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10 柿本

 結局私は柿本が来るまで座り込んだまま何もできなかった。柿本は部屋に着くなり、高そうなブランドものの私服が汚れるのも構わずに、私の腕をつかんで立たせた。私をお姫様抱っこの要領で横抱きにし、汚れた足が廊下を汚さないように、風呂場へと連れて行った。

「部屋を片付けてくる」

 柿本は事前に準備していたのか、ゴム手袋と洗剤、スポンジを持って作業場へと戻っていった。この家は、保科の名義で借りているマンションの一室なので、床を汚せば退去時の費用がとんでもないことになるだろう。あの数秒の電話で床がひどく汚れていることまで予想して荷物を持ってくることに、私は一生埋まることのない差のようなものを感じた。

 風呂場の床に座り込んだまま手を伸ばし、シャワーのノブをひねる。冷たい水が頭の上から降り注ぐ。ひとまず、顔面を流れる恥ずべき液体と、気色悪い体の震えさえ誤魔化せればよかった。一向に水温が上がらない水流の中で、どうしてまだ震えているんだろうな、と私はぼんやり考えていた。

「入るよ」

 柿本の声がしてドアが開いた。鏡越しに目が合う。床に座り込んだままの私の状態を数秒ほど眺め、柿本は私の服を脱がせた。柿本が入ってきてから冷たい水だったのがお湯に変わったので、おそらく給湯器の電源を入れたのだろうと思う。鏡は曇り、下着姿になった私の、洞穴のようなうつろな目は映らなくなった。

「私、絵が下手なんです」

「そっか」

「絵が下手なだけじゃなくて、性格も終わってるんです」

「そっか」

「だから、いろんな人に失望されて、一人になるんです。決定事項なんです。今まで自発的に一人を選んできたのは、他人に見限られたと感じるのが嫌だっただけだったんです。さよならを言われるのが辛いなら、先回りして私が言っちゃえば辛さが和らぐから」

「うん、そっか」

 柿本は私の足を丁寧に洗った。絵具が落ち切った後、足から排水溝まで赤い川ができたが、不思議と痛みは感じなかった。柿本は泡を立てた手で私の両頬を包むようにして顔についた絵具を洗った。シャワーを浴びせられる。泡が流れ落ちた私を、柿本は抱きしめた。

「僕は、それでもいいと思うけど」

 柿本の唇が、私のに押し当てられる。

「大丈夫、僕が全てなんとかしてあげる。君がどれだけ最低でも構わないから」

 柿本はいつだって私が一番欲しい言葉をくれる。明らかにアーティストのプロデューサーとしての仕事の範疇を超えていた。他のプロデュース中のアーティストにも同じことをしているのだろうか。最低すぎる。私は柿本の首に強く腕を絡めた。最低すぎて最高だった。柿本に、絵が描けなくなった、商材としての作品を生産しなくなった私の、生活の面倒を見る気などさらさらないのだろう。彼はどこまでもビジネスマンで、優秀な商人だった。合理的に判断し、使えなくなったものは捨てる。使い捨てられる私は、まさに大衆向けファーストコンテンツと同じだった。

「保科さんはいつ帰ってくるの?」

 ベッドサイドテーブルに置いてあった保科の香水瓶をもてあそびながら柿本が聞いた。

「さあ。夜くらいに」

 私は服も着ないでベッドの上で買い置きしてあった菓子パンを食べていた。柿本は笑った。

「君、僕と保科さんの区別ついてるの?男っていう巨大カテゴリに分類して、それ以上のことは興味なさそうだ」

「サクラとトンボくらいの差しかわからないかも」

「まあ、それだけわかれば実生活上では十分か」

 色鉛筆のメーカーについて言ったつもりだったが、訂正するのも面倒だったので何も言わなかった。伝わったとして、それは浮気の言い訳にはならない。

「君は自分自身と男全般の両方を見下しているでしょう」

「どうしてそう思うんですか?」

「君は誰とでも簡単に寝る。それは、男を選ぶ手間が惜しいほど行為が好きなわけでもないし、男にこだわりがないからでもない。むしろ行為のことは嫌いだ。行為によって安心したいのさ。こんな誰にでも体を許してしまう最低な自分を再演して確認したい。自分のことが嫌いだから、自分の体を大切にしない。でも同時に自分のことがすごく大切だから、毎回行為のたびに、私がこんなことをしなくてはならないなんて何かおかしい、と思う。どこかにその説明を作りたくなる。それが相手の男だ。性欲に支配されたアホな存在がいると、そいつを見下すことができる。私も最低だけど、こいつもよっぽど最低だ、って」

 すらすらと言う。まるで何度もそういう症状を見てきたかのように。実際、見てきたのだろう。

「私はそんな精神的満足のために、嫌なことを繰り返してるんですかね」

「臭いものを嗅ぐと、なぜか何度も嗅ぎたくなってしまうような感じ?そういう人多いよ。最近僕がご一緒する女の子には。きっと自分を俯瞰したいんだろうね」

 その通りなのかもしれない。自分をいくら俯瞰したところで、最低さが目に付くだけだから、最悪なループは終わらない。私は自分の事が嫌いという感情と、大切という矛盾した二つの感情を持て余している。持て余して行為をする。その時、相手のことなど微塵も考えてはいない。この行動で誰か傷つくかとか、そういう想像ができない。どこまでも独りよがりで、人を馬鹿にするばかりで、自分のことしか考えていない。

「僕はそれもかわいいと思うけどね。僕の生き方は他人の反応を伺うことばかりだ。自己中丸出しで、もがきながら生きている人がタイプなのかもしれない」

 今までの私は、芸術家ぶった傲慢な態度を取っていたものの、柿本が支持するような作品を創り、その作品は柿本の見せ方によって商材の形を成していた。その物わかりの良さがなくなった今、私はビジネスパートナーではなくなった。だから一人の「かわいい女」になった。

「私は、柿本さんの、他人をよく観察するところとか、すべての行動原理が単純な金っていうところとか、気に入ってましたよ」

「それはありがとう」

「いつか刺されますかね」

「うーん、バレなきゃいいんじゃないかな」

 柿本はあっさりと言う。ビジネスにおいてもそのようなスタンスで生きてきたのかもしれない。

「日本は法治国家だから、お天道様の元で生きていきたいなら、ルールを守るのがベターだけど、僕はこの世に絶対的な悪いことや絶対的な善いことはないと思ってるんだ。法律っていうルールがあるだけ。法律は善悪の指南書じゃない。山が噴火しても悪じゃないし、クジラがオキアミを大量に食べることは悪じゃない。サルが山の木の実を取ることも悪じゃない。それと同じように、人が物を盗んだり、人を殺すこと、同時期に二人の異性と関係を持つこと、これらは報いを受けるべき罪かもしれないけど、悪かどうかは神様しか知らないと思う」

 また神様か。柿本の言う神は、全知全能で人間をはるかに超越した存在で、これは私や雨月の信じる神にも似ていた。

「神様には絶対的な美しいものがわかると思いますか?」

「わかるさ。神様だからね。でも、神様がわかっていたところで僕らには何の関係もない。一生会えないんだから。いや、死後も会えない。だって神様は途方もなく超越した存在だから。僕の前に現れて、これが善だ、これが悪だ、これが美だ、なんておしゃべりをしてくれるような、そんな僕と同じ程度の低次元な存在なら、そいつは神じゃない。そんな低レベルなものが善悪や美を完璧に知っているわけないし、知っていてほしくないね」

「それなら、バレなきゃなんでもできますね」

「そうだよ。僕はなんでもできる。全てを見ている神様も、僕の生き方に対して口を出さない。君ももう少し、自由に生きてみると面白いよ」

 あらゆる善悪の色眼鏡を取っ払って、こうすべきという無意識な縛りを抜け出して、自由にふるまった結果が破滅でも、それでも面白いだろうか。

「キャンバスを破って個展をめちゃくちゃにしたこと、怒ってませんか?」

「怒ってないよ。むしろ、荒れ果てた部屋に入った時、あの破れたやつを作品として展示してもなかなかいいと思った。でもちょっと考えてやめたよ。個展は普通に中止する。急病とか事情をでっちあげてね。で、君はまた新たに絵を描く。今よりも進化した画家になった君は、画風を変えて、世間からの期待とともにまた華々しく現れる。破れた絵を飾れば、一過性のトレンドにはなれるだろうけど、長期的に見ればそっちの方が得だ」

「私を捨てないんですね」

 驚いた私が言った言葉は、少し間抜けに部屋に響いた。柿本は軽やかに言った。

「捨てるよ。個展が開けない、次がいつになるかわからない画家をキープしておくのはコストがかかるから。でも、捨てる際にブランドイメージまで踏み荒らしてから捨てるようなことは面倒だからしないってだけ。君は君が思うよりも周りの人から価値があると思われているんだよ。と同時に、君のことは君が思うよりも周りの人はよく見ていないし、理解しようとしていない。多少の画風変更くらいじゃ何もマイナスな影響なんかないよ。次のプロデューサーの手腕次第ってところかな」

「どうでしょう。もう、プロデューサーはつけないような気がします」

「そっか」

 柿本は服を着て、保科の香水を勝手に自分に一振りすると部屋を出ていった。私の生活をほとんど支えていたはずの人間が去っていくのに、追いすがろうとする気持ちは起きなかった。不思議と、何かを失った気はしなかった。最初から無用なものを抱え込み、押しつぶされそうになりながらそれらを引きずって歩いてきたような気がする。今日、その背負っているものの正体の輪郭が見えたように思った。

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