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雇用契約

「──で」


 翌朝。小鳥のチュンチュンという囀りに紛れ、声が響く。

 エリオットは机に頬杖をつき、仏頂面を浮かべていた。視線の先には、地べたで申し訳なさそうに正座をする紫髪の少女がいる。


 少女は地下室で急に眠りについたあと、まったく目覚める様子もなく爆睡をしていた。なぜ泥棒をもてなしてやらなければならないのかという疑問を覚えつつ、エリオットは少女を運び、客間のベッドへと寝かせる。それから目覚めるまで待ち、いまやっと事情聴取ができていた。


「お前は地下室に忍び込んでジャムを盗もうとした。それは間違いないな?」


「……」


 少女は眠そうな顔のまま、こくりと首を振る。


 どうやら誤解でもなんでもなく、少女は本当にブドウジャムを盗もうと家に忍び込んできたらしい。なぜエリオットの自宅で、なぜブドウジャムだったのかは謎だが、そのまま質問を続ける。


「とりあえずだな、お前の身元を……名前はなんて言うんだ?」


「……ミア」


 その少女──ミアがはじめて声を発した。


「ミアか。ラストネームはなんだ?」


「ラ、ラストネームはない」


「は? いや、ラストネームがないなんて……」


 ラストネームとは、すなわち名字のことである。

 エリオットであれば、イーリイがラストネームに該当する。グリフィス共和国の住人であれば、みな例外なくラストネームを有しているはずだ。近隣の国々でもその常識は変わらない。だから、ラストネームがないというのはいささか不自然であった。


 しかし、エリオットはここでラストネームを持たない人々の存在を思い出す。


「お前、貧民街の人間か……」


 都市エイブラムの北には、貧民街が形成されている地域があった。


 貧民街には職業と住居を持たず、困窮した生活を送っている人間がたくさんいる。貧民街の人間は国に税金を納めていない。そのため、国民の権利として保証されているラストネームの所持も許されていなかったのだ。


 もちろん、貧民街の人間でも勝手にラストネームを作って名乗ることはできる。だが、彼らは小難しい国の手続きを経ることはなく、ラストネームを必要とする機会はない。作ったとしても、名前さえあればほとんど意味をなさないのだ。


 衣服が砂や泥で汚れていることが、ミアが貧民街の人間であることの信憑性を高めていた。素材が良いことだけは気になったが、おそらく貴族が捨てたものを拾ったか何かしたのだろう。


 貧民街の人間であるならば、その動機は想像しやすい。


「なるほどな。んで、飢えに耐えられなくなって忍び込んできたってわけか」


「……そう」


「けど、やっぱり理解はできないな。盗むとしてもなんでうちだったんだ? 肉屋とかパン屋とか……他にもっといい店があっただろうに」


「……甘いものが好きだった」


「甘いもの……?」


 エリオットは眉を寄せる。


「だとしても、パイとかガレットを扱ってる店が……」


「……お腹が空いて、美味しそうな匂いが漂ってきて、匂いに誘われるままふらふら進んでったらジャムがあった」


「いや、匂いに誘われてって……」


 本当だとしたら、犬並みの嗅覚を持っていることになる。

 俄には信じられないが、その一方でこんな嘘を吐く理由も分からない。だから、最後は信じざるをえなくなった。


「あーもう、わかったわかった。ったく、どうするかな……」


 エリオットはミアの処遇を考え始める。


 ミアは泥棒だ。泥棒とは思えないほど間抜けではあったが、その事実は変わらない。ならば、ミアは都市の犯罪を取り締まる騎士に引き渡すべきなのだろう。


 だが、エリオットには躊躇があった。それはミアは妹のイヴに瓜二つだったためだ。妹にそっくりな少女を騎士団に引き渡し、少女が罪を償うために罰を受けさせられるのはあまり気持ちが良いものではなかった。


 エリオットはふたたび、ミアを見直す。

 事情聴取を始めてから、ミアはずっと正座のまま俯いていた。悪いことをした自覚はあるらしい。顔には反省と後悔の色が表れていた。


「ご、ごめんなさい……」


 エリオットの刺すような視線に気付いたのか、ミアは謝罪を述べる。そのしおらしい態度を見て、エリオットは諦めたように溜息をついたのだった。


「はぁ……しょうがないな」


 エリオットは頬杖をつく手を離す。


「もう二度としないって約束するなら今回は不問にしてやる。どうだ?」


 エリオットが問いかけると、ミアは顔を輝かせながらこくこく頷いた。


「……ほんと? 嬉しいっ」


 ミアは笑顔で立ち上がる。

 そのとき、エリオットは動きを止めた。ミアの喜ぶ顔がイヴと重なったからだ。嬉しいような、苦しいような複雑な感情に襲われる。


「……どうしたの?」


「いや、なんでもない」 


 エリオットは言葉を濁し、頭を軽く振りながら思考を外に追い遣った。そののち、ふと湧いた疑問を投げかける。


「ところで……お前、今後の食べものや寝床のあてはあるのか? 俺が不問にしてもそこが解決してなかったら意味ないだろ」


「っ!」


 瞬間、ミアが露骨に肩を震わせた。そしてエリオットから視線を逸らし、何食わぬ顔をする。そこから、食事や寝床のあてがないことは容易に読み取れた。


「お前……」


 エリオットは呆れながら、ふたたび考える。


 ミアは他人だ。

 他人であるならば、どこで野垂れ死のうが、エリオットの気にするところではない。


 エリオットに誰彼かまわず救いの手を差し伸べている余裕はないのだ。もし自分の生活を回すことだけで精一杯なのに、他者に施しを与えている人間がいたとすれば、それは善人ではなく愚者と呼ぶべきだろう。


 だがそうだとしても、見捨てることはできなかった。わずかながらに言葉や感情を交わし、ミアが悪い人間ではないということは分かったからだ。それだけで、エリオットの中の見捨てていいラインを越えてしまった。


 また、ミアを騎士に引き渡さなかった理由と同様に、イヴと瓜ふたつな少女が不幸な道を歩もうとしているのが我慢できないというのもあった。

 だから、エリオットは悩んだ末にこう問いかける。


「────住みたいか?」


「え?」


「俺の家に住みたいかって訊いてるんだ」


 エリオットは照れ臭さを覚え、顔を背ける。


 食事と寝床に困るミアを助けたいならば、こうするしかなかった。

 一瞬、タマーラの孤児院に預ける方法も考えた。だが、タマーラは孤児院の財布事情が厳しいという話をしていた。無理に言えば引き取ってくれる気もしたが、世話になったタマーラに負担をかけさせたくはない。だからこその提案だった。


 ミアは驚いたような、喜ぶような顔をしている。


「ただし、条件がある」


 顔を引き締めながら、エリオットは続けた。


「長くて三ヶ月だ。それくらいの期間なら、俺の店の従業員として働くって名目で家に置いてやる。それとその間、並行して次の寝床と食い扶持を稼げる職場を探せ。それでいいなら置いてやる。どうだ?」


 尋ねると、ミアは頭を縦にぶんぶんと振る。


「だ、大丈夫……それで構わないから、置いてほしいっ……」


「よし。じゃあ雇用契約成立だな」


 エリオットは言いながら、椅子の背もたれに深く寄りかかった。そのまま天井を仰ぎ、疲れたように息を吐く。


 面倒なことになってしまった。

 少女を一人引き取るなんて、間違いなくエリオットの生き方に反した行動だ。自分で決めたことなのにもかかわらず、なぜか後悔が募る。だがエリオットは唇を結び、決めたからには最後までやりきろうと覚悟を固めた。


「けど、なんで……」


 ミアがふいに訝しげな声で尋ねてくる。

 ミアを雇った理由はイヴの存在が大きい。しかし、ミアに死んだ妹のことを話すのは憚られる気持ちがあった。だから、ふたたび言葉を濁す。


「ただの……気まぐれだよ」


 それから、エリオットはミアに微笑みを見せた。


「エリオットだ。明日からよろしくな」

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