第十九話 青山の戦い
当作平均のおよそ倍の長さとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
兵は、民である。
賊徒ですらない。従う相手が違っただけの者達なのだ。
戦の間は考えないようにしているが、玉英にとっては重大な事実である。
その点、恵陽軍と燕薊軍、双方の犠牲を──戦の規模からすれば──相当に少なく出来たのは、僥倖だった。
無論、皆が見事に役目を果たしたからこそではあるが、それは前提に過ぎない。
相手のあることなのだ。
──今回の結果は、天運と考えるべきだ。
茗節軍内応の成果は、あまりにも大きかった。
──いつでも同じようにやれる、等と思い上がれば、孰れ大切なものを失うことになるだろう。
刻は未明。暗く凍える燕薊、その内城で最も手厚く保護された寝室、寝台の上。
玉英は、丸くなった琥珀の安らかな寝顔を同じ毛布の中で眺めながら、今ここにある幸せがあの日のように焼かれることを懼れていた。
銅(青銅。)製の炉(ここでは火鉢の類。)で盛大に火を焚いているせい、では勿論ない。
玉英等を取り巻く状況が大きく変わったためだ。
寿原で趙敞が降ってから十一日。
恵北方面へ出ていた旧燕薊軍、波舵軍三万も降伏……その報告を、昨夜聞いたばかりである。
燕薊を支配することになった……それは良い。
ただ、これまで基本的には秘匿してきた玉英の立場を公にせざるを得なかったことが、揺らめく炎の先端部のように、不安の種になっていた。
遡ること一月と七日。
夕刻前、燕薊へ入城した玉英の姿に、周囲一定範囲内の痩せた民が目を見開き、挙って平伏したのが事の発端だった。
「立つが良い。我が軍は略奪等せぬぞ!」
と素知らぬ顔で呼び掛けつつも、王族と知っての礼であることは、伏せたまま微動だにしない民の様子からわかった。
仮にも王家直轄地『三つ子半島』、その中心都市の住民達である。いくら髪や角を隠していようと、瞳の色を判別可能な距離であれば、誤魔化すことは出来なかったのだ。
──事此処に至っては致し方無い。
半端に噂されれば、むしろ予期せぬ広まり方をするだろう、とも考えられた。
玉英は一つ深呼吸し、陽光に照らされ輝く夕照の背から、名乗った。
「周華の正統なる王女、玉英である! 苛政は終わりだ! 租(税の一種。)を半減し、塩の値も下げる。仔細は五日の内に布告する。しばし待て!」
と、一度間を置いて声と表情を緩め、
「私のことは、外の者には広めずにおいてくれ。周華を取り戻す力を、蓄えねばならん。……私は、そなた等と、扶け合いたい」
玉英の笑顔は民から見えるはずもなかったが、声の響きだけでも真摯な願いであることは伝わったらしい。
周囲の民が、額を地に押し付けるように、ほんの僅かながら一層深く頭を下げた。
「皆に感謝する。……さあ、今度こそ立って、そなた等の顔を良く見せてくれ。我が民と、呼ばせて欲しい」
礼の上ではあり得べからざることだったが、更に繰り返し声を掛けられたことで齢十かそこらの少年が応じ、その無事を察して三々五々、応じる者が増え、遂には伏せている者が居なくなった。
子祐、雲儼以下の一行は油断無く備えていたが、玉英は全ての民の名を聞き、声を交わし終えてから無事に歩み出すこととなった。
なお、進んだ先でも同じ光景が現出し続けたため、内城へ辿り着いたのは、行き来する民が減った深更になってからだった。
そうして顔と名を残らず憶えた民のことを、玉英がまるで信用していない、というわけではない。
しかし、簒奪者麒角へ与する者が城塞都市に全く居ない、と楽観出来るはずも無かった。
故に、一度目の入城から十六日後、寿原へ進発するまでの間に、新税制等についての布告、降兵の配置、困窮家庭への援助等と並行して、特に太水の往来を禁止並びに監視する体制も整えた。
距離だけで言えば、南西か南東へ五、六百里(約二百から二百四十キロメートル)も行けば、それぞれに城塞都市があるのだ。
幸い、現在に至るまで、凍り付いた劫海沿岸部や太水を含め、禁を破る者は居なかったようだが……万が一を懼れる気持ちは、無くなりはしなかった。
「玉英……?」
雪よりも白い耳を瞬かせるように動かした琥珀が、目も開けずに、まだ眠っているような声を上げた。
「ごめん琥珀、起こしちゃった?」
「うむ……ぅ……じゃが、良い。また、寝るのじゃ」
そう言って抱き着いてくる琥珀の小さな身体を、玉英も抱き締めた。
「うん。おやすみ、琥珀」
「おやすみ、なのじゃ、玉英」
琥珀の背へ回した腕に、柔らかな尾が絡み付いて来た。
早朝の鍛錬は取り止め、日が昇ってからゆったりと──と言っても相当な火が入り用だったが──琥珀、子祐と共に朝食を摂り、執務室へ移って報告を聞く。──概ね、再入城後の習慣通りである。
この日は、執務室に先客があった。
「おはようございます、突雨殿」
「応、玉英。琥珀の嬢ちゃんに、子祐も」
「嬢ちゃんはやめよと言っておろう!」
「はっは、すまねぇな、口癖だ。他のことで勘弁してくれ」
唇を尖らせる琥珀と、頬を上げて応える突雨。もはや見慣れた光景である。
そちらのじゃれ合いは気にせず、子祐は無言のまま頭を下げた。
子祐につられて、というわけではないが、玉英も頭を下げ、
「お待たせしてすみません」
「気にすんな、退屈はしてねぇからな」
髭面の中から歯を見せて笑う突雨。
「ありがとうございます」
玉英も笑顔を返し、壁へ掛けてあった宝刀──元からここに在ったものだ──を立ったまま眺めていたらしい突雨に椅子を勧め、自らも琥珀と並んで部屋の奥の席へ座る。
突雨は部屋の左側──奥から見れば右側──にあった大きくしっかりした椅子へ音を立てて身を預け、子祐は玉英の左脇に控えた。
「さて、報告、っつっても、特に問題ねぇんだけどよ」
突雨軍は、恵水沿いの監視所制圧の後、奥の手として身を隠しつつ、旧燕薊軍の伝令や逃亡兵を確実に潰す役目を果たしていた。
旧燕薊軍本隊や他地域の鬼族軍に確かな情報を与えないことが、全ての大前提だったのだ。付かず離れず、それでいて絶対に逃さない……そんな芸当が出来るのは、突雨軍以外に無かった。
戦が決着してからは、元居た監視に加わる形で燕薊周辺から寿原、西寿へ散っており、途中からは更に雲観軍、雲超軍も加わっていた。
今回は二度目の直接報告である。
「聞いてた通り、上越一家は通したぞ」
「ええ、ありがとうございます」
玉英は目を細め、口角を上げて頷いた。
上越一家は、相毅……というより楽家に仕える旅芸座兼商隊、詰まる所、間諜である。
相毅が玉英の情報を掴んでいたのも、鎮戎公領域へ入り込んでいた彼等の功績によるもの、と相毅自身が語っていた。
主要構成員は血縁者ばかりからなる十数名で、各々の手の者を含めれば数百名に及ぶという。
その一部を、王城都市京洛、青東半島、そして青東半島のすぐ南にある竜爪族の都、龍邪へ送り込むよう、相毅に命じてあったのだ。──相毅は正式には茗節軍副官のままだが、茗節と共に謝罪に訪れて以来、玉英の謀臣としても仕える形になっていた。
「応。……にしても、上越の寄越した酒は上物だった。また寄越すように玉英からも言っといてくれ」
余程気に入ったらしい。突雨の頬はいつになく緩み、目の光も柔らかくなっていた。
「はい、必ず」
玉英は笑顔を深め、頷いた。
突雨が任務に戻ってからも来客、もとい謁見を求める者は多かった。
再入城から五日目である。政の根幹の一つたる税制等は前回ある程度整えてはあったものの、まだまだやるべきことは山積していた。
特に、無理に徴兵された者達を民としての暮らしへ戻すことは急務だったが、そもそも暮らしが成り立っていない、という者も多く出たのだ。
全体は、燕薊で降った四万、元輜重隊の捕虜二万六千、旧燕薊軍本隊へ合流した後生き残った二万三千五百……合計八万九千五百。
うち、困窮により軍へ残りたがった者が四万三千。これは一先ず希望を聞き入れ、調練を課した。──付いて来られなければ、他の仕事へ回す。
別の四万二千は元の生活へ戻れそうだったため、健やかに過ごせる程度の銭と糧食を渡し、家へ帰した。
残りの四千五百は、事情に応じて百から五百程度ずつの纏まりを作らせて代表者も選ばせ、その代表者と直直に話すこととした。──その結果が、ここ数日列の途絶えぬ謁見である。
夕刻、そうした代表者の最後の一名を、執務室へ招き入れた。──燕薊には王族の滞在を前提とした謁見の間も在るが、そちらは敢えて使っていない。
入室して早々に平伏した代表者へ、声を掛ける。
「面を上げよ、葉網」
「ハッ……殿下、あっしのことを憶えておいでで?」
葉網は、普段から見開いたようになっている目を一段と大きく見開いた。
黒髪黒目、四十過ぎの、若干皺の出てきた男だ。
「当然であろう。それとも、『実は双子の兄』とでも言うのか?」
「いいえ、滅相もございやせん、どうか、ご容赦くだせぇ!」
せっかく上げた顔をもう一度伏せ、額を地に擦り付ける。
「良い。そなたの話を聞くために来て貰ったのだ。そこへ座れ」
と、突雨も座った椅子を右手で示す。
この葉網、身体の厚みでは及ばないものの、背丈では突雨に迫る程なのだ。
「ハッ、いえ、ですがね」
「良いから座れ。命令だ」
「ハッ! では、失礼して……」
おっかなびっくり、といった様子で席に着いた。
「良し。では、そなた等の状況と要望を聞かせてくれ」
「ハッ! そいじゃあ、早速……えー、あっしらは、漁師ばっかり五百六十三名なんですがね、冬場に漁なんざ出来やしねぇんでさ──」
と葉網が語り出したのは、蓄えを得るべき時期に徴兵された漁師達の……その家族の悲哀だった。
妻や子供が何かの伝手で働けるならまだましで、何も出来ずに乞食と化した者も居た。
玉英が前回手配した援助のおかげでどうにか食事と薪を賄えるようになったものの、援助が間に合わなかった者の中には、単に死んだ者も居れば──
「賊に堕ちた馬鹿もいやして……そん中に、えらく恥ずかしいこってすが、どうやらあっしらの愚息共も居るようで……」
漁師の息子達である。徴兵すら受けない程に若くとも、舟の操作はお手の物。不思議と凍ることの無い恵水支流──滄水の上流域へ、川賊として巣食っていると云う。
食い詰めた少年達のやることだけあって、近所の者達の間では実行前から噂になっていたらしい。
「ご支援ってぇのに、こんなこたぁ入っちゃあねぇたぁ存じやすが、馬鹿息子共を成敗しちゃ頂けやせんか。どうか、この通りでさ!」
命令を守って、椅子に座ったまま精一杯頭を下げる葉網。
自分達の暮らしもそっちのけで、息子達のことを希う。……それも、助命嘆願ですらないのだ。
切ない親心が、玉英には眩しく感じられた。
「良かろう。出来る限りのことはすると約束する」
頷く玉英に、
「ありがとうごぜぇやす!」
葉網は、椅子の座面を通り越す程に頭を下げた。
翌日、証言と文献から分かる範囲で地勢と法制の調査を行い、軍も整えて、そのまた翌朝。
玉英自身が、麾下歩兵ニ千と騎兵一千、それに茗節軍歩兵五千、騎兵三千を率いて進発した。──燕薊は雲仁に任せ、選抜済みの早馬を配しつつ往く。
向かう先の滄水は、寿原中央付近から湧き出てほぼ真東へ流れ、恵水下流へ注ぐ、全長およそ四百里(約百六十キロメートル)程の川である。
「なあ、相毅。なんで俺等までこんな寒ぃ中行くはめになってんだ?」
いつものように、右を行く相毅へ震えて見せる茗節。
玉英麾下は前軍、茗節軍は後軍となっているため、喋る分には気楽だった。
「一つには、茗将軍と私を試されたいのです」
微笑む相毅。
「試すったって、俺等が裏切ったら、終わりだろ?」
茗節は左眉を上げ、右の口角を歪ませた。
「その場合は、私達が、終わりですね」
微笑みは、揺るがない。
「三千と、八千だぞ?」
「敢えて雑に申し上げますが、殿下が指揮される最精鋭の三千……これは五倍の精兵に匹敵します。こちらは凡庸な六千と、辛うじて精鋭の騎兵二千ですから、勝負になりませんよ」
相毅は眉尻を下げた。口角は上がったままだ。――二千騎は相毅が特に見込んで鍛えているものの、実戦経験の少なさは否めなかった。
茗節は両の眉を上げる。
「そんなにか?」
「はい。裏切りは考えないようにして下さい。私はまだ死にたくありません」
「別にやろうと思っちゃいねぇって」
「子祐殿に首を飛ばされてから言い訳しても遅いですからね」
「おい、やめろよ! ありゃ本気で怖ぇんだって」
今度は本当に震えている。
茗節は、毎日玉英と子祐の鍛錬に付き合わされて──襤褸(ぼろ。)のようにされていた。
「だからこそ申し上げています」
相毅も共に参加していたが、体格と種族の差もあり、茗節程には扱かれずに済んでいた。
「第一、試すというのは別の意味です」
「なんだよ?」
「殿下の指揮へ的確に従えるか、ということです」
「つったって、兵の質が全然違ぇんだろ?」
「ですから、私達の指揮が試されるのです」
「そりゃあつまり、お前の指揮ってことじゃねぇか」
「土壇場では、茗将軍の直感頼りですよ」
いざという瞬間、茗節の判断は相毅の読みをも上回る。──相毅はそう信じていた。
「んなことねぇし、大体今回はそんな場面自体ねぇだろ」
「はい、ありません」
茗節は右頬を上げながら、
「面の皮が厚いってなぁこのことだな?」
「黒貂族は黒水近辺の出ですからね」
正しく極寒の地である。当然そうでなくては、と言わんばかりの笑みだ。
「そりゃあ知って……はぁ。で、俺はどうすりゃいい?」
息と共に気が抜けて、率直に尋ねる。
「絶対に生け捕りにして下さい。舟をひっくり返してもいけません。殿下は全員助けたいと思っておいでです」
滄水上流は凍ってこそいないが、通常あり得ない程の冷水だと云う。
水中では単なる冷気とは段違いに身体の力を奪われる。如何な鬼族と雖も、特に未熟な少年達では、落ちれば命の保証は無かった。
「わあったよ。あとは?」
「死なないで下さい」
「はっ、当然だろ」
茗節は、腹から声を出して笑った。
笑う茗節を、相毅は笑顔のまま、静かに見つめていた。
燕薊から北北西へ六日。
大型輜重車に舟を載せて運んで来たにしては順調に行軍出来ており、滄水の一里(約四百メートル)程手前、夜の森で玉英は麾下を休めた。
森を抜けた先、滄水上流域の一角では作物が育たず、疎らに生えている木も他の地域とは種類が異なると云う。そうした事情により、川賊に気付かれぬよう休めるのは南側ではこの森が最後だった。本来確実に見張るべき場所でもあるが、川賊がそうしていないのは……所詮は少年達、ということか。
兵達と共に愛馬の世話と夕食とを終え、玉英と琥珀は幕舎の中、簡易の寝台に並んで座っていた。
「今更じゃが、こんなに兵が要るのかや?」
ひたすら景色を楽しんで行軍してきた琥珀が、ここへ来て首を傾げた。
実際、麾下だけで三千、やや下流へ配した茗節軍が八千。せいぜい三、四百に過ぎない少年川賊を相手にするだけならば、明らかに過剰だった。
「全員生かして捕えたいっていうのもあるけど、せっかくだから、滄水の調査も兼ねて、ね」
凍り付かない……といっても他の河川からの流入が少ない部分のみだが、調べる価値はあると踏んだ。
「ふむ……妾の──母上の邑とはまた別の話かや?」
「多分、そうだね」
西王母の邑では湯が湧き出ていた。滄水も岩から湧き出ているということだが、湯ではないらしい。
「むぅ……わからんのう」
「だからこそ、調べたら楽しそうだよね」
「確かにそうじゃな!」
耳を立てて琥珀が笑い、玉英も笑った。
翌朝。
玉英麾下の騎馬隊一千は滄水西側、小さな丘のようになっている部分を回り込み、北側へ向かった。
昨夜のうちに、川賊の根拠地は北側のようだ、と報告があったのだ。その、更に北側へ行くつもりだった。
無論、他の軍も、ただ待っていたわけではない。麾下歩兵のうち一千は西側を塞ぎ、もう一千は南側から圧力を掛けた。
いくら少年川賊でも見せつけるように包囲されれば反応する。
最初は五艘程の舟が東へ川を下って逃走を図ったが、広く囲んでいた茗節軍に呆気無く捕えられた。──幸い川に落ちた者は居なかった。
残りの二百名程は北岸のちょっとした拠点を出て北へ走り、先回りしていた玉英隊に半数以上が軽く突き倒され──全軍が調練用の棒を使った──早々に降伏した。
滄水が、夕日を反射して輝いている。
川賊の拠点、その小屋の一つで、丸太の椅子に座った玉英の前、
「オレが頭だ。殺すならオレだけにしてくれ」
身の丈十尺三寸(約百八十五・四センチメートル)近い男が、雲儼の手で地に押さえ付けられたままいくらか見上げるようにして、不敵に宣言した。
身体は大きいが、顔付きからすれば齢十三、四といったところだ。まだ、幼い。
「雲儼、放してやれ」
「ハッ!」
「面を上げよ」
玉英の声が聞こえないはずも無かったが、少年は姿勢を変えようともしなかった。
引き起こそうとする雲儼を玉英は手振りで止めて、
「そなたが葉網の子、葉棹か?」
「あん? 親父を知ってんのかよ。ご立派な軍の将校サマが、よくもまぁオレらなんぞを捕えに来たと思ったら」
葉棹は目を細めつつ両眉を上げ、右の口角を歪ませて笑った。
「親父にどんな弱みを握られたんだ? 塩の密売でもしたか?」
葉網は漁師の元締めである。そうした事に関わっていてもおかしくはなかった。
「心して答えよ、葉棹。そなたの言葉次第で、そなたの仲間全員の首が飛ぶ」
玉英は外の空気よりも冷たく言い放った。
「なっ、オレの答えがまずかったら、オレの首一つでいいだろ!?」
「心して答えよ、と言った」
何か言い掛けて、飲み込む葉棹。
「そなた等、ここでどう生計を立てていた?」
川賊はほんの三百六十程度だったが、されど三百六十。
民の多い鬼族領域においては小さな邑程度だが、冬を越すには相当な蓄えが要る。
にも拘らず、この拠点には十日分程度の食糧しか無かった。
「そりゃあ、周りの邑を略奪して──
「そうしていないことは、確認済みだ」
戦闘を終えたのは朝。
今、夕刻になって問うているのは、以前から先行させていた斥候達が帰り着くのを待っていたためだった。
「もっと遠い邑から──
「つい最近まで我が軍が行き来していた中で、か?」
一例を挙げるなら、現在地から西へ三、四日も行けば寿原での決戦地である。
「それは……それは……」
視線が宙に迷う。
「心して、答えよ」
三度、繰り返した。
「どう、生計を立てていた?」
「……塩だよ。塩と食糧を交換してもらって、あとは獣を狩って、食ってたんだ」
溜息と共に答えた。もはや視線は地に張り付いている。
「どうやって塩を得た?」
「滄水の水を煮たり、西の丘を掘ったりだよ」
「掘ると、何がある?」
「岩みてぇな、塩の塊だ。……これで満足かよ」
吐き捨てるように言う。
「まだだ。……そなた等、元々凍らぬ水のことを知っていたのか?」
「……ここいら出身の奴に聞いてな」
「塩が採れることも?」
玉英は僅かに眉を上げて尋ねる。
「水が塩っぺぇってのは聞いてた」
だから、当てにして燕薊を出た、と。──状況を考えれば、決死の旅に近かったはずだが、良く三百六十も纏め上げたものだ。
「なあ、もういいだろ、ここまで吐いたんだ。オレの首一つで手を打ってくれ」
伏せたまま、力無く首を垂れる。
塩賊は、死罪と決まっていた。
「そうはいかない。もう一つある」
「なんだよ」
微かに顔を上げた葉棹に、声を和らげて言う。
「そなた等全員の命、私に預けよ」
「オレらみてぇなもんに何させようって──
「ここの塩を、任せたい」
「はっ、密売かよ、将校サマも結局は──
「密売ではない。燕薊を統べる王族の権限において、命ずるのだ」
「今の王サマは裏切り者だろうが」
玉英は目を見開き、数瞬、言葉が出なかった。
「そなたのような子供が、そう言って、くれるのか」
「子供扱いすんじゃねぇ! ってか、どういう意味だそりゃ」
「こういう意味だ」
玉英は立ち上がり、葉棹の両肩を自ら支え起こして、思わず視線を上げた葉棹の目を見つめた。
「なっ……あっ……赤いっ、瞳っ……」
葉棹はこれ以上無い程に目を見開き、口まで開いたままになった。
玉英はゆっくりと言い聞かせる。
「正統なる周華の王女、玉英である。葉棹、私に仕えよ」
「あっ……はっ……ハハアッ!」
勢い余って鼻を地に打ち付けつつ、葉棹は平伏した。
葉棹等の実態は川賊ではなく、単に川へ屯していた塩賊、といったところだった。
他の民を襲うわけではなく、単に塩に関する法を破っていただけなのだ。
無論、法を破ること自体は問題であり、塩に関する場合は殊更重罪ではあるのだが、元はと言えば簒奪者麒角の定めた専売制こそが民を苦しめるものであり、何より玉英の立場からすれば麒角の定めた法等守る必要すら無い。
厳密に言えば、葉棹等の行いは従前からの法にも抵触していたが、
「そなた等は正式に命じられて、滄水の開発と塩の流通を担っていた。そうだな?」
「ハッ!」
塩賊等居なかったことにした。
葉棹等から塩を買っていた近隣の民も、咎めない。
ただ、燕薊の許可を得た商売──正式な事業である、という告知だけはしておいた。もう懼れながら取引する必要は無いのだ。
「良し。……燕薊へ戻りたい者が居ればいつなりと申し出よ」
「ハッ! ありがとうございます!」
必死に頭を下げる葉棹を見て、玉英の頬が緩んだ。
「値付けに関しては、他の者達を苦しめぬようにせよ。……真実賊と化せば、斬らねばならん」
「ハッ! わかりました!」
齢相応の応えだった。
「うむ。それと、周辺の調査を進めつつ、そなた等の邑を作る。差配は茗節──
玉英は視線を左へ遣った。
「──そこな男だ。万事協力せよ」
「ハッ!」
「茗節も、良いな?」
「ハッ!」
子供の前とあってか、あるいは言葉以上に重い責務を知ってか、姿勢を正した茗節の表情も硬くなっていた。
十日後の夕刻。玉英は燕薊に戻っていた。
三日間は滄水近辺の調査を自らも行い──琥珀と共に遊んでいるような瞬間もあったが──後のことは茗節や葉棹に任せて麾下と共に帰ったのだ。
いつものように夕照を労ってから自身も琥珀と共に身体を清め、着替えて執務室へ。
不在の間に溜まった報告のうち急ぎのものを聞き、読み、質疑応答の末に二刻(約四時間)ばかりが過ぎた頃、用向きの異なる来訪者があった。
黒貂族の女である。齢は子祐と同程度。背丈は玉英より四寸(約七・二センチメートル)ばかり小さい。浅黒い肌、愛嬌のある大きく丸い目。跪き頭を垂れたところで、鮮やか且つ細やかな木彫りの髪留めが長い黒髪に彩りを添えた。
「面を上げよ」
「ハッ! 殿下、長らく御無沙汰致しまして、誠に申し訳御座いません。臣、麗、恥を忍んで罷り越しまして御座います」
女は一度頭を上げ、また下げた。
「光扇、良くぞ来てくれた」
玉英は椅子から立ち上がり、光扇へ歩み寄ってその両肩に手を置いた。
「逢えて嬉しいぞ。……お父上のことは聞いた。王家が不甲斐無いせいで、そなた等にも苦労を掛けたな。すまなかった」
光扇は頭も上げず、応えた。
「滅相も御座いません! 楽家こそ、主家の危機に何一つ為せざる不忠の臣に御座います! どうか重く罰して頂きたく存じます!」
玉英は微笑み、
「では、互いに赦すことでこの話は終わりにしよう」
「ですが……」
「良いな?」
ほんの僅か、命令としての圧力を込めた。
「ハッ! 御旗の下に侍らせて頂けること、幸甚の極みと存じます!」
「先程も言ったが、私こそ嬉しい。頼らせて貰うぞ」
「ハッ!これより粉骨砕身致します!」
光扇が一層頭を下げた。
玉英は息を吸って、
「ゆっくり話がしたい。こちらへ来て座ってくれ。それと、もっと楽にしてくれ。幼き日に世話になったこと、私は忘れておらんぞ」
「ハッ! しかし、世話等と……」
「私がそう思っていると、知っていてくれれば良い。……さあ」
突雨や葉網が座った椅子ではなく、光扇に合う大きさの椅子を玉英自ら運び、勧めた。
光扇が席へ着かされたところ、玉英の隣、明らかに存在の格が異なる少女と目が合った。
黄金に輝く瞳。全身が吸い寄せられるような感覚。
──この方と同じように椅子へ座っていること等許されない。
──座っておくことは殿下の命だ。
相反する事実によって湧き上がる衝動をどうにか抑え込んでいる間に、玉英の声が遠いところで聞こえた。
「私の婚約者だ。私の半身と思って支えてくれ」
「婚約者」「私の半身」の言葉に合わせて少女の瞳の輝きが増し、次いで可憐な声が響いた。
「琥珀じゃ。光扇、で良いかや?」
「どうぞ御随意に、琥珀様」
限界まで頭を下げる。
「うむ。光扇、そなた、玉英の何じゃ?」
天から降ってくる声に、
「臣に御座います」
迷いなく答える。
「ふむ……面を上げよ」
素直に従った。
「妾を見よ」
「ハッ!」
再び目が合い、巨大な獣の口腔に入り込んでしまったかのような怖気と、陽光に抱かれているかのような懐かしいあたたかさが綯い交ぜになって訪れ──
ふっ、と琥珀の瞳から黄金の光が消えたと同時に、光扇を包み込んだ魂が迷子になるような感覚も消えた。
「光扇、よろしく頼むのじゃ」
琥珀が穏やかに微笑む。
「ハッ!」
光扇は、限界以上に頭を下げる術を知った。
琥珀と光扇のやり取りの後、夜が更けるのも構わず、玉英と光扇の話は続いた。
「春までは止め続けられるでしょうが……」
燕薊の情報の流出についてである。──楽にしてくれ、と言われたため、光扇は努めて軽く話している。
「このまま春になってしまえば、海上の行き来を制止するのは難しいでしょう」
「五百を超える漁師達が全面的に協力してくれるなら、どうだ?」
「でしたら……直接の往来は止め得るかもしれません」
光扇は微かに頷きながら言った。
「直接でない部分は?」
「殿下もご存知の通り、海上で頭を突き合わせる遼南半島、青東半島、百漁半島の間では互いに舟で行き来しますから──」
『三つ子半島』の由来である。
各半島同士を地図上で見るならば、順に北、西、南東。先端部の位置だけで言えば、北西から南東に掛けてほぼ一直線。──遼南半島と百漁半島の間に青東半島が頭を出しているような格好だ。
なお百漁半島は実のところ、遼南の東を起点として南へ伸びている極めて巨大な半島の一部に過ぎず、そちらは別に麗羅半島と呼び馴らしている。
麗羅半島南部から鷲の爪のように鋭く北西へ曲がった先が百漁半島である、とも言える。
「──『三つ子半島』全域を支配下に置ければ最上ですが、せめて青陰を支配下に置きたいところですね」
青陰は青東半島北岸に位置する『三つ子半島』第二の都市──青東半島では第一の都市である。
二百九十里(約百十六キロメートル)ばかりの海峡を挟んで北東に遼南半島を望み、大規模な津もあるため、『三つ子半島』の物産や情報が京洛へ向かう場合、一般に燕薊か青陰を通過する。
民は五十万にはやや欠けるが、燕薊のことを踏まえれば想定すべき兵力は十二万から二十四万。──青東半島は竜爪族領域と接しているため、慣例上、北辺の城塞都市と同じく常時相応の軍を備えている。
青陰を、延いては青東半島を抑えられれば、今後数年の動き易さが段違いになるが──
「策があるのか?」
青陰程の大都市を大軍で万全に守られた場合、兵糧攻め以外で陥すのは至難の業である。何しろ力攻めには最低三倍の兵を要する上、犠牲も多く出る。
何かしら、布石が欲しかった。
「私の知る限りでは、『三つ子半島』各城塞都市の長のうち、交代させられたのは燕薊、青陰、青淄、遼南の四都市のみで、他の城塞都市や邑には古くからの一族がそのまま残っております」
「そなたが声を掛ければ、協力してくれるやもしれぬ、か」
「御意に御座います」
光扇が一礼した。
「しかし、青淄も従わぬのであれば、半島での大勢はあちらであろう?」
青淄は青東半島北側の付け根、淄水の畔で古くから栄えている『三つ子半島』では第三、青東半島では第二の都市である。
青淄の南には京洛東方の平野部では最も高い青山という山があり、北の淄水とその合流先の竜河、同じく東南東の沂水並びに傳水と共に、青東半島を半ば孤立させていた。
「仰る通り、青東半島の民の七分(七割)余りは青陰、青淄で占めておりますが、それら以外の民とておよそ三十万。動かせる兵として五万は見込めます」
守兵を残した上で五万、という意味だ。
各城塞都市での内応や偽報と組み合わせれば、布石としては上等だった。
玉英は一旦目を伏せ、数瞬の後、視線を光扇へ戻した。
「乱を起こして軍を釣り、城塞都市を内から崩しつつ我が軍で速攻、といったところか。……青淄からになるな」
燕薊での当初の計画に近いが、青陰から攻めた場合、陸側の協力者──謂わば青東連合軍の犠牲が大きくなり過ぎると考えられた。
一歩間違えれば、寄せ集めの五万が、仮にも大都市の纏まった十数万以上と真っ向から戦うことになるのだ。殲滅されかねない。
「鬼族軍を装っての移動……可能だと思うか?」
「ハッ! 仕掛けるまでに何事も無ければ、おそらく」
燕薊が陥ちたことは向こうには伝わっていないとすれば、鬼族主体の軍を見て「敵だ」と判断する者も当然相手方には居ないことになる。
現在、玉英に協力ないし従っている軍は、鎮戎公領域の守備軍を除くとおよそ二十万。うち鬼族はいくらかの選別を経た上で十三万六千。それと──
「光扇、そなたの軍は如何程と見れば良い?」
腹心の将校は野に下ったと聞いたが、各々の率いる軍が一定数は居るはずだった。
「先ずは歩兵二千。騎兵三千は遼北に在って身動きが取れず、遅参致します。申し訳御座いません」
長城付近で備えていたためだと言う。
「野に下っても尚周華を支えてくれていたのだ。感謝こそすれ、責める理由等ありはしない。……今後も、そなた等の忠勇に期待する。引き続き、周華を支えてくれ」
「ハッ! 光栄至極に御座います!」
幾度目か、光扇が頭を下げる。
「私が頼んでいるのだ。そう畏まるな」
玉英は両の眉尻を下げて笑う。
「ハッ!」
光扇が頭を上げたところで、
「ところで、兄上のことは何か知らぬか」
青東半島のすぐ南、傳水を渉れば、竜爪族の都──龍邪がある。
玉英の兄、玉牙が無事に竜爪族領域まで落ち延びたなら、一度は龍邪を訪ねたに違いないのだ。
「残念ながら、何も……力及ばず申し訳御座いません」
「いや、良いのだ。竜爪族が秘しているのやもしれぬ」
鎮戎公、雲理が送った使者も、あるいは捕えられたのかもしれない。
竜爪族からすれば――仮に玉牙を迎えていたとすれば――玉牙を旗印に京洛を陥すまでは、一切の隙を見せない覚悟だろう。──玉英自身の抱える懼れを考えれば、無理もない、と思えた。
「では、編制と行軍についての意見はあるか?」
話を戻した。
「ハッ! 先ずは前提として周辺の結氷について──」
話し合いは、その後も様々な条件を突き合わせながら、二刻(約四時間)は続いた。
光扇との軍議からおよそ一月半。
劫海や太水、竜河の氷が必要な程度に溶けた頃。
玉英は軍を率い、燕薊を発した。
歩兵九万ニ千、騎兵四万。殆どが鬼族の旧燕薊軍と光扇軍に、雲儼と玲の計一千騎を紛れ込ませている。
燕薊の津から太水を渡渉後、東へ三日、南へ一日。竜河河口付近を渉り、更に南へ二日で青淄へ辿り着く。
ただし、全軍の渡渉には刻を要する上、青淄への援軍としても妥当とは言い難いため、一部のみで先行。
七日目の夕刻、青淄の正門で波舵が来着を告げた。
旧燕薊軍では董蕃に次ぐ第二の将軍だった男である。齢三十九。引き締まった十一尺一寸足らず(約百九十九センチメートル)の浅黒く焼けた身体に短い黒髪。程々に見開いた茫洋とした黒い瞳が、「恬淡且つ堅実」という相毅の評を思わせる。
「『三つ子半島』代官、董将軍の命で援軍に来た」
平板な声だが、背後の整然とした二万の軍によってむしろ信頼を増す。
「はっはぁ、流石は代官様だなぁ、もうお聞き及びたぁ」
鬼族としては一般的な体格の門番が呟く。
青東連合軍が玉英の――光扇の要請に従って動き出していれば、十一日が過ぎている。手の者の迅速な報告を聞いて即座に軍を出した結果、という頃合いを狙ったのだ。
「っといけねぇ、失礼いたしやした将軍。長官は城内なんで、お話頂けりゃあ……」
「わかった。兵を休ませたい。通るぞ」
やや強引だが、『三つ子半島』代官の派遣した将軍とただの門番とでは天地の差がある。
「へぇ、どうぞ、どうぞ」
止める権限等、ある訳もなかった。
城塞都市へ入ってしまえば事は単純である。
全軍で内城へ極力近付き――味方の将軍を止められる者は王城でもなければそう居ない――複数の門と扉を通り、最後には波舵を中心とした数百名で青淄長官等を不意討ち、制圧。
事態を把握出来ずに居た青淄三万の兵には「謀反へ与した長官を誅した」と告げ、長官と周囲の者達だけが入れ替わった状態を作り出した。
問題は、この後だ。
波舵に青淄を任せ、
「疾く駆けよ! 味方を救うのだ!」
被り物を目深に被ったまま、玉英は夕照と共に先頭へ立った。琥珀と皎月、子祐と飛影が続けば、後の者達も自然速度を増す。
青東連合軍が待つはずの地──青山へ向かう。騎兵ばかり一万。空馬を普段以上に多く連れている。
最低限の休息を挟みつつ幾度も馬を替え、夜を徹して駆けた末……翌日夕刻始め頃、青山の麓、青東連合軍と青淄軍がぶつかり合っているところへ間に合った。
若干ながら高所へ陣取った連合軍は四万に欠ける程度、下から襲い掛かる青淄軍は八万。連合軍が地の利と逆茂木、馬防柵等のおかげでどうにか持ち堪えている――いや、いたというところだ。
比較的平坦な場所に居る連合軍左翼歩兵一万弱が――青淄軍右翼騎兵八千に側面へ回られ――崩されつつあった。
予定通り、玉英軍の馬には余力がある……ならば、
――巧遅より拙速。
瞬間、夕照に脚で合図を送り、
「全軍続け!」
一段上の速度で、駆け出した。
視界に入っていた距離である。程無く、青淄軍右翼騎馬隊の後背を衝いた。
相手も一部は反応していたが、足並みが揃わないようでは殆ど無意味だった。
主に伯久以下猫族と玲軍の騎射を浴びせてから、玉英の剣にして盾たる子祐が先頭へ出て突っ込み、当たる者全てを槍で突き倒し、薙ぎ払う。続く玉英と雲儼もそれぞれ剣と大戟を振り、後続も喰い千切るようにして青淄軍の空隙を拡げ……突き抜けた頃には、馬上の相手を二千弱にまで減らしていた。
反転し、残りを完全に包囲。投降した者以外は早々に殲滅した。――殲滅する必要があった。戦略上、青陰や京洛へ注進されてはならないのだ。
故に、玉英軍の半ばには、絡め取るように包囲することを徹底していた。
戦の要諦は、一つには、如何に相手の『強き』を挫いて『弱き』へ陥れ、自身の『強き』を押し通すか……である。
どれ程精強な騎馬隊であっても、泥沼へ嵌まり込んで疾さを失えば、単なる的に過ぎない。
これを一段深く考えれば、如何に相手の意志を封殺し、自身の意志のみを生かすか……となり、もっと言えば、如何に相手の意志を誘導し、自身の意志はそうさせないか、である。
詰まる所、単に防ぐのではなく、相手の意志と力をも利用するのだ。――西王母の指南で身に付けた武の極致、『理』は、戦においても有用だった。
例えば、相手を戦場から逃さないためには「有利だ」と思わせておけば良い。欲張らせ、逗まらせ、攻めさせて、自ら動いたところを利用する。
その点、青淄軍は見事に嵌った。
まだ数の上では二万以上の優位があると冷静に見て取ったのか、右翼歩兵一万五千にはそのまま踏ん張らせ、歩騎(歩兵と騎兵。)が揃っている左翼へ、後軍の総てを向けたのだ。合わせれば歩兵二万三千、騎兵一万四千にもなろう。
【麒麟の眼】に映る光景が、何千何万と繰り返した旗碁の対局と重なり、結論だけを天啓のように指し示す。
――あれが急所だ。
と。
「残る騎馬隊を潰す! 続け!」
連合軍の後ろ、僅かに傾いた斜面を駆け抜け、右翼へ向かう。
捕虜を手早く縛り上げる間に馬の息は整っており、兵も士気旺盛、むしろ「暴れ足りない」という面持ちで、素早く従った。――強行軍気味に一夜昼過ごし、突撃したくらいでは、何程の事も無いらしい。玉英の後ろ、琥珀の周囲を固める猫族すら、一年前とは段違いの手綱捌きと余裕を見せている。
左に目を遣れば、戦場全体が終わりへ向けて動いていた。
歩兵同士の命の削り合いは激しくなり、地の利はあるものの数に劣る連合軍が徐々に苦しくなってきている。
見れば見る程あらゆる場所に介入したくなるが、そうはいかない。急所を誤れば、戦に負けるのだ。
一万は居た連合軍右翼歩兵が、半数以下に減らされていた。
その正面には青淄軍歩兵一万三千、やや左に同歩兵七千、右側面に同騎兵九千、後背にも同騎兵五千。
連合軍騎兵三千の援護により完全な包囲とはなっておらず、相手にも数千の損害を与えているが、いずれ全滅することは目に見えていた。
にも拘らず潰走(秩序を失っての敗走。一般に強烈な追撃を受けるため被害が大きくなる。)していないのだから、連合軍の士気の高さが窺える。
――私を、待ってくれている。
玉英は目の奥に熱いものを、同時に胸の奥に重く沈むものを感じ、すぐさま両者を一旦忘れるように努めた。
光扇が飛ばした檄は、表現そのものは隠語の組み合わせだったが、意味としては『我等が主』の生存と来訪を告げるものだった。
王家直轄地の民である。意図するところは当然通じ、苛政に苦しむ者達が奮起したのだ。
その民の一部――四千余りとなった歩兵が、ほんの二里(約八百メートル)先で、後背の騎馬隊に再度突入されようとしていた。
「雲儼、玲、先行するぞ!」
「ハッ!」「応!」
麾下一千騎が、これまで一塊だった九千騎を一歩毎に引き離す。三十歩を数えた辺りでもう一つ上の疾さへ移行し、青淄軍騎馬隊が想定し得ない瞬間に横から突っ込んだ。
先と同様、騎射の後子祐が半ばを切り裂き、玉英、雲儼以下が瑕を拡げてニ千騎は削った。突き抜けて集合。周囲を一瞬見廻して一部以外反転、騎射、突撃。一部が青淄軍の疎らな逃亡を許さず、玉英軍後続が追い付いたところで降伏者以外は一気に殲滅した。
捕虜を馬と武器から離した頃、正面に、青淄軍左翼の九千騎――いくらか削れて八千五百騎――が姿を見せた。
青淄軍の指揮官は、玉英軍こそが急所であることを理解した上で、勝てると踏んだのだろう。
玉英軍の左後方……連合軍中央歩兵一万一千、右翼歩兵四千弱の間を、青淄軍歩兵二万近くが突破して来ていた。削られた連合軍がそれぞれ小さく纏まって耐えようとした結果、進軍路が拡がったことも一因だろう。
一般的な前提として歩兵では騎兵に追い付けないため、挟撃ないし包囲することが主な目的と思われた。――あるいは、玉英軍をこの場に留めさえすればあとは兵力差で押し潰せる、という目算かもしれない。
玉英としては、連合軍右翼歩兵を見捨てれば脱することは容易だが、無論そうはしない。そうする必要も無い。相手が逃げないでくれるなら、あとは犠牲を減らす方法を考えるだけで良かった。
数瞬の思考。青淄軍の強気な姿勢が過る。
玉英は反転の合図を出し、背後へ迫り来る歩兵へと向かった。
攻撃する側のつもりだった者が攻撃される側になった際、余程の熟達者でなければ隙が生じる。まして、長引く戦闘の中で判断力を失いつつある兵ならば。
移動中のこと、陣形が整っていない青淄軍歩兵を断ち切り、孤立した五千程を締め上げる。
慌てて青淄軍騎馬隊が疾駆してくれば占めたもの。抵抗すら難しくなった歩兵の包囲を解き、玉英軍全軍で、小細工する余裕を無くした騎馬隊へ向かう。
先頭で大剣を掲げていた大柄な男を子祐が最小限の動きで倒し、取り巻きも流れるように突き、払って、斬り伏せていく。先頭の勢いのままに後続が続き、二度も反転した頃には、気に掛けるべきことやはり、逃さないことだけとなっていた。
が、大剣の男が青淄軍全体の指揮官にして将軍だったらしく、残る青淄軍も順次降伏させることに成功。青山での戦は、終わった。
あっさりと降伏した要因の一つとして、青淄軍が騎馬隊を完全に失っていたことが挙げられる。双方が失っているならまだしも、相手方のみに十分な騎兵が居る場合、蹂躙されることを意味するのだ。――連合軍は殆どそうした状態に陥っていたが、援軍を信じて耐えたことが勝利に繋がった。もし左翼か右翼だけでも早々に降っていれば、中央もそのまま呑み込まれ、打つ手は無くなっていただろう。
乗り手を失った馬と捕虜の武器を集め、両軍の傷を負った者達の手当てと全馬の世話をして、青山の麓で野営した。既に夜である。
四万五千三百に及ぶ降兵……青淄軍の生き残りは、混乱も反抗もせず従った。元々士気が高いわけでもない、命じられたから戦っただけの者達なのだ。
対して、連合軍の生き残りは二万一千七百。士気は高かったが、兵力差と戦略上の要請により犠牲が多くなっていた。
玉英軍の犠牲は当たり方と実力差により最小限に抑えられたが、
――すまない。
顔と名を知る玉英軍の者達、何れも知らぬ青東半島の者達……一部ながら集めた遺体を前に、玉英は立ったまま刻を掛けて見廻し、目を閉じて、祈りを捧げた。眉間に微かな皺が寄る。――傍らの琥珀が左手で玉英の背を支えており、背後には子祐が控えている。
両軍は開戦時「九万と五万余りだった」とのことなので、合計では七万三千以上が死んだことになる。玉英が青東攻略を指示しなければ、少なくともここ何日かで死ぬようなことは無かったであろう者達だ。遅れて来る他の軍の手も借りて、帰せる者は帰してやりたかった。
背に……否、全身に負うものが、一段と重くなった。
――だが、それでも、私は。
ゆっくりと開いた目の奥で、紅蓮の炎が渦巻いていた。