奇蹟
サディアスは勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
このように、サディアスは街を練り歩いては民衆に因縁をつけ、屈服させる──そして己の優位性を確認し、悦に浸ることをくり返していた。
サディアスの所業に不満を抱かない民はいないだろう。
だが、民には言い返したくても言い返せない現状があった。
グリフィス共和国において、騎士と商人の地位には大きな差があるためだ。反抗をしても騎士の権力を笠に着て、社会的な報復をしてくることは容易に想像ができた。
「おい、そこにいるのは負け犬じゃないかぁ」
ふいに嘲笑混じりの声が飛んでくる。エリオットに気付いたサディアスが、ゆっくりと近づいてきた。
「こんなところで泥臭く商売なんてやって大変だなあ? ま、仕方ないか。なんせお前は負け犬だからな? 泥臭い商売くらいしかできることはないもんなぁ?」
サディアスの侮蔑に、エリオットは耐える。
かつて、エリオットはエイブラム防衛騎士団に所属していた。過酷な入団試験を突破し、エリオットの同期となったのがサディアスだ。しかし入団数ヶ月でエリオットは適性のなさに気付き、逃げるように騎士団を去った。
それからサディアスは順調に出世し、隊長へと就任する。一方、エリオットは大した金にもならないジャムを売る日々を過ごしていた。
つまり、エリオットは比較材料として適していたのだ。サディアスにとって、エリオットほど己の優位性を証明してくれる人間はいない。だからか、サディアスは執拗に干渉を加えてきていた。
そして、エリオットは自分を虐げることを許す大義名分をサディアスに与えてしまっている。
「おい、負け犬。税はいつ払えるんだ?」
サディアスは楽しむように訊いてきた。
エリオットは苦しい生活ゆえ、都市の税も満足に払えていなかった。ただ戦争が終結して年月があまり経っていないことを考慮され、税の延納が認められてはいる。
しかし、サディアスにそんなことは関係なかった。絶好の材料として、エリオットを責め立ててくる。
「どうなんだよ。税を払えないなんて善良な市民とは言えないぞ?」
「……すみません、もう少しだけ待ってもらえると」
エリオットは謝罪に徹する。しかし、それは無意味に等しかった。
「おいおい、なんだよそりゃあ。詫びるなら、もっと申し訳なさそうにしろよ」
サディアスは、エリオットを糾弾することしか眼中にない。エリオットがどんな返事をしようが、帰着する先は一緒なのだ。
未来が同じなら、いっそ何も言わないほうがいい。
エリオットは俯き、口を鎖した。
だが、どうやら沈黙を選んだことも気に入らなかったらしい。サディアスは青筋を立て、歯を軋らせる。
「──なんとか言えよ、〈狂風〉!」
風が吹き荒れた。
その風は天へと舞い上がったのち、居場所を見つけたようにサディアスの全身に絡みつく。サディアスが手を掲げると、風は頭上に収束。そのまま、戦斧を形作った。
「おらぁっ!」
サディアスは、勢いよくその戦斧を振るう。
狙われたのは、陳列されたブドウジャムの瓶だった。瓶は呆気なく砕け、中に入っていたブドウジャムは飛び散る。エリオットは風圧に押され、尻餅をついた。
サディアスが使った、不思議な力。
それは〈奇蹟〉と呼ばれるものだった。
ラグド大陸では、唯一神ヘイデンを崇める〈ヘイデン教〉が広く信仰されている。
大戦中、ヘイデン教のとある神父が大陸に遍在する神殿の一つに足を運んだらしい。神殿で救済を願うと、神父にとある力が授けられたそうだ。その力こそが、奇蹟だった。
奇蹟は、どんな者でも手にできた。
与えられる能力の系統は個人によって異なる。竜紋人が使う魔術のように汎用性はない。炎の奇蹟を与えられたなら炎しか操れず、水の奇蹟を与えられたなら水しか操れない。チカラの強弱もまちまちで、曲芸のようなことしかできない奇蹟もあった。
それでも、奇蹟は魔術への対抗手段としては十分だった。この奇蹟のおかげで、敗北を重ねていた連合国軍は戦況を途中で覆せた。そして、ついには勝利を掴むこともできたのだ。
サディアスは、そんな奇蹟の力を向けてくる。
「謝れよ、負け犬」
エリオットは剥き出しの敵意を浴び、眉をひそめた。
サディアスに逆らい、事態が好転することはない。だから、サディアスの言う通りに謝って──それこそ土下座でもすれば、この場は収まるかもしれなかった。
だがエリオットは数秒、土下座を躊躇ってしまう。心には、わずかに自尊心が残っていたとでも言うのか。その数秒が、サディアスを激昂させてしまったようだ。
「謝れって言ってんだろぉ……負け犬がああっ!」
風で形作られた戦斧を、サディアスは思いきり振りかぶる。
エリオットは身を守るようにして、両腕を前に掲げた。激痛を想像し、眼を瞑る。
そのとき、凛とした女性の声が響いたのだった。
「──〈天庭〉!」
「は……⁉」
サディアスが唐突に浮く。その身体は、人の身長をゆうに超える巨大なハエトリソウの顎に咥えられていた。
「何だよこれ……何が起きたんだよぉ⁉」
サディアスは、ハエトリソウの顎で暴れている。部下の騎士たちは、おたおたしながらサディアスの救出に努めていた。
「アンタ、またこんなくだらないことしてるわけ?」
咎めるような声が響く。サディアスを睨む者がいた。
青い長袖のシャツの上に銀のプレート、併せるように腕には銀色のガントレット、太もも丈のミニスカートの下には銀色のグリーヴを身に付け、金髪を二つ結いにした少女──クラリス・セルヴィッジが、左腕を腰に添えながら立っていた。
クラリスは、エリオットの幼馴染である。
良家の娘であり、エリオットとは育ちに大きな差があった。だが歳が近かったため、一緒に遊ぶことは多かった。
また、クラリスは騎士でもあった。ただ、凡庸な騎士と一括りにはできない。
サディアス同様、クラリスは一七歳という若さでエイブラム防衛騎士団の隊長に就任していたのだ。
「セルヴィッジ……!」
サディアスが睨み返す。
「こんなところで何をしている? この区域は君の管轄ではないだろう!」