第二十二話 再来
当作平均程度の長さとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
房葉で広常、迅、雷の三名――号して猪三傑を加え、玉英一行は帰路に就いた。
素朴な送別の宴――海の魚が美味だった――の翌日、房葉を出発。浦津での補給は不要だった分、十日目の昼に八松へ到着。紫への報告、今後についての打ち合わせ、「また遊びに」来る約束を交わしてこちらでも宴……と三日過ごし、難波津へ移動。田額等と合流後、竜津のある南西ではなく西の内海を行き、邑久津、伊豫津、赤津、波津(赤津の西、華津の北東。)等を経由して華津で裴泉に迎えられたのは、難波津を発して二十六日目の昼だった。
「裴通、お前は殿下に付いて行け。……お許し頂ければ、だが」
裴泉宅の大きな建物――紫のものを見た後ではやや小さく感じるが、それでも大きいことに変わりはない――にて例の如く少数で話し合い、夜も更けてきた頃、裴泉が命じた。
「はい」
素直に応じた裴通は、裴泉の右隣に座っている。――玉英等に聞かせるためだろう、何れも周華の言葉だ。
「私達は大いに助かるが、良いのか?」
裴通は利発な少年である。通事としては勿論、蓬莱に関する知識も、齢を考えれば驚くべき程だ。
裴泉にとってはより重要だろう。何しろ裴通は、玉英は元より紫との面識もこの旅で得ており、北の周華、東の八松に挟まれたこの『クニ』を発展させようと思えば適材そのもの。手元に置いておきたいはずだ。
「そりゃあいつかは返して貰いてぇが、今は、学ばせてぇ、ってとこだ」
左の頬を上げる裴泉。
裴通が玉英等の傍らで得られるものを重視する、ということだ。器を育てたい、と言い換えても良い。裴泉が玉英等を信じているのであれば、納得出来る判断だった。――玉英等には裴通を無事に返す責が生じる。
「そうか、わかった。感謝する」
「なら、その分は色を付けてくれよ」
交易で、ということだ。
「裴通の働き次第、としておこうか」
「ありがてぇ。そういうことだ、裴通、しっかりやれよ」
「はい!」
幼い裴通は新たな責務に背筋を伸ばしているが、玉英や裴泉にとってはあくまでも名目である。
十年後、二十年後を見据えての付き合い、その一貫だった。
三日後に華津を発ち、一支、津島を経て十四日目の夜には那耶へ戻った。
那耶の長、金台等と――実質的には金台の部下と――交易について話し、各所を視察して五日。那耶を出て、西の弁津へ馬を駆った。十六日目の昼に着き、こちらでは七日を費やした後、馬津へ。
馬津は、北西へ突き出た百漁半島の東側の付け根に当たる、麗海に面し漁業の盛んな小都市である。――「ちょうど今が二回目の旬」だという異様に長い魚を迅、雷の兄弟が好んだため、四日の間に皆で三度食した。
馬津を出た後は南西へ馬で三日半、百漁である。百漁には五日半滞在し、遼南半島や青東半島、燕薊との交易がより円滑に進むよう話し合った。那耶や弁津、蓬莱からの荷はこの地を通るのだ。
百漁半島を含む広義での麗羅半島視察を終え、玉英一行は青東半島北岸、青水の東側ないし南側にある青陰へ立ち寄った。
年明けまでには一月半近くあるが、やけに冷え込んでいる。
到着したのが夕刻だったこともあり、青陰を任せている趙敞の出迎えを受けて早々に内城へ向かい、休んだ。
翌朝、執務室。先ずは趙敞の話を聴くことにした。
趙敞は表向き「万事無難なだけの老将」と見せておいて裏がある……という老獪な男だったが、その降伏を容れる際に玉英が警告して以来、見える範囲では精勤していた。
挨拶も程程に、本題へ入らせる。
「昨夜も申し上げました通り、『三つ子半島』全体と致しましては、大きな問題は起きておりません。……儂のところへ入っている報告では、に御座いますが」
だからこそ、一旦は休むことにしたのだ。
玉英が頷くと、机を挟んで玉英と琥珀の反対側、椅子へ座った――玉英が座らせた――趙敞が続ける。
「青東半島と致しましては、塩の流通、鉄製農具の普及、屯田の拡充、交易の促進……何れも順調に御座います。特に農事の成果は、まだ十全とは申せませんが、数年後には少なくとも三倍以上の収穫を見込んでおります」
屯田とは、駐屯しつつ田畑を耕す意であり、民を兵とすることで起こる作物等の生産減退、兵糧消費の増大、並びに前線への兵糧運搬の負担を緩和する方策である。
鎮戎公と呼ばれる前の……戎(犬族。)と争っていた頃の雲理が発案し、対熊族に於ても用いられた一方、青東半島から京洛へ到るまでの地域でも定着した。――南の傳水を境として竜爪族領域と接しているためだ。
玉英はこの屯田と他の施策を合わせることで、未だ上供(上納。)せざるを得ない重税をどうにか凌ごうとして来た。――不用意に上供を止めれば、『三つ子半島』情勢の露見は防ぎようもなくなるのだ。
しかしながら、趙敞も述べた通り増産には刻を要すため、未だ鎮戎公領域からの持ち出しに頼るところが大きいのは致し方無いことだった。
「想定通りか」
「ハッ。少々上回ってはおりますが、概ね」
趙敞が頭を下げる。
「良くやってくれた。引き続き頼む」
「ハッ! 有難き幸せ!」
更に深く頭を下げた趙敞を見て、玉英は頷き、
「うむ。では次、竜爪族領域……兄上については?」
光扇や相毅のところへ上がってくる上越一家によるものとは別に、青東半島でも調査は進めさせていた。
無論青陰からでは距離があるものの、例えば青東半島南端部にある邑、小墨にとっては、竜爪族の都――龍邪は傳水の対岸に当たる。民の往来はあって然るべきなのだ。一定以上に深くなり過ぎなければ、潜り込ませること自体は難しくなかった。なお、小墨は元より竜爪族監視地点であるため、狼煙、早馬の用意があり、邑としては相当な規模を誇る。追加の監視要員や屯田兵を受け容れる余地があった。
趙敞は一度上げた頭を再び下げて答えた。
「ハッ。誠に申し訳御座いませんが、王太子殿下に関しましては一向に消息を掴めておりません。しかし、関係も真偽も不明……という但し書き付きでは御座いますが、注意を払うべき、と記された報告は麩椀から上がっております」
麩椀は青山の戦いで青東連合軍の指揮を執った将である。青東半島中央にあり十三万の民を抱える半島内の第三都市、都市としての青東の長でもある。青山の戦いの後「青東半島全体を任せる」という話を断って青東の長で在り続けることを選んだ、穏やかながら確固たる信念を持つ男だ。
とは言え、各都市や邑との繋がりは代え難く、ある程度の働きはして貰っていた。青東半島の政の長は趙敞、二番手が麩椀、といった具合である。
「内容は?」
「ハッ。例の『教え』――龍天教が勢いを増しておるとのこと」
龍天教。龍族こそが天下を統べるべきだ、とする思想であり、当然ながら叛乱の要因として記録されている。
竜爪族ではなく、龍族である。竜爪族の先祖返りによって数百年に一度生まれるかどうかの『神の如き者』だ。
竜爪族はその名の通り強靭この上無い爪を手足に備えているものの、二本の足で駆ける点は鬼族と変わらず、背丈も三寸(約五・四センチメートル)ばかり劣る。
対して龍族は、四丈(約七・二メートル)にも及ぶ長大な身体で微かに宙に浮き、尾の一振りで百名近くを薙ぎ払うと云う。
存在としての格の差は明らかであり、誰の子として生まれようと、竜爪族の長として崇められ、育てられる。――不思議と、龍族が複数並び立った例は無い。
「今すぐどう、という話ではないようだな」
危急であれば、この話が先に出てくるはずである。関係も真偽も不明、という前置きもあった。
「御意に御座います。現状最も考え得るのは、王太子殿下を御旗に京洛を奪還後、畏れながら、両殿下を……」
言い淀む趙敞。
「排す、ということか」
暗殺である。
「ハッ」
顔を伏せる趙敞。
正統王家の声望を利用し、麒角から玉座を取り戻した後、その功を言い立てて竜爪族に有利な状況を作り上げ……簒奪。
――ありそうな話だ。
少なくとも、竜爪族単独で麒角へ反旗を翻すよりは、遥かに分が良い。
「仮にそうした狙いがあるとして、当代の龍鱗公――劫廣の意志だと思うか?」
齢二百十五、現在確認されている唯一の龍族である。前回の竜爪族叛乱は、劫廣が生まれる前のことだ。――嘗て王城へ届いた竜爪族からの報告が事実であれば、だが。
「前回怨恨を抱いた者達が、当初密かに育てていたとすれば、十分にあり得ることとと存じます」
件の竜爪族からの報告は、端的に言えば「赤子が誕生した」だったが、最初の数十年は存在が隠されていた、と見ることも出来た。――龍族の記録は非常に少ないため個個の違いがいくらかあったところで不審とまでは言い難く、龍族の寿命が極めて長いことも相俟って、数十年程度の差は後になれば誤魔化せてしまうのだ。
知らせを受けた周華の王――玉英の先祖からすれば詮議も視野にあったはずだが、そうはしなかった。叛乱鎮圧から数十年という段階で竜爪族を、あるいは竜爪族を恨む者達を殊更刺激すれば、今度こそ竜爪族を滅ぼすことになりかねない、と判断したらしい。
幾度もの叛乱を経ても尚竜爪族の滅亡を避けて来たのは、一つには、鬼族の祖たる麒麟と竜爪族の祖たる青龍が――もとい五神の全てが――盟友であった、と伝わっていること、もう一つには、青龍の司る何某かの均衡が崩れる危惧を否定し得ないことに由る。――幾百年も雨が降り続き、天下の全てが水に覆われる……といった|ことすら起きかねないのだ。
そうした事情を逆手に取り、またも竜爪族が――劫廣が叛心を抱いているとして、流浪の身の玉牙を殺したところで意味は無い。仮定の中の話ではあるが、やはり隠されている、と見るべきだった。
「ふむ。……最大限に警戒しつつ、調査を継続。短慮は慎め、と伝えよ」
「ハッ!」
備えるべきことは、多い。
「そなたも、適宜休め」
「ハッ! 有難き御言葉、老骨に沁み入りまして御座います!」
下った当初と比べ、力強い声。
趙敞の下げた頭に、黒いものが増している気がした。
その後、茗節や相毅も交えて麗羅半島から蓬莱に掛けての分析、今後の交易や戦についての詳細な打ち合わせを行い、一旦休憩、としたのは夕刻手前のことだった。
「裴通の様子を見に行かぬかや?」
そう誘われて、玉英は琥珀、子祐と共に内城を出た。
蓬莱からやって来た者達のうち、裴通は言葉こそ遜色無く話せるが、幼い子供。猪三傑は身体こそ鬼族に匹敵するが、言葉は殆どわからない。袁泥は何れも問題無いが、青陰を訪れるのは他の者達と同様に初めてである。
見聞を広めるという名目で、五名揃って梁水と共に津へ向かったことはわかっていた。
青陰北側から北西側――青水河口部の津は各地との交易を担うに足る巨大なもので、出入りする舟を数えているだけで日が暮れそうな程である。
事実、それに近いことをしていたのかもしれない。玉英等が津へ着いた際、裴通は色付き始めた陽光に小さな背を照らされながら、十丈(約十八メートル)近く前方、舟の荷下ろしを静かに見つめていた。――裴通と一緒に居たはずの体躯に恵まれた五名は、正しくその荷下ろしを手伝っている。梁水は玉英の御伴としてそれなりに顔が利くのだ。
「何が見える、裴通」
背後まで近付いてから声を掛けると、
「殿下! 琥珀様に、子祐殿も!」
振り向いた裴通が丁寧に一礼した。
蓬莱に居た頃と異なり、十分に着込んでいる。那耶で受け取ったものだ。
「あの舟の荷……あれは、那耶からのものですよね?」
小さな左手の指す先へ改めて目を遣れば、確かに荷の方も那耶から――百漁経由で――送られて来たものだった。
「ようわかったのう」
琥珀が顔を綻ばせて裴通の頭を撫で回す。
「あの箱には見覚えがありましたので」
基礎を固めた荷下ろし場へ積み上げられた箱は、三辺が二尺(約三十六センチメートル)、一尺(約十八センチメートル)、五寸(約九センチメートル)という横長の平たいもの。鉄が入っているのだ。鬼族と雖も、箱を大きくし過ぎれば扱い難くなる。特に舟では、荷の重さの均衡を保つ必要があった。
「そうして学べるものを学ぶと良い」
見えるもの全てが……否、見えぬものとて学びになり得るのだ。
玉英が微笑み掛けると、
「はい!」
裴通は、琥珀に撫でられ続けながら、満面の笑みで応えた。
しばらく撫で続けた後、琥珀は裴通の手を引いて荷下ろし場へ駆けて行った。
玉英の背丈より余程高く、所狭しと積み上げられているのは、鉄の入った箱ばかりではない。
他の荷の中身は何か、何処から来たものか――といったことを当てられるや否や、という遊びを琥珀が裴通に仕掛けたのだ。
交易関係の地名は教えてあるが、裴通にとっては行ったことのない場所が殆どである。本当にただの遊びだった。
琥珀は見た目こそ幼い頃とさほど変わらないが、実のところ面倒見が良く、故郷の邑では郭玄のことを何くれと可愛がっていた。邑を出た頃の郭玄と裴通を重ねている部分もあるのかもしれない。
と、琥珀達が五丈(約九メートル)程離れたところで、琥珀達の付近の荷山が複数、突如として崩れ――
「子祐っ!」
咄嗟に呼んだのは、自身よりも信頼する相手。無論、既に駆け出していた。
多くの荷に埋もれ視界から消える直前、琥珀が裴通を庇い、そこへ子祐が疾風の如く飛び込んで行ったが――
――間に合ったはずだ。
――琥珀の『力』もこの地では……。
――間に合っていてくれ。
――裴通は……。
――間に合っただろう?
――子祐。
祈りと共に錯綜する思考を抑え付け、数歩遅れて駆けていた玉英の首筋がひりついた。
「――ッ!」
鍛え上げた剣同士がぶつかり合う、深いところから痺れるような感触。
背後に気配を感じたら、急所を守りつつ、可能な限り一撃入れながら距離を取ること。
西王母の教えが無ければ、あるいはそれを守れていなければ、死んでいた。
勢いのまま向き直り、愛用の剣を握り締める。
「おやおや、これはお強い。随分と成長召されたな、若君」
命を刈り取ろうとしておきながら、飄飄とした声。
忘れもしない、子祐に護られ落ち延びた旅。鬱蒼とした森。十尺(約百八十センチメートル)を超える尋常ならざる長尺刀。
凶刃の再来だった。
「ど、ッ!」
どこから入り込んだ、等と問い掛ける暇は与えられなかった。
夕日を半ば背にして、遠い間合いから剣閃が幾筋も煌めく。
如何なる術理か、左から迫る切っ先を打ち払った瞬間には、右へ襲い来ている。
――疾い。
――否、疾い上に洗練されているのだ。
全身の連動があまりにも流麗で、攻撃から攻撃へと移る『起こり』を見出だせない。
結果的に、一つの動作で幾度も攻撃されていると錯覚する。
とは言え、幼かった頃とは違う。見える。視えている。
故にこそ、鮮明に感じ取る。
一閃一閃が濃密に纏う、死の気配を。
五つ数える程の間に十五合は凌いだ。
猛攻が凪ぐように已み、玉英は視線を逸らさぬまま荒く息を吐いて、
「どこから入り込んだ、強きヒト」
「憶えておいでか。これは光栄至極」
問いには答えず、悠悠一礼する男。息を乱してさえいない。
見た目には四十まであと三、四年というところだが、強さに翳りは無い……どころか、磨きが掛かっているようですらある。
「そなたには、私に仕えて貰ッ! うのっ! だからなっ!」
戯れのような剣閃を三度防いだ。
「ならば、死んでくれるなよ、若君」
口角を上げる男。
――よく言う。
言葉にはせず、玉英も口角を上げて見せた。
だが、こうして玉英へ数呼吸を与えたのは、確かに――
「折角待ったのだ。もっと愉しませてくれ」
死舞への誘いのようだった。
直後、再開された男の攻撃は徐徐に疾さを増し、玉英は一合毎に『理』の境地から引き剥がされていく。
――まだ上があるのか……!
長尺刀が舞う。
右へ左へ、右へ左へ上へ下へ、右へ左へ右へ下へ上へ。
左へ右へ、左へ右へ下へ上へ、中へ上へ下へ左へ中へ左へ右へ。
韻律の如き攻防が、終わりを迎えようとしていた。あと数合で、
――死ぬ。
はっきりとわかった。『理』の境地からは既に遠い。
対して男は、こちらの実力を測り、愉しみながら、遂には飽きようとしている。
男の瞳に諦念を視た刹那、踏み込まれてはならない一歩を踏み込まれ――
「御免」
声が耳に残る中、異様に緩慢な剣閃が迫り――――――
――――
――
覚悟した死は、訪れなかった。
「無事か、玉英」
袁泥が、剣を構えてそこに居た。
男は目を見開き、一歩退いて笑った。
「クックッ、奇遇よなぁ、二刀とは」
袁泥の右手には長尺刀に匹敵する漆黒の大剣。左手には、夕日を向こうにして翳りながらも尚白い、七尺(約百二十六センチメートル)ばかりの長剣があった。
「……」
「おや、彼奴とは正反対のようにござるな」
両の眉を上げ、再び笑う男。
「……」
挑発するようなその笑みから視線を外さず、頭だけで僅かに振り返る袁泥。
問い掛けに応えていなかった、と気付く。
「っはい、無事です。ありがとうございます袁泥殿」
「気にするな」
素気無い返事だが、その赤い革を纏った背中は、命を預けるに足る雄大さに満ちている。
「クックックッ、良き武士と見た!」
男は心底愉快そうに笑い、一息に踏み込んだ。
澹澹と応じる袁泥。
眼前で数段上の攻防が繰り広げられ、玉英は己の未熟と幸運を噛み締めた。
袁泥の動きは、対面する男の流麗な動きとは似て非なるものだった。
ある状況における、おそらくは最適な動き……それが突如崩れ、崩れた先でまた別の最適な動きへと移っている。『起こり』は明白だが、何を以てそうすると決めているのか玉英には読み取れず、ただ、男の動きに対応し切っていることだけがわかった。
五十合は重ねただろうか。
「はっはっはっ、これは、お強い」
男が大きく飛び退って笑った。
「……」
袁泥は玉英の前から離れない。
気の充溢は玉英にも感じられた。
「さて、正味、決着まで続けたいのだが……」
男は数多の小さな刃を玉英へ弓なりに投げて寄越し――
「さらばだ若君、好敵手」
袁泥がそれ等を叩き落とした頃には、十丈(約十八メートル)も離れていた。
「ありがとうございます、袁泥殿。おかげさまで助かりました」
「無事ならそれで良い」
袁泥は油断無く男の消えた方向を見据えている。
「玉英! 大丈夫かや」
背後からの声。
「琥珀!」
駆け寄って来た琥珀を抱き止める。
「ああ、大丈夫だ。琥珀も――」
「妾は大丈夫じゃが――」
「良かった」
「すまぬ、玉英――」「裴通も無事か」
姿を確認し、息を吐く。玉英等に背を向け、地に座り込んでこそいるが怪我は無さそ――
「子祐?」
裴通の向こう側、地に寝かされている、鬼族女性としては極めて恵まれた身体。
「子祐!」
後頭部へ不意打ちを食らい、中身が全て吹き飛んでしまったかのようだった。
琥珀から離れ、足を縺れさせながらも裴通の右側――子祐の頭の横へ辿り着き、両膝を突いた。
「子祐……」
「デンカ、――――、――――、――――!」
子祐へと伸ばした手を、いつの間にか右へ来ていた迅に止められる。――デンカ、というのは迅が覚えた数少ない周華の言葉だった。あとは、わからない。
「殿下、お手を触れぬようお願い申し上げます。頭を打っており、動かさぬことが肝要に御座います……と」
正面で片膝を突いた梁水が――蓬莱の言葉をいくらか覚えている――迅の意を伝える。『すまひ』では稀に起こる事故だ、とも。
「わかった。……良くぞ止めてくれた。……どうすれば良い?」
震えを隠し切れぬ声で問うた。
自力では何も浮かばなかった。子祐が倒れる等と、考えたことも無かったのだ。
九つ違う。玉英が物心付いた頃には傍らに居り、常に助けてくれていた。当初は子祐とて子供だったが、玉英にとっては大きく強き者であり、後には【麒麟の双角】とまで称された。そしてあの日からは命を丸ごと預けて――今に至るのだ。
玉英の生は、子祐と共にあった。子祐の居ない状況等、あり得ぬことで――
「デンカ、ヨベ」
梁水の横――玉英から見れば向かって左側へ座り込んだ広常が言った。
「デンカ、ヨベ。シユウ、ヨベ。テ――――――」
「手なら……手を触ると良い、とのこと」
「わかった」
子祐の左手を両手で握り、
「子祐……子祐、すまぬ、無理をさせた」
一切の猶予が無い中、琥珀達を庇うために荷箱の落下を敢えて受けたのだろう。荷箱を壊したところで、中身が降り注いではむしろ危険だったかもしれず、その上、数が多過ぎた。
「子祐、目覚めよ子祐! まだ我等の旅は終わっておらぬ!」
手に一層力を籠める。
「子祐、子祐! 私が死ぬまで仕えると言ったであろう!」
玉英の濡れた瞳が、背後の夕日が映り込んだように輝き――
「貴様に死を許してはおらんぞ! 子祐!」
「ッ――」
子祐の目元が微かに動いた。
「子祐!」
「――ぁ、でん、か……」
「子祐! 大丈夫か、動くな、しばらく横になっていろ!」
「……はい、殿下」
微笑む子祐に、玉英も微笑み返す。
「幼い頃のようだな」
最初は、今のように「はい」と返事をしていた。
「軍……「答えずとも良い。いや、今は休んでおけ。命令だ」
最大限、柔らかく命じた。
瞼の動きだけで子祐が応え、長く、長く、主従は見つめ合った。




