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忍び込んだ獣

 夜の帳が下り、鎧戸から淡い月光が入ってくる。

 東街路から一本奥の路地沿いにある、切妻屋根の住居──そこが、エリオットの自宅だった。


 エリオットは、その一階でブドウジャムの仕込みを行っている。いまはブドウと砂糖が煮詰められた鍋を木べらで掻き混ぜていた。


 ただ、その手つきは弱々しい。鍋を見つめる眼差しも虚ろだ。

 それは、クラリスから掛けられた言葉がずっと頭で巡っていたからだった。


『イヴちゃんがいまのアンタを見たら、きっと悲しむわよ……?』


 エリオットには、歳が三つ離れた妹がいた。名前はイヴ。

 イヴはもうこの世にいなかった。大戦で命を落としたからだ。


 エリオットは、イヴを守ると決意していた。だが、守り切れなかった。

 冷たくなった身体を抱き上げた感触はいまでも忘れられない。


 悲しんだ。憤りもした。だが、そんな感情はすべて最後に虚しさへと変わった。

 エリオットはその虚しさと、生きる使命感だけを心に残した抜け殻のような状態となっていた。


 ブドウジャム屋を始めたのは、死んだイヴへの未練からだ。

 商売として賢くないことは認める。ジャムの需要なんて高いものではない。ブドウジャムと種類すら限定しているのだから、需要が低いのはなおさらだろう。


 それでも働き方を変えなかったのは、作ったブドウジャムをイヴが美味しいと言ってくれた過去があったからだ。エリオットは、そんな過去に縋っていたのである。


 キーンという音がふいに聞こえてきた。

 最愛の妹を失い、心を病んだためか。エリオットは毎晩、耳鳴りに苦しめられていた。両耳を押さえながら、よろよろと壁にもたれかかる。


 しばらくして、耳鳴りは収まった。

 エリオットは壁から離れ、木べらを握り直し、ジャムを完成させる。できたジャムは瓶に詰めた上で、温度の低い地下室に移した。

 それから寝室へ向かい、ベッドの縁に座って俯く。


「──生きよう」


 エリオットが己に言い聞かせるように呟いた、そのときだった。

 妙な物音が耳に飛び込んでくる。

 厨房──いや、地下室か。木箱を軽く叩いたような音が聞こえたのだ。


 エリオットは顔に面倒さを滲ませる。物音を立てた正体には見当が付いていた。


「ネズミか……」


 冷たくて暗い地下室はネズミの好む環境だ。エリオットは何度も地下室に忍び込んだネズミを駆除している。きっと、今回もそれだろう。


 エリオットは座っていたベッドから立ち、寝室の扉を雑な手つきで開けた。

 直後にとある光景が飛び込んでくる。エリオットは、その光景に目を疑った。閉めたはずの地下室の扉が開いていたのだ。


「は……?」


 ねずみが自力で扉を開けられるわけがない。というところで、物音を立てた正体がねずみだという線が消える。ならば、地下室に忍び込んだのは一体何なのか。


 壁に立てかけた箒を手に取ってから、エリオットは地下室の中を覗く。すると、そこには驚くような光景があった。


「──っ⁉」


 巨大な影が、ブドウジャムの瓶を漁っていたのだ。

 両手が震える。犬か、それとも猪だろうか。ジャムを狙った獣が地下室に侵入していることは間違いなさそうだ。もちろん、このまま放置していくことはできない。


 エリオットは箒を握る力を強めた。


 一瞬、視界の隅に麻の袋で包まれた棒状のものを捉える。

 棒状のものは箒よりも長い。距離を取って戦うならば持ち替えたほうが賢明だろう。しかし、エリオットは見なかったことにする。


 一歩、また一歩と地下室への奥へと進んでいく。そして、ついに獣の背中を捉えた。

 だがそのとき、エリオットは獣に存在を気付かれてしまう。


「⁉」


 獣は影に潜みながら、地下室の出入り口へ一目散に走っていった。


「──っ!」


 エリオットは反射的に箒を振り下ろす。箒は直撃しなかったが、獣の行く手を阻む形で叩きつけられた。


 それでも獣は止まらない。箒を避けるようにして、ふたたび出入り口へと向かう。だが避けようとした拍子にバランスを崩し、身体を斜めに傾かせた。そして最後にはゴチーンッ! という音を立て、壁に激突する。


 エリオットは呆然と立ち尽くした。

 相手は理性を欠いた獣と分かっていながらも、あまりの情けなさに同情の念すら覚えてしまいそうだった。


 だが、どんなに無様な姿を晒していようが、ブドウジャムを狙った凶悪な獣であることに変わりはない。


 エリオットは箒を構え直す。それから距離をじりじりと詰めるなか、ふいに地下室の扉から差す月光で獣の身体が照らされた瞬間があった。

 そして、エリオットは愕然とする。


「え……」


 ミルクのようにきめ細やかな肌の手足、白いボタンが特徴的な襟付きシャツ、シャツの裾を包みこむような膝丈スカートが露わになっていた。

 どうやら、忍び込んだのは少女だったらしい。


 それから照らされる領域が、胸、肩、首、といった具合にすこしずつ広がっていった。最後は、少女の顔までしっかりと認識できるようになる。

 瞬間、エリオットは言葉を失ってしまった。


 そんなはずがない。ありえない。すぐさま、その可能性を消そうとする。

 しかし、その可能性に縋りたい気持ちが湧いてしまった。


 混乱するように瞳を揺らしながら、生唾を呑み込む。そして疑念を抱くように、それでいて期待するように、エリオットは問うた。


「イヴ、なのか……?」


 くりんとした大きな瞳、高くて通った鼻筋、綺麗かつ小ぶりな唇──その少女が持つ顔は、死んだはずのイヴにそっくりだった。


 年齢は一四、五歳くらいだろうか。一三歳で命を落とたイヴが順当に成長をしていけば、きっとこのような姿になる。

 はじめ、疑念と期待は拮抗していた。だが、やがて期待が疑念を上回る。


「イヴなんだよな……?」


 期待が現実でもあることを願うように、エリオットはふたたび問いかけた。すると、少女はきょとんとした顔で小首を傾げる。


「イヴ……?」


 その反応で、エリオットはすべてを察した。

 目の前にいる少女は、イヴではない。


 少女はイヴという名前を知らなかった。白を切ったりしているような雰囲気もない。知らないという感情が顔に溢れていた。それは少女がイヴでない、何よりの証明だった。


 期待が靄のように消えていく。すると、狭まっていた視野も元の広さを取り戻していった。


 少女がイヴなら、エリオットと同じ栗皮色の髪と濃緑色の瞳を持っているはずだ。しかし、少女の髪は熟れたブドウのようなで、瞳は桜のような淡紅色だった。蝶のような髪飾りを付けていたが、それも見覚えがない。

 ただの別人であることを理解するなり、身体にこもった熱が完全に冷めたのだった。


 そこで、エリオットは本来の目的を思い出す。

 地下室への侵入者を撃退しに来た。正体が少女だとは思わなかったが、捕まえられたのなら縄で縛るなり、騎士団に突き出すなり、しかるべき対処をする必要がある。


「観念しろ、お前は騎士団に引き渡す」


 エリオットは箒を握り締め、威圧的に言い放った。


 だが、なぜだろう。しばらく待っても、少女からの返事はない。

 エリオットが怪訝な表情を浮かべていると、すーすーと隙間から空気が抜けるような音が聞こえてきた。


「なっ……」


 エリオットは目を丸くする。

 空気が抜けるような音の正体は、寝息だった。少女は、穏やかな表情を浮かべながらすやすやと眠っていたのだ。


 食べ物を目当てに他人の家に忍び込んだが、家主に見つかり、逃亡を試みている最中に寝る──そんなことがありえるのか。

 思わず、正気を疑ってしまう。


「なんなんだ、コイツは……」


 エリオットは呆れ果て、口の端をぴくぴくと動かしていた。

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