第十八話 燕薊軍
当作平均の倍以上の長さとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
なお、読み易さの追求のため、今回より一部単位(○○里、△△寸、等)の「ふりがな」をなくす試みをしております。
ご意見等ございましたらお寄せ頂ければ幸いです。
恵陽付近の津から恵水を東へ渉ると恵北に入る。
恵北はそこから北へ扇状に広がっており、民の暮らしを支える塩池を抱えている。
その扇を護るべく、恵北側の津から東、伝令ならば一日の距離に、単独では恵陽で最も信を置かれる将軍──雲鍾が、二万の兵を率いて駐屯していた。
齢三百三十。鎮戎公、雲理の次男である。
恵北の責任者でもあり、営舎内の一室へ何れも大型の机と椅子、地図、燭台、それに数多の竹簡を持ち込んで執務室としていた。
炎に照らされつつ椅子へ寄り掛かる山の如き体躯は兄雲仁以上に父に似るが、短く切り揃えた頭髪は何れにも似ず、明るい緑色。
その髪へ指を突っ込んで三度掻いてから、雲鍾は伝令が齎した命令を確認した。
「引き付けられている振りで良い、と」
「ハッ!」
「撃滅でも殲滅でもなく、むしろ引き付けておけ、と言ったのだな?」
「ハッ!」
「うむ、うむ。わかった。兄者に従おう。万事了解した、と伝えてくれ」
「ハッ!」
「良し! 外の従者に言って肉を受け取っていけ」
「ハッ! 心より感謝申し上げます!」
頭を下げる若い犬族。この齢で重大な伝令を任されたのだ。雲仁に期待されているのだろう。
雲鍾が「もう行け」と手振りで示したため、犬族はもう一度礼をしてから素早く去った。
外は暗いが、即座に恵陽へ戻るに違いない。肉は、せめてもの心付けだった。
「しかし、この俺抜きで決戦とはな……賢弟と愚弟だけでは足らぬはずだが、殿下は余程の御方か」
雲鍾の呟きは、燭台の影に溶けた。
雲鍾軍駐屯地からほぼ真南、恵水中流域へ西から注ぐ川がある。
孟水である。
孟水は太東北東部を半ば囲うようにして流れ、恵陽を要とした南へ広がる扇──恵南を形作っている。
恵南南東部、およそ二百二十五里(約九十キロメートル)四方の一角は、高原から下った先にあるため名目上は鬼族領域だが、実質的には鎮戎公領域とされる。
この一角では東の恵水と南の孟水、双方に対して津が整備され、必然的に対岸の一部も鎮戎公の影響下にあった。
玉英等の恵陽到着から二日経った深更。
突雨率いる熊族騎兵五千は、その圧倒的な疾さを活かし、孟水に到達していた。
「まだ、かどうかぁわからねぇが、敵は居ねぇな」
夜目はそれなりに利く。軍を見落とすことは無い……つもりである。
津の者達も、竹簡と亀符を火で照らしつつ確認し、「いけます」と胸を張ったため早々に渡渉。南側へ渉ってから半数ずつ休み、昼過ぎになって出発した。
目標は恵水沿いの監視所である。
果たして、周華騎兵ならば三日掛けるところを二日で駆け抜け、そのままの勢いで奇襲。
一切の抵抗を許さず制圧した。
突雨等が孟水へ着いた日から六日後の夜。
同じ恵南ながら恵水へ面した津に、玉英、琥珀、子祐、雲儼、玲以下の一行──麾下歩兵一万、騎兵一千に加え、恵陽軍歩兵三万五千が到着した。老兵一万五千を含むが、亀甲族の老いて益益壮んな特性上、十分に頼りになる。
「ここの舟は大きいのう」
琥珀は歩を緩めた愛馬皎月の背から見渡しつつ、感嘆の声を上げた。
「恵水を下り、劫海へ出ることを視野に入れた舟……だったな、雲儼」
夕照の首を撫でつつ、玉英が話を振る。隊列先頭は、相変わらず左から玲、雲儼、玉英、琥珀の順だ。
「ハッ! 大兵力を青東半島へ迅速に送り込むことを目的としております」
青東半島は『三つ子半島』の一つであり、遠く京洛から見れば東北東の海上へ突き出ている形だが、その南方は竜爪族領域。
詰まる所、叛乱への備えである。
「ふむ。何故竜河ではこれを使わぬのじゃ?」
一つ頷き、新たに湧いた疑問をぶつける琥珀。
「水深調査が不足しているため、と聞いております」
言われてみれば、見えている部分だけでも船底の形が異なる。大きさの差と合わせて事故が起こりやすいのだろう。──その上、恵水とは比べ物にならない竜河の長大さである。想像を絶する調査が必要となるに違いない。
「竜河の調査、舟の改良、共に進めて参ります」
雲儼が馬上、頭を下げた。
鎮戎公の後継者として期待されている立場上、要望として受け取ったのだ。──偉大なる兄達は齢が父に近過ぎるため、『後継』とは目されていない。
「うむ! 竜河を下るのも楽しみじゃのう!」
琥珀は無邪気に笑う。
玉英も琥珀に柔らかい笑みを返し、
「玲も楽しみだ!」
玲は叫ぶように賛同した。
玉英の視界の端に、背後で考え込む梁水が映った。
年の暮れ、麒麟の月に入っている。
恵水は一月もせずに凍り付き、北辺の地は雪に覆われる。
戦をする季節ではなくなるのだ。──戦を知らぬ者であれば、疑いもしない。
その点、『三つ子半島』代官、董蕃は、「此処ぞ狙い目」と考える程度には戦を知っていた。
否、冬と、自らの種族を知っていた、と言うべきかもしれない。
適切な設備と装備、十分な糧食さえ用意すれば、肌さえ凍りそうな冬の北辺でも戦える。そう確信していた。
強健窮まり無い鬼族軍なのだ。
脱落する者も一部は出るだろうが、
──自身の弱さを恨め。
董蕃は馬上、白髪交じりの黒髭を一房、右手の指二本で摘み撫でつつ、口角の右端だけ微かに歪めた。
──足らざれば、雪を恨むが良い。
本来呼び付けようとしていた遼南(『三つ子半島』の一つ、遼南半島の主要都市。燕薊から北東方向。)軍が、夏には疫病、回復した頃には早過ぎる豪雪に阻まれたため、両軍での速攻は断念せざるを得なかったのだ。
そこで已む無く頭数だけでも揃え、敵の予期せぬであろう攻撃を決めた。
目標は恵陽。
推定兵力は五万、臨時徴兵があったとしても九万。それを、
──波舵が二万でも引き付けられれば、恵陽攻撃は力攻め(兵力任せの攻撃。)も可能となろう。
七万まで減らすことを見込んでいた。──波舵は董蕃配下で最も安定した力を発揮する将軍であり、恵北を窺う位置に三万で布陣している。
対して燕薊軍本隊は九万。
これだけでは城攻めには全く不足だが、当初は後続の輜重隊として運用する兵を加え、二十一万まで膨れ上がる予定だった。
秋の収穫を待って十二万の兵を掻き集めた結果である。
大半は農民、残るは老兵。個としては兎も角、軍としては調練不足の数合わせに過ぎないが、曲がりなりにも、城攻めに必要とされる兵力三倍を満たすはずだった。
──恵陽へ取り付き、二月で決する。
伝令が恵陽近隣から朔原へ駆け、朔原軍が恵陽へ辿り着くまで、長くても二月半。より慎重に考えるなら二月以内が限度だ。
伝令の出発を少しでも遅らせるため、本隊は隠密性を重視し、太東を行く。
太東を春に調べさせたところ、素通りも可能と思われたのだ。
距離だけで言えば孟水を渉り恵南、恵陽と進む方が短いが、大軍での渡渉には刻を要する上、そもそも孟水周辺は鎮戎公の手の者が多い。恵陽へ近付いてもいないうちに通報されれば、猶予が半月は失われるだろう。
──先ずは太東を駆け抜けることよ。見事恵陽を陥し、陛下の御恩に報いて差し上げるのだ。
董蕃は燕薊から遼南へと続く道沿い、士の家の三男に生まれた。
熊族相手に戦っていた若き日、幼少の麒角に武才を見出され、以来二十五年仕えて、『三つ子半島』代官という諸侯に次ぐ地位にまで取り立てられた。
恩は大きく、忠誠は深い。
董蕃は鼻息荒く笑い、十一尺二寸(約二百二センチメートル)の身体を伸ばし、山を見上げた。
磨き上げた銅(青銅。)の兜が夕日を反射して煌めく。
太東へ入る山道の始まりだった。
「最大の懸念は払拭されたか」
恵陽を出て十七日目の昼過ぎ、雲仁は誰にともなく溢した。
眼下では長く狭い山道に数万の敵兵が犇めいており、その後ろには更に数倍の兵が続いている。──後者は斥候からの報告である。
太東から鬼族領域へ繋がる東の道沿い、東定と名付けられた熊族の邑の一部が、砦として機能していた。
守るは近隣から集めた二万数千に、雲仁の私兵五千。……と言っても、一度に動くのは最大で五千程度。山道の隘路を存分に活かした構造である。
雲仁は改めて各所へ目を配った上で伝令兵を呼び、命じた。
「雲観、雲超へ伝令。敵本隊は九万ないし十万。深入りせず、所定の行動を取れ。以上」
十名が揃って復唱し、散る。
「どうにかこちらも、殿下の天運に肖らせて頂きたいものだ」
雲仁はゆっくりと深く、溜息を吐いた。
高原へ至る前に纏まった数の軍と遭遇するとは思ってもみなかった。
高所を取られており、しかも簡易の砦まである。
春に調べさせた際は、もっと奥へ行かなければ小さな邑さえ無かった。
巡邏の類も見当たらない。そう報告を受けた日の会心が、今は逆に董蕃の心をささくれ立たせていた。
「ええい、忌忌しい! 誰でも良い、あの防備を抜けぬのか!?」
滞陣三日目の夜。軍議用の幕舎で、董蕃は居並んだ諸将へ不満を叩き付けた。
この三日間、あらゆる攻撃を跳ね返されている。
そもそもが隘路であり、大軍の利をまるで活かせていないのだ。──昼夜の別無く攻め掛かれはするが、地の利を欠いた攻撃でどれだけの効果があるか、やらせておきながらも甚だ疑問だった。
何しろ少数で守れてしまうため、まず間違いなく敵も兵を入れ替えている。疲弊に期待するのは難しい。
「何か策のある者は!?」
董蕃の怒号に全体が萎縮する中、幕下(配下。)で最も若い将軍が手を上げた。
「茗節か。発言を許す」
「寛大な御言葉、誠に有難う御座います」
と、鬼族男性としては平均より一寸(約一・八センチメートル)ばかり劣る身で深く一礼し、茗節は続ける。明るい褐色の髪と目が目立った。
「献策致します。……董将軍、ここは軍を分け、南から攻めては如何でしょう。私に五万の兵をお貸し頂ければ、必ずや奴等の後背を突いて御覧に入れます」
「ふむ……」
南西には、太東へ入るもう一方の山道があった。むしろ、そちらの方が整備されている。太西を通る京洛からの道に近いためだ。
そうと知りながら東の道を選んだのは、隠密性を重視してのことである。……が、既に会敵している以上、その点は考慮する必要も無くなっており、九万もの大軍を遊ばせておく理由も無い。
「良かろう。一万の兵と四十日分の兵糧を与える。元の軍と合わせて二万、期待に応えて見せよ」
「ハッ! 有難き幸せ!」
茗節は姿勢を正し、再度深く一礼した。
軍議の後自身の幕舎へ戻った茗節を、若い将校が出迎えた。
黒髪黒目。背丈は黒貂族としては相当に大きいが、茗節から見れば七寸(約十二・六センチメートル)は小さい。
「茗将軍、如何でしたか」
単刀直入とはこのことだ。口調だけは落ち着いている。
しかし、茗節はその点については気を悪くせず、椅子へ乱暴に身体を預けながら答える。
「てんで話にならん。確かに五万って言ったんだぜ俺は! それを一万だとよ!!」
「一万ですか……兵糧は?」
「確か……あれだ、四十日分っつったな」
「四十日分も! 茗将軍、よくぞやって下さいました! これで茗将軍の地位は安泰です!」
若い将校は熱を感じさせる笑みを見せた。
「そうか? そりゃ良かった。後は頼んだぜ、相毅」
「お任せを」
相毅の笑みが、自信を湛えたものに変わった。
実を言えば、茗節の軍議での発言、どころかその話し方に至るまで、この相毅の進言に乗った形だったのだ。
そも、今回だけのことではない。ここ数年相毅の進言に乗り続けたおかげで将軍にまで上がれた……と茗節は思っている。
茗節は齢二十九。将軍としては破格の若さだが、副官の相毅に至っては十九だ。そのくせ数年前には既に将校だったため、
──大夫、もしかしたら卿(上級貴族。)の出か。
と茗節は踏んでいるが、本当のところは知らない。聞きたくもなかった。
茗節自身は士の生まれ、それも遼北(周華北東部、遼南に対しての遼北。熊族領域等との国境付近。)東部、山中の寒村から出てきて運良く引き上げられた身に過ぎない。『三つ子半島』では何かの伝統だとかで身分の別が強くなかったおかげで出世出来たが、他の鬼族領域であれば最高でも百、普通ならせいぜい十かそこらを率いて終わる身分だったのだ。……が、それはそれとして。
「で、俺はどうすりゃいい?」
気楽に尋ねる。
「先ずは命令に従って南へ。兎に角陣を離れるべきです」
「今すぐか?」
「少しでも早く」
「良し、わかった。お誂え向きに、追加される一万は後方の軍ってことになってる。輜重もな。……挨拶回り、行って来い」
茗節は立ち上がり、命じながら相毅の背を叩いて送り出す。
「ッ……はい!」
相毅は懐っこい笑みを返してから出ていく。
茗節は、生まれの差はあれど、また頼り切りなれど、どこか弟に対するような気分だった。
軍議から七日後の夕刻。燕薊軍本陣は騒然となった。
「輜重が届かぬだと……!?」
董蕃は普段は細い目を剥いた。
軍、特に大軍を長期間支えるには、通常編制に含まれる輜重隊以外に後方からの継続的な輸送──別途の輜重隊を必要とする。
その別途の輜重隊、謂わば軍の命綱が、切れたかもしれない、という報告だった。
兵站を任せている痩せこけた老将、趙敞は、状況に似付かわしくない緩慢な口調で続ける。
「はい。本来であれば、本日昼に、来着予定の隊が、現れず、現在、確認させて、おりますが……」
原因すら不明、と。
輜重隊とは言っても、今回の場合は一隊につき一万五千の兵である。賊徒如きに後れを取ることは断じて無い。
仮令一部がやられようとも、全体は負け得ないのだ。伝令も出せたはずである。つまり、
──敵だ。
それは一瞬でわかった。
わからないのは、いつ、どこから、どうやって、だ。
仮に燕薊軍が山道へ踏み入った段階で発見されていたとして、敵が輜重隊を襲うにはどんなに甘く見積もっても九日半しかなかった。
それ以上後になれば燕薊軍本陣に近付き過ぎ、付近を行軍中だった茗節軍と接触……少なくとも発見されることになったはずだ。
とすると、眼前の砦から伝令が発したとしても、間に合わないのだ。
兵が、恵陽から。
伝令のように少数ならばまだしも、一万五千の兵を殲滅出来る程の──必然万単位の軍ともなれば、替え馬にも限度がある。
熊族並の編制と疾さであれば別だが……埒外だ。
──燕薊軍が仕掛ける前から軍を動かしていた、か。
砦の存在だけであれば、あくまでも備えに過ぎなかった、とも考え得たが、今回の襲撃でそうではないことが確定した。
前提を、変える。
敵軍は準備万端で、燕薊軍を潰しに掛かっている、と。
董蕃は深呼吸の後、なけなしの空気を絞り出すように、鼻で嗤った。
──獲物を狙う者こそが獲物となる。わかっていたはずだったが、な。
遼南、遼北の猟師に伝わる箴言である。
伝令を呼んだ。
「茗節へ伝令。至急帰陣せよ。山道の東に留まり警戒を継続。我が軍見えざれば燕薊へ帰還すべし。以上」
五名が素早く去った。誰かしらは四日以内に追い付くはずだ。
軍を再び合わせた上で、撤退する。
敵の罠を、喰い破るのだ。
董蕃は癇癪持ちではあるが、生涯の半ばは熊族との戦に明け暮れた歴戦の将軍である。
決断は、早かった。
翌日には全軍で反転。二万を殿軍(最後尾で敵の追い討ちを食い止める役目の軍。)として徐々に退かせたが、積極的には追われなかった。
やはり砦の兵力そのものは数万程度なのだろう。敵軍本隊は、別に居る。
輜重隊にも伝令は出してあったため、帰還途上だった二隊も合流。全軍で十万となって五日目の深更には平野部へ。改めて陣を組み、茗節軍を待った。が──
茗節軍合流予定日の翌朝。
「軍どころか、動く者すら見当たりませんでした」
「こちらも、同じく」
董蕃が幕舎で聞いたのは、状況を鑑みて直直の斥候を任せた高堅、高策兄弟の報告だった。
何れも五十手前、背丈では董蕃を僅かに上回る将軍達である。
董蕃は一つ息を吸って、
「そうか、わかった。ご苦労。早速で悪いが、進発する。儂の後に続け」
「「ハッ!!」」
茗節軍はやられたものと判断し、進軍を再開した。
背後に砦から出てきた騎馬隊の気配はあったが、追ったところで罠に掛かると断じ、無視した。
太東の東、寿原。
七百五十里(約三百キロメートル)四方に近い、極めて肥沃な平原である。
北に孟水、北東に恵水、南に太水と水には事欠かず、燕薊の存在する南東部では劫海の恵みまでも得られる。
太東の山際を南西へ抜ければ、ほぼ同等の広さの平原──西寿に至り、その北西部からも太東へ入ることが出来る。
茗節が軍議で進言し命じられたのは、この経路での侵入だった。
しかし茗節軍はその道を途中で引き返し、燕薊軍本隊と合流もせず、寿原南部から中央に向かっていた。
歩兵一万五千、騎兵五千。太東の陣を発して二十一日目、年が明けて五日目である。
「相毅、お前の読みじゃ今日始まるんだよな?」
二万の兵の先頭。茗節は朝日に目を細めつつ、右を行く相毅に尋ねた。吐く息が真っ白に曇っている。
「はい。昼過ぎには斥候同士が接触し、開戦。明日、我等が介入することで事実上決します」
「かぁ~っ、相っ変わらず、お前の頭ん中で何が起こってんのかてんでわからねぇ」
天を仰ぐ茗節に、
「斥候等の報告を組み合わせているだけですよ」
相変わらずの懐っこい笑みで答える相毅。
「それがわからねぇってんだよ」
相毅の方を向き、両の眉尻は下げつつ両の口角を上げる茗節。
「ご心配無く。私が思った通りの御方なら、これが最も高く売り込める形のはずです」
笑顔を深める相毅。
「そこだけは言い切らねぇんだな?」
からかうでもない、純粋に疑問、といった声。
眉と瞼も上がっている……否、上げている。
「ええ、お目に掛かったことが御座いませんので」
「会ったことありゃあわかるってか?」
続けて──今度はからかうように問われ、相毅は本当に目を丸くして三つ数える程の間考え、吐息を漏らすように笑って、
「はい、わかります」
また、懐っこい笑みに戻った。
冬晴れの朝。
寿原中央やや西寄りを、玉英一行は北西へ進んでいた。
率いる軍は麾下の歩兵一万、騎兵一千と、恵陽歩兵一万五千、それに輜重隊撃破の任をこなしてから合流した雲観、雲超の騎兵三万五千──合わせて歩兵二万五千、騎兵三万六千である。
恵陽歩兵二万は燕薊に残して来た。……正確には、服した老兵四万も、だ。
燕薊は、正面で守将の気を引き、裏手の港から二万五千の兵が攻め寄せる、という手で二十二日も前に陥落していた。
城塞都市の規模に対して明らかな守兵不足の結果でもあり、燕薊近辺の海が凍り付く直前の頃合いを最大限活用した結果でもあった。──既に遼南方面の海は凍り付いていたのだ。
本来は前者の状況を作り出す──兵を釣り出す──ことから始めるつもりだったが、相手の方から大軍で攻めてくれたおかげで随分と楽になった。
「想定では、今日だったな」
「ハッ、昼過ぎには、おそらく」
玉英の問いに左で頭を下げたのは、八日前に合流した雲観である。
雲理の四男──生きている兄弟の中では三番目に当たる。父に似た暗緑色の髪を伸ばし、頭の後ろで纏めていた。
十二尺八寸(二百三十・四センチメートル)にやや届かない程度の背を、黒水馬の鞍上、極力小さくしようとしている。──黒水馬は『三つ子半島』の更に北東、熊族すら立ち入らない極寒の地に生息する、速度は劣るが圧倒的な体格と力を誇る馬である。生息地と生息数の都合上周華では殆ど用いられていないが、雲理とその息子達の年長組はあまりにも大きく重いため通常の馬には乗れず、どうにかこの馬を手懐けて繁殖も行っていた。
「進言通り、初手はそなた等に任せるが、他に何かあるか?」
雲観、雲超隊の攻撃をただ見ていてくれ、というのが雲観の進言……献策だった。無論、その後についても軍議は重ねてある。
「昨夜の繰り返しとなり大変恐縮で御座いますが、殿下に於かれましては、どうか先走られぬよう、伏してお願い申し上げます」
一段と畏まって言い、再び頭を下げる雲観。
昨夜の、どころか燕薊で合流して以来ずっと言われ続けている内容だった。
勿論雲観からすれば玉英は如何にも頼りない少女に見えようが──やっと十七になったところだ──それだけでは無い。
比較対象が悪い……いや、優れ過ぎているのだ。
玉英一行の中で雲観が完全に認めたのは子祐と突雨のみだった、という一事だけでも、その程は知れる。──調練と手合わせの中で遥か年少の弟、雲儼の評価もいくらかは上げたようだが、まだまだ不足らしかった。
「わかっている。忠言、感謝する」
「勿体無き御言葉」
雲観が三度頭を下げた。
「雲超の武運を祈ろう」
「ハッ、有難き幸せ」
雲観が、一層深く頭を下げた。
同日、昼過ぎ。
果たして恵陽軍と燕薊軍、双方の斥候隊の一部が接触。──否、奇襲した恵陽軍の斥候隊が敵を殲滅した。
「なんだぁ、こんなもんかぁ」
巨躯の亀甲族が呟いた。
身の丈十六尺と一寸(約二百八十九・八センチメートル)余り。
雲理すら優に超える正しく大山の如き肉体を、やはり巨体中の巨体であろう黒水馬の上で伸ばしている。
雲理の六男──生きている中では四番目──にして、雲観がこの世で最も信頼する将である。
「まぁ、次だなぁ、次ぃ」
伸びを終えてもう一つ呟くと、駿馬に乗った十名の犬族を連れて、のっそりと歩き出した。
綺麗に剃り上げた褐色の頭が、陽光を照り返している。
──遂に来た。
敵である。
と言っても姿が見えているわけではない。
帰り着くべき斥候が、大半戻って来なかったのだ。……味方が消えたなら、そこに敵が居る。
既に夕刻だが、早々に陣形を整え直した。
前軍左 高堅──歩兵一万七千五百、騎兵二千五百。
前軍右 高策──歩兵一万七千五百、騎兵二千五百。
中軍 董蕃──歩兵三万、騎兵一万五千。
後軍 趙敞──歩兵一万、騎兵五千。
計──歩兵七万五千、騎兵二万五千。
歩兵は全体に方陣(正方形に近い陣形。五名が五列で二十五名、といった具合。)、騎兵は当初左右や後方に置き、各将軍が直接率いて動く。──趙敞のみ、騎兵を副将に任せている。
『三つ子半島』は熊族領域に接しているため、対抗の都合上他の鬼族領域と比べれば騎兵が多くなっている……が、鎮戎公領域とてそれは同じこと。否、鎮戎公領域の方が程度は大きいだろう。
その点での優位は無いものと考えるべきだった。
──夜襲もあろうな。
油断はしなかった。
董蕃自身が、冬に戦を考えたのだ。
そこへ先手を打って来た程の敵が、斥候という『軍の目』を潰した好機を逃すはずも無い。まして、亀甲族は夜目が利く。
寿原にも、ちょっとした起伏はいくらでもある。
せめて東の小高い位置に布陣しようと移動していた燕薊軍を、夜闇の中、南北から騎馬隊が襲った。
鬼族も夜目が全く利かないわけではないが、個個の差が非常に大きい。──気紛れな『神』、麒麟の加護の差、とでも謂うべきか。
幸い董蕃はかなり利く方だが、その視界では、味方歩兵への突撃に横槍を入れようとした高堅、高策の騎馬隊が一蹴されていた。それどころか、
──高堅が一合も保たぬか。
先頭を駆けていた高堅の首が肩ごと飛ぶのが見えた。高策は、兵を減らしつつも一旦離れている。
──あの敵には、当たれぬ。
高堅を倒した巨漢は明らかに異常だった。
──噂に聞く『亀甲族最強』の片割れ──『武』に相違無かろう。
輜重と歩兵で無理にでも動きを止め、対応し切れないだけの弓矢で殺す、あるいは弱らせてから討つしかない。
董蕃はそう見切って、高策軍へ突入した敵に残る全軍を向けた。
緒戦である。先ず『武』と決戦出来るだけの状況を作るべき、と判断したのだ。
高策軍は早くも数千は減らされている気配だが、董蕃、趙敞の歩兵を加えて厚みを増し、敵を受け止めさせる。
その間、董蕃自らが騎兵の先頭に立ち、敵将を狙った。
──『最強』のもう一方の片割れ、智謀の兄は、武にはさほど優れぬと聞く。……ここで、斬る!
両輪の片方でも欠けば、戦車はまともに走れなくなるのだ。
麾下の騎兵一万五千は北方での実戦経験もある燕薊軍最精鋭。董蕃の動きにも手足の如く付いてくる。
高策軍の右を通り、前へ。
敵騎馬隊が味方歩兵の壁を喰い破ってくる位置を予測し、回り込んだ。
董蕃の勘は冴え渡っていたらしく、燕薊軍前方へ突き抜けてくる敵将を迎え撃つ形になった。
おそらくほぼ同数の騎馬隊同士。正面からぶつかりに行く。
敵将は、『武』の巨躯と比べれば三尺(約五十四センチメートル)以上劣ろうが、董蕃よりは一尺六寸(約二十八・八センチメートル)近く優れる。
──それがどうした! 武は、研鑽の果てにこそあるのだ!
自らを奮い立たせ、右手の長剣を渾身の力で敵将の首へ叩き付ける。
敵将も、背丈に合わせてか通常より大振りではあるが、長剣。
見事打ち合わせる形で防がれて、互いに獲物を後続の軍とした。
──噂とは、当てにならぬものよ。
届く範囲の敵兵を斬り捨てつつ、心中で独白する。
──儂と、同等ではないか。
口角の右端が、意図せずして歪む。
右手の痺れが、何故か心地良かった。
──思ったよりは、やるな。
戦場を後にしつつ、雲観は認識を改めた。
最初に突っ込んだ軍、歩兵の半ば以上は無理に徴兵した者達に違いない。如何に鬼族と雖も殆ど話にもならなかったが……後から来た騎兵はなかなかのものだった。
全力で当たれば勝てるつもりだが、雲観軍も相当血を流すことになる。
そう悟って、敵騎馬隊の背後へ抜けた勢いのまま南東へ退いたのだ。
敵は追ってこなかった。伏兵を警戒したのだろう。
玉英へ伝令を出し、北東へ転じてしばしの後──
「兄貴ぃ、どうだったぁ?」
雲超が合流。雲観の左に付いた。
互いの下では黒水馬同士が並び、親しげに声を上げる。互いの乗騎も一つ違いの兄弟なのだ。──組み合わせは弟兄だが。
「無事で何よりだ、雲超」
答える前に一言挟んだ。
今回は一撃して離脱するよう言い含めてあった。敵の全軍に囲まれ、馬の足が止まるようなことがあっては如何に雲超とて事だ。
騎兵突撃は数倍の歩兵に匹敵する威力を誇るが、それはあくまでも衝撃力の話。足の止まった騎兵は存外に脆い。
「指揮官とその麾下はなかなかだったぞ」
「なかなかってぇ、どれぐらいだぁ?」
「軍としては私が優勢。奴と一対一なら互角、あるいは紙一重負けるかもしれん」
「鍛えないからだぞぉ?」
弟に溜息を吐かれた。
大抵の場合は体格と経験の優位があり、長い生で本当に困ったことは無いが、仮に周華最高峰とやり合えば数合と保たずに斬り捨てられる自覚はあった。
そう、例えば眼の前の弟、雲超のような相手だ。
おそらく単なる定命の者の中では周華一の体格。そこへ飽く無き武への探究心まで宿っているのだから、正しく天賦である。
「お前のようにはなれぬのだ、雲超。何より──」
雲観は幼い頃から武への興味が薄かったものの、それが決定的になったのはこの弟の天賦に気付いたためだ。──亀甲族としては幼い部類に入る十代の頃に、七つ年下の弟に完膚無きまでに敗北すれば、否が応でも気付かされる。故に──
「──私はお前を通して戦えれば良いんだ」
雲観は、雲超を最大限活かしてやることに傾注した。
あまりにも一個の武に直向きなせいで軍略を学ぼうとしなかった弟のため、自身がそれを補完することにしたのだ。
数十年も経つ頃には、雲観、雲超が揃って戦場に出れば、兄達にも優る成果を出せるようになっていた。
三百年近くもそんなことを続けたため、副次的に雲超も最低限の軍略は身に付けてくれたが、あくまでも「兄貴が言ってたからぁ」という類で、芯から理解しているわけではない。
「でもよぉ、俺には兄貴がぁ、必要だけどさぁ」
──兄貴が本気出せばぁ、俺は要らないだろぉ?
とは、言わせなかった。
「私にも、お前が必要だよ、雲超」
先に、言ってやる。いくつ齢を重ねようと、これが兄の務めだ。
──自身の天賦の程に気付けない、愚かな弟よ。
「明日も、お前にしか頼めぬことがあるのだ」
髭も髪もない赤子のような顔を満面の笑みに変え、雲超が応える。
「あいよぉ兄貴ぃ。どうすればぁ、いいんだぁ?」
雲観は口角を上げ、一つずつ伝えた。
一万以上は斃されていた。
『武』に蹂躙された高堅の軍だけで七千。高策の軍で四千。補助に入らせた歩兵は敵に届かず、董蕃の騎兵は敵将の騎馬隊と痛み分け、といったところだった。
──見切られたな。
恵陽軍本隊がどれ程であれ、厳しい戦いになるだろう。少なくとも、太東の砦から追ってきた軍も合流するのだ。
今晩のうちに可能な限り削っておきたかったが、撤退する敵を一定以上に追いはしなかった。
夜に襲い来て一撃、離脱した敵の行く先等、罠があるに決まっていた。──相手は『最強』の『智』なのだ。
敵は二隊共南東へ向かったが、それすら怪しく思えてくる。明日は北から来る、と想定すべきか……いや、そう考えることすら術中かもしれない。
実戦は様々なことが判然としない中で決断するものだが、それにしても、後手に回った辛さが身に沁みた。
「空堀と土塁、輜重を用いて陣を組む。位置は──」
丘とすら言えない程の小高い一角を、弓と防禦に活かす。
幸い、編制内外の輜重隊が数万規模で居るのだ。こうした作業の道具には事欠かず、適宜兵を休ませつつ、どうにか朝までには最低限の備えを終えた。
朝日が昇り、まだ昼には至らない頃、恵陽軍──あるいは玉英軍──は燕薊軍を遠巻きに囲んでいた。
北、雲超軍、騎兵一万八千五百。
東、雲観軍、騎兵一万五千四百。
南、玉英軍、歩兵二万五千、騎兵一千。
計、歩兵二万五千、騎兵三万四千九百。
全軍で六万弱だが、この場の兵力ではまだ及んでいない。燕薊軍は九万近いのだ。
騎兵の差もあり、真っ向から当たれば勝てるつもりではあるが、互いの犠牲が大きくなる。
ましてや相手は、簡易とは言え陣地構築済み。危険ですらあった。
「ここまでは想定通りか」
玉英の呟きに、唯一寄り添う子祐はいつも通り、応えない。
高さ十一丈(約十九・八メートル)。多くの車輪を取り付けた、移動式の物見台の上である。明華の発案で鎮戎公軍全体に取り入れられていると云う。──なお、現地での僅かな調整のための移動式であって、長距離移動の際には分解した状態で持ち運ぶ。
玉英は相手陣地を見つめ続け、五つ数えた頃、
「見たいものは見た。子祐」
「ハッ!」
梯子である。子祐は後に昇り、先に降りることを譲らず、玉英も素直に受け容れていた。──これも、いつものことだ。
何事も無く下へ着き、
「雲観、雲超へ伝令。万事予定通りに。……以上。頼んだぞ」
「「ハッ!」」
待ち構えていた二名の若い犬族が、尾を激しく振りながら駆け去った。
「さて、雲超の勧告、楽しみだな」
玉英が子祐を見上げながら笑い掛けると、子祐も微かに口角を上げ、目を細めて頷いた。
董蕃は眉間に皺を寄せた。
「燕薊が……陥落?」
昼前。遠目にも『武』とわかる巨漢の、恐ろしいまでの大音声で伝えられたのだ。──降伏勧告である。
兵達に動揺が走る。当たり前だ。彼等の家、家族、あらゆる大切なものが燕薊にある。
もっと言えば、彼等が兵として従っているのは、その大切なものを護るために必要であるからに過ぎない。
──やられた。
燕薊軍からでは、真偽は確かめようがない。
しかし、燕薊を出てから四十日近く経つ。敵にほぼ包囲されている状況も相俟って、
──兵には事実としか聞こえぬだろう。
「兵を落ち着かせろ! 偽報だ! ここで負ければ本当に陥されるぞ!」
真実はどうあれ、声を張り上げて命じたが、
──無駄やもしれん。
陣地に籠ることで大半の兵が密集しており、情報も動揺も瞬時に広まった。
「兵ええええぇぇ~~~以外はああああぁぁ~~~無事いいいいぃぃ~~~だぞおおおおぉぉ~~~」
民が、家族が丸ごと質になったと思い込まされた……あるいは疑念を抱かされたのだ。対熊族の頃から従っている董蕃麾下は兎も角、他の兵が董蕃の命令に従う理由は……あまりにも薄れている。
勝手に飛び出さないだけましだが、惰性でその場に留まっているだけの軍に、どれ程の力があろうか。
──せめて、もう一軍。茗節の軍さえ無事ならば……。
董蕃の願いは、その夜、半ばだけ叶えられた。
「良くぞ戻った! 良くぞ!」
幕舎の外、董蕃は茗節を出迎えた。篝火があるにも拘らず、夜空の星が眩しく感じられる。
西から合流しようとした茗節軍が、遮るように出てきた南方の敵騎兵一千を突破。燕薊軍陣地まで辿り着いたのだ。
一見すると西方は包囲されていないようだが、見せ掛けだと実証したことも大きかった。──もし本隊が西から脱そうとすれば、太東の砦から追ってきた軍が出てくるのだろう。
「申し訳御座いません、董将軍。遅参致しました。西寿への道中、敵の騎兵一万と遭遇、どうにか撃退した頃には御下命に背くこととなっており……」
深深と頭を下げて釈明する茗節。だが董蕃にはもはやどうでも良いことだった。
「良い、良い。今ここへ駆け付けたことで不問とする。して、兵は如何程残っておる?」
董蕃は茗節の肩を自ら起こし、問うた。
「先の突破前で、騎兵三千、歩兵は四千余り……お借りした兵は殆ど失いました。どうか、この首でお赦し下さい」
項垂れる茗節。
騎兵ニ千、歩兵一万一千の損害である。突破の際、更に一千以上は脱落しただろう。
──さもありなん。
もし『智』の麾下にいくらか劣る騎馬隊だったとしても、茗節の麾下では抑えられず、元は董蕃麾下だった歩兵一万が奮戦してやっと勝負になった程度のはずだった。
その上、あの一千は動きからして精鋭中の精鋭。董蕃麾下や『智』の麾下よりも上に見えた。──たった一千という少数だからこそ出来る選り抜き、と思われた。
「良い。今は、この苦境を脱することが先決だ。力を尽くせ」
「ハッ!」
姿勢を正す茗節。
「では、早速だが、明朝、もう一度西を突破、南の敵の裏へ回ってくれ。おそらく歩兵の後ろに本陣があろう。そこを狙うのだ」
「承知致しました。ただ──」
言い淀む茗節。
「良い。言うてみよ」
「ハッ! しかし、ここでは……」
幕舎の前である。将兵の耳目があった。
「わかった。入れ」
共に幕舎へと入る。
董蕃と茗節だけである。
「これで良かろう?」
茗節は一度見廻して頷き、声を潜めて言った。
「申し上げます。実は兵の中に、あの騎兵一千に……『王族を見た』と言う者が居ります」
「何っ!?」
思わず声を荒げた。
「董将軍、どうか、お声を……」
「……うむ。して?」
「董将軍の前で粗相があってはなるまいと、我が隊に留めておりますが、御許可頂けるなら──」
「良い。儂が行く。案内せよ」
「ハッ!」
もし、あの日逃げ延びた王子か王女ならば。
もし、それを捕えたならば。
──敵軍は労せずして瓦解。陛下にも恵陽如きより遥かに上等な献上品となろう。
敵軍の多さ、先手を取って攻めて来たことの辻褄も合う。
王家に最も忠実とされる鎮戎公が、至高の旗印を得たためだ、と。
──だが、前線へ出したのが運の尽きよ。
南方の敵騎兵は一千のみ。如何に最精鋭であろうと、一千は一千。対して燕薊軍は茗節軍を加えて騎兵二万数千。
最速で当たれば、燕薊軍の歩兵が潰える前に決着を付けられよう。
董蕃は高鳴る鼓動に突き動かされるように、供も付けずに陣地外の茗節軍へと向かった。
「此方で御座います」
茗節が右手で幕舎を指し示し、頭を下げる。茗節自身の幕舎を、兵の監禁に使ったらしい。
「儂だけで話す。良いな」
「ハッ!」
暗い幕舎へ入り、鬼族男性としては平均程度の大きさの影を認め、極力抑えた声で、
「『三つ子半島』代官、董蕃である。そなた、王族を見たと──」
瞬間、董蕃の意識は途切れた。
宵は更け、三つの月が咲き誇るように輝いている。
玉英の幕舎も、月明かりを受けて白く輝いていた。
その、幕舎の中。
椅子に座った玉英の前へ、子祐がやや大柄な鬼族を引っ立てて来た。
口には布が噛まされ、両腕は背中側で何重にも縛られている。
「これなるは『三つ子半島』代官、董蕃に御座います」
董蕃を地へ押さえ付けつつ、子祐が頭を下げる。
「良くやってくれた。無事で何よりだ、子祐」
「有難き御言葉」
一層頭を下げる子祐。押さえる力は、緩めない。
玉英は頬を緩めて頷き、
「放して良い」
「ハッ!」
子祐は玉英の──玉英から見て──左脇に立った。更に左前には雲儼が控えている。反対側、玉英の右にはやはり琥珀が椅子に座っており、琥珀の右脇では文孝と伯久が万が一に備えていた。
「面を上げよ」
董蕃は身体を伏せたまま、従った。最初は火を吹くような目付きだったが、玉英と視線が交わった瞬間、一度目を見開いてからしばし閉じ、再び開けた時には燃え尽きていた。
「玉英である。一応訊いておくが、董蕃、そなた、私に仕える気はあるか?」
視線は逸らさず、頭を横に振る董蕃。
「そうか、残念だ。……特に言いたいことがなければ、このまま首を刎ねるが」
董蕃が何やら声を発した。──当然だが、くぐもっている。
「外してやれ」
文孝が慎重に布を取り、下がった。
「殿下、数手御教示頂けませぬか?」
「良かろう。なんだ?」
「いつ、進発なさいました?」
「先々月の二十二日、だった」
「やはり、燕薊軍よりも早く……では、恵水を、舟で?」
「そうだ」
「今一つ。茗節の内応は、いつ?」
「先月の二十日、と聞いている」
「陣を離れて……八日目」
董蕃は嗤ってから続ける。
「殿下、御注意下さいませ。あれはとんでもない食わせ者ですぞ」
「忠告、感謝する」
玉英は小さく頷いた。
「いえ、こちらこそ、死出の土産、心より感謝申し上げます。大変御無礼仕りました」
頭を下げた董蕃に、
「そうそう、ところでそなた、京洛での一事には加わっておったか?」
「ハッ」
「叔父上の目的は、聞いておらぬか?」
「ハッ、いいえ、儂如きには、何も」
「そうか、感謝する。……では、さらばだ」
「ハッ、有難う御座いました」
地に額を擦り付けた董蕃を、雲儼が引っ立てていった。
雲儼等と入れ替わるようにして、子祐よりニ寸(約三・六センチメートル)ばかり小さい鬼族と、玉英よりニ寸ばかり大きい黒貂族が入って来て自ら地に伏せた。
「面を上げよ」
両者共、ゆっくりと顔を上げる。
「玉英である。……茗節。此度は良くやってくれた。そなたが忠を尽くす限り、篤く用いよう」
「ハッ! 有難き幸せ」
頭を下げる茗節。
「何か望みはあるか?」
「御心のままに」
茗節は更に深く頭を下げた。
「良かろう。では将軍として今後も私を支えてくれ」
「ハッ!」
玉英は頷いて、黒貂族へ目を向けた。
「そなたは光扇の係累とか?」
光扇は、嘗て玉英が会ったことのある楽家の娘である。
「その弟、名は如、字は相毅に御座います」
相毅が恭しく一礼する。
「相毅、いつぞやは見掛けなかったが」
「熱発し、静養しておりました」
「そうだったか……家の者達も息災か?」
「父は先年病を得て亡くなり、姉が皆を率いております」
「そうか……冥福を祈る」
「心より感謝申し上げます」
再び頭を下げる相毅。
「うむ。……光扇とそなたは、私に力を貸してくれるか?」
楽家の影響力は大きい。『三つ子半島』では、特に。
「姉も私も、『藩屏たれ』と育てられました。臣下の末席にお加え頂ければ、幸い至極に御座います」
「感謝する。頼りにさせて貰うぞ」
「ハッ!」
三度、頭を下げる。
玉英は頷き、
「相毅、望みはあるか?」
「お許し頂けるなら、このまま茗将軍の副官を続けたく存じます」
「ほう……良かろう。では改めて茗節軍副官として任ずる。励めよ」
「ハッ!」
玉英は静かに深呼吸して、切り出す。
「さて、両名に諮りたいことがある。面を上げよ」
「「ハッ!」」
「残る燕薊軍について、何か策はあるか?」
茗節、相毅の目を順次見つめる。
「茗節より申し上げます」
「許す」
「有難き幸せ。……残る将軍は趙敞と高策のみに御座います。趙敞は万事無難を良しとする老将故、再度降伏を呼び掛ければ降るでしょう」
「ほう、高策の方は?」
玉英が僅かに目を見開く。
「高策は直情径行。兄、高堅の仇を取ろうと息巻いております」
茗節が一瞬相毅の方へ視線を動かした。
「もし生きていても、雲超殿が一騎打ちを呼び掛ければ、応じるかと」
「ふむ、良くわかった。相毅、何か意見はあるか?」
「いえ、茗将軍の策が宜しいかと存じます」
「そうか。そなた等の進言に感謝する。下がって良い」
「「ハッ!」」
茗節、相毅は一礼し、更に幾度かの礼を経て、去った。
「一先ず、朝まで軍は動かさぬ。皆、ご苦労だった。下がって良い」
「「「「ハッ!」」」」
子祐、雲儼、文孝、伯久が幕舎を出て行った。──子祐は幕舎の外に立った。
「面白い奴等じゃったのう?」
琥珀が微笑みながら首を傾げた。
「わかった?」
玉英は眉尻を下げて笑った。
「うむ。何故花を持たせようとするのじゃろう」
「多分、燕薊軍ではああやって出世させて来たんだろうね」
才気溢れる者の処世術の一種、それに……親愛だろうか。
「言ってやらんのかや?」
「どっちの方が楽かな?」
「ふむ。……早いうちに伝えてやった方が良いような気がするのう」
「ん~、うん、そうだね。もし彼等から言ってこなかったら、頃合いを見て伝えてみるよ」
「うむ。妾も同席しておる日にの!」
明らかに楽しむ気だった。
「うん、勿論。ありがとう、琥珀」
──相談に乗ってくれて。……いつも、隣に居てくれて。
玉英が満面の笑みを見せると、
「当然じゃ!」
琥珀も笑いながら、胸を張った。
「なあ、相毅」
「なんですか、茗将軍」
既に軍営は抜け、馬上である。
子祐が董蕃の意識を奪った後、董蕃の命令と偽って燕薊軍の陣地を脱出、そのまま玉英軍の裏手へ来たため、南東に置いてきた残りの茗節軍──無傷の歩兵一万一千、騎兵ニ千を迎えに行くのだ。
「殿下ってなぁ、怖ぇ御方だなぁ?」
「それはまた、どうして?」
「だってよぉ、ありゃあ、俺がお前の策のまんま話してるって、気付いてただろ?」
茗節自身、相毅の方を盗み見てしまったことは自覚していたが、
「あの一瞬だけじゃあねぇ。最初っからなんか、包み込むみてぇな気配でよぉ……」
茗節は唇の中央を上げて視線も上へ逃がし、戸惑いを表した。
「そうですね。少なくとも私達程度では、隠し事は出来ません」
先王の【麒麟の眼】について、相毅は当然父から聞いていた。玉英が受け継いでいる可能性があることはわかっていて試しに押し通してみたが、
──それすら見透かしておられた。
わざわざ最後に「そなた等の進言」等と言ったのだ。心構えをさせてくれるつもり、だった。
「まあ、本当に悪ぃ気分ってわけじゃあなかったけどよぉ……」
見透かされたことによる居心地の悪さと、謂わば悪戯を許されている状態が噛み合わないのだ。
「次にお目に掛かることがあれば、平身低頭、謝ってしまいましょう」
「素で、か?」
「素で、です」
「それはそれで怖ぇなぁ」
「大丈夫ですよ。必ず赦して下さいます」
「もうわかるってか?」
「まだ半ばですが、これについては、はい」
相毅は、いつものように笑った。
翌早朝。
燕薊軍陣地はまたも騒然となった。
総指揮を執っていた将軍が消えたのだ。
最初に気付いた董蕃の従者が少々声の大きい者だったため、趙敞が知った頃には手遅れだった。
「趙敞殿! 入らせて貰う!」
返事も待たずに幕舎へ踏み入ってきたのは高策。序列では趙敞より下だが、背丈は五寸(約九センチメートル)ばかり上。声と態度も大きかった。
「聞いたか!」
──お前の耳に入ることなら、儂の耳には疾うに入っているよ。
とは言わず、
「高策。董将軍の、ことか」
いつもの通り、緩慢に尋ねた。
「無論だ!」
座っている趙敞の眼の前、小さな机を高策の右手が叩いた。
「その机は、気に入っていてね。乱暴に、扱わないでくれ」
年長者らしい笑みを見せる。
「む、それは、すまなかった……だが、一大事だ!」
言ったそばからまた机を叩きそうになり、辛うじて途中で止めた高策。
──愚かだが、悪い奴というわけではない。惜しいな。
「そう、一大事、だ。……高策、お前、どうする気だ?」
「どうするも何も無い! 昨夜逃げ出した茗節軍を見ただろう! あの若造が裏切ったに違いないのだ! こうなれば死ぬまで戦うしかあるまい!!」
逃げ出した、というのは董蕃の不在を知ったからこその見方に過ぎないが、それ以上に、ここまで追い込まれて「死ぬまで戦う」等と──
──愚かさも過ぎれば救えぬ、か。
「わかった、高策。お前が、そう言うなら、良かろう。前は、任せる。董将軍の兵も、高堅軍も、お前が、率いろ」
「応よ! 流石趙敞殿、話がわかる! では急ぐ故失礼する!」
高策は早々に背を向け、
「ああ、しっかり、やれ」
趙敞の背後に控えていながら居ないようですらあった副官──孔苑が、音も無く踏み込んで剣を抜き打ち、高策の首を落とした。
「良くやった、孔苑」
孔苑は無言のまま趙敞の前に跪く。──鬼族男性の平均よりニ寸(約三・六センチメートル)近く小さく、やや華奢にすら見える肉体。齢は二十一になったばかり。
趙敞は身を屈めて孔苑の口を三度吸い、
「高策の始末は任せた。儂は、兵を纏める」
孔苑はやはり声も発さず、ただ頭を下げた。
終わる時は、淡淡と終わる。
そういうこともあるのだと、よくわかった。
昼前、玉英の幕舎に姿を見せた老将は、縋るように平伏した。
「面を上げよ」
玉英は色を付けずに言った。
周囲は、昨夜と同じである。
「ハハァ~ッ!」
「そなた、存念はあるか?」
「この趙敞、ご寛大な、御心に、ただ、ただ! 感謝する、ばかりで、御座います」
頭を下げる趙敞。
「趙敞、私に仕えるか?」
趙敞は頭を下げたまま一瞬視線を上げ、また下げて、
「もったい無き、もったい無き、御言葉! されど、お許し、頂けるなら、是非とも、是非とも! この老骨を、お使い、下さいませ」
「そうか。……ではそなたには、最初から言っておこう」
「何なり、と!」
玉英は琥珀と顔を見合わせ、少し笑ってから趙敞へ視線を戻し、
「韜晦は許さぬ」
これも色は付けず、しかし明瞭に宣言した。
趙敞は一瞬全身を震わせ、
「ハッ!」
ただ一言、応えた。
寿原の戦が決着してから四日後の夕刻。
恵北で雲鍾軍と睨み合いを続けていた波舵軍が、伝令を受けて降伏。
恵陽軍と燕薊軍の戦が、終結した。