第二十話 蓬莱
当作平均よりやや長い程度となっております。お付き合い頂ければ幸いです。
青山の戦いから十七日後。玉英軍は青陰を攻めた。
正確に言えば、謀計により奪取、制圧した。降伏した青淄軍を用いたのだ。
青東連合軍十五万に追い立てられた……という体で青陰に助けを求め、三万余りで入城。あとは、青淄でやったのと同じである。ここでは青淄軍の降将、山克が功を挙げた。――突雨に匹敵する体格の豪傑である。
青陰には十二万の兵が居たが、突然城内で戦闘が始まる、と考えているわけもない。内城で若干の戦闘は起きたものの、それだけだった。
どれ程僅かな犠牲であろうと悼まないわけではないが、少ないに越したことはない。玉英にとっては、最上の成果だった。
青陰制圧後、軍の再編等と並行して降将や文官へ玉英の身分を明かし、民への布告について諮った上で、燕薊でのものより幾分か熟れた演説と施策を各地で行って、青陰、青淄とその他青東半島内の民を味方に付けた。
元より『三つ子半島』の民は王位簒奪とその後の苛政に反感を抱いており、楽家の支持も糧食の支援もあったため、全体としては円滑に進んだ。
とは言え、半島を巡って民の声を聞き、太水沿いで行っている以上の警戒網を敷き終えて燕薊へ戻るまでには、ほぼ四月を要した。
暑い季節である。
恵水や太水、劫海の氷は既に溶け、漁も程程に行われている。――秋冬が旬の魚を獲り過ぎぬようにと制限する慣わしによる。
その制限の範囲内でも、燕薊近辺では、一尺(約十八センチメートル)にも満たない魚――未成熟ではなくそういう種――から五尺(約九十センチメートル)以上のものまで揚がり、漁師達が暮らしに困らぬ程度にはなっている。……と、玉英は葉網から聞いていた。
燕薊帰還の翌朝である。生憎の荒れ模様ということもあり、津で舟の手入れをしていた漁師達を訪ったのだ。同行者は琥珀と子祐のみという、身軽な訪問である。
「愚息共もご厄介んなってるってぇのに、あっしらまでご支援賜っちまって、どうお礼申し上げりゃあいいか――」
漁師達が平伏そうとするのは「作業を続けよ」と止めてあったため、葉網は手を動かしながら器用に頭を下げて見せる。
漁師に限らず、民への支援は続けていた。――かなりの部分鎮戎公領域の商隊及び輜重隊に頼っており、それ故の限度もあったが、この春から夏に掛けていくつかの作物が収穫期を迎えたことで、多くの民が燕薊本来の豊かさを享受し始めていた。
「むしろ私の方こそ感謝している。葉棹は重大な役目を担ってくれているぞ」
邑の建設を任せた茗節からの報告はいくつも上がっていた。それに拠れば、葉棹は三百数十名の少年達をしっかりと纏め上げ、近隣各邑との関係も良好、とのことだった。
「いえ、そんな、畏れ多いこって……」
「良い。子の成長は素直に喜べ」
玉英は微笑んだ。――九泉の下の父母を想いながら。
右腕に、琥珀が柔らかく抱き付くのを感じた。
葉網との話を終えてからも、玉英等は各所の訪問を続けた。
不在中の報告のうち、急を要するものへの対処は昨夜のうちに済ませてあったため、幾日か掛け、民の暮らしぶりを直接確認することにしたのだ。
農民、樵、梓匠輪輿(家具や建具を作る木匠即ち大工と、車台や車輪を作る者を纏めて指す言葉。)、陶匠、鍛冶師、肉屋、料理屋、その他様々な商賈、あるいは家のことに加えて機織をする女達……仕事は数多あり、各々が各々の領分で一定の成果を出し、互いに支え合って暮らしが成り立っている。
実のところ、農閑期の農民が釣りをしたり、狩猟や採集を――漁と同じく一定の決まりの下で――行ったりと、必ずしも全ての民が一つの仕事で生計を立てているわけではない。
自然、利害の対立からしばしば諍いが起きるものの、葉網のような代表者が話し合うことで概ね上手くやっていた。時折解決出来ずに長官――燕薊の場合は玉英――のところまで上がって来る場合もあり、これに対しては極力公正な裁定を下すこととなる。裁定を通じて民を導くことは政の本質の一つであり、そのためにも、実地で見聞を広めておくことは重要だった。
割ける刻は日によってまちまちながら、各所の視察をし続けて十日。
幸い大きな問題は起きておらず、数日以内に対応を決定出来ることばかりだった。……が、いくらか涼やかな風が吹いた夕刻、重大な知らせが舞い込んだ。
遼南から使者が来た、と。
燕薊の――劫海を挟んで――東にある遼南半島、その西側の付け根付近にあるのが『三つ子半島』第四の都市、遼南である。
民の数、およそ四十五万。盛んな漁業と国外との交易中継によって栄えたが、大地の肥沃さも持ち合わせている。この地方には、遼南の西で劫海へ注ぐ大河――遼河があるのだ。
遼河本流は、河口からほぼ北東千七百里(約六百八十キロメートル)、国境付近の山中に端を発する。河口へ向けて真っ直ぐ流れているわけではなく、最初はおおよそ西へ千二百五十里(約五百キロメートル)、次いで南南西へ六百七十五里(約二百七十キロメートル)――ここで北西七百里(約二百八十キロメートル)から流れ来る支流と合流する。合流後は南東へ三百二十五里(約百三十キロメートル)、南西へ同じく三百二十五里、で河口に至る。
大河の例に漏れず、周辺地域はこの遼河を境にして大きく三つに分けられる。
一つは遼北。文字通り遼河の北側を謂い、東寄りの山岳以外は、寿原と西寿を合わせた程の広大な平原である。――本来は長城の北をも含む呼称だ。
別の一つが地域としての遼南である。遼河本流に抱かれるように概ね南側ないし東側に位置し、遼北同様、西寄りの広大な平野部と、北東から南の遼南半島まで続く東部の山脈を内包する。
残る一つは遼西。西側、恵水に至るまでの地域であり、遼北並びに遼南と異なり燕薊の管轄下にある。北西部で接する恵北から山岳が迫り出して来ているが、海沿いは平坦であり、燕薊と遼南を繋ぐ道となっている。
その道を通って――結局は舟を使うことになるが――やってきた使者が、遼南の長官を名乗ったと云う。
鬼族には珍しい程に痩身の男が執務室へ入って来て、視線を合わせることもなく平伏した。
「面を上げよ」
「ハッ!」
やや長めの黒髪、日に焼けていない肌、切れ長の目から黒い瞳が覗く。
鬼族らしい部分とらしからぬ部分とが混在しているが、やはり珍しさが優る印象だ。
玉英と目が合った瞬間、また頭を下げてしまったため、
「面を上げよ」
もう一度命じた。
「ハッ! 申し訳御座いません!」
いくらか高めの声と共に、男は跳ね上げるように頭を上げ、今度こそ、微かに震える瞳が玉英を見つめた。
齢は四十にはなっていないだろう。
「玉英である。そなたの知りたかったことは知れたか?」
「ハッ、殿下、どうかこの陶岱と遼南の民に、臣従をお許し頂きたく存じます!」
と言った勢いのまま、額を床に叩き付けた。
「中央へ知らせようとは思わなかったのか?」
「幾度か試みましたが、全て失敗に終わり……」
卑屈とも取れる声音。
「諦めた、ということか」
「身の程を弁える質に御座いますれば」
敵対行為の告白だが、ここは正直になっておいた方が良い、と判断したのだろう。
「戦おう、とも?」
「御覧の通り、私は根っからの文官に御座います」
「将兵は精鋭であろう」
遼南には熊族と戦った古参兵が多いはずである。仮に遼南軍が精兵十万に農民、老兵十数万を加えて燕薊へ攻め寄せれば、玉英軍は苦戦することになるだろう。軍の大半は各地の監視に赴いているのだ。遼南軍に対応しようとすれば、結果的に隙が生じることとなる。――無論、策は用意しているが。
「皆、前の長官を篤く慕っておりまして、私如きでは、どうにも……」
前の長官は国境を長く任されていた。戦場を共に駆けた将兵が慕うのも無理からぬことだ。
「では、そなたは何を望む?」
「文官の端くれとしてお使い頂ければ幸いです」
「長官でなくても良いのか?」
「身に余ることと存じております」
陶岱は顔を伏せたまま、身体を小さくしている。
今この瞬間だけならば小心にも見えるが、数名の護衛のみで燕薊へ来訪し、玉英の前で肚の底を見せた胆力は相当なものである。
しかも、そうした行動を選んだということは、限られた情報から現状をおおよそ把握するだけの智慧も具えているものと思えた。
「面を上げよ」
三度命じた。
陶岱は恐る恐る従う。
「陶岱、改めて、遼南長官として私に仕えよ。ただし、当然ながら、民を安んずること。また、遼南の視察に同行せよ」
「………………ハッ!」
陶岱は目を見開いてしばらく呆けていたが、どうにか返事を寄越し、また頭を下げた。
「遼南のこと、そなたのこと、もっと私に教えてくれ」
玉英が柔らかく言うと、
「ハッ! 光栄に御座います!」
陶岱は額を床に擦り付けた。
遼南が自ら下ったことで、『三つ子半島』の支配は早々に確立した。
光扇を筆頭として送り出した使者達が百漁半島を含む麗羅半島を取り纏めるのに、ほんの三月程で済んだのだ。
とは言え、玉英自身もその倍以上の月日を掛けて遼南、遼北、遼西を視察していたため、光扇から報告を受けたのは翌春、燕薊へ戻った後だった。
「西の王、『塔』の勇者、そして雨呼びの姫巫女、か」
夕刻、燕薊の執務室である。太水の氷こそ溶けているが、朝夕はまだ燭台の火が心地良い。
「ハッ。殿下に御足労頂くのは大変恐縮で御座いますが……」
いつも通り椅子へ座らされた光扇が、眉を顰めて言う。
先に玉英が言及したのは、麗羅半島の南ないし東に在る長大な列島――蓬莱に関する噂だった。
曰く、蓬莱西部を統べる王が居り、周華との国家としての交易を求めている、と。
曰く、西の王の都から遠く東、天を衝かんばかりの高楼があり、その門番は『神』に類する力を使う無双の勇者である、と。――高楼を『塔』と呼ぶのは門番自身に倣ったものらしく、玉英も一先ず合わせた形だ。
また曰く、蓬莱東部を統べる八松なる王朝の姫巫女は自在に風雨を呼ぶ、と。
国家としての交易は是非とも成立させたいが――蓬莱でも良鉄が出る、と近年交流が盛んだと云う麗羅半島南東部、那耶半島の者から報告が上がっている――それ自体は、条件を詰めるだけで済む。
しかし、仔細不明の勇者は兎も角、姫巫女は――もし本当に風雨を呼ぶのであれば――『神』ないし『神の如き者』に相違無い。その存在を知ったからには、会っておかねばならなかった。
基本的に政治と関わろうとしない西王母や祝融のことを踏まえれば、周華外の『神』に謁見を求めるのは無謀とも思えるが、『神』の気に障る危惧を抱いたまま交易を推し進めるよりは、先んじて礼を尽くし、希う方がましであろう……というのが光扇や雲仁の出した結論であり、
「良い。私もそうすべきだと思う」
玉英の賛同するところでもあった。――元より縁のある祝融とて連絡相手には王族を指定している。縁無き『神』であれば尚の事、玉英自らが赴く他無い。礼を尽くすとはそういうことだ。
「警護は子祐殿等にお任せせざるを得ませんが……」
仰仰しく軍を連れて行くわけにはいかない。――それこそ『神』の怒りを買うであろうことは想像に難くなかった。
「いつものことだ。むしろ身軽で良い」
玉英は目を細め、口角を上げた。
「……今回に関しては何も申し上げられませんが、平生はその悪癖を抑えて頂きたく、臣下一同、伏してお願い申し上げます」
椅子に座っておくことが命令である以上、実際に床へ伏せることは出来ず、ただ限界を超えて頭を下げる光扇。
「そなたの忠言はありがたく思う。だが、燕薊を守ってくれている皆のことを、私は信頼している」
突雨等による太水沿いの監視、燕薊外城外から内城内に掛けての幾重もの巡邏並びに要所の衛兵、それに――
「何より、子祐が居るのだ」
全幅の信頼が、そのまま笑顔に表れていた。
「ですが如何に子祐殿とて――」
庇い切れぬ場面はありましょう、と続ける前に、
「いや、すまない。これは私の我儘だ。……蓬莱から帰った後、警護の体制は見直すこととする。それで、勘弁しては貰えぬか」
眉尻を下げる玉英。鍛錬の甲斐あってか、日日凜凜しさが増してはいるものの、こうした表情をするとまだ幼さが出る。
齢十八なのだ。あんなことが無ければ、王族としての務めは多多あれど、また如何に兵法の才あれど、軍を率いることすら無かったであろう、少女。
最も気安い琥珀と子祐だけを連れて歩きたい、という想い自体は、九つ上の光扇にも察せられた。嘗ての光扇にも、そういった欲求はあったのだ。
「必ずそうして頂きますからね」
光扇は敢えて口調を緩めた。
「ああ、勿論だ。感謝する」
笑みの戻った玉英を、光扇だけでなく、玉英の隣の琥珀も笑顔で――玉英の左脇に控えた子祐は殆ど表情を動かさぬまま――優しく見つめていた。
麗海と呼ばれる内海がある。
西から北の遼南半島、北から南の――広義での――麗羅半島、そして南西の青東半島でおおよそ囲われており、西の劫海だけでなく南の東海(周華の東の海、の意。)とも繋がっている。
燕薊から蓬莱を目指す場合、地図上だけで見れば劫海、麗海、東海と出て、そのまま百漁半島、麗羅半島沿いに東へ行けば良さそうなものだが、外海を往く危険を減らすべく、光扇等が麗羅半島との往復に用いた経路と同様、先ずは麗海沿岸部を舟で伝うこととなった。
即ち、燕薊を出て劫海を東進。遼南半島沿岸を進み、東岸へ至って北上。麗海最北部、遼南半島東側の付け根にある小都市番丹で補給し、今度は麗羅半島に沿って南下。麗羅半島の最大都市韓陽の次に立ち寄ることとなる、半島やや南寄りの城塞都市、郡津で上陸し馬で南東へ。各都市での視察を含め、燕薊から数えて六十日で、沿岸都市那耶へ辿り着いた。
「――だもんで、明日には出航出来やす……ああ、いや、出来ると存じやす? 殿下」
「そなたが言い易いようにして構わない、金台」
首を傾げた鬼族の男――金台に、玉英は微笑んで見せた。
「へぇ! ありがとうごぜぇやす!」
金台が満面の笑みを返す。作業する手は止めていないが、玉英はそれも許している。
那耶の内城に隣接した一角、民の数五万という都市の規模からすれば信じ難い程に広大且つ充実した鍛冶場を、玉英一行は訪ねていた。
蓬莱への旅に同行したのは、琥珀、子祐、文孝、梁水、伯久以下十五名の猫族、という最も古株の面々に、玉英麾下から雲儼、玲、田額及び選びぬかれた兵四名、茗節と相毅、そして上越一家の娘、大熊猫族の琳琳――偽名もとい愛称だ――と手の者十名。
玉英を含めて四十名の一団だが、琳琳以下の十一名は舟旅を共にする以外は姿を見せず、猫族や田額以下の兵達はいくらか距離を置いて警護に当たっているため、この場に居るのは九名である。
その九名の視線を意に介さず鉄と向き合う金台は、那耶の長でありながら鍛冶をしている方が性に合うらしく、一日の大半を鍛冶場で過ごしていると云う。
春の終わりの昼過ぎ。盛大に火を使っていることもあり異様に暑いが、金台は滝のように汗を流しつつ、玉英の胴よりも太そうな剛腕を振るい続けている。齢十にもならぬうちから二十五年以上も励めば、こうもなろうか。
「こちらこそ、忙しいところ、手配りに感謝する。また後程会おう」
「へぇ、殿下。と、ここを出て右へ行きゃあ井戸がありやすんで、どうぞお使いくだせぇ」
豪気なようでいて、気配りも出来る。こうしたところが、那耶の長として慕われる要因だろう。
「ああ、ありがたく使わせて貰う。そなたも自愛せよ」
「へぇ! ありがとうごぜぇやす!」
玉英は頷き、踵を返した。
金台の言った通り、三艘のやや大型の舟の準備は既に済んでおり、波の静まった翌朝、那耶を出た。
対岸と称しても良い位置の島、津島北岸へ渉るだけならば海の水の流れ――海流に抗いながらでも二日というところだが、西岸南方までとなると八日掛かった。次の島である一支までは海流に上手く乗れたとのことで一日。そして津島や一支とはまるで異なる規模の巨大な島――らしい――にある、華津という邑へ辿り着くのにやはり一日を要した。
十日間の舟旅の終わり、極力同時に着岸するよう調整した昼過ぎ、漸く華津へ上陸したところで、
「どいつが頭だ?」
低く落ち着いた、しかし良く通る声と共に、百を超える集団に囲まれた。距離は、一番遠い者で十丈(約十八メートル)というところ。砂浜もあるが、三つ数える間には躍り込める。
玉英は前に出ようとする子祐を止め、歩み出て名乗った。
「周華の王女、玉英である。そなたが『西の王』か?」
最初に声を掛けてきた、飛び抜けて大柄な男へ問う。――子祐よりも四寸半(約八・一センチメートル)は大きいだろうか。身体も格段に厚く、陽に焼けている。周囲の者達と同様、犬族よりもやや丸みを帯びた耳、丸丸とした短めの尾が目立った。髪を含め、何れも黒味掛かった褐色。なお、男以外の者の背丈は、子祐と一尺(約十八センチメートル)差まで成長した玉英より更に六寸(約十・八センチメートル)前後は低く、男を含めた多くの者が髭を蓄えている。
「狸族じゃな」
背後で琥珀が囁いた。――玉英からは見えないが、茗節と相毅も微かに頷いている。
男は円な黒い目で玉英を見つめると、はっ、と笑って、
「西の王と呼ばれることもあるがな、大周華の王女殿下にお呼び頂くにはまだ足らねぇ。だから殿下のお身柄を預かって、とも思ったんだが――」
子祐を筆頭にした面々は既に気を練り切っていた。――詰まる所、玉英と琥珀を護りつつ、男と周囲の者達を鏖にする構えだった。
琳琳とその手の者達はこうした闘争にはさほど向かないが、犠牲になることを厭いもしない。――十一度代わりに死ぬことが役割である。
「――ちと分が悪ぃな。やめだやめ、お前ら、帰っていいぞ」
男が「散れ」と言うように手振りも交え、何か続けて言っているが、意味はわからなかった。蓬莱の言葉なのだろう。――先程は玉英等に聞かせるために、敢えて周華の言葉を遣ったのだ。
「これで、俺だけだ。……おっかねぇ気配は引っ込めてくれよ、美貌が台無しだぜ、姐ちゃん」
どうやら子祐に言っているようだ。が、当然子祐には一切響かない。
「良い、子祐。あの男は力量差を見誤る者ではないらしい」
「ハッ」
玉英は改めて一行を率い、男のところまで進み、
「周華の王女、玉英である」
一悶着等無かったかのように、名乗った。
「はっは、こいつぁ確かに王女殿下らしい。……裴泉ってもんだ、殿下」
「裴泉、良い関係を築きたいものだ、が、先に確認せねばならぬことがある」
「なんだ?」
「蓬莱に、『神』は居るのか?」
最も重要な点へ、真っ向から切り込んだ。
その話をするなら、と裴泉が移動を提案したため承諾し、琳琳と手の者達は何処かへ去り、田額以下の兵達は舟の番に残った。
道中立ち並ぶ建物は、地に直接屋根を載せたようなものから床を高い位置――地に立てた柱の上――に作ったものまで様々あったが、各々の大きさや似た建物同士の配置には一つの意思による統制が感じられ、裴泉の統治の強力さが窺い知れた。
十六本の柱によって支えられた高床の巨大な建物――高さ九丈(約十六・二メートル)、床の位置でも二丈五尺(約四・五メートル)はある――を眺めていたところ、
「珍しいか?」
前を行く裴泉が振り向いて言った。
「ああ、華南の一部には似たようなものがあると聞いているが、見るのは初めてだ。それに――」
華南は読んで字のごとく、周華南部を大雑把に表す言葉だが、おおよそ双龍河流域、と考えても良い。鬼族と竜爪族、白虎族がそれぞれ一部を、鳥翼族が残る大部分を支配しており、鳥翼族が極めて多くの氏族を持つことと南方の気候とが相俟って、華南の民の暮らしは華北とは大きく異なり、しかも多彩なものとなっている……と嘗て教わった。
「――稲作が非常に盛んなのだな」
この点も、華南との共通点だった。華北では粟や黍、稗、麦等の栽培が主であるのに対し、華南では稲作が主である。
裴泉の屋敷は高台にあるらしく、坂を登っていく途中、周囲を見渡すと、植えられたばかりであろう苗が水田に青々と輝いていた。
「鉄のおかげよ」
裴泉が左の頬を上げる。
「那耶や弁津の連中には、恩に着てる」
弁津は麗羅半島南部、那耶から見れば西にある小都市であり、那耶と同様、良鉄の産地だ。
「俺達もちまちま作っちゃあいるが、なかなか大きなものは出来ねぇからな」
蓬莱の地には、周華では一般的となっている銅(青銅。)や鉄を溶かし型に流し入れて固める技術――鋳造が普及していないらしい。が、完全に鉄を溶かせずとも、土器を焼き上げるのと同程度の熱で無理矢理に作り上げる技術はあると云う。
「風の通る場所でな、薪の上に砂鉄を集め、その上にまた薪を載せ、何日も燃やし続ける。すると崩れたような鉄の塊が出来る。勿論まだ完成じゃあねぇ。質もまちまちでな。良さそうなもんを熱しては叩き、熱しては叩き、と繰り返しゃあ、小さな刃物くれぇなら作れるってぇ寸法よ」
白虎族の邑で玄鉄が行っていた方法――鍛造と似ているものの、玄鉄は専用の炉を使っていた。
「で、大周華じゃどうやってんだ?」
「詳しくは知らぬが、もっと大きな設備でやっておったな」
「大きな、ね……」
「すまぬな、私に経験があれば良かったのだが」
「いいや、殿下がやるこっちゃあねぇな、確かに」
裴泉は声を出して笑い、玉英も微笑んだ。
嘘を、吐いた。だが、鉄は、国を支える力そのもの――その一つ――である。それも、玉英が持つのは西王母の邑で学んだ技術だ。軽々に他国の者へ教えるべきものでは無かった。
対して、裴泉が簡単に技術を開示したのは、周華の者からすれば不要と知ってのことだろう。もう一段や二段上の技術を秘匿していても驚きはしない。――その程度には油断ならぬ男として、玉英の【眼】には映っていた。
「――と、ここが俺の家だ」
裴泉の屋敷は、邑の中の邑、といった様相だった。
高台を取り巻いた深さ二丈(約三・六メートル)程の空堀とその内外に設置された木の柵。各方面を見張れるだけの物見櫓。武器や糧食を蓄えるためであろう高床が複数並び、奥まった部分には先の巨大な高床に匹敵するものが一棟。邑の外縁部を外城とした場合、内城に当たる、と言えるだけの施設が揃っていた。
「この高台は、俺がこの辺りへ来て最初に陣取った場所でな」
裴泉がどこか遠くを見るようにして言う。齢三十過ぎ、とすれば十数年前のことだろうか。
「万が一の備えとして残してる」
また、左の頬を上げながら振り向いた。
「『西の王』は気苦労が絶えぬな」
建築物はなんであれそうだが、特に堀は、しばしば手入れしなければ保てないのだ。原因が何であれ、労力を掛ける必要がある、ということだった。
「大周華の王女殿下には到底及ばねぇがな」
笑い合い、大きな建物へ向かった。
倉庫の類と思しき建物の陰に、少年が見えた。
裴泉は最奥を空け、入口から見て左側の奥へ横向きに座り、玉英は裴泉の正面へ座った。互いに胡坐である。
十名は並んで座れるだろう広さだが、琥珀が玉英の隣へ座り、子祐が背後へ控えた以外は、外で待っている。
一つ深呼吸をして、裴泉が切り出した。
「早速、『神』についてだが、殿下が謂う『神』ってなぁ、単なる英雄豪傑のことじゃあねぇってことでいいんだよな?」
「ああ、無論だ」
間髪入れずに頷く。
「そうか……ってこたぁ、俺は違ぇ、ってわけだ」
「何?」
「蓬莱では、何かを成し遂げた者が『カミ』を自称することがある」
「そなたはこの辺り一帯を治め、自称した、ということか」
「征服して、だな。『カミ』であった方が征服地の民も従い易い」
左頬を上げて見せる裴泉。癖なのだろう。――この男の場合、何かの合図を隠すためにそう思わせたいだけ、ということも考えられるが。
「随分と肚を割って話すのだな」
「大周華の王女殿下相手に気取ってどうする。殿下の一声で、俺の『クニ』なんぞ滅ぼせるんだろう?」
「必要ならば、そうだ」
もしこの邑――玉英から見れば――が根拠地に過ぎず、他に同規模の邑がいくつかあったとしても、せいぜい小さな城塞都市程度に過ぎない。それも民の数だけの話で、銅の武器すら行き渡らせられないらしい現状、相手になるわけもない。
「はっ、ありがとよ」
必要ならば、と言ったことに対してだろう。やろうと思えば、ではない。玉英は、必要でなければやらない、と言ったのだ。
「だから俺としちゃあ、なるべくご機嫌を取って、少しでも気に入って頂くのが最善。……なら、こんなことで嘘を吐く意味も無い」
「それも、その通りだ」
「ご納得頂けて幸い、ってな。で、俺以外の奴についてだが……」
「うむ」
「ここから東へ行って、南へ行って、また東へ行って、少しばかり北……って辺りの島に『塔』ってもんがある」
「噂だけは聞いている」
「そうか、なら話が早い。そこの門番は、火に焼かれず、矢に当たらず、姿が掻き消えてはまた現れる……と、『カミ』みてぇな『力』があるってぇことだが、そいつは多分『カミ』じゃあねぇ」
「ほう、何故そう言える?」
裴泉が両の頬を上げた。
「殿下の謂う『神』ならどうか知らねぇが、本当に『カミ』なら、俺も俺の民も、無事で済んじゃいねぇ」
「戦ったのか!?」
両眉を上げて問うた玉英へ、裴泉は眉間に皺を寄せて答える。
「戦ったと言えるかどうか。……多少強引にでも『クニ』へ招こうと五十名送り込んだが、返り討ち、いや、全員がほぼ無傷で帰された以上、往なされた、と謂うべきか。何しろ、あっちは本当に無傷だったってんだからな」
「それは……」
子祐ならば、玉英が命じればやってのけるだろう。もし同等のことが出来るとすれば、『力』も含めてにせよ、勇者と呼ばれるに相応しい腕である。
「欲しいだろ?」
裴泉が、幾度目だろうか、左頬を上げた。
「そなたにとっては、勇者が居なければその地に手を伸ばせる、か?」
玉英は色を付けずに言った。
「おっと、戦をしよう、ってんじゃあねぇぞ。五十も送ったのは、強さに敬意を払ったまでだ。大体、『クニ』としては、あの一帯も東の姫巫女様の影響下だしな――」
裴泉は続けて本題に入った。――当たり前に考えれば誤魔化しているようにしか見えないが、手を出す気がない、というのは本心と思えた。
「――勇者と違って、姫巫女様は、ありゃあ、本当の『カミ』……少なくとも『カミ』に近ぇ存在なのは確かだ。逆らえば、舟が沈められる」
玉英に――周華に対してさえ抱いていない畏れのようなものが、裴泉の剛毅な顔へ、確信と共に浮かんでいた。




