ジャム売りの青年
「……いらっしゃいませー」
覇気のない声が響く。
十億人が住むラグド大陸の東にある、グリフィス共和国の都市エイブラム。その都市の東街路にて、エリオット・イーリイがしおれたように背中を丸めていた。
栗皮色の髪を持つ青年である。羊毛素材の半袖シャツを着て、牛革で作られた厚手のベルトを腰に巻き付け、幅広のズボンを巻き込むようにロングブーツを履いていた。
エリオットの視線は、紫のとろみがかった液体が入っている瓶に向けられている。
瓶に詰められた液体の正体は、ブドウジャムだ。エリオットはブドウジャムの商人であり、現在は街路の端で露店を開いているところだった。
だが、売れ行きは芳しくない。
朝から店を開いて売れたブドウジャムは十個にも満たなかった。
エリオットの露店を覆う布には小鳥が遊びに来ている。閑古鳥が鳴くという状況を、まさに体現してしまっていた。
さらに悲しいことに、客足がまばらなのは今日に限ったことではない。
いままでは最低限の売上を立たせ、最低限の生活を営むことができていた。しかし、近頃はそれすら危うい。今後もブドウジャム屋を続けるのであれば、さらに生活費を切り詰めていく必要がある。
「はぁ、どうしたもんかな……」
エリオットは待ち受ける極貧生活を想像し、うなだれていた。
そんなとき、ふいに声を掛けられる。
「ジャム、ひとついただけるかしら?」
顔を上げると、修道服に身を包んだ年配の女性が立っていた。
「タマーラか」
エリオットは、その女性を知っている。
タマーラ・マホーニー。彼女は、都市エイブラムが運営する孤児院の院長を務めている女性だった。
エリオットは、小さい頃に両親を失っている。母親はエリオットが物心つく前に病で倒れ、抗夫だった父親は鉱山の事故で命を落とした。以降は、成人と見なされる一五歳になるまで、このタマーラが働く修道院で世話になっていたのだ。
タマーラは修道女らしく、誰かに寄り添ってなにかを施すことに躊躇いがない。慈悲の心からか、エリオットが売るジャムを頻繁に買ってくれていた。
「いつもすまないな」
情けない気持ちは否めない。タマーラに心配させることなく生活できるようになりたいが、いまは厳しいのが現実だ。
陳列されたブドウジャムの瓶をひとつ手に取る。
「まいど」
エリオットは、銅貨と交換に瓶を渡した。
「いいのよ。エリオットのジャムは孤児院の子どもたちに好評なんだから。それに──」
言いながら、タマーラは街路に立ち並ぶ露店ひとつひとつに視線を遣る。
「大戦終結から一年経ったけど、まだみんな元通りってわけにはいかないだろうから。困ったときは助け合いよ」
タマーラは寂しそうな笑みを浮かべた。
「……そうだな」
エリオットは黙って俯き、小さく言葉を溢す。
このラグド大陸では、数年前まで大戦が繰り広げられていた。
エリオットの住むグリフィス共和国をふくめた連合国軍と、グレイゲル王国が衝突した大戦である。
グレイゲル王国は〈竜紋人〉という特殊な人種が統治する国家だった。
姿形は普通の人間とほとんど変わらない。ただ、竜紋人は二つだけ人間と異なる特徴を持つ。
一つは、身体のどこかに竜の顎のような黒の紋章が刻まれていること。
もう一つは、魔力という特殊なエネルギーを生成できること。竜紋人はそのエネルギーを用いることで魔術という超常的な現象を引き起こすことができた。
竜紋人も人間に混ざって生活をしていた時期があった。だが、あるときから竜紋人たちは自分たちを優れた人種だと考えるようになり、普通の人間と同等の扱いを受けることに不満を募らせる。そして、ついには竜紋人の人口が最も多かった国で反乱を起こした。王族を皆殺しにし、国を乗っ取る。その後、グレイゲル・ランデスコーグという男を君主に据えたグレイゲル王国が興った。
大戦で竜紋人が見せた、魔術による攻勢は凄まじかった。
数の優位はあったが、剣や弓で戦うしかなかった連合国軍は、次々と敗北を重ねた。
それでも一年前、なんとか戦争は連合国軍の勝利で終えることができた。だが、死傷者が何百万人を超えるとされる大戦の傷跡は簡単に癒えるものではない。いまだに露店が立ち並ぶ街路にはどこか鬱屈とした空気が漂っていた。
「いまは孤児院の財布も厳しくてね……新しい孤児を住まわせてあげることも難しい状況なの……」
タマーラは困ったように語ってから、ブドウジャムの瓶を布製の袋に詰める。そして、ゆっくりした足取りで孤児院へと帰っていった。
「大戦、ね……」
エリオットが空を見上げる。太陽が燦々と輝く、雲ひとつない、気持ちのいい青空だ。エリオットは、その青空に突き刺すような眼差しを向けた。
そのときだ。ふいに苛立ちを孕んだ声が響く。
「──辛気臭い顔をして商売をするな! お前らがそんなだからエイブラムにいつまで経っても活気が戻ってこないんじゃないのかぁ⁉」
エリオットは眉をひそめた。
街路の奥には、キュイラス、ガントレット、グリーヴなどに身を包み、顔と首以外は鎧で固めた青年が立っていた。周囲には、同じ装備に身を固めた部下と思われる男たちが控えている。
「サディアス……」
エリオットは苦々しい顔で呟いた。
青年の名はサディアス・サール。エイブラム防衛騎士団の七番隊隊長を任されている者だった。
エリオットと変わらず、年齢は一七歳。この若さで隊長を務めているのは、早い出世だと言えるだろう。知る限りでも、ここまで早い出世を遂げたのは二人しかいなかった。
ただ、その地位に反して、サディアスの評判はよろしくない。
「なんだ? この残飯みたいな食い物は」
サディアスが露店に陳列された品を指差すと、その品を売る店主が震えた声で答えた。
「そ、そちらは羊肉をパンで挟み、アンズで酸味をきかせたソースをかけたもので……」
「へえ」
サディアスは無断で料理を口へ運ぶ。そして咀嚼をしたのち、不快そうに顔を歪ませたのだった。口に入った料理は勢いよく吐き出される。
「マズいっ……見た目だけじゃなく味も残飯同然じゃないか……この僕に不快な思いをさせた落とし前、どうつけてくれるんだ……?」
「ま、誠に申し訳ございませんっ……この品はすべて廃棄し、かつ改善に努めさせていただきます……この通りですのでどうかお許しを……」
地面に額を強く擦りつけながら、店主は謝る。