絵を発表したら、今まで柿本が築き上げてきた大衆向けブランドイメージをぶち壊し、一時的に話題になった後、見向きもされなくなるだろう。柿本は華々しい再出発について想像していたが、それは柿本という有能な商人が味方の場合にすぎない。コネを失った私は、これから私は家を失い、恵まれた創作環境を失い、今までのような暮らしができなくなる。今までのように潤沢に画材に回す金もなくなり、新しい作品と出会う機会も減少し、考え方すら変わるに違いない。芸術との向き合い方は確実に変化する。一時の満足と引き換えに、私はいろいろなものを手放さなくてはならない。
ドーナツの話を思い出す。私という穴を構成する周りの人々を、私は私の都合だけで食い荒らす。中心角何度まで欠けたら、中心に空いた空間は「ドーナツの穴」と呼べなくなるのだろうか。チョコレートがかかった特別に美味しい一かけらだけ残ったら、私自身はまだ、私自身のままでいられるんだろうか。
これは確実な破滅への第一歩だ。ハッピーエンドはありえない。
私は立ち上がって部屋を出た。置きっぱなしのあの絵は、保科が処分するんだろう。細い月が出ていた。私にはまるでそれが、ほとんどかじってしまったドーナツのように見えた。排水溝に煙草を投げ捨てる。
あの駅のホームに行こう、私はそう思った。
こんな気持ちの良い春の日に、私は何をしてるんだろうね。