1 保科
「はい、わかってますよ。結構順調です。あとは最後の仕上げって感じですね。ただ、仕上げの方向っていうか、作品の細かい終着点っていうんですかね、それがまだぼんやりしているような気がしていて。例えるなら大体見た感じは研ぎ終わった鉛筆の先を、さらに拡大鏡で観察しながら、鋭く仕上げてる最中っていうか」
私は煙草の箱の表面を親指で撫でながらソファーに背中を埋める。目の前には製作途中のキャンバスがあった。
『まあ、たった一人に突き刺さるように創られた作品の方が、かえって多くの人に深く突き刺さるような作品になるとは時々言われるね』
「とにかく、納期には間に合わせます。心配しないでください」
『そう。ならいいんだ。製作中に邪魔したね。ただ、そんなに無理はしないで、時々休みながらやるんだよ。花垣三冬の新たな作品を心待ちにしているファンもいるんだから、体を最優先に頼むよ』
「わかりました。それじゃ、失礼します」
私は通話を切り、スマートフォンの画面から逃げるようにそれを伏せた。来月、私は初めて、自分の作品だけの展覧会を予定していた。美大を卒業し、三年ほど鳴かず飛ばずの絵描きをやり、去年、先ほどの電話先の柿本という男に出会った。柿本は見事な手腕で私の作品のプロデュースを行い、私は一年弱にして業界でも真っ先に名前が上がるほどの現代の新人画家へ上り詰めた。
煙草に火を付ける。有害な香りが肺を満たし、思考をぼやけさせた。
どうにも行き詰っていた。目の前の絵は、ぱっと見では文句のつけようもないほどの出来栄えの良さだった。しかし、何か決定的なものが間違っているような気がしていた。下書きの段階のパースの歪みとか、人物のパーツがどこか欠けているとか、わかりやすい間違いではない。漠然と全体的に漂う違和感だけがあって、何度も終わりの見えない間違い探しに迷い込んでいた。流れてくる曲の一音のミスタッチを探すようなものではなく、そもそもの楽器選びから間違っているような、全体的で言葉に出来ない違和感だった。
結局私は、何が描きたかったんだっけ?
煙草を吸う手が当たって、ソファーのひじ掛けに置いたスマホが床に滑り落ちた。カバーを付けていたので壊れはしていないだろうが、スマホは何度か床を跳ねて派手に転がった。
「大丈夫?」
大きな音が家全体に響いたらしく、同居中の恋人、保科がドアを開けた。廊下のオレンジ色の光が細く部屋に伸びた。
「ごめん、スマホが落ちただけ」
さっきの衝撃のせいか、スマホはホーム画面を映していた。時刻は20時を回っていた。
「そうか、ならよかった。夕飯できてるけど、切りがいいところまでやったら食べようか。あと、この部屋暗くない?」
「確かに」
午後からこの部屋にこもって、キャンバスを眺めたり、電話をしているうちに、かなり外が暗くなっていたことに私はやっと気づく。部屋の照明を点けてみると、キャンバスの色がぱっと明るく見え、先ほどまでの青暗い印象から一転、ポップな印象を受けた。柿本が作品を展示するときはこの部屋よりももっと白くてきれいな明かりでこの絵を照らすのだろうと想像した。
「夕飯作ってくれてありがとう。今日の作業はもういいから今からご飯にしよう」
リビングには食欲のそそる匂いが立ち込めていた。保科は手際よく料理を温め、配膳した。二人で向かい合い、手を合わせてから食べ始める。ポテトグラタンと簡単なスープだった。
「どう?三冬が前に行ったレストランで褒めていたグラタンをイメージしたんだけど」
「すごく美味しい。上手だね」
共同生活のルールは単純だった。料理や洗濯、掃除など基本的な家事の前半は保科がやり、料理後の皿洗い、洗濯後のアイロンがけや畳むこと、掃除後のゴミ出しなど後半は私の仕事だった。私は身の回りのことにやや無頓着なところがあり、きっかけがなければいつまでも家事をしなかったりする一方、保科はよく気がつくので、ぼうっとしているとすべての仕事を嫌な顔せずにやってくれかねない。それに甘えることも可能ではあったが、保科にすべて任せるのは申し訳なく、なによりこの家において仕事をしないのは自分自身の居場所が無くなるようで嫌だったので、このルールは私たちにとって上手くはまっていた。
「絵の方はどんな感じ?俺は全然絵のことはわからないけど、三冬の展覧会に行ける日が楽しみだな」
「進捗としてはあとは仕上げだけ。ただ、その最後の仕上げが難しくて。ちょっと行き詰ってる感じかな」
「画竜点睛とかいう言葉もあるし、やっぱり最後の一筆が一番大事で一番大変なんだろうなあ」
「まあ、そんなところ。君は仕事とか、どうだった?」
「俺?俺は今日、武田さんに褒められたよ。煙草休憩中にぼそっと言われただけだけどうれしかったな。あ、武田さんっていうのは、俺の部署で有名な鬼上司で、超怖い人なんだ。でも実力はすごいし、鬼って言われるほど厳しい指導はちゃんと根拠があって、武田さんに認められた部下は出世しやすいって噂なんだ」
保科は金融業界の有名企業でサラリーマンをしていた。有名大学からストレートで新卒入社し、順調にエリート出世街道を駆け上がっているところだ。帰宅後に掻き上げてはいるものの、丁寧にセットされたことがわかる髪は、部屋着を着ていても清潔感と仕事のできるエリート感を演出していた。
食事を終え、皿をシンクに置いて、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを出す。冷蔵庫には食材がたくさん入っており、保科が仕事帰りに買い物をしてきてくれたことがうかがえた。
「おつまみ、何がいい?きゅうりとか?塩辛?」
食材のラインナップを見て私が言うと、保科が私の後ろから冷蔵庫を覗き込む。
「その下探してみて。バジルチーズ好きだったよね」
「好きだけどさ、君はいつも私の好きなものに合わせてくれるよね。でも君が好きなものも食べてよ。今日のグラタンもうれしかったけど、本当は和食が好きでしょ」
「それは俺が一人の時に食べるからいいの。今は三冬といっしょにいるんだから三冬の好きなものを食べたい。別に俺、チーズもきゅうりもどっちも好きだし」
保科は私の髪を梳くようにして髪に鼻を近づけた。おそらく、私のストレートのボブからは煙草と画材の匂いがすることだろう。
「最高に美人で絵が上手くて天才の女の匂いがする」
保科の腕が腰に巻き付いてきた。
「もう一声」
「サラサラの黒髪ボブが最高だし、シンプルな新しいピアスもいいし、肌が白くてきれいなところも完璧。顔がいいだけじゃなくて性格も良くて、ひとつ作品を出せば世界で噂されまくる有名人なのに、今だけはたった一人の俺の彼女」
もう一度、今度は首筋に顔が埋められる。私は冷蔵庫を閉める。冷蔵庫に貼られたカレンダーで、今日が金曜日だと私は確認した。そのとき、その雰囲気を邪魔するかのようにバイブ音とともにスマホのアラームが鳴った。保科のスマホだ。
「あ、21時になるからニュースを見てもいい?」
保科は私を引き連れるようにしてリビングへ向かった。普段から流れのはやい世間とやや離れたところで創作活動をしている私と違い、金融業界に勤める彼にとって、鮮度の高い世間の情報を収集しておくことは必要不可欠だった。ソファーに腰かけると私は、チーズをつまみにビールを飲みながら世界のニュースを見るともなしに見た。保科はいくつか気になったニュースのメモを取ったり、スマホで詳細を調べるなどしていた。真面目なニュースが終わり、世俗的なニュースになると、テレビに向けていた仕事人的な真剣なまなざしは、リラックスしたものに変わった。
「へえ、黒沼監督、新しい映画出したんだ」
映画の予告が流れていて、私は思わずこぼした。難解だが、巧みな構成で見る者を魅了する、言うならば噛めば噛むほど味がするタイプの映画を作る監督だった。評価がはっきり分かれがちな作品が多い監督だが、私は彼のファンだった。
「気になるなら明日にでも見に行こうよ。行き詰っているなら気晴らしっていうか、新しい作品に触れれば、今の絵にもいい影響があるかもしれないよ」
「でもそのうちサブスクで見れるようになると思うし、私一人でなら平日の空いてるときに行ってくる。せっかくの休日に無理に付き合ってくれなくてもいいよ。君、そんなに映画好きじゃなかったでしょ」
遠回しにいっしょには映画を見たくないことを伝えようとしたが、保科には通じなかった。
「大丈夫、俺映画けっこう見るよ。三冬といっしょに週末にネトフリ見てて楽しめてるから」
私は売れない画家をやっているときでさえも、他のアーティストが創った創作物を意識的に見るようにしていた。映画や読書、演劇から、美術品、陶芸、伝統的な芸術に至るまで、お金がかかっても時間がかかっても構わずに、自分の作品を創っている時以外では、できるだけ好き嫌いすることなく誰かの創作物を見てきた。創作には広く豊かな下地が必要だと信じていた。その過程を踏んだおかげで、芸術の世界にいない人間より多少は作品を味わう力や、良さを見る審美眼的なものが養われている自信があった。
「この監督、一見意味わかんない作風だから、あまり彼の作品になじみがないのなら難しいと思う」
「平気だよ。ほら、レビューでもすごくよかったってあるし」
私と同じ目を、彼やレビューを書いているたくさんの人に求めるのは違うとわかっているので、できれば作品はひとりで楽しみたかった。とりわけ、好きな監督の映画においては。しかし、保科は私の行き詰まりの解消のために完全なる善意で提案しているので、無下にすることもできず、私は明日の映画デートを承諾した。