第八話 別離
流れの都合により、当作比では抑え気味の文字数となっております。お付き合い頂ければ幸いです。
「突雨……そなた、大丈夫かや?」
琥珀が、微かに震わせつつも、声を張って問う。
白虎族は一般に夜目が利き、耳も良い。
ましてや、西王母の娘――琥珀ならば、尚更である。
熊族――突雨も、それなりだった。
突雨は向き直り、両の瞼をやや下げ、左頬を上げて、琥珀へ応じるように、先の呟きよりはいくらか声を張って答えた。
「全部返り血だ、心配ねぇよ」
右手の剣を、一度持ち上げて見せる。剣も、左手の槍も、血に塗れていた。
琥珀は瞳を悲しく煌めかせながら叫んだ。
「そうではないのじゃ! わかっておろうが!!」
一月以上の旅を共にしてきたのだ。
あらゆる意味で強い突雨が、それでいて、繊細な優しさを備えていることは、わかっていた。
裏表こそ無いが、いつもの軽口に、誰かのための意味がある。そういう男だと。
そして、指摘されてしまえば、無理に隠さないのも突雨という男だった。
「あー……すまねぇ、ちぃっとばかし、疲れちまってな」
言いながら、頭を左右に動かし、首を鳴らす突雨。
ついでのように肩や腰、足に至るまでを動かしてから、肩を竦める。
どこまで口に出すかは兎も角として、万感を込めた言葉。
少なくとも、琥珀にはそう感じられた。
「いくらか、休んでいくのじゃ」
琥珀は、玉英が語りかけてくれる時の顔を思い浮かべながら、笑顔を作った。――
突雨は視線をあちこちへ数回飛ばし、最後に琥珀のところへ戻すと、溜息を吐いて、
「琥珀の嬢ちゃんに言われたんじゃ、しょうがねぇな」
とまた肩を竦めた。
「嬢ちゃんはやめよと言っておろうに」
琥珀が唇を尖らせれば、突雨が笑って謝る。
「はっは、すまねぇな、口癖だ。また別のことなら聞いてやるから、勘弁してくれ」
「ふんっ、また考えておくのじゃ」
突雨は再度笑って、琥珀の方へ――森へ向かってゆっくりと歩み出した。
その背後から来る者が居らぬよう、琥珀は祈っていた。
蘭の長の屋敷――だった場所。その、いくつもの燭台に照らされた一室で、
「玉英、相手を頼む」
振り返りつつ、墨全が淡々と言った。
普段ならば、そして玉英から言うのであれば、鍛錬の相手だが、今回は違った。
床を軋ませて歩いてくる墨全の背中越しに、青褪め震える薄着の少女達が見える。狐族……宋林の娘達だろう。
つまり、彼女達の話相手を、ということだ。
少女達の周囲には、ここまでと同様、あるいはそれ以上に小さくなった|死体がいくつも転がっていて、寝台や机、椅子までもが、共々に斬られていた。
「はい」
返事をしても、すれ違うまで墨全と目は合わなかったが、「頼む」と言われたからにはそちらを優先する。そう決めた。
「そなた等、もう大丈夫だ。雛と宋林に言われて助けに来た。立てるか?」
玉英は呼びかけながら歩み寄り、上着を脱いで、手前側の宋林によく似た少女へ羽織らせ、手を取り支えて、どうにか立たせた。
まだ震えているものの、宋林より僅かに背が高く、髪も長い。ただ、顔立ちに幼さは残っており、玉英より一つ二つ年少に見えた。
子祐も上着を脱ぎ、次女と三女――見るからに数歳ずつの差を付けて幼い――へまとめて羽織らせている。背丈の差があり過ぎて引き摺っているが、構わなかった。
それぞれに別々の袖を通させたところで漸く、目を潤ませた長女から答えが、もとい問いが返ってきた。
「お嬢様も、母上も、無事なのですか」
――本当に、よく似た母娘だ。
「ああ。だから、早く会いに行こう」
玉英が笑顔を見せつつ少女の背に手を添えて励ますと、
「……はい」
頷いた少女が、一つ深呼吸。振り向いてやや屈み、妹達に声を掛ける。
「寧、歌、行きますよ」
寧、歌と呼ばれた少女達は眉根を寄せつつ眉尻を上げ、共に頷いて姉の手へ掴まり、子祐にも助けられながら立ち上がって、長女と次女で三女を挟む形に手を繋ぎ直した。
姉妹でやや強張った微笑みを交わしてから、
「曜と申します。よろしくお願い致します」
長女――曜が丁寧に玉英へ頭を下げ、寧、歌も続く。
少女達も他者に仕える者。子祐が従者であることは、立ち居振る舞いからわかったようだ。
「ああ、勿論」
玉英は力強く頷いて後、子祐と目で会話する。
少女達を前後で挟み、今度は玉英が先導しながら歩き始めた。
建物を出て右。扉のすぐ横に、墨全が立っていた。
先程と変わらず、全身が血塗れだ。
拭うこともなく、新たな敵を警戒してくれていたらしい。
「墨全殿」
玉英が名を呼ぶと、今度は目が合った。
「すまぬな」
姿勢は変えず、一瞬、目でも謝る墨全。
「いえ。私達は、この子達の母御のところへ向かいますが……」
玉英が視線で示した背後の三姉妹は、墨全に助けられたということは理解しているのか、雛が初めて墨全や突雨と対面した時のようには乱れず、ただ身体を固くしているだけだった。
「そうか。では、後程」
「はい。ご武運を」
「ああ」
互いに頷いて、別れる。
宋林が居るはずの納屋まで、そう遠いというわけではなく、形としては、墨全は残党狩りへ一足先に向かった、ということになる。
突雨もそうだが、墨全も、機微に聡い。言葉にすることが少ないだけだ。
玉英はその大きな背を数瞬見送って、三姉妹に声を掛ける。
「では、行こうか」
「はい」
曜の返事に頷いて、納屋へ向かった。
「曜、寧、歌……皆、よく無事で……」
「母上っ」「母上ぇ」「ははうえー」
宋林と娘達が全身を震わせ抱き合っている。
玉英の内側に、痛みと共に疼くものもあったが、抑えた。
そのままたっぷり十以上数えた頃、見つめる玉英と外で警戒する子祐へ、曜の肩越しに宋林が幾度も頭を下げた。
「ありがとう……ありがとうございます、玉英様、この御恩は決っっっして忘れやしません」
「いや、私達は迎えに行っただけだ。礼なら後で、墨全殿……ご存知の、偉丈夫に」
「それは……勿論ですけどもね、でも、ありがとうございます」
言い淀み、惑う視線を戻してから言う宋林。
玉英は眉尻を下げ、口角をやや上げて頷き、次いで尋ねた。
「脱出しよう。雛が言っていた『道』は、どうなっている?」
実地で確かめた結果、屋敷の一角にあった抜け道は使えなくなっていた。もとい、使えなくなったままだった。
雛を脱出させた際、宋林達が死に物狂いで入口を壊し、隠した成果はあったらしい。
その時点で死んだものと思い定めていた母娘が、今、南の門を通り、幾分西へ行った先の木立の陰で文孝、仲権以下の猫族と合流し、一応の安全を手に入れた。
「では、誰も通っていないと?」
「ハッ、蟻の子一匹……であればわかりませんが、少なくとも猫族が反応する者は、一切」
玉英の問いに、跪き、譬え文句を言い直して答える文孝。
白虎族には及ばないとしても、猫族とて夜目は利く。五名が揃って見逃す、とは考えられなかった。
玉英の視線に応え、仲権も胸を張って頷いた。
玉英は頷きを返して、命じた。
「では、まず石板山へ伝令(命令を伝えること、あるいは命令を伝える者のこと。)。この隊へ合流せよ、と。二名、仲権に諮って文孝が選べ。残りは宋林等を護りつつ監視を継続。最優先は彼女等の安全、次にそなたら自身、最後に追跡だ。状況に応じて撤退して良い。集合場所はかねてのまま。合流後の指揮は伯久とする」
「「「「「「ハッ」」」」」」
隊の全員が返事をした後、文孝が続ける。
「復唱致します。石板山へ伝令、文孝仲権隊へ合流せよ。伝令は二名、仲権に諮って文孝が選びます。残りは宋林等を護衛しつつ監視。最優先は宋林等の安全、次点で隊の安全、最後に追跡任務。状況により撤退許可。集合場所は変わらず。合流後の指揮権は伯久。以上、復唱終わります」
玉英は頷き、いくらか奥で、各自の手持ちから分け与えた水と餅(穀物を捏ねて蒸す、焼く等して作る食べ物。日持ちが良い。)を貪っていた宋林等へ向き直る。
「と、いうことになった。このまま隠れていてくれ」
宋林は急な言葉に驚いたのか、咳払いをしてから口の中の物を飲み込み、
「はい、どうぞご無事で」
とだけ言った。
「ああ、ありがとう」
微笑んで答えた玉英は子祐と頷き合い、早足で木立を後にした。
一刻(約二時間)と少し経った頃。
三つの月に照らされた、雛の家――だった場所の、中庭。
石板山に居た伯久、季涼等を含めた全ての仲間と、雛、宋林が集合していた。
会議である。
北に玉英、左右に雛と琥珀、次にそれぞれ墨全と突雨……という、小さな円座。さほど意味は無いが、立場から言えば、墨全達がやや遠慮した形だ。
御伴あるいはお供――従者を自認する者達は、いつものように控えていた。
状況が状況である。全員、敷物も無い。
一つ目の議題。熊賊について。
熊賊の撃退自体は、殲滅という形で成功した。……してしまった。
墨全と突雨が暴れ回り、玉英、子祐が斬り、僅かな『残り』も墨全が早々に一掃した、らしい。
会議直前まで、玉英は子祐と手分けして邑を歩き廻り、民を助けつつ熊賊を探したが、潜伏者は見つからなかった。
各隊からの報告によれば、門からの逃亡者も無かった。
即ち、侵入経路の手掛かりは潰えた。
――せめて数名は捕えておくべきだったか。
と玉英が見通しの甘さを自覚し、皆にはわからぬよう静かに嘆息したのも、無理からぬことだった。
墨全と突雨が、強過ぎたのだ。
無論、強いことは知っていた。子祐の槍に匹敵、あるいは凌駕するかもしれない腕だ、と。
しかし、延べで考えても四半刻(約三十分)の半ばにも満たない時間で、邑に散らばった百を優に超える熊賊を屠っている等と、誰が思うだろうか。
――天下は広い。
周華の『天下』だけではなく、未だ見ぬ天地の間の総てを想い浮かべて、玉英はどこか少し、愉快な気さえもした。
……と、その、報告の後の微妙な間を捉えて、墨全が言う。――井戸を使い、いくらかは血を洗い落としてある。
「玉英殿。この件については、俺達に任せて貰えぬか」
墨全から、久方ぶりに、「殿」を付けて呼ばれた。
真っ直ぐな視線。黒い瞳の奥に、揺るがぬ決意。
突雨も、常に無く硬い表情で頷く。
「わかりました。では、頼みます、墨全殿、突雨殿」
玉英は信頼の笑みを浮かべ、頭を下げた。
「頼んでいるのはこちらの方なのだがな……恩に着る」
「ありがとよ、玉英」
兄弟も揃って髭面に笑顔を浮かべ、頭を下げた後、
「そいじゃあ早速」
「うむ」
とやはり揃って立ち上がった。
「お世話になりました」
玉英が再度頭を下げる。
「楽しかったぜ」
「また会おう、戦友よ」
「はい、また」
改めて視線を交わし、頷く。
それから五つも数えぬうちに、兄弟の姿は、消えていた。
小さかった円座が、更に小さくなった。
とは言え、議題はまだ残っている。
邑の者達の、今後についてだ。
邑の建物はほぼ壊滅したが、各所で震えていた生き残りは栗鼠族の女性――少女を含む――のみで百五十を数えた。
しかし、この場所で、彼女達がこのまま暮らせるわけもない。
栗鼠族は体格の割に力が強く、見た目よりも仕事をこなせるが、如何せん、体格自体が極めて小さい。
雛が例外的に大きいだけで、生き残りのうち殆どの者は、琥珀よりも小さい程だ。
各戸の再建は、絶望的だろう。
その上、冬の生活は厳しい。
冬であろうが狩猟だけでどうにかする、という種族や国ないし邑もあるが、少なくとも周華の民の大半は、冬に向けて食糧を蓄え、それを消費して冬を過ごす。
栗鼠族は後者の典型だ。
故に、運良く燃えず、熊賊に食われもしなかった分を掻き集めれば、ある程度の日数を過ごせる量にはなった。
具体的に言えば、全員で十五日。
全体の数が減った分だけ日数換算では多くなっているが、この地方の長い冬を越すことは、出来ない。
生き残りを助ける過程で判明したこの問題を解決すべく、案を出し合うことになる……玉英は、そう考えていたのだが、
「そういうことでしたら、頼れるお友達を知っています」
雛の提案が、多くの命の行く末を決めることとなった。