第三話 新居、試練、旅立ち
最初の予告通りに旅立ちまで入れようとしたら、想定以上に長くなりました。
お付き合い頂ければ幸いです。
「妾は、孕んでおるのかや?」
愕然とする琥珀。宝石のような眼が零れ落ちそうだ。
「あ、違う違う、今回は大丈夫」
両手も使い、慌てて否定する玉英。
「あくまでも『孕ませることが出来る』だけで、『必ず孕ませてしまう』わけじゃないんだよ」
「う……ん?」
疑問、が顔に浮かんでいる。
「孕ませるのにはいくつか条件があってね、私もよくはわからないんだけど、『最高の口付け』と『意志』が必要らしいの」
「つまり……」
「この間のは、その、たまたまだったでしょ? それに……」
「孕ませる気も無かった、と」
「うん、そういうこと」
「なんじゃ、驚かせるでないわ」
目に見えて脱力する琥珀。
「あはは、ごめんね」
玉英も、肩の力が抜けた。
「うむ? では結局、責任というのは……」
「鬼族にとっては、『そういう』行為になり得るから……ってこと」
「……」
「……」
しばし見つめ合った後、揃って赤くなり、目を伏せる。
「も、戻ろうか」
「そ、そうじゃの」
玉英が躊躇いがちに差し出した右手を見て、笑顔になる琥珀。
寄り添って、歩き出した。
「「ただいま帰りました」」
「よう帰った」
玉英と琥珀が連れ立って郭洋の家へ戻った時、西王母は郭玄に乗られていた。もとい、西王母は先刻玉英が借りていた寝具で俯せになっており、その背中へ郭玄が乗っていた。按摩の一種、らしい。
「郭玄、もう良い。……ようやってくれたのう」
起き上がって郭玄の頭を撫でる西王母の、信じ難い程の柔らかい笑みと声。
伝承によれば、西王母――白虎は、『慈愛の神』とされる。灯火が照らし出しているのは、その通りの姿だった。
「して、其方等、どうなった?」
郭玄を解放してから向き直り、打って変わって表情の抜け落ちた顔と声。
琥珀と目で会話し、答える玉英。
「琥珀様と、婚約させて頂きました」
「琥珀に『様』等付けずとも良い。第一、堅い物言いは禁止じゃと言ったはずじゃ」
淡々と言う西王母。
「申し訳っ、すみません、西王母様」
「良い。……琥珀。一度だけ訊く。玉英との婚約、相違無いな」
「はい、母上」
真っ直ぐに目を見つめて答える琥珀。
「良し。では、西王母の名において、正式に婚約したものとする」
「「はい」」
「其方等の家は用意しておいた。郭洋、案内せよ」
「ハッ」
寝台の脇に控えていた郭洋が先に立つ。
「こちらへ」
「よろしくお願いします」「うむ」
「……よろしく頼むのじゃ!」
玉英の言葉に追随する琥珀を見て、郭洋の顔が綻んだ。
玉英は西王母の方へ向き直り、改めて言う。
「では西王母様、失礼します」
「良いから行け」
「はい」
「行って来るのじゃ」
琥珀には尾で答える西王母。
子祐と郭玄も連れ、騒がしく出て行った玉英と琥珀が見えなくなった頃、頬を緩め、軽く溜息を吐く。
「全く、幼子の成長は、瞬きの間よのう」
独白は、虚空に溶けていった。
玉英と琥珀、そして子祐が暮らすようにと用意された新居は、『聖域』の手前を左へ曲がって幾分行った先、木々が立ち並ぶ中にあって、大きく切り拓いたばかりのような空間にあった。
「母上、わざわざ建ててくれたのかや」
目を潤ませる琥珀。どうやら本当に切り拓いたばかりらしい。正しく『神』の御業、ということか。
木材と石材を組み合わせた、三名で暮らすには明らかに広過ぎる豪奢な屋敷だが、おそらく日当たりを考えた立地になっており、燭台を手にした郭洋と共に見回ってみれば、間取りも利便性に優れていた。
「感謝せねばなるまいな」
郭洋を見送ってから中庭で立ち止まり、胸に顔を埋める琥珀の頭を左手で撫でながら、子祐と顔を見合わせて頷く。
そのまま屋敷の各所を眺めつつ、柔らかくも暖かい琥珀の耳をつい指で弄んでいたところ、
「ひゃんっ」
可愛らしい声が響いた。
「ぅぅううう……!」
途端、飛び退って唸り声を上げる琥珀。涙を湛えたまま吊り上がった大きな目には、なかなかの凄みがある。
「すまぬ琥珀、触れてはならぬところに触れたか」
普段の口調で謝る玉英。
「こういうことは他の者の居ない場所でするのじゃっ!」
琥珀の叫びが響き渡り、刻を忘れる数瞬。
「ぅうう……違うのじゃ……違うのじゃ……妾はそんな子ではないのじゃ……」
蹲って頭を抱え、首を横に振る琥珀。
「すまぬ子祐。先に休んでいてくれ」
微笑みつつ言う。
「はい。お休みなさいませ、殿下、琥珀様」
子祐は玉英の従者である。当然のように、入り口付近の部屋を寝所とした。
子祐が一礼して去ってから、声を掛ける。
「ごめんね琥珀。大丈夫?」
「ぅうう……違うのじゃ……妾が悪いのじゃ」
「私が変に触っちゃったからだよね。ごめんね」
琥珀の正面で膝立ちになり、抱き締めて、背中を撫でる。
しばらく撫でていると、突然琥珀が「あっ」と声を上げ、しかし今度は腕の中でしがみつきながら、
「やっぱり全部玉英のせいなのじゃ!」
と甘えるように睨み付けた。
「ごめんね、琥珀」
わけもわからぬまま、眉尻を下げて謝る玉英。
すぐさま琥珀は項垂れて、
「すまぬ……わかっているのじゃ。妾が慣れれば良いのじゃ。慣れれば……」
琥珀の尾が、複雑な動きをしていた。
その後、どうにか落ち着いてから寝室で共に休み、翌朝。
昨夜思った以上に日差しの差し込む中庭で、身体から湯気を立ち上らせている子祐に声を掛けた。薪割り中らしい。
「おはよう、子祐」
「おはようございます、殿下、琥珀様」
「……おはよう」
琥珀は寝起きが悪いのか、あるいは恥ずかしがっているのか、玉英の陰に半ば隠れている。
「鍛錬か」
「はい、ついでながら。……お加減は如何ですか」
子祐は向き直って跪き、尋ねた。
そもそも玉英は、自力で立っていられない状態で邑へ辿り着いたのだ。
「ああ、随分と良くなった。……子祐、貴様には途轍も無い苦労を掛けた。改めて、感謝する」
「いえ、とんでもありません」
笑顔でのやり取り。
「朝食にされますか」
「そうだな。頼めるか」
「勿論です。琥珀様も、同じものでよろしいですか?」
頷く琥珀。
「では、申し訳ありませんが、四半刻(約三十分)程、お待ち下さい」
「何か手伝えることはあるか」
「いえ、どうぞごゆるりと」
「わかった。頼む」
「はい」
一礼して立ち上がり、炊事場へ向かう子祐。
「琥珀、何かいつもすることはある?」
振り返りながら尋ねる。
習慣は多種多様。主な種族の概要は把握しているつもりだが、琥珀が、となると知る由もなかった。
「暑い季節なら水浴びじゃが、今は寒い。湯へ入るには時間が足らぬ。特に無いのじゃ」
「そっか。じゃあ……旗碁は知ってる?」
「当然じゃ。妾は誰の娘かや」
確かに西王母ならば、大抵の物事について、定命の者とは桁違いに精通している、と考えた方が自然だ。
第一、屋敷の一角にある四阿には、旗碁の器具が置かれていた。
「じゃあ、軽く一局、どうかな」
「良かろう。妾の才知に驚くと良いのじゃ!」
口角を上げて頷き合った。
旗碁。
兵法(ここでは用兵の法、即ち戦略・戦術等を含めた軍事技術・知識のこと。)鍛錬を兼ねた、周華国では最も有名な卓上遊戯である。
独自に磨くも良し、他者と磨き合うも良し、とは言え基本的には他者と取り組むものであり、これを特に「対局」と呼ぶ。また、回数に応じて一局、二局、等と数える。
根本的には、様々な色と大きさの石を兵に見立て、陣を奪い合って遊ぶものだが、その形式として、三つの代表的な手法が存在する。
一つ目は、二陣営が同等の地形、初期布陣、軍兵を設定し、手番を交代しながら勝利を目指すもの。
互いの布陣、采配、その効果等、あらゆる情報が常時参加者全員に与えられているため、完全情報遊戯と位置付けられる。
基本的には先手(ここでは、最初の手番を持った側。)が有利になるため、公正を期す場合、最低でも二回戦は行うこととなる。
ほぼ同等の条件下で如何にして有利を作り、不利を減ずるのか……が重視されているのだが、時代が進む事に様々な状況が研究され、これまで存在しなかった個別的な状況に至るまでの手順が長く複雑になり、その途上の殆どが定型化されて『定石』や『布石』『手筋』等と呼ばれるようになった。
軍の指揮をする立場――将校(軍の指揮官。組織によるが、一般的には数十名以上を率いる者を言う。何万もの兵を束ねる『将軍』の下に、何十何百と存在する中間管理職。)以上であれば、これらは本来『基礎の基礎』である……が、実際には極一部の者しか全貌を把握していない。
二つ目は、一方の陣営が地形、軍兵、初期布陣可能範囲等を含む状況と目標設定を行い、もう一方の陣営が布陣と采配によってどの程度まで解決出来るか……という、勝ち負けではなく発想に重点を置いたもの。
設定側、解決側、いずれも数回ずつ行い、興味深かったもの、そうでなかったものを、その理由を含めて議論するのが一般的であり、議論の部分こそが最も重要とされる。将校以上であれば、こちらを基礎鍛錬と見做す。
仮に『一つ目』を極めている場合、『二つ目』においても大半は見知ったものとなる公算が大きい。故に極めて優秀な者同士で『二つ目』を行うとなると、相当に複雑なものとなり、予め対局の日限を決め、幾日も掛けて準備する、ということもしばしばある。
三つ目は、一つ目と二つ目を混合し、より実戦的にしたもの。
こちらでは、二陣営以上が、各陣営とは無関係な裁定者『天』の決めた地形、軍兵、初期布陣可能範囲等に基づき布陣と采配を行う。
ただし、各陣営は同時に動く上、互いの地形、軍兵、布陣、采配等は隠す形となっており、斥候(情報収集を主な役割とする兵や将校等。偵察兵。)を用いて十分に調べるか直接衝突しない限り知らされない。
もし、同時に同じ位置へ移動する等して突発的な戦闘になった場合、双方が一手動けなくなり、その衝突に関連する全兵力のうち一分(十分の一。)を即座に失う、という不利を背負う。また衝突によって知り得る情報は相応に限られたものである。
各陣営の采配情報は『天』が集め、判定する。陣営参加者は不可知の情報が殆どとなるため、不完全情報遊戯と位置付けられる。
極めて難度の高い、しかし得るものも大きい鍛錬である。
なお、これらへ更に様々な条件を付加し、極めて複雑な――天下国家の単位で盤外の政治を絡める――手法も存在する……が、一般的な子供の遊戯としては一つ目か二つ目がせいぜいである。
「形式は、どうする?」
既に四阿。旗碁の器具……旗碁卓を挟んで、向かい合う席に着いている。
「四半刻じゃったのう」
「うん」
「簡易の互先を早打ちでどうじゃ。二局は打てよう」
規模を小さくした『一つ目』を、持ち時間を無くし、常に数瞬で打つ方式で、の意である。
「そうしようか」
「地形はどうするかや?」
「山河は?」
「良いじゃろう」
地形設定には典型がいくつもあり、山河は最も基本的にして難解なものの一つである。
「先手は……」
「琥珀からどうぞ」
「良いのかや?」
挑戦的に笑う琥珀。
「本気でやってね」
挑発し返す玉英。
「無論じゃ。では、行くのじゃ!」
惨敗だった。
琥珀の。
「何故じゃ……妾は玄蔡にも勝てるのじゃぞ……」
旗碁卓に突っ伏している。
「玄蔡って?」
「ん? ああ、邑の長老じゃ。妾を『琥珀嬢』と呼ぶ唯一の者じゃな」
突っ伏したまま、上目遣いで言う。
他の者からは『琥珀様』なのだろう。
「にしても何故じゃ。玉英、強過ぎやせんかや?」
琥珀がやや表情の険を強めた。が、声は変わっていない。
「旗碁は、ちょっと得意なんだ」
眉尻を下げつつ微笑む玉英。
「ちょっとどころじゃないのじゃ!」
反対に眉尻を上げ、軽くだが、机を三度叩く琥珀。
「三連敗じゃぞ! 三連敗! 母上以外では初めてじゃ!」
やはり軽くだが、叫んだ。西王母は、やはり強いらしい。
「本当のところ、どうなんじゃ。玉英より強い者が、京洛にはわんさか居るのかや?」
耳を伏せながら、訊く。
「多分、居るんじゃないかな。私が対局したことあるのは、父上、母上、兄上、……叔父上、玉明……あ、従弟ね、あとは子祐と魯丞相(君主の補助をする最上位の宰相。首相。)、彭太尉(軍事を司る宰相。軍務大臣。)くらいだけど」
玉英は、指折り数えながら、どうにか笑顔を保った。
「その者達は、玉英より強かったのかや?」
少し顔を上げた琥珀の耳が、細かく動いている。
「うん。皆、わざと勝たせてくれてたみたいで。玉明は、私達より小さいから、わからないけど」
琥珀が急に立ち上がり、今度は本当に叫んだ。
「それじゃ! 絶対それじゃ! 玉英が一番強かったんじゃ!」
「あはは、そんなこと無いって」
「いーや、絶対じゃ! でなければ妾がこんなに負けるわけがないのじゃ!」
「そこまで言うなら、あとで子祐にも訊こう?」
「そうするのじゃ!」
琥珀が鼻息を粗くしていたところへ子祐が呼びに来たので、皆で朝食に向かった。
「手加減されていたとすれば、おそらく魯丞相だけでしょう」
昨夜分けて貰ってあった米と鹿肉、数種類の野草の汁を綺麗に食べ終えてから、尋ねた結果だ。
「殿下が七つの頃には、陛下は『もう敵わぬか』と笑っておいででした」
子祐は湯を一口飲み、続ける。
「彭太尉もちょうど一年程前の対局で『参った』と」
柔らかく微笑む子祐。
「ほれみよ! やはり玉英が強すぎるのじゃ!」
玉英を鋭く指差す琥珀。
「そんなことは……ないはずだが」
控えめに否定した玉英だが、
「ないわけがないのじゃ!」
琥珀の剣幕に押し切られ、また眉尻を下げて微笑んだ。
子供達の笑い声。
陽光の下、郭玄より更に年少と思しき幼子達がはしゃぎ回っている。
玉英と琥珀、子祐は、西王母に呼ばれて――正確にはその使いの郭玄にだが――邑の練武場を訪れていた。
邑外れに近い郭洋の家から、邑中央のやや曲がった道を通り、『聖域』の大木へ至るまでの丁度中間。
道の北側にあり、南側に大きく口を開けているのが、この邑の練武場だった。
邑の規模からすると敷地は随分広く、屋内、屋外それぞれで何十という組手を行えそうだった。
「よう来たのう」
声のした方へ振り向いてみれば、見た目だけならば先の幼子達と変わらない西王母が、両手にそれぞれおよそ一丈(約一・八メートル)の鉄棒を持ち、頭上で振り回していた。双方でぶつけそうなものだが、際どく互い違いになっているらしい。
「おはようございます、西王母様」
「おはようございます、母上」
「お屋敷、ありがとうございます。おかげさまで健やかに眠れました」
子祐は、黙って礼をしている。
「気にするでない。それよりも」
そっけなく言った西王母は、勢い良く回していた鉄棒を瞬時に止め、右手のもので子祐を指して言った。
「其方にも手ずから指南してやる故、そこまで卑屈にならずとも良いぞ」
興味の無さそうな声。
「ハッ、幸甚に存じます」
改めて、深々と礼をする子祐。
「うむ、良し」
頷き、鉄棒を下ろして、玉英に向き直る。
「昨夜の話じゃがな」
「はい」
「其方は秋と、練武を欲した」
「はい」
「どの程度、欲しい?」
不思議と甘い声音。
「この際、欲を申し……言いますが」
途中、西王母の目が光ったのを見て、言い直した。
唾を飲み込んでから、続ける。
「五年で、今の子祐と立ち合って、勝る程になれるでしょうか」
肩に力が入った。
否、全身に、入っている。
子祐は鬼族の頂点に位置する実力者。それを、いくら玉英が足手纏いだったとはいえ、あの刺客は上回っていた。
少なくともその域に近付かなくては、次で終わり、かもしれないのだ。
「ふむ?」
西王母は抑揚の薄い声で応じ、玉英と子祐を見比べる。
「ふむ……うむ……ん~」
しばし、見比べた末、
「うむ! ま、二十年じゃな」
あっけらかんと言う。
「二十年……」
齢十一の少女からすれば、五年でも相当に遠い。二十年ともなれば、想像すら出来ない。
王族として故事を学んできた玉英にとっても、実感し難い年数だった。
「なんじゃ、不服か? 二十年後でも其方は三十過ぎというところじゃろう。そこからでも十分、復讐は果たせようが?」
殊更に抑揚を効かせた声。こういう時には、何かの意図がある。例えば――
「では、そのような実力者に、負けぬ、だけなら?」
勝とうとすることと、負けぬようにすることとでは、雲泥の差がある。
上回らずとも良いのだ。武の頂きに近い場所での、恐ろしく厚い、紙一重を超えて。
「ふむ。ならば、まず十年」
それでも、十年。
「ついでじゃから言うておくがのう」
玉英に鉄棒を突き付けて言う。
「其方には、其方の従者程の純然たる武の才は無い。庸才も良いところじゃ。にも拘わらず、本来有り得べからざる領域へ至らしめてやろう、と。これはそういう話じゃ。わかっておろうな?」
「……はい」
十年後ならば、今の子祐とほぼ同年。有り得べからざる、とは、大袈裟ではなかった。
だが、訊かねばならなかった。
「五年には、どうしても、なりませんか」
一層表情を硬くして尋ねる。
「何故生き急ぐ。いや、死に急ぐ、と言うべきじゃな」
西王母は、言い直しながら、鉄棒を下げる。
「既に、尋常の道程ではない……死ぬぞ」
氷柱で、頭蓋を貫かれた。
いや、そう、錯覚した。
それ程に冷たい言葉だった。
負けぬよう、声を絞り出す。
「兄上と、十年後、と約したのです」
内城脱出前のことである。既に年が明けて、残るは九年。十分な戦力を整えようと思えば、あまりにも短い。
無論、所詮は口約束。兄の方では、そもそも玉英が生き残っていると思ってはいないかもしれないが。
「京洛で相見えん、と」
「死なば会えぬぞ」
琥珀が、玉英の右袖を両手で掴む。
その琥珀の手を、左手で優しく抑えながら、
「琥珀のためにも、死ねません」
と言ってのけた。
瞬間、刻が止まって、後。
「呵呵、呵呵、胆力だけは合格じゃ。呵呵、呵呵」
思わず笑い出す西王母。
しばし笑い続け、大きく溜息を吐いてから、言い渡す。
「無謀、と言いたいところじゃが……良かろう。其方は幸い、麒麟の血が濃い。為せるやもしれぬ」
玉英と琥珀の顔が、輝いた。
「じゃが、泣き言は許さんぞ。為すとなれば、為すのみ。庸才は克己にて磨く、じゃ」
「はい!」
赤い瞳が、煌めいていた。
「おはよう、玉英嬢、琥珀嬢。よく来たね」
白い息を吐きつつ出迎える、細身だが、白虎族としては相当な長身の男性。黒髪混じりで、全体としては灰色の短髪と、黄褐色の落ち着いた瞳。智慧を刻み込んだ、元は白いのだろうが、日に焼けた肌。白い耳と尾は、ややくすんでいる。
自称『二百歳くらい』の玄蔡である。この五年、練武にせよ、生活にせよ、散々世話になった。
特に練武については、子祐を除けば、最も多く立ち合って貰った相手だ。何しろ、練武場の管理者である。
「おはようございます、玄蔡さん」
「おはよう、玄蔡」
「もう、中で待っているよ」
「はい」
初めて稽古をつけてもらってから、丁度五年。最終試練の朝だ。
十一歳から、十六歳。玉英は見るからに成長著しく、鬼族女性の平均まであと一寸(約一・八センチメートル)ばかりとなり、まだ伸び続けている。どうやら子祐には及びそうもないが、一尺(約十八センチメートル)低い程度までなら、いずれ到達するかもしれない。
対して隣の琥珀は、せいぜい三寸(約五・四センチメートル)伸びたかどうか。出逢った頃は同じ程度だった玉英と、頭一つ分の差が出来ていた。とは言え、鬼族と白虎族とでは一般に一尺以上の差があるため、背丈の差そのものは珍しいことでは無い。
「じゃあ、おいで」
しかしいずれにせよ、玄蔡に子供扱いされる点では変わらなかった。
「はい」
練武場へ入る前に一礼してから、玄蔡に付いて行く。
屋外北東の一隅に、子祐が佇んでいた。
「おはようございます、殿下、琥珀様」
「おはよう、子祐」
「おはよう」
いつもの挨拶。場所が、異なるだけだ。
最終試練。その関門として西王母に指定されたのは、子祐との立ち合いだった。
「揃っておるな」
西王母が、音も無く背後に立っていた。
「うむ、良し」
背後に気配を感じたら、急所を守りつつ、可能な限り一撃入れながら距離を取ること。
教えの一つは、身に染み付いていた。
西王母は何事も無かったかのように、そして何事でも無いかのように宣言する。
「では、始め」
即座に後方から襲い来る刃。
剣で応じつつ、また反転し、距離を取った。
幼い頃から自身を護ってくれていた刃が、言い付け通り、殺意を伴って向けられる。
この五年、数え切れぬ程の立ち合いを頼んだが、普段よりも数段鋭い。
「ッ……!」
再度の、そして繰り返される強烈な打ち込みに、どうにか反応する。
子祐の方が身体は大きい。脚も腕も長い。膂力に至っては言うまでもない。
根本的な不利に、細やかで大胆な踏み込み、手数の多さ、そして目で対処する。
かつての子祐とあの刺客との戦いはまるで見えなかったが、今は違う。
子祐の一挙手一投足――ほんの僅かな足の角度の違い、腕の力み、視線の動き等から、本命ではない攻め、急所狙いの一撃、あらゆる攻撃の意図を、少なくとも認識することが出来ている。……否、出来ているつもりにはなっている。
その上で、対処の必要な攻撃を、対処可能な範囲に収めるべく、立ち回る。
即ち、比較的軽い身体を活かし、飛ぶように、舞うように、しかし大地の気は逃さぬよう徹底的に利用して、間合いを、攻防の流れを、相手の意識を、誘導・制御する。
それが、玉英が西王母から学んだ武の極致――『理』の一端だった。
時折玉英からの攻撃も交えつつ、十合(打ち合いの単位。)、二十合、三十合……五十合を重ねたところで、西王母の声が掛かった。
「已め」
手を止め、離れる。汗が吹き出ている。
互いに肩で息をしていたが、子祐は程無く落ち着き、玉英は更にしばしの刻を要した。
当然だが、実力ではまだ劣る。身体的差異は前提としても、子祐の癖を知り尽くした上での、やっとの防戦である。攻撃すら、守るためのものだった。
「ま、剣同士ではこんなもんじゃろう。教えたことは、出来ておったしのう」
西王母が、一応は認めてくれた。だが安堵する暇は無い。
「では次。子祐、槍じゃ」
「ハッ」
子祐が玄蔡から槍を受け取り、
「始め」
構えもせぬうちに始まった。
瞬間の攻め。
子祐の槍が肩を貫き掛け、際どいところで弾く。
剣での攻撃も激しかったが、槍ではそれ以上の猛攻だった。
最初の一撃の後、微かに笑った子祐の表情を、すぐに追い切れなくなった。
どうにか食らい付こうと、手元、足元、肘や肩、膝、腰、目……可能な限りの箇所を必死で観続け、『起こり』を逃さぬようにした。
しばしば混ぜられる『起こり』の無い攻撃に、半ば以上勘で合わせつつ、少しでも『理』の境地に留まろうとする。
しかし、留まろうと意識せねばならぬ時点で、既に破れているに等しい。
辛うじて十合は数えたか。
確実に二十合へは届かぬうちに、槍の穂先を首筋へ突き付けられていた。
「已め」
子祐が槍を引き、玉英は漸く深呼吸出来た。
「子祐、流石に天賦よの。見事じゃ」
「ハッ」
西王母が、珍しくただ褒めた。
それもそのはず、と言うべきか、練武場で鍛錬を開始したあの日、子祐は槍の才を見出されていた。
京洛でも、王女の守り手という立場相応に、学び得る限りの武芸を学んでいたはずだが、如何せん最大の想定は屋内での護衛。
剣が優先、となったのも当然の帰結だった。
何事も無ければそのままだったかもしれないが、あの刺客との一戦は、子祐にも大きな爪痕を残していた。
道を模索し、導きを与えられた結果が、今日の姿である。
「対して玉英。今死んだことはわかっておるな?」
「はい」
相手が子祐で、試練に過ぎなかったからこそ、まだ生きている。
これがあの刺客……否、いずれかの敵の襲撃であれば、当然命は無かった。
「槍を持った子祐の間合いは、剣の其方を圧倒しておる。故に致し方ないところではあるのじゃが……」
基本的に、間合いは即ち強さである。相手に何もさせないまま、一方的に攻撃出来る。それが間合いを制した者の強みだ。
剣同士ならばまだいくらかは対処出来たが、槍に対してでは、手も足も出なかった。
「ま、見せるが早いかのう。子祐」
「ハッ」
西王母が鉄棒を持ち、促されて始めた子祐の猛攻をいなしていく。
信じ難い事に、間合いの外を保つのではなく、間合いの内へ入り込んで、退く子祐に追い縋り、徐々に距離を縮め……子祐の槍を突いてから、その額に鉄棒を突き付けた。
更に、一度離れ、剣へ持ち替えて同じことを繰り返した。
「今すぐこれが出来るとは思わぬが、ま、脳裏に刻んでおくが良い」
「はい。ありがとうございます」
深く、礼をする。子祐も続いた。
「うむ。……最後じゃ。揃って、来るが良い」
再び鉄棒へ持ち替えた西王母。
「はい」
「ハッ」
玉英の剣を、子祐の槍を、如何なる連携に対してもいなし切りながら、僅かに目を細め、微笑んでいた。
「いつか、本当に必要になったら、呼んでくれるよな!」
齢十二。既に琥珀よりは若干背の高くなった郭玄が、涙を流して玉英に縋り付いていた。
「ああ、約束する」
「本当に、本当だかんな!」
五年ですっかり懐き、言葉にも全く気を遣わなくなっている。
「ああ、勿論だ。私が今まで嘘を吐いたことがあったか」
諭すように微笑む玉英。
「五年前、本当はまだまともに歩けやしないのに琥珀様を追」
「待て待て、それは郭玄に吐いた嘘ではない、そうだな?」
慌てて訂正した。琥珀が隣で笑っている。
「……まあ、そうだね」
渋々ながら認める郭玄。
「いずれ、郭玄を頼る日が来る。その日に備えて、邑の皆を護りながら、鍛錬しておいてくれ。……邑のことは、頼んだぞ」
「姉ちゃん……うん、わかった。きっと天下一の鉄棒遣いになって、姉ちゃん達を護るよ!」
まだ少々前のめりではあるが、郭玄の頭を存分に撫でてから、離れた。
無論、見送りに来ているのは、郭玄だけではない。
郭洋や玄蔡は元より、鍛冶師の玄鉄、薬師の惟杏、その他二十以上を数える邑の皆が、別れを惜しんでくれていた。
玉英も子祐も、この五年、ただ鍛錬に明け暮れたわけではない。
日夜様々な仕事を手伝い、邑の一員として認められていたのだ。
そして誰より、西王母。
いつになく興味の無さそうな顔で、言う。
「子祐。まだ道に先はある。励めよ」
「ハッ」
いつもの如く、深々と礼をする子祐。
「琥珀。無闇に『力』を遣うてはならぬ。良いな」
「はい、母上」
琥珀の濡れた瞳も、黄金に輝いている。
「玉英。其方はまだまだ未熟じゃ。怠るでないぞ」
「はい。『為すとなれば、為すのみ。庸才は克己にて磨く』――忘れはしませんよ、義母上」
初めて、そう呼んだ。
「ふんっ、早う行くのじゃ」
追い出すように、閉じたままの黒扇を振る西王母。
「はい、行って来ます」
「行って来るのじゃ!」
「行って参ります」
三者揃って歩き出して数歩。立ち止まって顔を見合わせ、振り向いて叫んだ。
「「「ありがとうございました!!!!!!」」」
邑の皆から口々に応えを貰いながら、今度こそ、本当に邑を出る。
背中が見えなくなった頃、西王母の顔を、黒扇が覆っていた。