第十七話 恵陽
当作平均より若干短い程度となっております。お付き合い頂ければ幸いです。
鎮戎公領域の東半分を支えている二本の川を、西から順に太水、恵水と呼ぶ。
両河川は東半分を更に三つへ区切るように南下しており、それらの地域はやはり西から太西、太東、恵北と呼ばれている。
太水、恵水共に中流域で鬼族領域へ入り、太水は大きく東へ転じてから、恵水は殆ど流れを変えないまま、東の劫海へと注ぐ。
何れも竜河には及ばないものの豊かな水量を誇り、周辺ではいくつもの有力家門が勃興した。
その代表こそが鎮戎公──雲理を輩出した亀甲族本流、玄家であり、玄家の根拠地たる恵陽は、現在でも鎮戎公領域の東の中心地となっている。
玉英一行の、今回の目的地だ。
周華北辺の初夏。
朝の日差しは暑過ぎず、寒過ぎず、心地良い具合を保っていた。行軍日和である。
三日間の準備を経て朔原を出た際、玉英は──表向き雲儼は──七万一千の兵を率いていた。
「緊張しているのか」
形の上では先鋒を牽引する雲儼に、夕照と共に右を行く玉英が声を掛けた。──夕照の方は、もう一つ右隣で琥珀を乗せて歩く白馬、皎月と何やら目で会話している。
「ハッ! 私には、荷が重いです」
いくらか強張った笑みを見せる雲儼。
何しろ、朔原軍の半数以上に当たる大軍である。
内訳は、緑野帰りの玉英麾下千騎以外に、歩兵五万三千、騎兵一万七千。──これには輜重隊一万八千を含んでいる。
種族で言えば、頑健な亀甲族五万四千を中心に、兵站に精通した犬族一万六千、状況次第で別格の活躍を見せる鳥翼族四百も加わっていた。
ただし、全軍が共に恵陽を目指すわけではなく、大半の兵の任は、熊族移民達のため、邑を建設、運営、防衛することである。
協力者として、旅慣れた商賈の集団──商隊が、担当の東西で大きく分けて二つ。大量の物資を延々連なる馬車で運びつつ、後に続いていた。
そうした大集団の中で、玉英等の周囲には子祐を初めとした元の玉英一行と──
「大丈夫だ! 群れは玲が率いる!」
──雲儼の妻にして熊族の姫、玲しか居ないため、口調に気を遣う必要は無かった。
「ええ、そうですね、玲。よろしくお願いします」
「いいぞ! 任せろ!」
玲の満面の笑みに、雲儼の余分な力が抜けた。
朔原から東の津まで三日。
軍の規模が大きくなり、特に輜重隊が多くなったことで動きに制約を受けている。鍛え上げられた兵達の健脚により猫族の徒歩と比べれば速いが、ほぼ騎兵のみでの移動と比べれば倍する刻を要した。
舟での渡渉となれば尚更である。
そこで軍を分け、別の二つの津も用いることとなっていた。
朔原東の津を便宜的に一の津とすれば、二の津は一の津から東へ九日、三の津は更に東へ六日行った先にある。──三の津では竜河が南下に転じているため、直接太西へ渉る。
一の津ではまず玉英麾下一万一千が渡渉。北岸の突雨以下と合流し、先んじて移民達との旅を再開。
次いで一万が後を追い、長城沿いに東へ進んで、二の津から渡渉する二万と共に太東へ向かう。よって東商隊はこの軍に身を寄せる。
三の津では三万と西商隊が渡渉。西商隊は最初の邑建設予定地へ移動して玉英等との合流を待つ。
なお、移民計画の要となる東西の商隊には、それぞれニ千の兵が護衛に付く手筈である。──最も賊徒に狙われ易いのは、彼等なのだ。
計画は恙無く進んだ。
太西二十箇所、太東十箇所の邑建設予定地へ東西合わせて五万六千もの兵が分散先行し、定住に不慣れな熊族のため、頼れる仲間として邑の基礎を築いていった。
無論、二千以上が暮らすための建築が即座に終わるわけもなく、玉英に率いられた移民が辿り着いた段階では邑の萌芽に過ぎなかったが、何も無いよりは遥かに過ごしやすく、温かかった。
近場で手に入らない物が必要となれば、各邑の輜重隊と各地を巡る商隊とが連携し、今後幾百年も続けられるような流通を整えていった。──元々太西、太東に住んでいた者達との調整も必要だったのだ。雲儼が老将田額を伴って直接交渉に当たることもあった。
防備に関しては、太東は鬼族領域との間に相当の高低差があり──鎮戎公領域は全体が高原ないし山岳地帯である──要所を固めていれば良かったが、太西は同じ高原地帯の中で鬼族領域と接しているため、より緊密に邑を配置した。
前線の隣邑同士は、歩兵の通常行軍でも一日半、熊族騎兵ならばやりようによっては半日掛からない距離となっている。
とは言え、全ての予定地を廻るだけでも太西で五十一日、太東でも三十日程掛かった。
恵陽へ到着したのは、朔原を発った日から数えて百二十六日目。
夏が過ぎ、秋も終わり、冬の訪れを実感し始める頃だった。
地名に用いる陽という字は、川の北側、もしくは山の南側を指す。──北に山を負いつつ南に川を望む場所があれば、「咸く陽」……即ち咸陽と名付けても良いだろう。
また、陰は反対に、川の南側、山の北側のことである。
以上に則れば、恵水中流域、北西から来た流れがやや東へ向かい、また南東へと転じる辺りの南側にある恵陽は、恵陰であるべきだが、そうはなっていない。
これは、嘗ては恵水の北側にあったため……もとい、恵陽の南側を流れていた恵水が、洪水によって今の位置へ移ったからに他ならない。
「──こうした経緯もあって、恵水では治水に力を入れている……と聞いています」
雲儼が、雲理や田額から教わった内容を玉英等に説明していた。
恵陽の負郭へ足を踏み入れたところである。
空は晴れ渡り、太陽は真南に近付きつつあるが、冬の装いでなければ耐え難い程度には冷え込んでいた。
輜重隊が十分な装備を用意してくれていなかったら、辛い旅になっていただろう。──馬達は、構わず元気そうだが。
「朔原や紅水の堀は、恵陽の真似じゃったのかや?」
恵陽も、都市の周囲に堀を巡らせているのだ。
「はい。父や爺……田額からは、そのように」
設計した当事者達である。これ以上の証言は無かった。
皆が頷く中、滅多なことでは口を挟まない梁水が尋ねた。
「不躾ですが、雲儼殿。渠(造られた水路。堀も渠の一種。)については何かご存知でしょうか?」
他所の邑でさえ勝手に作業し始めてしまう者も居る、という河狸(ビーバー!)族である。
恵陽までに幾本も目にした大規模な渠に、興味を抑え切れなかったようだ。──会話に関しては本来抑える必要は無いが、梁水自身が御伴として慎ましく在ろうとしているため、好きにさせていた。
「申し訳ありません梁水殿。あれ等については私は存じません。以前見たものとは些か──」
と、苦笑して続ける。
「──異なっているようです。城か屋敷で、兄上達へお訊き下されば、おそらく」
教えて貰えるだろう、ということだった。
「然様でしたか。ありがとうございます」
頭を下げる梁水に、
「いえ、その際は是非、共に」
笑顔で答える雲儼。
「妾も聞きたいのじゃ」
「私も聞きたい……故に、皆で聞くこととしよう」
「うむ!」
「「ハッ!」」
誰からともなく笑い合ううちに、およそ二十万の民を抱える城塞都市の門が、目前に迫っていた。
入城手続きは簡素なものだった。
早馬を出してあったのだ。最初の確認さえ済ませれば止められることも無かった。
長城と同様多重の──三重の門を、案内役の若い亀甲族に従い通り過ぎる。
齢三百六十に近い周華の長老、雲理が生まれ育った、亀甲族の古都。
至る所にある修復の痕跡が、乱世の城であることを物語っていた。
愛馬達を労い、用意された営舎で兵達を休ませ、玉英、琥珀、子祐、突雨、雲儼、玲、田額のみと身軽になった一行を謁見の間で迎えたのは、見た目のみならず、纏う雰囲気までもが雲理と良く似た亀甲族だった。
「よくぞ来た、雲儼」
深みのある声も似ている。
二段高い位置の巨大な椅子に座っているが、雲理と比べると、七寸(約十二・六センチメートル)ばかり小型の山、といったところか。それでも、跪いている一行からすれば、大きな山である。
「御無沙汰しております、一の兄上」
雲儼が頭を下げた。──「兄」とは言っているが、齢の差は三百。殆ど叔父のようなものだと云う。
「父上は、御壮健か」
「はい、このところは、益益」
「そうか、それは良かった。……田額も、久しいな」
老将に視線が向いた。
「御健勝の御様子、何よりで御座います、雲仁様」
懐かしむような響き。道中聞いていた通り、傅育を務めていただけあって、気安い仲のようだ。
「ああ、そなたもな」
「有難う御座います」
「せっかくだ、ゆるりと旧交を温めたい。皆下がれ」
三百年を超える繋がりである。疑う要素は無く、雲仁以外の恵陽の者達は去っていった。
しばしの後、子祐と雲儼、田額が周辺を検め、頭を下げて見せたところで、雲仁は頷いてから徐ろに立ち上がり、段を下りて玉英の前へ平伏し、額を床に打ち付けた。
「殿下、大変に礼を失し申した」
「良い。私の案だ。何を責めることがあろう」
玉英のことは隠せる限り隠しておく。
既定の方針に付き合わせた形なのだ。
「有難き御言葉、感謝に堪えませぬ」
再度、額を打ち付けている。──紛れもなく、雲理の長男だ。
「良いと言っておる。それより、話すべきことを、話そう」
そう言いながら、玉英は立ち上がった。
場所を移した。
雲仁の私室である。
出入り口以外、全ての壁面が竹簡や武具で埋まっている点は雲理の私室と同様だが、それら以上に、渠の模型と思しきものが目立った。……にも拘わらず広さには随分と余裕があり、中央の大机には周華の地図が広げられていた。
玉英の指示で、子祐や田額、それに別の間から呼び寄せた文孝、梁水、伯久等が十分な数の椅子を運び込み、その周囲に並べた。
準備を終えた部屋へ全員が入り、田額が見張りに立って早々、雲仁が玉英の足元へ跪いた。──跪いても尚高い位置にある頭を、無理矢理下げている。
「改めまして、御挨拶申し上げます。恵陽を任されております、玄岳が長子、名は勝、字は雲仁に御座います」
忠の篤さは親譲りのようだ。
「雲仁、雲理は我が頼みとするところ。そなたも同じである。構えず、楽にしてくれ」
「ハッ! 光栄に御座います」
玉英は眉尻を下げて笑い、
「一先ず座ることとしよう。そなたも座れ」
「しかし……」
「良いから座れ。雲理もそうした」
「ハッ!」
各々が着座したところで、一行の者達を紹介していった。
内実は知らせてあったため特に波乱は起きなかったが、突雨が名乗った瞬間、雲仁の目付きが僅かに鋭くなったのは致し方無いところだろう。
三百年の永きに亘った戦の相手、熊族の王──単于である。
仮令直接戦った者同士でなかろうと、意識しない方が不自然だった。
「安心しろって雲仁。俺と兄貴が生きてる間は何も起こさせねぇよ。……今度こそ、な」
最初はいつもの軽口のように、最後は玉英と琥珀へ視線を向け、芯に重いものがこびり付いた声で言った。
旅の中で玉英等は既に聞いていたが、あの蘭を襲った熊賊は、墨全、突雨の命に背いた一派だったらしい。……そのことを言っている。
玉英等と別れて後、国境沿いの全ての集団を引き締め直した、という話だった。
玉英が突雨、雲仁へそれぞれ頷いて見せると、突雨は苦苦しい笑みで、雲仁は口元を固く引き結んだまま頷いて応えた。
玉英はもう一度頷き、紹介を続けた。
「どの程度、出せる?」
玉英が問うた。
兵力についてである。
話は既に本題──恵陽、延いては鎮戎公領域の抱える問題とその解決策──へと入っていた。
国家専売となっている塩と鉄、酒のうち、特に塩と鉄に関連した事柄である。
塩は、『神』にとっては兎も角、定命の者にとっては無くてはならないものだ。──食していなければ徐々に心身の力を失い、いずれ死に至る。
主な産地は海に面した地域──周華北東部の王家直轄領『三つ子半島』やその南の竜爪族領域、更に南の鳥翼族領域であり、他に内陸の一部にある塩湖、塩池、塩井等も周辺を支えている。
各産地の製塩業者は莫大な利益を上げつつ近隣住民や商賈等との付き合いの中で値の上げ下げをし、多少の融通を利かせる面も備えていたが、国家専売制はその利益を奪い取り、更に増大させる意図を以て施行されており、必然的に値上げ。民を苦しめていた。
これに抗うように、鎮戎公領域では密かに塩池を開発。民の暮らしを支えて来た。
が、最近になって、その塩池周辺へ明らかに良からぬ目的を持った鬼族軍──『三つ子半島』代官の軍が出没するようになった。
様々手を尽くしたが、面従腹背も限界である……というのが第一の問題。
もう一方の鉄に関しては、良鉄を算出する『三つ子半島』からの移入を軍の出没と前後して止められており、民の暮らしを支え切れていないことが問題となっていた。
鉄製農具が農業生産を飛躍的に伸ばすことは明らかとなっており、塩程に生命と直結するわけではないにせよ、長い目で見れば必須である。
太西の数箇所では近年鉄鉱石が発見されているものの、製鉄業と呼べるまでになるかはまだわからず、早急に入手経路を確保しなければならなかった。
民を護ってこその領主なのだ。ましてや鎮戎公の一族である。
詰まる所、もはや戦は避け得ない情勢だった。故に先の問いが在り──
「最大限動員すれば、城塞都市と領域の守備を除いて先ず五万。加えて私達兄弟の私兵が一万五千ばかり」
「六万五千か」
「御意」
玉英軍は、雲儼と玲の一千騎、突雨の麾下ニ千騎、移民軍三千騎、歩兵一万から成る、一万六千である。
合わせれば、八万一千。
「代官は燕薊、相違無いか?」
燕薊は三つ子半島を管轄する、にも拘らず半島ではない場所──太水河口付近にある大都市である。
民の数、五十万。
鬼族領域には鎮戎公領域の七倍の民が暮らしているとされ、特に民が集中する平野部においては、同じ五十万都市と雖も朔原とは意味合いが異なる。
「ハッ! 通常十二万の兵を擁するものと思われます。うち三万は、恵北付近に居りますが」
通常とは、徴兵期間ではない農民や老兵、体格に優れた女性等を動員しない場合、という意味だ。それ等も含めれば、途方も無い数になる。鬼族の大半はいざとなれば戦えるのだ。──とは言え、滅多なことでは動員されない。
「将兵の練度は?」
「我が方は……」
雲仁はやや言い淀んだ。
「熊族との戦いを知る古参兵が四万五千、新兵が一万、将校は全員が古参、調練の上では全て精兵と自負しております。対して燕薊は──危険な推定で御座いますが──二万に満たぬかと」
古参兵が、である。
『三つ子半島』と称される地域の北辺は、鬼族領域としては唯一熊族領域に接している。
条件としては鎮戎公領域に近いが、燕薊は長城最寄りの城塞都市ではないため、さほど経験を積んでいないはずだ……といったところか。
「将は? 代官はあの楽家であろう?」
一生涯王家に忠実だった嘗ての名将の後裔であり、代々『三つ子半島』代官を任されて来た黒貂族だ。先祖はもっと東の出で、戦の折に鬼族に仕えたらしい。
幼い頃、当代の代官とその娘には会ったことがある。娘の方は当時、今の玉英よりも若いくらいの子供に過ぎなかったが、父の方は極めて厳格な男に見えた。練兵を怠るとは思えない。
「いえ、件の簒奪の後代官の交代があり、楽家と腹心の将校は粗方野に下った由」
玉英は目を見開いた。
──何故。
と一瞬思ったが、民から搾り取るためであろうことは想像に難くなかった。
楽家は民を安んずる。簒奪者麒角にとっては、邪魔だったのだろう。
玉英は民の困窮を想って瞼を固く閉じ、数瞬の後、再び雲仁へ目を向けた。
「勝機はある、か」
「御意」
戦に於て数は重要だが、それのみで勝敗が決するわけではない。
個々の兵を鍛え、集団としての動きを身に付け、各隊の力を理解した将校が率い、それらを将軍や王が適宜用いることで、初めて軍としての力を発揮するのだ。
無論、軍紀を徹底することは前提である。──統制の執れない軍等、賊徒と変わらない。否、賊徒よりも尚悪い。
「私の軍は、精兵三万と考えて良い。策はあるか?」
この四月半、いや、緑野から考えれば半年間、ただ行軍していたわけではない。
行軍しながら各陣形を身体に覚えさせ、夜には──馬は休ませつつ──簡易の擬戦もしばしば行って、各隊の連携を磨きに磨いて来たのだ。
玉英自身の実戦経験の乏しさが最大の不安材料だが、騎馬隊五千は突雨が率い、歩兵一万は田額が纏めており、何れの下にも熟練の将校が名を連ねる。また、麾下一千騎を率いる雲儼と玲の呼吸は絶妙で、玉英は全体の動きにさえ気を配っていれば良かった。
彼等の力を無駄にさえしなければ、少なく見積もっても倍する兵に相当する……それだけの自信はある。
「殿下、太西、太東の軍から一万騎、お借り出来ませんでしょうか? それと……舟旅はお好きで御座いますか?」
「ああ……そういうことか。誘引する将は?」
「我が弟達が遣って退けましょう」
雲仁が翳るところのない笑みを見せ、玉英も口角を上げて頷いた。