第九話 百合鶴
現状の平均強(当作比)の長さになりました。お付き合い頂ければ幸いです。
徒歩で十日ないし十日半。
ただしこれは、玉英一行の基準による。
元・蘭の民たる栗鼠族達――雛と、その侍女である狐族の宋林、曜、寧、歌を含めた、百二十七名の集団基準では、まず二十日以上。
雛の『お友達』が治める城塞都市への、距離である。
邑を出て竜河沿いに南東へ進み、竜河が北へ折り返したところからは真東へ。
雪原と森、四つの山を越える道行き。
言うことを聞かない足をどうにか前へと動かし、玉英等と共に旅する民は、繰り返すが、百二十七名である。
命があった百五十名以上……正確には百五十七名居たところから、三十名減っている。
三十名の内訳は、過酷な旅には耐えられまいと判断されたあまりにも幼い者達と、その世話をするべく付き添った、子を持つ者、持っていた者達だ。
彼女等は、比較的近くにあり交流の深い、六つの邑を頼ることとなった。
可能ならば全員がそうしたいところではあったが、他の邑とて冬の備えに大きな余裕があるわけではない。これが限界であろうと思われた。
また、頼った先の邑も壊滅していた場合や拒絶された場合に備え、仲権、季涼を含む黒猫族六名が、護衛としてその三十名に付いた。
野生の獣や少数の賊ならば、先行察知して撃退、ないし回避出来る程度の技能はそれぞれが備えている。季節柄、期待はさほど出来ないものの、狩猟も可能だ。
黒猫族は無事に役目を果たしたら本隊へ合流する予定だが、当然それまでの間、本隊――百二十七名の防備――は薄くなっている。
具体的には、玉英、琥珀、子祐、文孝、梁水、伯久と、叔益以下の茶猫族五名、それに黒猫族の三名……合計十四名のみだ。
大抵の場合において独力で対処出来る、と言えるのは子祐と、いくらか甘い基準で見ても玉英のみで、あとは少なくとも数段落ちる。単に熊族や鬼族と打ち合うだけでも、文孝と梁水、伯久までが限度だ。
正面からぶつかってしまえば心許無いが、細い道を行く集団の前後を玉英と文孝が護り、前後左右のいくらか遠方へ子祐、梁水、伯久、叔益がそれぞれ猫族を従えて斥候に出て、遭遇自体を避けるように動いていた。特に、森林や低所、高所等、賊徒が伏せ得る場所については警戒を強めた。
平穏な日々であれば、周華の民は一般に、一日二食摂る。
しかしこの百二十七名は、出発した段階から考えれば十四日分の食糧で二十日以上保たせなければならないため、基本を一日一食とし、三日に一度、二食の日を設けた。
つまり、通常二日分の食糧で、三日間過ごす――十四日分で、二十一日間を過ごすことにしたのだ。
これ以上減らせば、歩く気力すら失われる。
軍であらゆる行軍(軍兵が移動すること。)調練を経験した子祐が、民のことを考えた上で、そう言ったのだ。
玉英自身、かつての旅で自らがどれだけ耐えられたか、耐えられなかったかは、苦味と共に思い出せる。
子祐のおかげで楽しめていた部分すらあったが、最終的には負ぶわれていた。
体力の限界を超えてしまえば、あんなものだ。
もし百二十七名の半数、いや、一分(十分の一。)でもああなってしまえば、連鎖的に限界を超える者が増え、甚大な犠牲を出すことになるだろう。
雛や宋林、他の民の意見も聞き、一線を見極めての計画だった。
無論、民の側も、納得の上での行動だった。
計算上は、辛うじて保つ、というところだが、あくまでも順調な場合の話であって、何かあれば、絶食する日も出てくるかもしれない。
それどころか、賊徒に襲撃されて死ぬことになるかもしれない。
しかし、生き残る者も出るかもしれない。
皆が、そういう覚悟で旅に出た。
元より、何もしなければ、全員が確実に死ぬだけだったのだ。
それぞれが、自分達の命について、冷徹な判断を下していた。
一度は邑ごと全滅し掛けたことで、彼女等の多くは、ただの民ではなくなっていた。
その上、旅の間、琥珀が民に声を掛けて廻っていた。
栗鼠族は猫族程に劇的な反応こそしないものの、琥珀の姿を見、声を聞くことで、地面ばかり見つめていた者が、前を向いて歩けるようになった。
また、三十名に入りはしなかったが、それでも幼い部類の子供達に対し、雛がひたすらに付き添い、励まし続けていた。
子供達にとっては、長の娘――『憧れのお姉さん』である。
実のところ、両者が果たした役割は、非常に大きかった。
二十三日目の、昼。
旅程は二日遅れたが、民の疲労によるものだった。
食糧は、一度だけ『二食の日』を一食にして後へ回し、この日は水だけを口にして、ただ耐えてきた。
越えるべき最後の山――紅山の下りに入るところで、見えたもの。
西王母の支配領域の、僅かに外側。
即ち、玉英等がかねてより目指していた、鎮戎公の支配領域。
その、西南の玄関口だった。
歓声が、上がった。
紅山から湧き出し、北北東へ流れ、最後には竜河へ注ぐ水量豊かな川は、紅水と呼ばれている。
紅水の上流東側に位置し、その恩恵を受けている件の都市もまた、紅水と呼ばれていた。
「なんと大きな……これでも、都ではないのかや?」
近付くことで実感が湧いたのか、琥珀が、紅水の城壁を見上げながら言った。
夕日に照らされた耳が盛んに動き、尾もゆったりと揺れていた。
玉英は声には出さず、琥珀の左手を握って、微笑みかける。
京洛のような巨大都市は元より、如何に小さかろうと、城塞都市への出入りは門限を厳しく管理されている。
どうにか間に合いそうだ、というところで、琥珀は栗鼠族達の最後方から順に声を掛けつつ、上がって来たのだ。
門番と話をするのであれば、今のところ身分を隠すべき玉英よりも、琥珀の方が適任である。
少なくとも、西王母の民を率いてやって来た存在として、玉英や子祐、文孝、梁水等よりも相応しいのは間違いなかった。
その点では同じ、あるいは今回に限ってはより相応しいだろう雛も、子供達を連れて上がってきた。
雛は何も狙っていない様子だが、門番への心理的圧力としては、
――これ以上無い程に有用だろうな。
と玉英は思った。
何しろ、数が、数だ。
正しく女子供が殆どとは言え、事情を説明し、理解して貰うだけでも、相応の対価が必要となるかもしれない。
全員が入ろうと思えば、一段と……だ。
――紅水には、負郭(城塞都市の周囲に広がる貧民街。)は無いのだな。
玉英は一瞬別のことへ意識をやりながらも、道中練ってきた策に遺漏がないか確かめ直しつつ、しばし。
順番待ちを終えて、琥珀が門番へ話しかけようとした瞬間、
「お待ちしておりました、雛様、それに皆様。どうぞ城内へ。不肖、丹行がご案内致します」
と、鳥翼族としては極めて上背に恵まれた門番が、穏やかな声で城内へ招いた。
背丈は子祐に一寸(約一・八センチメートル)及ばぬ程度だが、鳥翼族の例に漏れず細身。
肩から生えた大きな白い翼と朱い短髪が目立つが、左の翼を広げ、半身になって招く様には、ただの門番とは思えない優雅さを伴っている。
京洛には遠く及ばないが、城塞都市は城塞都市。
邑とはまるで規模の異なる、高さ七丈(約十二・六メートル)、厚さ二丈(約三・六メートル)に及ぶであろう外城壁。
紅水の場合はそのいくらか外側へ、川の紅水から引いた水を通し、元は騎馬民族対策であろう、十分な幅の堀としてある。
それらに囲まれた防備十分な城内へこれ程簡単に通されてしまうと、少々訝しみたくなるところだが、
「頼れるお友達、でしょう?」
としたり顔の雛が胸を張っている。名指しで呼ばれてもいたのだから、既に捕捉されていたのだ、ということはわかった。
視線で問う琥珀へ頷いて返し、共に先頭で入ることにした。
すぐ後ろで「褒めて下さいませ、お姉様!」と子祐の腰へ纏わり付き始めた雛のことは気にせず、琥珀と共に後ろへ声を掛け、付いて来る者が遅れないよう、ゆっくりと歩き出す。
丹行と名乗った門番は、鬼族からすれば腕の代わりに見える翼を閉じ、先に立った。門番は、別の者が引き継ぐらしい。
城門を抜け、様々な高さの家々に囲まれた大通りを真っ直ぐ北へ。
「お尋ねしてもよろしいですか」
歩きながら玉英が問うと、丹行は首から上だけで振り返り、微笑んだ。首の可動域の広さは、鳥翼族の特徴だ。
「なんなりと」
「この城塞都市には、どれだけの者が?」
「おおよそですが、二万というところかと存じます」
「そうですか……ありがとうございます」
「いえ、他には何かございますか?」
「今は、結構です」
「いつでもご遠慮なく」
「ありがとうございます」
玉英が頭を下げると、丹行も一礼を返し、頭を戻した。
雛の話では「元の蘭より何十倍も多い」とのことだったが、二万。
西王母の支配領域の邑々とは、文字通りに桁が違う。
住民の数に見合った広く長い通りを、しばしば後ろの民を確認しながら歩いた。
――早く、休ませてやりたい。何より、食糧と水を。
焦る気持ちは、どうにか抑えた。
大通りには、丹行と彼に付いて行く一団以外、誰も居ない。
時折遠目に見える別の通りには活気がある以上、民に通達してあるのだ、としか思えなかった。
これ程の状況を作れる者が、『お友達』の民に対する用意を、怠るわけもない。
事実、道中の五箇所で、後ろの民を誘導する役目の者を丹行から紹介された。
各箇所の一組は二十五名から三十名ずつ、とのことだったため、旅の間の緩やかな隊列と同様、親子・姉妹が共に過ごせるよう分かれた。
宋林とその娘達――曜、寧、歌も最後の組に入った。
宋林は「お嬢様に付いて行くよ」と言い張ったが、娘達と共に休むよう、皆で説得した。限界が近いことは、明らかだったのだ。
念の為、各組へ猫族を二名ずつ、最初の組に伯久、半ばの組に叔益、猫族が一名足りなくなった最後の組には梁水を含む形で付けてある。
内城へ入ったのは、玉英、琥珀、子祐、文孝と、雛のみだった。
先を歩む丹行が一言二言話した程度で、あとは妨げられずに長の部屋――執務室まで通された。
「助けられんで、すまんかったのう、雛」
「いいえ、今、助けてくれているでしょう? ありがとうございます、明華」
十分な数の燭台で照らされた部屋。
大きな机の前で雛と抱き合っている少女は、明華、というらしい。丹行と似た鳥翼族だ。同じ氏族の出身だろうか。
雛より一尺(約十八センチメートル)以上、玉英よりも三寸(約五・四センチメートル)は背が高い。
すらりと伸びた白い肢体に、纏う着物も翼も白い。腰程まである朱い髪は艷やかに輝き、優しげに細めた瞼の奥から、大きな黒い瞳が覗いている。
玉英や琥珀と同じくらいの年頃と思われるが、落ち着いた雰囲気だ。しかし、
「母上や妾と似た喋り方じゃのう」
琥珀が溢したところで、一変した。
「え、あ、キャラ被り? それはまずいなぁ、まずいよ。しかも猫……いや待って、白虎耳の超絶美少女!? 絶対被せちゃダメな奴だよコレ! どう見てもヒロインじゃん!! うん、やめやめ。やめ」
凄まじく早口な大きい独り言の意味はよくわからなかったが、
「と、いうわけで、こんな感じでーす! よろしくね!」
勢いよく首を傾げて見せた途端、脳天と左右から飛び出た跳ねっ毛のおかげもあり、親しみの湧く雰囲気になったことは確かだった。ただ、
「うんうん、明華は変な喋り方しない方が良いよ」
雛が明華の顔を下から覗き込みながら言えば、
「それは妾の話し方がおかしいと言いたいのかや?」
琥珀に飛び火する。
「え、いや、そんな、琥珀様は似合ってらっしゃいますから!」
「変な喋り方が似合っておる、と」
「その、変なというのは、いつもとは違う、という意味でして、その、どちらかというと明華のいつもの喋り方の方が本当は変なんです」
「ちょっと雛それどういうこと!?」
しばらく、少女達の三つ巴の言い合い……らしきものが続いた。
玉英からすれば、少なくとも琥珀の勘違いは明らかに意図的だったのだが、黙っておいた。
元・蘭からの旅の間、ずっと民を励まし、導いて来たのだ。
――こういう時間も、必要だろう。
そう、思った。
部屋を、移した。
散々言い合った末、とりあえず皆座ろう、ということになった……が、執務室には椅子が一脚しか無かったのだ。
移った先の部屋には、竹簡(細長い竹の板。多数並べて編んだものを書と呼び、巻いて保管する。書物を「編纂・編集する」と言ったり、「一巻」「二巻」と数えたりする由来。)の書物が壁一面、どころか三面以上埋める程にあった。
出入りするのがやっとの有り様だ。
明華はそれぞれの椅子の上にも置いてあった数十巻を器用に別の場所へ移してから、部屋の奥の椅子へ座り、玉英等にも座るよう翼で促した。
それに甘え、明華から見て左から順に、玉英、琥珀、雛と、椅子の位置を若干整えて、座った。
子祐と文孝は、先の部屋でもそうだったが、いつも通り控え、文孝は部屋の外に立った。他の者の姿は、見えなかった。
明華はやや崩した姿勢で、玉英に目を向ける。
「えー、で、琥珀様が琥珀様なのはわかったんだけどさ、あなたはどなた?」
先程はすぐにああなったため、名乗ってすらいなかった。
「玉英、とお呼び下さい」
「はい、玉英ね。私は明華。よろしくね! ってさっきも言ったか。……で、どんな人?」
「ヒト?」
――あの刺客も、使っていた言葉だ。
「あ、ごめんごめん、どんな方?」
思索に入りかけた心を引き戻し、
「琥珀の、婚約者です」
最も無難な答えを返した。
「えっ」
数瞬、明華が止まった。
その後、玉英と琥珀を交互に見つめるようになり、いくつ数えた頃合いか。
「キッ」
「「き?」」
玉英と琥珀が首を傾げ、
「キマシタワー!!!!」
明華がはためきながら叫んだ。
更に数瞬後。
「あ、ごめんねー、つい古いオタクの血が。今はなんて言うのかな。尊い? 寿命が伸びる? 整う? エモい? それとも全部死語?」
「「……?」」
「まあなんでもいいや。百合ップルか~、それなりに上背のある黒髪赤目の格好良い娘がちっちゃくて可愛い白虎娘と婚約、それも西王母様とかいう超々大物の娘と駆け落ち! くぅ~たまらんわコレ! 私この世界に生まれて良かった~!!」
「すみませんが、駆け落ちではありません」
やはり凄まじい早口な上、半ば以上何を言いたいのかわからなかったが、訂正すべきところは、訂正する。
「あれ? そうなの?」
「はい。義母上……西王母様には、認めて頂いています」
「それはっ! それでっ!!」
明華は両の翼をニ度動かした。
「えっ、ってことはもしかしてもしかして、玉英って実は周華の王女様だったりとかしないの? それで大変なことになって逃げ出して西王母様に拾われてどうにか耐え忍んで今は愛しいヒロインや頼れる仲間達と共に復讐と天下取りの旅とか~って、え?」
音も無く明華の首筋に突き付けられた、剣。
子祐が、動いていた。
文孝は周囲を素早く確認した上で、そのまま警戒。
雛は息を呑んだまま青褪め、琥珀は目を見開いて玉英の左手を握っている。耳も、張り詰めていた。
「子祐、やめよ」
「ハッ」
子祐を幾分か下がらせ、改めて、明華に向き直る玉英。
「玉座に就くのは兄上のはずだが、復讐、まではほぼその通りだ」
「あ、ははは~、嘘から出た実っていうか、瓢箪から駒っていうか……こんなことも、あるんだねぇ~」
口角こそ上げたままだが、明華も流石に肝を冷やしたようだ。
「それで、その、私、っていうか私と雛、どうなっちゃうの?」
雛の様子を横目に見て、知らなかったのだ、と理解したらしい。
「どうも、しない。一瞬気が漏れてしまってな。子祐はそれに反応しただけだ。すまない」
普段は閉じている、心の裡の、蓋。
奥底に眠る、昏い、紅蓮の炎。
「私達を害する、あるいは敵を利するようなことをしないのであれば、そなた等に何かする気は、無い」
「そっか~、はは、良かった~。ねえ雛、良かったね~あはは」
「あ、はは、はは」
乾いた声で微かに笑い合う、明華と雛。
「むしろ、手伝ってはくれぬか」
「「え?」」
明華達の声が重なる。
玉英は立ち上がり、それぞれに向き合って続ける。
「明華、そなたの手腕は見た。紅水は、この乱れた世で、あまりにも立派に治められている。我等をここまで受け容れる際の動きも、尋常ではなかった」
「いやあ、そんなそんな、えっへっへ」
「雛。そなたは民によく慕われ、それでいて民のために戦う気概がある。得難い資質だ」
「えっと、その、ありがとうございます……?」
「私は、そなた等が、欲しい」
双方を交互に真っ直ぐ見つめて、言い切った。
「おおっとぉ、これはまさか正妻の前で同時に愛の告白」「あの、私にはお姉様が……」
「そうではない。助力を頼む、と言っているのだ」
「ですよねー」
「あ、その、すみません……」
これだけ異なる反応をする者同士が、『お友達』というのは面白いな、と玉英は思った。
「今すぐでなくても良い。戦とも限らない。いずれ、何かの折に、頼らせて貰うかもしれない。それだけのことだ」
「んー、いいよー。むしろ落ち着いたら付いて行くー」「その、私は、はっきりとは……ええっ!?」
明華の軽い答えに、同時に答えていた雛の方が驚いている。
「でも、明華、田舎でのんびりしていたいって……」
「そうだけどさ~、これはこれで、面白そうじゃん? せっかくこの世界に生まれたんだし、なんかしてみたいなーとも思ってたんだよね」
「感謝する」
「いーよいーよ、鬼の王女様と白虎神様の娘、ってのも燃えるし、萌えるし、これは見ておきたい! ってだけだから。てか玉英、その口調の方が格好良くていいね」
「では、そなたには今後もこうしよう。雛は、どうだ?」
「その、お姉様……子祐様も、ずっと……?」
「子祐は私の守り手、従者だ。たとえ死しても、共に在る」
子祐ならば、魂だけでも、必ず侍る。
命すら超越した、信頼だった。
「で、でしたら私も、私も付いて行きますっ!!」
「それは、今すぐにでも、ということか?」
「はい、勿論です!」
「そなたの民は、まだ落ち着いてすらおらぬ。……ただの雛、ではあるまい?」
旅の中で見せた献身的とすら言える姿勢は、この期に及んで「もう蘭は無いから」等と言えるような心根からは、決して出てこない。
「それは……そう、なのですが……」
「いずれ、で良いのだ。いずれ、蘭の民が生活を取り戻し、そなたが胸を張って名乗れるようになったなら、その時、少しだけ、力を貸して欲しい」
――蘭の、雛として。
「……はいっ、頑張り゛ま゛す゛っ! お゛姉゛様゛、と゛う゛か゛、待゛っ゛て゛い゛て゛下さ゛い゛っ!!」
もう、玉英の方は向いておらず、それどころか子祐の方へ走っていき、抱きついていた。
子祐は玉英に視線で許可を求め、頷きを受けて、子祐なりに誠実な答えを返した。
「私は殿下の……玉英様のものですから、雛様が何を求められても、お応えすることは出来ません」
「そ゛っ、そ゛れ゛て゛も゛い゛い゛ん゛て゛す゛! い゛つ゛か゛ま゛た゛、笑゛い゛か゛け゛て゛下゛さ゛る゛な゛ら゛」
「でしたら、はい。……その日が来ることを、心待ちにしておきます」
「あ゛り゛か゛と゛う゛、こ゛さ゛い゛ま゛す゛」
子祐は雛の小さな頭を支え、背をさすり続けた。
それを尻目に、
「んじゃ、私はすぐにでも付いて行こっかな」
明華が毎度の如く軽く言い放つ。「落ち着いたら」と言ったことは、既に忘れたかのように。だが、
「それは、通るまい」
玉英は軽く睨め付けた。
「うわっ、怖っ、そんな目も出来ちゃうんだね玉英」
「ではこの目に免じて、雛と民の面倒を見てやってくれ」
「はー、わかったよ。そりゃあ元々そのつもりだったけどさ。でもどうせ私の力も必要だ、ってなると思うよ、絶対」
不満を口調と台詞でしっかり表す明華だが、
「雛達を、導いてやってくれ。そなたにしか、出来ぬ」
玉英に、真剣に見つめられ、
「そりゃー、まあね? そうなんだけどさー。はー、仕方ないなー」
満更でもない表情で了承した。
「でも、ちゃんと動ける状況を作ったら追い駆けるからね」
「それならば、歓迎しよう」
眉尻を下げた玉英と、目を細めた明華が、声を上げて笑い合う。
そのまま五つ数えた頃、安堵して手持ち無沙汰になった琥珀が玉英の左腕へ抱きつき、明華が歓喜の奇声を上げる。
この騒がしさがいつか日常になるのだとしたら、それも悪くないな、と玉英は思った。