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第十八話 燕薊軍

当作平均の倍以上の長さとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。

なお、読み易さの追求のため、今回より一部単位(○○里、△△寸、等)の「ふりがな」をなくす試みをしております。

ご意見等ございましたらお寄せ頂ければ幸いです。

 恵陽(けいよう)付近の(しん)から恵水(けいすい)を東へ(わた)ると恵北(けいほく)に入る。

 恵北はそこから北へ扇状(おうぎじょう)に広がっており、民の()らしを支える塩池(えんち)を抱えている。

 その()(まも)るべく、恵北側の津から東、伝令ならば一日の距離に、()()()()恵陽で最も信を置かれる将軍──雲鍾(うんしょう)が、二万の兵を(ひき)いて駐屯(ちゅうとん)していた。

 (よわい)三百三十。鎮戎公(ちんじゅうこう)雲理(うんり)の次男である。

 恵北の責任者でもあり、営舎内(えいしゃない)の一室へ(いず)れも大型の(つくえ)椅子(いす)、地図、燭台(しょくだい)、それに数多(あまた)竹簡(ちくかん)を持ち込んで執務室(しつむしつ)としていた。

 炎に照らされつつ椅子へ()()かる山の(ごと)体躯(たいく)は兄雲仁(うんじん)以上に父に似るが、短く切り揃えた頭髪(とうはつ)(いず)れにも似ず、明るい緑色。

 その髪へ指を突っ込んで三度(みたび)()いてから、雲鍾は伝令が(もたら)した命令を確認した。

「引き付けられている()りで良い、と」

「ハッ!」

撃滅(げきめつ)でも殲滅(せんめつ)でもなく、むしろ引き付けておけ、と言ったのだな?」

「ハッ!」

「うむ、うむ。わかった。兄者(あにじゃ)(したが)おう。万事(ばんじ)了解(りょうかい)した、と伝えてくれ」

「ハッ!」

「良し! 外の従者に言って肉を受け取っていけ」

「ハッ! 心より感謝申し上げます!」

 頭を下げる若い犬族。この(とし)で重大な伝令を(まか)されたのだ。雲仁に期待されているのだろう。

 雲鍾が「もう行け」と手振(てぶ)りで(しめ)したため、犬族はもう一度礼をしてから素早(すばや)く去った。

 外は(くら)いが、即座(そくざ)に恵陽へ戻るに違いない。肉は、せめてもの心付(こころづ)けだった。

「しかし、この俺()きで決戦とはな……賢弟(けんてい)愚弟(ぐてい)だけでは()らぬはずだが、殿下(でんか)余程(よほど)御方(おかた)か」

 雲鍾の(つぶや)きは、燭台の影に()けた。



 雲鍾軍駐屯地からほぼ真南、恵水(けいすい)中流域へ西から(そそ)ぐ川がある。

 孟水(もうすい)である。

 孟水は太東(たいとう)北東部を半ば(かこ)うようにして流れ、恵陽を(かなめ)とした()へ広がる扇──恵南(けいなん)形作(かたちづく)っている。

 ()()南東部、およそ二百二十五里(約九十キロメートル)四方の一角(いっかく)は、高原(こうげん)から()()()先にあるため名目上(めいもくじょう)は鬼族領域だが、実質的には鎮戎公(ちんじゅうこう)領域とされる。

 この一角では東の恵水と南の孟水、双方(そうほう)に対して(しん)が整備され、必然的に対岸の一部も鎮戎公の影響下にあった。


 玉英(ぎょくえい)()の恵陽到着から二日経った深更(しんこう)

 突雨(とつう)率いる熊族騎兵五千は、その圧倒的な(はや)さを()かし、孟水に到達(とうたつ)していた。

「まだ、かどうかぁわからねぇが、敵は()ねぇな」

 夜目(よめ)()()()()()()く。軍を見落とすことは無い……つもりである。

 津の者達も、竹簡と亀符(きふ)を火で照らしつつ確認し、「いけます」と胸を張ったため早々に渡渉(としょう)。南側へ(わた)ってから半数ずつ休み、昼過ぎになって出発した。

 目標は恵水沿いの監視所(かんしじょ)である。

 ()たして、周華(しゅうか)騎兵ならば三日掛けるところを二日で()()け、そのままの(いきお)いで奇襲(きしゅう)

 一切の抵抗(ていこう)を許さず制圧した。



 突雨()が孟水へ着いた日から六日後の夜。

 同じ恵南ながら恵水へ面した津に、玉英、琥珀(こはく)子祐(しゆう)雲儼(うんげん)(れい)以下の一行(いっこう)──麾下(きか)歩兵一万、騎兵一千に加え、恵陽軍歩兵三万五千が到着(とうちゃく)した。老兵一万五千を含むが、亀甲族の()いて益益(ますます)(さか)んな特性上、十分(じゅうぶん)に頼りになる。

「ここの(ふね)は大きいのう」

 琥珀は歩を(ゆる)めた愛馬皎月(こうげつ)の背から見渡(みわた)しつつ、感嘆(かんたん)の声を上げた。

「恵水を(くだ)り、劫海(ごうかい)へ出ることを視野に入れた舟……だったな、雲儼」

 夕照(せきしょう)の首を()でつつ、玉英が話を振る。隊列先頭は、相変わらず左から玲、雲儼、玉英、琥珀の順だ。

「ハッ! 大兵力を青東(せいとう)半島へ迅速(じんそく)に送り込むことを目的としております」

 青東半島は『三つ子半島』の一つであり、遠く京洛(けいらく)から見れば東北東の海上へ突き出ている形だが、その南方は竜爪(りゅうそう)族領域。

 ()まる(ところ)叛乱(はんらん)への(そな)えである。

「ふむ。何故(なにゆえ)竜河(りゅうが)ではこれを使わぬのじゃ?」

 一つ(うなず)き、新たに()いた疑問をぶつける琥珀。

水深(すいしん)調査が不足しているため、と聞いております」

 言われてみれば、見えている部分だけでも船底(ふなぞこ)の形が(こと)なる。大きさの差と合わせて事故が起こりやすいのだろう。──その上、恵水とは比べ物にならない竜河の長大さである。想像を絶する調査が必要となるに違いない。

「竜河の調査、舟の改良、共に進めて参ります」

 雲儼が馬上(ばじょう)、頭を下げた。

 鎮戎公の後継者として期待されている立場上、()()として受け取ったのだ。──偉大なる兄達は(よわい)が父に近過ぎるため、『後継』とは(もく)されていない。

「うむ! 竜河を下るのも楽しみじゃのう!」

 琥珀は無邪気(むじゃき)に笑う。

 玉英も琥珀に柔らかい笑みを返し、

「玲も楽しみだ!」

玲は(さけ)ぶように賛同(さんどう)した。

 玉英の視界の端に、背後で考え込む梁水(りょうすい)(うつ)った。



 年の暮れ、麒麟(きりん)の月に入っている。

 恵水は一月もせずに(こお)り付き、北辺の地は雪に(おお)われる。

 戦をする季節ではなくなるのだ。──戦を知らぬ者であれば、疑いもしない。

 その点、『三つ子半島』代官(だいかん)董蕃(とうばん)は、「此処(ここ)(ねら)い目」と考える程度には戦を知っていた。

 (いな)、冬と、自らの種族を知っていた、と言うべきかもしれない。

 適切な設備と装備、十分(じゅうぶん)糧食(りょうしょく)さえ用意すれば、(はだ)さえ凍りそうな冬の北辺でも戦える。そう確信していた。

 強健(きょうけん)(きわ)まり無い鬼族軍なのだ。

 脱落する者も一部は出るだろうが、

──自身の弱さを(うら)め。

 董蕃は馬上、白髪(しらが)()じりの黒髭(くろひげ)一房(ひとふさ)、右手の指二本で(つま)み撫でつつ、口角(こうかく)右端(みぎはし)だけ(かす)かに(ゆが)めた。

──足らざれば、雪を恨むが良い。

 本来呼び付けようとしていた遼南(りょうなん)(『三つ子半島』の一つ、遼南半島の主要都市。燕薊(えんけい)から北東方向。)軍が、夏には疫病(えきびょう)、回復した頃には早過(はやす)ぎる豪雪(ごうせつ)(はば)まれたため、両軍での速攻(そっこう)断念(だんねん)せざるを()なかったのだ。

 そこで()()く頭数だけでも揃え、敵の予期せぬであろう攻撃を決めた。

 目標は()()

 推定兵力は五万、臨時徴兵(りんじちょうへい)があったとしても九万。それを、

──波舵(はだ)が二万でも引き付けられれば、恵陽攻撃(こちら)力攻(ちからぜ)め(兵力(まか)せの攻撃。)も可能となろう。

七万まで減らすことを見込んでいた。──波舵は董蕃配下で最も安定した力を発揮する将軍であり、恵北(けいほく)(うかが)う位置に三万で布陣(ふじん)している。

 対して燕薊軍本隊は九万。

 これだけでは城攻(しろぜ)めには全く不足だが、当初(とうしょ)後続(こうぞく)輜重隊(しちょうたい)として運用する兵を加え、()()()()まで(ふく)れ上がる予定だった。

 秋の収穫(しゅうかく)を待って十二万の兵を()(あつ)めた結果である。

 大半は農民、残るは老兵。()としては()(かく)()としては調練(ちょうれん)不足の数合わせに過ぎないが、()がりなりにも、城攻めに必要とされる()()()()を満たすはずだった。

──恵陽へ取り付き、二月(ふたつき)で決する。

 伝令(でんれい)が恵陽近隣から朔原(さくげん)()け、朔原軍が恵陽へ辿(たど)()くまで、長くても二月半。より慎重(しんちょう)に考えるなら二月以内が限度だ。

 伝令の出発を少しでも遅らせるため、本隊は隠密性を重視し、太東を行く。

 太東を()()調()()()()()()()()素通(すどお)りも可能と思われたのだ。

 距離だけで言えば孟水を渉り恵南、恵陽と進む方が短いが、大軍での渡渉には(とき)を要する上、そもそも孟水周辺は鎮戎公の手の者が多い。恵陽へ近付いてもいないうちに通報されれば、猶予(ゆうよ)が半月は失われるだろう。

──()ずは太東(たいとう)を駆け抜けることよ。見事恵陽を(おと)し、陛下(へいか)御恩(ごおん)(むく)いて()()げるのだ。

 董蕃は燕薊から遼南へと続く道沿(みちぞ)い、()の家の三男に生まれた。

 熊族相手に戦っていた若き日、幼少の麒角(きかく)に武才を見出され、以来二十五年(つか)えて、『三つ子半島』代官という諸侯(しょこう)()ぐ地位にまで取り立てられた。

 (おん)は大きく、忠誠(ちゅうせい)は深い。

 董蕃は鼻息(はないき)(あら)く笑い、十一尺二寸(約二百二センチメートル)の身体を伸ばし、山を見上げた。

 (みが)き上げた(どう)青銅(せいどう)。)の(かぶと)が夕日を反射して(きら)めく。

 ()()()()()山道の始まりだった。



「最大の懸念(けねん)払拭(ふっしょく)されたか」

 恵陽を出て十七日目の昼過ぎ、雲仁は誰にともなく(こぼ)した。

 眼下(がんか)では長く狭い山道に数万の敵兵が(ひし)めいており、その後ろには更に数倍の兵が続いている。──後者は斥候(せっこう)からの報告である。

 太東から鬼族領域へ(つな)がる東の道沿(みちぞ)い、東定(とうてい)と名付けられた熊族の(むら)の一部が、(とりで)として機能していた。

 (まも)るは近隣(きんりん)から集めた二万数千に、雲仁の私兵五千。……と言っても、一度に動くのは最大で五千程度。山道の隘路(あいろ)存分(ぞんぶん)()かした構造である。

 雲仁は改めて各所へ目を配った上で伝令兵を呼び、命じた。

雲観(うんかん)雲超(うんちょう)へ伝令。敵本隊は九万ないし十万。深入(ふかい)りせず、所定(しょてい)の行動を取れ。以上」

 十名が揃って復唱(ふくしょう)し、()る。 

「どうにかこちらも、殿下の天運(てんうん)(あやか)らせて頂きたいものだ」

 雲仁はゆっくりと深く、溜息(ためいき)()いた。



 高原へ至る前に(まと)まった数の軍と遭遇(そうぐう)するとは思ってもみなかった。

 高所(こうしょ)を取られており、しかも簡易(かんい)(とりで)まである。

 春に調べさせた(さい)は、もっと奥へ行かなければ小さな邑さえ無かった。

 巡邏(じゅんら)(たぐい)も見当たらない。そう報告を受けた日の会心(かいしん)が、今は逆に董蕃の心をささくれ()たせていた。

「ええい、忌忌(いまいま)しい! 誰でも良い、あの防備(ぼうび)を抜けぬのか!?」

 滞陣(たいじん)三日目の夜。軍議(ぐんぎ)用の幕舎で、董蕃は居並んだ諸将(しょしょう)へ不満を(たた)()けた。

 この三日間、あらゆる攻撃を()(かえ)されている。

 そもそもが隘路であり、大軍の利をまるで活かせていないのだ。──昼夜(ちゅうや)別無(べつな)く攻め掛かれはするが、地の利を()いた攻撃でどれだけの効果があるか、やらせておきながらも(はなは)だ疑問だった。

 何しろ少数で守れてしまうため、まず間違いなく敵も兵を入れ替えている。疲弊(ひへい)に期待するのは難しい。

「何か(さく)のある者は!?」

 董蕃の怒号(どごう)に全体が萎縮(いしゅく)する中、幕下(ばくか)(配下。)で最も若い将軍が手を上げた。

茗節(めいせつ)か。発言を許す」

寛大(かんだい)御言葉(おことば)(まこと)有難(ありがと)御座(ござ)います」

と、鬼族男性としては平均より一寸(いっすん)(約一・八センチメートル)ばかり(おと)る身で深く一礼し、茗節(めいせつ)は続ける。明るい褐色(かっしょく)の髪と目が目立った。

献策(けんさく)(いた)します。……董将軍、ここは軍を分け、南から攻めては如何(いかが)でしょう。(わたくし)に五万の兵をお()し頂ければ、必ずや奴等(やつら)後背(こうはい)()いて御覧(ごらん)()れます」

「ふむ……」

 南西には、太東へ入るもう一方の山道があった。むしろ、そちらの方が整備されている。太西を通る()()()()()()に近いためだ。

 ()()と知りながら(こちら)の道を選んだのは、隠密性(おんみつせい)を重視してのことである。……が、既に会敵(かいてき)している以上、その点は考慮(こうりょ)する必要も無くなっており、九万もの大軍を遊ばせておく理由も無い。

「良かろう。一万の兵と四十日分の兵糧(ひょうろう)を与える。(もと)の軍と合わせて二万、期待に(こた)えて見せよ」

「ハッ! 有難(ありがた)き幸せ!」

 茗節は姿勢を正し、再度深く一礼した。



 軍議の(のち)自身の幕舎へ戻った茗節を、若い将校(しょうこう)が出迎えた。

 黒髪黒目。背丈(せたけ)黒貂(くろてん)族としては相当に大きいが、茗節から見れば七寸(約十二・六センチメートル)は小さい。

「茗将軍、如何(いかが)でしたか」

 単刀直入(たんとうちょくにゅう)とはこのことだ。口調だけは落ち着いている。

 しかし、茗節は()()()()()()()()気を悪くせず、椅子へ乱暴(らんぼう)に身体を預けながら答える。

「てんで話にならん。確かに()()って言ったんだぜ()は! それを()()だとよ!!」

「一万ですか……兵糧は?」

「確か……あれだ、四十日分っつったな」

「四十日分も! 茗将軍、よくぞやって下さいました! これで茗将軍の地位は安泰(あんたい)です!」

 若い将校は熱を感じさせる笑みを見せた。

「そうか? そりゃ良かった。後は頼んだぜ、相毅(しょうき)

「お任せを」

 相毅の笑みが、自信を(たた)えたものに変わった。

 実を言えば、茗節の軍議での発言、どころかその話し方に(いた)るまで、この相毅の進言に()()()形だったのだ。

 そも、今回だけのことではない。ここ数年相毅の進言に乗り続けた()()()()将軍にまで上がれた……と茗節は思っている。

 茗節は齢二十九。将軍としては破格の若さだが、副官の相毅に至っては十九だ。そのくせ数年前には既に将校だったため、

──大夫(たいふ)、もしかしたら(けい)(上級貴族。)の()か。

と茗節は()んでいるが、本当のところは知らない。聞きたくもなかった。

 茗節自身は()の生まれ、それも遼北(りょうほく)(周華北東部、遼南に対しての遼北。熊族領域等との国境付近。)東部、山中(さんちゅう)の寒村から出てきて運良く引き上げられた身に過ぎない。『三つ子半島』では()()()()()だとかで身分の別が強くなかったおかげで出世出来たが、他の鬼族領域であれば最高でも百、普通ならせいぜい十かそこらを率いて終わる身分だったのだ。……が、それはそれとして。

「で、俺はどうすりゃいい?」

 気楽に(たず)ねる。

「先ずは命令に従って南へ。兎に角(ここ)を離れるべきです」

「今すぐか?」

「少しでも早く」

「良し、わかった。お(あつら)()きに、追加される一万は後方(こうほう)の軍ってことになってる。輜重もな。……挨拶回(あいさつまわ)り、行って来い」

 茗節は立ち上がり、命じながら相毅の背を叩いて送り出す。

「ッ……はい!」

 相毅は(なつ)っこい笑みを返してから出ていく。

 茗節は、生まれの差はあれど、また頼り切りなれど、どこか弟に対するような気分だった。



 軍議から七日後の夕刻。燕薊軍本陣は騒然(そうぜん)となった。

輜重(しちょう)が届かぬだと……!?」

 董蕃は普段は細い目を()いた。

 軍、特に大軍を長期間支えるには、通常編制に含まれる輜重隊以外に後方からの継続的な輸送──別途の輜重隊を必要とする。

 その別途の輜重隊、()わば軍の命綱(いのちづな)が、切れたかもしれない、という報告だった。

 兵站(へいたん)を任せている()せこけた老将(ろうしょう)趙敞(ちょうしょう)は、状況に似付(につ)かわしくない緩慢(かんまん)な口調で続ける。

「はい。本来であれば、本日昼に、来着(らいちゃく)予定の隊が、現れず、現在、確認させて、おりますが……」

 原因すら不明、と。

 輜重隊とは言っても、今回の場合は一隊につき一万五千の兵である。賊徒(ぞくと)如きに(おく)れを()ることは断じて無い。

 仮令(たとえ)一部がやられようとも、全体は負け得ないのだ。伝令も出せたはずである。つまり、

──敵だ。

 それは一瞬でわかった。

 わからないのは、いつ、どこから、どうやって、だ。

 仮に燕薊軍が山道へ()()った段階で発見されていたとして、敵が輜重隊を(おそ)うにはどんなに甘く見積もっても九日半(ここのかはん)しかなかった。

 それ以上後になれば燕薊軍本陣に近付き過ぎ、付近を行軍中だった茗節軍と接触……少なくとも発見されることになったはずだ。

 とすると、眼前(がんぜん)の砦から伝令が発したとしても、間に合わないのだ。

 兵が、恵陽から。

 伝令のように少数ならばまだしも、一万五千の兵を殲滅出来る程の──必然()単位の軍ともなれば、替え馬にも限度がある。

 ()()()()()()(はや)さであれば別だが……埒外(らちがい)だ。

──燕薊軍(こちら)仕掛(しか)ける前から軍を動かしていた、か。

 砦の存在だけであれば、あくまでも備えに過ぎなかった、とも考え得たが、今回の襲撃で()()()()()()ことが確定した。

 前提を、変える。

 敵軍は準備万端で、燕薊軍(こちら)(つぶ)しに掛かっている、と。

 董蕃は深呼吸の後、なけなしの空気を(しぼ)()すように、鼻で(わら)った。

──獲物(えもの)(ねら)う者こそが獲物となる。わかっていたはずだったが、な。

 遼南、遼北の猟師(りょうし)に伝わる箴言(しんげん)である。

 伝令を呼んだ。

「茗節へ伝令。至急(しきゅう)帰陣(きじん)せよ。山道の東に(とど)まり警戒(けいかい)を継続。我が軍見えざれば燕薊へ帰還すべし。以上」

 五名が素早く去った。()()()()()四日以内に追い付くはずだ。

 軍を再び合わせた上で、撤退(てったい)する。

 敵の(わな)を、()(やぶ)るのだ。

 董蕃は癇癪(かんしゃく)持ちではあるが、生涯(しょうがい)の半ばは熊族との戦に明け暮れた歴戦の将軍である。

 決断は、早かった。

 翌日には全軍で反転。二万を殿軍(でんぐん)(最後尾で敵の追い討ちを食い止める役目の軍。)として徐々(じょじょ)退()かせたが、積極的には追われなかった。

 やはり砦の兵力そのものは数万程度なのだろう。敵軍本隊は、別に居る。

 輜重隊にも伝令は出してあったため、帰還途上だった二隊も合流。全軍で十万となって五日目の深更には平野部へ。改めて陣を組み、茗節軍を待った。が──


 茗節軍()()()()()()()

「軍どころか、動く者すら見当たりませんでした」

「こちらも、同じく」

 董蕃が幕舎で聞いたのは、状況を(かんが)みて直直(じきじき)の斥候を任せた高堅(こうけん)高策(こうさく)兄弟の報告だった。

 (いず)れも五十手前、背丈では董蕃を(わず)かに上回る将軍達である。

 董蕃は一つ息を吸って、

「そうか、わかった。ご苦労。早速で悪いが、進発する。(わし)の後に続け」

「「ハッ!!」」

 茗節軍は()()()()ものと判断し、進軍を再開した。

 背後に砦から出てきた騎馬隊の気配はあったが、追ったところで罠に掛かると(だん)じ、無視した。



 太東の東、寿原(じゅげん)

 七百五十里(約三百キロメートル)四方(しほう)に近い、極めて肥沃(ひよく)な平原である。

 北に孟水、北東に恵水、南に太水と水には事欠(ことか)かず、燕薊の存在する南東部では劫海(ごうかい)(めぐ)みまでも得られる。

 太東の山際(やまぎわ)を南西へ抜ければ、ほぼ同等の広さの平原──西寿(せいじゅ)に至り、その北西部からも太東へ入ることが出来る。

 茗節が軍議で進言し命じられたのは、この経路での侵入(しんにゅう)だった。

 しかし茗節軍はその道を途中で引き返し、燕薊軍本隊と合流もせず、寿原南部から中央に向かっていた。

 歩兵一万五千、騎兵五千。太東の陣を(はっ)して二十一日目、年が明けて五日目である。

「相毅、お前の読みじゃ今日始まるんだよな?」

 二万の兵の先頭。茗節は朝日に目を細めつつ、右を行く相毅に尋ねた。()く息が真っ白に(くも)っている。

「はい。昼過ぎには斥候同士が接触し、開戦。明日、我等(われら)介入(かいにゅう)することで事実上(けっ)します」

「かぁ~っ、(あい)()わらず、お前の頭ん中で何が起こってんのかてんでわからねぇ」

 天を(あお)ぐ茗節に、

「斥候()の報告を組み合わせているだけですよ」

相変わらずの懐っこい笑みで答える相毅。

「それがわからねぇってんだよ」

 相毅の方を向き、両の眉尻は下げつつ両の口角を上げる茗節。

「ご心配無く。私が思った通りの御方なら、これが最も高く売り込める形のはずです」

 笑顔を深める相毅。

「そこだけは言い切らねぇんだな?」

 からかうでもない、純粋に疑問、といった声。

 (まゆ)(まぶた)も上がっている……否、上げている。

「ええ、お()に掛かったことが御座いませんので」

「会ったことありゃあわかるってか?」

 続けて──今度はからかうように問われ、相毅は()()()目を丸くして三つ数える程の間考え、吐息を漏らすように笑って、

「はい、わかります」

また、懐っこい笑みに戻った。



 冬晴れの朝。

 寿原中央やや西寄りを、玉英一行は()西()()進んでいた。

 率いる軍は麾下の歩兵一万、騎兵一千と、恵陽歩兵一万五千、それに輜重隊撃破(げきは)の任をこなしてから合流した雲観、雲超の騎兵三万五千──合わせて歩兵二万五千、騎兵三万六千である。

 恵陽歩兵二万は()()()()()()()()。……正確には、(ふく)した老兵四万も、だ。

 燕薊は、正面で守将(しゅしょう)の気を引き、裏手(うらて)の港から二万五千の兵が攻め寄せる、という手で()()()()()()()陥落(かんらく)していた。

 城塞都市(まち)の規模に対して明らかな守兵(しゅへい)不足の結果でもあり、燕薊近辺の()()()()()()()()頃合(ころあ)いを最大限活用した結果でもあった。──既に遼南方面の海は凍り付いていたのだ。

 本来は前者の状況を作り出す──兵を釣り出す──ことから始めるつもりだったが、相手の方から大軍で攻めてくれたおかげで随分(ずいぶん)と楽になった。 

「想定では、今日だったな」

「ハッ、昼過ぎには、おそらく」

 玉英の問いに左で頭を下げたのは、八日(ようか)前に合流した雲観である。

 雲理の四男──()()()()()兄弟の中では三番目に当たる。父に似た暗緑色(あんりょくしょく)の髪を伸ばし、頭の後ろで纏めていた。

 十二尺八寸(二百三十・四センチメートル)にやや届かない程度の背を、黒水馬(こくすいば)鞍上(あんじょう)極力(きょくりょく)小さくしようとしている。──黒水馬は『三つ子半島』の更に北東、熊族すら立ち入らない極寒の地に生息(せいそく)する、速度は劣るが圧倒的な体格と力を誇る馬である。生息地と生息数の都合上周華では(ほとん)ど用いられていないが、雲理とその息子達の年長組はあまりにも大きく重いため通常の馬には乗れず、どうにかこの馬を手懐(てなづ)けて繁殖(はんしょく)も行っていた。

進言(しんげん)通り、初手はそなた()に任せるが、他に何かあるか?」

 雲観、雲超隊の攻撃を()()()()()()()()、というのが雲観の進言……献策だった。無論(むろん)()()()についても軍議は重ねてある。

「昨夜の繰り返しとなり大変恐縮(きょうしゅく)で御座いますが、殿下に()かれましては、どうか先走(さきばし)られぬよう、()してお願い申し上げます」

 一段と(かしこ)まって言い、再び頭を下げる雲観。

 昨夜の、どころか燕薊で合流して以来ずっと言われ続けている内容だった。

 勿論(もちろん)雲観からすれば玉英は如何(いか)にも頼りない少女に見えようが──やっと十七になったところだ──それだけでは無い。

 比較対象が悪い……いや、優れ過ぎているのだ。

 玉英一行の中で雲観が完全に認めたのは子祐と突雨のみだった、という一事(いちじ)だけでも、その(ほど)は知れる。──調練(ちょうれん)と手合わせの中で(はる)か年少の弟、雲儼の評価もいくらかは上げたようだが、まだまだ不足らしかった。

「わかっている。忠言(ちゅうげん)、感謝する」

勿体無(もったいな)き御言葉」

 雲観が三度(みたび)頭を下げた。

「雲超の武運(ぶうん)(いの)ろう」

「ハッ、有難き幸せ」

 雲観が、一層深く頭を下げた。



 同日、昼過ぎ。

 果たして恵陽軍と燕薊軍、双方の斥候隊の一部が接触。──否、奇襲した恵陽軍の斥候隊が敵を殲滅した。

「なんだぁ、こんなもんかぁ」

 巨躯(きょく)の亀甲族が(つぶや)いた。

 ()(たけ)十六尺と一寸(約二百八十九・八センチメートル)余り。

 雲理すら優に超える(まさ)しく大山(たいざん)(ごと)き肉体を、やはり巨体中の巨体であろう黒水馬の上で伸ばしている。

 雲理の六男──生きている中では四番目──にして、雲観がこの世で最も信頼する将である。

「まぁ、次だなぁ、次ぃ」

 ()()を終えてもう一つ呟くと、駿馬(しゅんめ)に乗った十名の犬族を連れて、のっそりと歩き出した。

 綺麗(きれい)()()げた褐色(かっしょく)の頭が、陽光を()(かえ)している。



──(つい)に来た。

 敵である。

 と言っても姿(すがた)が見えているわけではない。

 帰り着くべき斥候が、大半戻って来なかったのだ。……味方が消えたなら、そこに敵が居る。

 既に夕刻だが、早々に陣形を整え直した。


 前軍左 高堅──歩兵一万七千五百、騎兵二千五百。

 前軍右 高策──歩兵一万七千五百、騎兵二千五百。

 中軍 董蕃──歩兵三万、騎兵一万五千。

 後軍 趙敞──歩兵一万、騎兵五千。

 計──歩兵七万五千、騎兵二万五千。


 歩兵は全体に方陣(ほうじん)(正方形に近い陣形。五名が五列で二十五名、といった具合。)、騎兵は当初左右や後方に置き、各将軍が直接率いて動く。──趙敞のみ、騎兵を副将(ふくしょう)に任せている。

『三つ子半島』は熊族領域に接しているため、対抗(たいこう)の都合上他の鬼族領域と比べれば騎兵が多くなっている……が、鎮戎公領域とてそれは同じこと。否、鎮戎公領域(あちら)の方が程度は大きいだろう。

 その点での優位は無いものと考えるべきだった。

──夜襲もあろうな。

 油断(ゆだん)はしなかった。

 董蕃自身が、冬に戦を考えたのだ。

 そこへ先手を打って来た程の()が、斥候という『軍の目』を潰した好機(こうき)(のが)すはずも無い。まして、亀甲族は夜目(よめ)()く。


 寿原にも、ちょっとした起伏(きふく)はいくらでもある。

 せめて東の小高い位置に布陣しようと移動していた燕薊軍を、夜闇(よやみ)の中、南北から騎馬隊が襲った。

 鬼族も夜目が全く利かないわけではないが、個個(ここ)の差が非常に大きい。──気紛(きまぐ)れな『神』、麒麟(きりん)加護(かご)の差、とでも()うべきか。

 (さいわ)い董蕃はかなり()()方だが、その視界では、味方歩兵への突撃に横槍を入れようとした高堅、高策の騎馬隊が一蹴(いっしゅう)されていた。それどころか、

──高堅が一合(いちごう)も保たぬか。

先頭を駆けていた高堅の首が()()()飛ぶのが見えた。高策は、兵を減らしつつも一旦離れている。

──あの敵には、当たれぬ。

 高堅を倒した巨漢は明らかに()()だった。

──(うわさ)に聞く『亀甲族最強』の()()()──『武』に相違無(そういな)かろう。

 輜重と歩兵で無理にでも動きを止め、対応し切れないだけの弓矢で殺す、あるいは弱らせてから()つしかない。

 董蕃はそう見切(みき)って、高()軍へ突入した敵に残る全軍を向けた。

 緒戦(しょせん)である。先ず『武』と決戦出来るだけの状況を作るべき、と判断したのだ。

 高策軍は早くも数千は減らされている気配だが、董蕃、趙敞の歩兵を加えて厚みを増し、敵を受け止めさせる。

 その間、董蕃自らが騎兵の先頭に立ち、敵将を狙った。

──『最強』の()()()()()片割れ、智謀(ちぼう)の兄は、武にはさほど(すぐ)れぬと聞く。……ここで、斬る!

 両輪(りょうりん)の片方でも()けば、戦車はまともに走れなくなるのだ。

 麾下の騎兵一万五千は北方での実戦経験もある燕薊軍最精鋭。董蕃の動きにも手足の如く付いてくる。

 高策軍の右を通り、前へ。

 敵騎馬隊が味方歩兵の壁を()(やぶ)ってくる位置を予測し、回り込んだ。

 董蕃の(かん)()(わた)っていたらしく、燕薊軍前方へ突き抜けてくる敵将を迎え撃つ形になった。

 おそらくほぼ同数の騎馬隊同士。正面からぶつかりに行く。

 敵将は、『武』の巨躯と比べれば三尺(約五十四センチメートル)以上(おと)ろうが、董蕃よりは一尺六寸(約二十八・八センチメートル)近く優れる。

──それがどうした! 武は、研鑽(けんさん)()てにこそあるのだ!

 自らを(ふる)い立たせ、右手の長剣を渾身(こんしん)の力で敵将の首へ(たた)()ける。

 敵将も、背丈に合わせてか通常より大振りではあるが、長剣。

 見事(みごと)打ち合わせる形で(ふせ)がれて、互いに獲物を後続の軍とした。

──噂とは、当てにならぬものよ。

 届く範囲の敵兵を斬り捨てつつ、心中(しんちゅう)独白(どくはく)する。

──儂と、同等ではないか。

 口角の右端が、意図せずして歪む。

 右手の(しび)れが、何故か心地良(ここちよ)かった。



──思ったよりは、やるな。

 戦場を(あと)にしつつ、雲観は認識(にんしき)(あらた)めた。

 最初に突っ込んだ軍、歩兵の半ば以上は無理に徴兵(ちょうへい)した者達に違いない。如何(いか)に鬼族と(いえど)も殆ど話にもならなかったが……後から来た騎兵はなかなかのものだった。

 全力で当たれば勝てるつもりだが、雲観軍(こちら)も相当血を流すことになる。

 そう(さと)って、敵騎馬隊の背後へ抜けた勢いのまま南東へ退()いたのだ。

 敵は追ってこなかった。伏兵を警戒したのだろう。

 玉英へ伝令を出し、()()()転じてしばしの(のち)──

兄貴(あにき)ぃ、どうだったぁ?」

雲超が合流。雲観の左に付いた。

 互いの下では黒水馬同士が並び、親しげに声を上げる。互いの乗騎も一つ違いの兄弟なのだ。──組み合わせは()()だが。

「無事で何よりだ、雲超」

 答える前に一言(ひとこと)(はさ)んだ。

 今回は一撃(いちげき)して離脱(りだつ)するよう()(ふく)めてあった。敵の全軍に囲まれ、馬の足が止まるようなことがあっては如何に雲超とて(こと)だ。

 騎兵突撃は数倍の歩兵に匹敵(ひってき)する威力(いりょく)を誇るが、それはあくまでも衝撃力(しょうげきりょく)の話。足の止まった騎兵は存外(ぞんがい)(もろ)い。

「指揮官とその麾下はなかなかだったぞ」

「なかなかってぇ、どれぐらいだぁ?」

「軍としては私が優勢。(やつ)と一対一なら互角、あるいは紙一重(かみひとえ)負けるかもしれん」

(きた)えないからだぞぉ?」

 弟に溜息を吐かれた。

 大抵の場合は体格と経験の優位(ゆうい)があり、長い生で()()()困ったことは無いが、仮に()()()()()とやり合えば数合(すうごう)()たずに斬り捨てられる自覚はあった。

 そう、例えば()(まえ)の弟、雲超のような相手だ。

 おそらく()()()定命(じょうみょう)の者の中では周華一の体格。そこへ()()き武への探究心(たんきゅうしん)まで宿(たど)っているのだから、(まさ)しく天賦(てんぷ)である。

「お前のようにはなれぬのだ、雲超。何より──」

 雲観は幼い頃から武への興味が(うす)かったものの、それが決定的になったのはこの弟の天賦に気付いたためだ。──亀甲族としては(おさな)い部類に入る十代の頃に、七つ年下の弟に完膚無(かんぷな)きまでに敗北すれば、(いや)(おう)でも気付かされる。(ゆえ)に──

「──私はお前を通して戦えれば良いんだ」

雲観は、雲超を最大限活かしてやることに傾注(けいちゅう)した。

 あまりにも一個の武に直向(ひたむ)きなせいで軍略(ぐんりゃく)を学ぼうとしなかった弟のため、自身がそれを補完(ほかん)することにしたのだ。

 数十年も経つ頃には、雲観、雲超が揃って戦場に出れば、兄達にも(まさ)る成果を出せるようになっていた。

 三百年近くもそんなことを続けたため、副次的(ふくじてき)に雲超も最低限の軍略は身に付けてくれたが、あくまでも「兄貴が言ってたからぁ」という類で、(しん)から理解しているわけではない。

「でもよぉ、俺には兄貴がぁ、必要だけどさぁ」

──兄貴が本気出せばぁ、俺は要らないだろぉ?

とは、言わせなかった。

「私にも、お前が必要だよ、雲超」

 先に、言ってやる。いくつ齢を重ねようと、これが兄の(つと)めだ。

──自身の天賦の(ほど)に気付けない、(おろ)かな弟よ。

明日(あす)も、お前にしか頼めぬことがあるのだ」

 (ひげ)も髪もない赤子のような顔を満面の笑みに変え、雲超が(こた)える。

「あいよぉ兄貴ぃ。どうすればぁ、いいんだぁ?」

 雲観は口角を上げ、一つずつ伝えた。



 一万以上は(たお)されていた。

『武』に蹂躙された高堅の軍だけで七千。高策の軍で四千。補助に入らせた歩兵は敵に届かず、董蕃の騎兵は敵将の騎馬隊と痛み分け、といったところだった。

──見切られたな。

 恵陽軍本隊が()()()であれ、厳しい戦いになるだろう。少なくとも、太東の砦から追ってきた軍も合流するのだ。

 今晩のうちに可能な限り削っておきたかったが、撤退する敵を一定以上に追いはしなかった。

 夜に襲い来て一撃、離脱した敵の行く先(など)、罠があるに決まっていた。──相手は『最強』の『智』なのだ。

 敵は二隊共南東へ向かったが、それすら怪しく思えてくる。明日は北から来る、と想定すべきか……いや、そう考えることすら術中(じゅっちゅう)かもしれない。

 実戦は様々なことが判然(はんぜん)としない中で決断するものだが、それにしても、後手に回った(つら)さが()()みた。

空堀(からぼり)土塁(どるい)、輜重を用いて陣を組む。位置は──」

 (おか)とすら言えない程の小高い一角を、弓と防禦(ぼうぎょ)に活かす。

 幸い、編制内外の輜重隊が数万規模で居るのだ。こうした作業の道具には事欠かず、適宜(てきぎ)兵を休ませつつ、どうにか朝までには最低限の備えを終えた。



 朝日が昇り、まだ昼には至らない頃、恵陽軍──あるいは玉英軍──は燕薊軍を遠巻(とおま)きに囲んでいた。


 北、雲超軍、騎兵一万八千五百。

 東、雲観軍、騎兵一万五千四百。

 南、玉英軍、歩兵二万五千、騎兵一千。

 計、歩兵二万五千、騎兵三万四千九百。


 全軍で六万弱だが、この場の兵力ではまだ(およ)んでいない。燕薊軍は九万近いのだ。

 騎兵の差もあり、真っ向から当たれば勝てるつもりではあるが、()()()犠牲(ぎせい)が大きくなる。

 ましてや相手は、簡易とは言え陣地(じんち)構築済み。危険ですらあった。

「ここまでは()()()()か」

 玉英の呟きに、唯一(ゆいいつ)()()う子祐はいつも通り、応えない。

 高さ十一丈(約十九・八メートル)。多くの車輪を取り付けた、移動式の物見台(ものみだい)の上である。明華(めいか)発案(はつあん)で鎮戎公軍全体に取り入れられていると()う。──なお、現地での僅かな調整のための()()()であって、長距離移動の際には分解した状態で持ち運ぶ。

 玉英は相手陣地を見つめ続け、五つ数えた頃、

「見たいものは見た。子祐」

「ハッ!」

 梯子(はしご)である。子祐は後に昇り、先に降りることを(ゆず)らず、玉英も素直に受け容れていた。──これも、いつものことだ。

 何事も無く()へ着き、

「雲観、雲超へ伝令。万事予定通りに。……以上。頼んだぞ」

「「ハッ!」」

 待ち構えていた二名の若い犬族が、尾を激しく振りながら駆け去った。

「さて、雲超の勧告(かんこく)、楽しみだな」

 玉英が子祐を見上げながら笑い掛けると、子祐も(かす)かに口角を上げ、目を細めて頷いた。



 董蕃は眉間(みけん)(しわ)を寄せた。

「燕薊が……陥落?」

 昼前。遠目にも『武』とわかる巨漢の、恐ろしいまでの大音声で伝えられたのだ。──降伏勧告である。

 兵達に動揺が走る。当たり前だ。彼等(かれら)の家、家族、あらゆる大切なものが燕薊にある。

 もっと言えば、彼等が兵として従っているのは、その()()()()()()()()()()()()()()()()()()に過ぎない。

──やられた。

 燕薊軍(こちら)からでは、真偽(しんぎ)は確かめようがない。

 しかし、燕薊を出てから四十日近く経つ。敵にほぼ包囲されている状況も相俟(あいま)って、

──兵には事実としか聞こえぬだろう。

「兵を落ち着かせろ! 偽報(ぎほう)だ! ここで負ければ本当に陥されるぞ!」

 ()()()()()()()、声を張り上げて命じたが、

──無駄(むだ)やもしれん。

 陣地に(こも)ることで大半の兵が密集しており、情報も動揺も瞬時に広まった。

「兵ええええぇぇ~~~以外はああああぁぁ~~~無事いいいいぃぃ~~~だぞおおおおぉぉ~~~」

 民が、家族が丸ごと(しち)になったと思い込まされた……あるいは疑念を抱かされたのだ。()()()の頃から従っている董蕃麾下は兎も角、他の兵が董蕃の命令に従う理由(りゆう)は……あまりにも薄れている。

 勝手に飛び出さないだけ()()だが、惰性(だせい)でその場に(とど)まっているだけの軍に、どれ程の力があろうか。

──せめて、もう一軍。茗節の軍さえ無事ならば……。

 董蕃の願いは、その夜、半ばだけ(かな)えられた。



「良くぞ戻った! 良くぞ!」

 幕舎の外、董蕃は茗節を出迎えた。篝火(かがりび)があるにも(かかわ)らず、夜空の星が(まぶ)しく感じられる。

 西から合流しようとした茗節軍が、(さえぎ)るように出てきた南方の敵騎兵一千を()()。燕薊軍陣地まで辿り着いたのだ。

 一見すると西方は包囲されていないようだが、見せ掛けだと実証(じっしょう)したことも大きかった。──もし本隊が西から(だっ)そうとすれば、太東の砦から追ってきた軍が出てくるのだろう。

「申し訳御座いません、董将軍。遅参(ちさん)致しました。西寿への道中、敵の騎兵一万と遭遇(そうぐう)、どうにか撃退した頃には御下命(ごかめい)に背くこととなっており……」

 深深(ふかぶか)と頭を下げて釈明(しゃくめい)する茗節。だが董蕃にはもはやどうでも良いことだった。

「良い、良い。今ここへ駆け付けたことで不問(ふもん)とする。して、兵は如何程(いかほど)残っておる?」

 董蕃は茗節の肩を自ら起こし、問うた。

(さき)()()前で、騎兵三千、歩兵は四千余り……お借りした兵は殆ど失いました。どうか、この首でお(ゆる)し下さい」

 項垂(うなだ)れる茗節。

 騎兵ニ千、歩兵一万一千の損害である。()()の際、更に一千以上は脱落しただろう。

──さもありなん。

 もし『智』の麾下にいくらか劣る騎馬隊だったとしても、茗節の麾下では抑えられず、元は董蕃麾下だった歩兵一万が奮戦(ふんせん)してやっと勝負になった程度のはずだった。

 その上、()()()()は動きからして精鋭中の精鋭。董蕃麾下や『智』の麾下よりも()に見えた。──たった一千という少数だからこそ出来る()()き、と思われた。

「良い。今は、この苦境(くきょう)(だっ)することが先決(せんけつ)だ。力を()くせ」

「ハッ!」

 姿勢を正す茗節。

「では、早速だが、明朝(みょうちょう)、もう一度西を突破、南の敵の裏へ回ってくれ。おそらく歩兵の後ろに本陣があろう。そこを狙うのだ」

承知(しょうち)致しました。ただ──」

 ()(よど)む茗節。

「良い。言うてみよ」

「ハッ! しかし、ここでは……」

 幕舎の前である。将兵の耳目(じもく)があった。

「わかった。入れ」

 共に幕舎へと入る。

 董蕃と茗節だけである。

「これで良かろう?」

 茗節は一度見廻して頷き、声を(ひそ)めて言った。

「申し上げます。実は兵の中に、あの騎兵一千に……『王族を見た』と言う者が居ります」

「何っ!?」

 思わず声を(あら)げた。

「董将軍、どうか、お声を……」

「……うむ。して?」

「董将軍の前で粗相(そそう)があってはなるまいと、我が()(とど)めておりますが、御許可(ごきょか)頂けるなら──」

「良い。儂が行く。案内(あない)せよ」

「ハッ!」

 もし、()()()逃げ延びた王子か王女ならば。

 もし、()()(とら)えたならば。

──敵軍は(ろう)せずして瓦解(がかい)。陛下にも()()()()より遥かに上等な献上品(けんじょうひん)となろう。

 敵軍の多さ、先手を取って攻めて来たことの辻褄(つじつま)()う。

 王家に最も忠実とされる鎮戎公が、至高(しこう)旗印(はたじるし)を得たためだ、と。

──だが、前線へ出したのが運の尽きよ。

 南方の敵騎兵は一千のみ。如何に最精鋭であろうと、一千は一千。対して燕薊軍(こちら)は茗節軍を加えて騎兵二万数千。

 最速で当たれば、燕薊軍(こちら)の歩兵が(つい)える前に決着を付けられよう。

 董蕃は高鳴(たかな)鼓動(こどう)に突き動かされるように、(とも)も付けずに陣地外の茗節軍へと向かった。


此方(こちら)で御座います」

 茗節が右手で幕舎を指し示し、頭を下げる。茗節自身の幕舎を、兵の監禁に使ったらしい。

「儂だけで話す。良いな」

「ハッ!」

 暗い幕舎へ入り、鬼族男性としては平均程度の大きさの影を認め、極力()()()声で、

「『三つ子半島』代官、董蕃である。そなた、王族を見たと──」

 瞬間、董蕃の意識は途切れた。



 (よい)()け、三つの月が()(ほこ)るように(かがや)いている。

 玉英の幕舎も、月明かりを受けて白く輝いていた。


 その、幕舎の中。

 椅子に座った玉英の前へ、子祐がやや大柄な鬼族を()()てて来た。

 口には布が()まされ、両腕は背中側で何重にも(しば)られている。

「これなるは『三つ子半島』代官、董蕃に御座います」

 董蕃を()()さえ()けつつ、子祐が頭を下げる。

「良くやってくれた。無事で何よりだ、子祐」

「有難き御言葉」

 一層頭を下げる子祐。押さえる力は、(ゆる)めない。

 玉英は頬を緩めて頷き、

(はな)して良い」

「ハッ!」

 子祐は玉英の──玉英から見て──左脇(ひだりわき)に立った。更に左前には雲儼が控えている。反対側、玉英の右にはやはり琥珀が椅子に座っており、琥珀の右脇(みぎわき)では文孝(ぶんこう)伯久(はくきゅう)()()()に備えていた。

(おもて)を上げよ」

 董蕃は身体を伏せたまま、従った。最初は火を吹くような目付きだったが、玉英と視線が交わった瞬間、一度目を見開いてからしばし閉じ、再び開けた時には()()()()()いた。

「玉英である。一応()いておくが、董蕃、そなた、私に仕える気はあるか?」

 視線は()らさず、頭を横に振る董蕃。

「そうか、残念だ。……特に言いたいことがなければ、このまま首を()ねるが」

 董蕃が何やら声を発した。──当然だが、くぐもっている。

「外してやれ」

 文孝が慎重に布を取り、下がった。

殿()()数手(すうて)御教示(ごきょうじ)頂けませぬか?」

「良かろう。なんだ?」

「いつ、進発なさいました?」

「先々月の二十二日、だった」

「やはり、燕薊軍(われら)よりも早く……では、恵水を、舟で?」

「そうだ」

「今一つ。茗節の内応(ないおう)は、いつ?」

「先月の二十日、と聞いている」

「陣を離れて……八日目(ようかめ)

 董蕃は(わら)ってから続ける。

「殿下、御注意下さいませ。あれはとんでもない食わせ者ですぞ」

「忠告、感謝する」

 玉英は小さく頷いた。

「いえ、こちらこそ、死出(しで)土産(みやげ)、心より感謝申し上げます。大変御無礼(ごぶれい)(つかまつ)りました」

 頭を下げた董蕃に、

「そうそう、ところでそなた、京洛での一事には加わっておったか?」

「ハッ」

「叔父上の目的は、聞いておらぬか?」

「ハッ、いいえ、儂(ごと)きには、何も」

「そうか、感謝する。……では、さらばだ」

「ハッ、有難う御座いました」

 地に(ひたい)(こす)()けた董蕃を、雲儼が引っ立てていった。



 雲儼等と入れ替わるようにして、子祐よりニ寸(約三・六センチメートル)ばかり小さい鬼族と、玉英よりニ寸ばかり大きい黒貂(くろてん)族が入って来て自ら地に()せた。

「面を上げよ」

 両者共、ゆっくりと顔を上げる。

「玉英である。……茗節。此度(こたび)は良くやってくれた。そなたが(ちゅう)を尽くす限り、(あつ)(もち)いよう」

「ハッ! 有難き幸せ」

 頭を下げる茗節。

「何か望みはあるか?」

御心(みこころ)のままに」

 茗節は更に深く頭を下げた。

「良かろう。では将軍として今後も私を支えてくれ」

「ハッ!」

 玉英は頷いて、黒貂族へ目を向けた。

「そなたは光扇(こうせん)係累(けいるい)とか?」

 光扇は、(かつ)て玉英が会ったことのある(がく)家の娘である。

「その弟、名は(じょ)(あざな)相毅(しょうき)に御座います」

 相毅が(うやうや)しく一礼する。

「相毅、()()()()は見掛けなかったが」

熱発(ねっぱつ)し、静養(せいよう)しておりました」

「そうだったか……()の者達も息災(そくさい)か?」

「父は先年病を得て亡くなり、姉が皆を率いております」

「そうか……冥福(めいふく)を祈る」

「心より感謝申し上げます」

 再び頭を下げる相毅。

「うむ。……光扇とそなたは、私に力を()してくれるか?」

 楽家の影響力は大きい。『三つ子半島』では、特に。

「姉も私も、『藩屏(はんぺい)たれ』と育てられました。臣下(しんか)末席(まっせき)におくわえ頂ければ、(さいわ)至極(しごく)に御座います」

「感謝する。頼りにさせて(もら)うぞ」

「ハッ!」

 三度、頭を下げる。

 玉英は頷き、

「相毅、望みはあるか?」

「お許し頂けるなら、このまま茗将軍の副官を続けたく存じます」

「ほう……良かろう。では改めて茗節軍副官として任ずる。(はげ)めよ」

「ハッ!」

 玉英は静かに深呼吸して、切り出す。

「さて、両名に(はか)りたいことがある。面を上げよ」

「「ハッ!」」

「残る燕薊軍について、何か策はあるか?」

 茗節、相毅の目を順次見つめる。

「茗節より申し上げます」

「許す」

「有難き幸せ。……残る将軍は趙敞と高策のみに御座います。趙敞は万事(ばんじ)無難(ぶなん)を良しとする老将(ゆえ)、再度降伏を呼び掛ければ(くだ)るでしょう」

「ほう、高策の方は?」

 玉英が僅かに目を見開く。

「高策は直情径行(ちょくじょうけいこう)。兄、高堅の(かたき)を取ろうと息巻(いきま)いております」

 茗節が一瞬相毅の方へ視線を動かした。

()()()()()()()()、雲超殿が一騎打ちを呼び掛ければ、応じるかと」

「ふむ、良くわかった。相毅、何か意見はあるか?」

「いえ、茗将軍の策が宜しいかと存じます」

「そうか。そなた()の進言に感謝する。下がって良い」

「「ハッ!」」

 茗節、相毅は一礼し、更に幾度(いくど)かの礼を経て、去った。

一先(ひとま)ず、朝まで軍は動かさぬ。皆、ご苦労だった。下がって良い」

「「「「ハッ!」」」」

 子祐、雲儼、文孝、伯久が幕舎を出て行った。──子祐は幕舎の外に立った。


「面白い奴等じゃったのう?」

 琥珀が微笑(ほほえ)みながら首を(かし)げた。

「わかった?」

 玉英は眉尻を下げて笑った。

「うむ。何故(なにゆえ)花を持たせようとするのじゃろう」

「多分、燕薊軍ではああやって出世()()()来たんだろうね」

 才気(さいき)(あふ)れる者の処世術(しょせいじゅつ)の一種、それに……親愛だろうか。

「言ってやらんのかや?」

「どっちの方が楽かな?」

「ふむ。……早いうちに伝えてやった方が良いような気がするのう」

「ん~、うん、そうだね。もし()()()()言ってこなかったら、頃合いを見て伝えてみるよ」

「うむ。(わらわ)も同席しておる日にの!」

 明らかに楽しむ気だった。

「うん、勿論(もちろん)。ありがとう、琥珀」

──相談に乗ってくれて。……いつも、隣に居てくれて。

 玉英が満面の笑みを見せると、

「当然じゃ!」

琥珀も笑いながら、胸を張った。



「なあ、相毅」

「なんですか、茗将軍」

 既に軍営(ぐんえい)は抜け、馬上である。

 子祐が董蕃の意識を(うば)った後、董蕃の命令と(いつわ)って燕薊軍の陣地を脱出、そのまま玉英軍の裏手へ来たため、南東に置いてきた()()()()()()──()()()歩兵一万一千、騎兵ニ千を迎えに行くのだ。

「殿下ってなぁ、(こえ)ぇ御方だなぁ?」

「それはまた、どうして?」

「だってよぉ、ありゃあ、俺がお前の策のまんま話してるって、気付いてただろ?」

 茗節自身、相毅の方を盗み見てしまったことは自覚していたが、

「あの一瞬だけじゃあねぇ。最初っからなんか、包み込むみてぇな気配でよぉ……」

 茗節は唇の中央を上げて視線も上へ逃がし、戸惑(とまど)いを()()()

「そうですね。少なくとも()()()()では、隠し事は出来()()()

 先王(せんおう)の【麒麟の眼】について、相毅は当然父から聞いていた。玉英が()()いでいる可能性があることはわかっていて(ため)しに押し通してみたが、

──それすら見透(みす)かして()()()()

 わざわざ最後に「そなた()の進言」(など)と言ったのだ。心構(こころがま)えをさせてくれるつもり、()()()

「まあ、本当に(わり)ぃ気分ってわけじゃあなかったけどよぉ……」

 見透かされたことによる居心地(いごこち)の悪さと、謂わば悪戯(いたずら)を許されている状態が噛み合わない()()

「次にお目に掛かることがあれば、平身低頭(へいしんていとう)(あやま)ってしまいましょう」

()で、か?」

「素で、です」

「それはそれで怖ぇなぁ」

「大丈夫ですよ。必ず赦して下さいます」

()()()()()ってか?」

「まだ()()ですが、これについては、はい」

 相毅は、いつものように笑った。



 翌早朝。

 燕薊軍陣地は()()()騒然となった。

 総指揮を執っていた将軍が消えたのだ。

 最初に気付いた董蕃の従者が少々()()()()()者だったため、趙敞が知った頃には手遅れだった。

「趙敞殿! 入らせて貰う!」

 返事も待たずに幕舎へ踏み入ってきたのは高策。序列では趙敞より下だが、背丈は五寸(約九センチメートル)ばかり上。声と態度も大きかった。

「聞いたか!」

──お前の耳に入ることなら、儂の耳には()うに入っているよ。

とは言わず、

「高策。董将軍の、ことか」

いつもの通り、緩慢に尋ねた。

「無論だ!」

 座っている趙敞の眼の前、小さな机を高策の右手が(たた)いた。

「その机は、気に入っていてね。乱暴に、扱わないでくれ」

 年長者らしい笑みを見せる。

「む、それは、すまなかった……だが、一大事だ!」

 言ったそばからまた机を叩きそうになり、辛うじて途中で止めた高策。

──(おろ)かだが、悪い奴というわけではない。惜しいな。

「そう、一大事、だ。……高策、お前、どうする気だ?」

「どうするも何も無い! 昨夜()()()()()茗節軍を見ただろう! あの若造(わかぞう)が裏切ったに違いないのだ! こうなれば死ぬまで戦うしかあるまい!!」

 逃げ出した、というのは董蕃の不在を()()()()()()()見方(みかた)に過ぎないが、それ以上に、ここまで追い込まれて「死ぬまで戦う」(など)と──

──愚かさも過ぎれば救えぬ、か。

「わかった、高策。お前が、そう言うなら、良かろう。前は、任せる。董将軍の兵も、高堅軍も、お前が、率いろ」

(おう)よ! 流石趙敞殿、話がわかる! では急ぐ(ゆえ)失礼する!」

 高策は早々に背を向け、

「ああ、しっかり、()()

趙敞の背後に控えていながら居ないようですらあった副官──孔苑(こうえん)が、音も無く踏み込んで剣を抜き打ち、高策の首を落とした。

「良くやった、孔苑」

 孔苑は無言のまま趙敞の前に跪く。──鬼族男性の平均よりニ寸(約三・六センチメートル)近く小さく、やや華奢にすら見える肉体。齢は二十一になったばかり。

 趙敞は()(かが)めて孔苑の口を三度吸い、

高策(これ)の始末は任せた。儂は、兵を纏める」

孔苑はやはり声も発さず、ただ頭を下げた。



 終わる時は、淡淡(たんたん)と終わる。

 そういうこともあるのだと、よくわかった。

 昼前、玉英の幕舎に姿を見せた老将は、(すが)るように平伏(へいふく)した。

「面を上げよ」

 玉英は色を付けずに言った。

 周囲は、昨夜と同じである。

「ハハァ~ッ!」

「そなた、存念はあるか?」

「この趙敞、ご寛大(かんだい)な、御心(みこころ)に、ただ、ただ! 感謝する、ばかりで、御座います」

 頭を下げる趙敞。

「趙敞、私に仕えるか?」

 趙敞は頭を下げたまま一瞬視線を上げ、また下げて、

「もったい無き、もったい無き、御言葉! されど、お許し、頂けるなら、是非とも、是非とも! この老骨を、お使い、下さいませ」

「そうか。……ではそなたには、最初から言っておこう」

「何なり、と!」

 玉英は琥珀と顔を見合わせ、少し笑ってから趙敞へ視線を戻し、

韜晦(とうかい)は許さぬ」

これも色は付けず、しかし明瞭(めいりょう)宣言(せんげん)した。

 趙敞は一瞬全身を(ふる)わせ、

「ハッ!」

 ただ一言、応えた。



 寿原の戦が決着してから四日後の夕刻。

 恵北で雲鍾軍と(にら)()いを続けていた波舵軍が、伝令を受けて降伏。

 恵陽軍と燕薊軍の戦が、終結(しゅうけつ)した。

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