第十五話 緑野へ
当作平均よりほんの若干短めとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
「私も連れて行って下さい!」
会談翌日の夕刻。
犬族の青年商賈──陸繁に待ち伏せされていた。
会談当日は雲理が用意させた晩餐に揃って舌鼓を打ったため、突雨との約束を一日持ち越して食事処へ赴いた結果だ。
陸繁も件のやり取りを聞いていた。つまり、おそらくは昨日失敗しただろうに、またも店の前で待ち伏せているとは、存外気骨のある青年だ。
陸繁は背筋を伸ばし、綺麗に頭を下げている。育ちは悪くないものと見えた。
「俺ァいいけどよ、陸繁、お前どこへ行くかわかってんのか?」
突雨が当然の疑問を返すと、陸繁は頭を上げて──突雨を見上げて──答えた。
「熊族の国へ行かれるんでしょう?」
これもまた、当然の推測であった。
突雨とその兄──墨全が単于のお供であることを知っているのだ。
次には北帰するはずだ、というのは自然な発想だった。
「今回は……なんだ、奥地まで行くわけじゃねぇ。珍しいもんなんてねぇぞ?」
周華と熊族との交易自体は、長城完成後、互市と称する専用区画においてしばしば行われてきた。
互市で取り引きされた物品は、朔原や銀泉のような商業盛んな城塞都市へ出回る。
緑野は比較的長城に近い位置──騎乗と移動が生活となっている熊族の感覚でだが──という話だ。互市と大差無いとしても不思議ではなかった。
「ただ行きたいだけではないのです。お許し頂けるならですが、共に生活し、極北や西の果てへもお供させて頂きたいのです!」
熊族の国の途方も無い広さについて、全く知らないわけではないらしい。
陸繁は突雨を見上げたまま、張り詰めた表情で続けた。
「私は朔原の商家に生まれ、若輩ながら様々な物品を扱う機会に恵まれました。……いつしか、どのような生活の中でそれらが商品となり、皆を支えるようになったのか、確かめてみたくなったのです」
──美しい天下の全てを……周華に限らない、広大な天下の全てを、琥珀と一緒に見たい。
玉英自身の夢と、重なるところがあった。
「私は、構いませんよ」
出来得る限り、支援してやりたい。叶うなら、その先にあるものを、自分達にも見せてもらいたい。
──それはきっと、美しいものだから。
結局は自らの欲望に過ぎない。しかし、互いのためになる欲望を否定する理由はさほど無かった。──せいぜい、身分をどう取り繕うか、あるいは口止めと共に明かしてしまうのか、ということだが……今はただ、周華側の使者、とでも思わせておけば良い。
「ありがとうございますっ!」
突雨の左、やや後ろから口を出した玉英に、頭を下げる陸繁。……頭を上げながら、縋るように突雨を見上げた。
「……案内付けてやってもいいけどよぉ、儲けになるたぁ限らねぇし、途中で死ぬかもしれねぇ。……いいんだな?」
微かに目を細めて、ゆっくりと尋ねる突雨。
「覚悟の上です」
真っ直ぐに見返す陸繁。
「わぁった。んじゃ、一緒に食おうぜ」
決めてしまえば、あっさりしたものだ。
「ありがとうございます! 今度こそ、その……三杯くらいは奢らせて下さい!」
手放しの危険性は、学習したようだ。
「そう、そうらんれすよぉ、突雨殿も玉英殿も、かっこーつけれわっかりれ、わらしぁうぃっくりしらんれすから」
陸繁は、異様に酒に弱かった。
玉英や琥珀はまだ酒を嗜む気はなく、子祐は玉英の護り手として一切酒を口にしないため、比較対象が突雨と墨全しか居ない……こととは関係無い。
ほんの数口で、呂律が回らなくなったのだ。
商談に影響するのでは、とつい心配してしまう程の為体である。
「あっはっは、そりゃあ済まんかったな」
突雨はまだまだ酔ってはいないが、陽気に笑っている。
昨日陸繁の奢りということになっていたあの食事。
玉英がある程度の銭を置いていったのとは別に、突雨も各一皿と酒一杯分以外はしっかり払って行ったという。
陸繁は後からそれに気付き、「むしろ儲かってしまっている」と愕然とし、必死に待ち伏せた、と。──犬族らしい律儀者だ。
こうした経緯もあって、念願を懸けるなら貴方方だ、と思い切った。……そういう意味のことも、陸繁は語った。
「ここまで信頼されると、むず痒いものですね」
玉英が苦笑しながら溢すと、
「玉英が言うのかや!?」
「玉英が言うのか、あっはっは、こりゃあいい」
「自分自身のことは、案外見えていないものだ」
等と口々に言われ、目を白黒させることとなった。
最後の希望として視線を向けた先の子祐は、目を伏せ、静かに杯の水を飲んだ。──口の端が、僅かに上がっていた。
準備には、丸二日掛ける予定だった。
墨全、突雨及び彼等の麾下五百騎には何ら問題無かったが、玉英一行には衣服や食糧、馬の用意、そして雲理がどうしても付けると言って聞かなかった亀甲族精鋭五百騎の指揮系統及び軍紀の確認と、彼等のための同様の用意が必要だったのだ。──墨全までもが「むしろそうした方が良い」と強く言ったため、気を遣うことは已めた。
この精鋭五百騎の指揮権──兵権の上位は、玉英、琥珀、子祐と続いて、次が直接の指揮官たる雲儼となった。
準備二日目の昼。──陸繁も交えた夕食の、翌日。
「爺が付くのか」
雲儼が言うともなく呟く。
日当たりの良い練兵場にて顔を合わせた、雲儼に付く副将──田額のことである。
雲理の子供達にとっては、傅(教育係。)として馴染み深い相手だった。
「儂のような年寄り、鬱陶しく思われるやもしれませぬが、どうかご辛抱下さい、若」
皺を深めて笑う、雲理の腹心中の腹心。
雲理が戎を下した頃には既に仕えていたというのだから、仕えた期間だけでも優に三百年を超える功臣であり、周華の英雄に数えられるべき者でもある。
九寸(約十六・二センチメートル)程高い位置にある老将の顔を見上げながら、雲儼は笑った。
「いや、頼りにさせてもらうぞ、爺。私だけでは、到底お役に立てまい」
会談ではどうにか無難に過ごしたつもりだが、座っていただけであるにも拘らず、単于達──墨全と突雨には始終圧倒されていた自覚があった。
それが何によるものなのかはわからないが、きっと田額ならば導いてくれよう。
「ええ、喜んで、若」
信頼と甘えの入り混じった視線に応えて、田額も笑った。
肝心の軍の内実は、田額の他に、二百五十ずつを率いる副将格として老練窮まる上級将校が二名。
田額とその二名に補佐兼見習いとして付く、雲儼に近い世代の下級将校が二名ずつ、計六名。
五十を率いる隊長が各副将格の下に五名ずつ、計十名。
斥候や伝令、賊徒討伐等を前提とするならば五名や十名にも分かれ得るが、基本的には五十名で一塊だ。
雲儼と副将以下を含めれば正確には五百二十騎が、玉英麾下として加わることとなった。
なお、周華における将校は概ね大夫(中級貴族。)や士(下級貴族。)で占められているが、この軍は北辺における永い戦いの中で雲理が抱えるようになった、万を数える私兵の一部である。
名目上の身分はあれど、直接雲理に仕えてきた柵の少なさが、玉英に仕える上でも利点となっていた。
また、流石に鎮戎公麾下の精鋭だけあって、軍紀を締め直す必要は無かった。
朔原から東へ一日半。
昼を過ぎた頃、一行は竜河沿い、大規模な津(船着き場。)へ辿り着いた。
竜河中流域の幅は六十里(約二十四キロメートル)内外。余程の条件に恵まれなければ、単に渉ろうとして渉れるものではない。
長城の各所へ駆け付けるため、あるいはその先の熊族領域へ打って出るため、雲理は要所要所に津を築き、大量の舟を用意して軍の渡渉を可能としていた。
この津においては一度に最大二千──ということにしてあるが、本当のところは一万である。一行においては雲理から直接聞いた玉英と琥珀、子祐、雲儼、そして津の設計から関わっていた田額だけが知ることだ。
「これはまた……何とも壮大じゃのう」
馬上で目を見開く琥珀。
「京洛近郊のものより立派かもしれない」
顔を見合わせ、笑う玉英。
兵のみならず馬や兵糧(兵の食糧。)、馬糧(馬の飼料、餌。)、長城以北の寒さに対応する各種装備、長城の補修用資材等の移送を最大限円滑に為せるよう、見渡す限り並ぶ舟のそれぞれに対して、荷の積み下ろしを同時に進められるだけの広さと搬入経路が確保されていた。
水に親しむ亀甲族と、商売を通じて輸送に精通した犬族とが、双方の強みを発揮して造り上げた施設……と説明はされていたが、正しく、といった様相だ。
舟自体にも、馬を安定して運ぶための工夫が施されているように見えた。
玉英等が感心している間に、猫族と見紛う程に小柄な犬族が歩み出てきた。
見える範囲の体毛全てが色味の薄い白色で、犬族としては相当な年配であることが窺える。肌は、浅黒く焼けていた。
「ようこそいらっしゃいました。諸事承っております。私、この津の管理を任されております、譲回と申す者です。皆様の愛馬、お荷物をお預かりさせて頂きます。馬の多さ故、全体の進発完了までには四半刻(約三十分)から半刻(約一時間)程かかるかもしれません。どうかご寛恕下さい」
慣れているのだろう、温かみのある声で淀み無く言い切って、頭を下げた。
合計一千騎を超える軍を半刻程で全て進発させる、というのは俄には信じ難い迅速さだが、鎮戎公が重要拠点を任せている者だ。こうしたことで大言壮語するとも思えなかった。
玉英は雲儼に目で頷いて見せる。
「使節、雲儼である。全て了解した。よろしく頼む、譲回」
雲儼が馬上から返答する。
雲理と相談した結果、一先ずは雲儼を隠れ蓑にして行動する、という方針になっているのだ。
譲回は一度顔を上げ、
「光栄です、若君」
微笑みながら改めて深く礼をした。
自前の馬車で同行した陸繁や輜重隊(兵糧、馬糧、武具、その他諸々の軍が必要とする物品を管理、運搬する、兵站の末端を担う部隊。負傷者の移送等も行う。)も順次追い付き、来たそばから舟へと送り込まれていく。
作業の指示を出しているのは概ね犬族で、荷運びや馬の積み込みに従事しているのは亀甲族が多い。
齢を重ねることでより大きく強くなっていく亀甲族の特性を存分に活かしているのだ。
渡渉は最初に墨全が熊族軍を率いて順次行い、その最後に突雨が、次いで田額が亀甲族軍──謂わば雲儼軍と輜重隊を率いて渉り、玉英等は各作業を見届けた上で渉らせて貰った。
二刻半(約五時間)……は掛からなかったか。
舟に揺られる中で猫族の一部──若い数名──が不調を訴えたものの、転覆等の重大な事故には遭わず、全軍揃って竜河北岸の津で合流出来た。
西から東への流れに幾分乗ることを考え、南岸の津よりもやや東寄りへ造られていると云う。
逆方向の渡渉ではいくらか負担が大きくなるが、最も緊急性が高い長城への移動を優先した形だ。
最後に到着した雲儼に、譲回と似た、譲回よりはやや大柄な灰毛の犬族が声を掛け、
「こちらの津の指揮を任されております、譲回の次男、譲続と申します。若君、無事のお着き、お慶び申し上げます」
深く一礼した。
「雲儼である。滞り無く務めてくれた皆に、礼を述べたい」
雲儼も頭を下げた。
譲続も再度頭を下げ、尋ねた。
「勿体無いお言葉です。……本日は一泊されるということで宜しいですか?」
既に夜闇が辺りを包み込んでいる。
舟は篝火によって誘導されていたが、この先へ進むとなると、特に輜重隊の移動に向くとは言い難い。──亀甲族も夜目は利くが、無理をする場面では無かった。
「ああ、頼む」
「はい。では──」
「待て、先に馬の世話をしたい」
玉英一行のやり方は、既に雲儼も実践済みだ。
「承知しました。こちらへどうぞ」
如才なく案内に立つ譲続。
馬達は、いくつかの牧に放されているはずだった。
翌朝、譲続に見送られて津を後にし、更に一日半。
長城の数ある門の一つ……もとい大小五重の門を通り抜け、遂に長城の北側、熊族の領域へと一歩を踏み出した。
長城は防備の関係上、山や丘を利用している箇所が多い。
この門も例に洩れず、眼下にはどこまで続くのがわからない程の枯れ色の草原が広がっていた。
季節は春。しかしまだ、北の大地が新緑を迎えるには早かったらしい。
緑野までの一帯は極北と異なり、氷が張ることこそ無くなっているが、北へ寄った分だけ朔原よりは冷えると云う。
太陽は長城の向こう側──南の空にあり、長城の影に呑まれたままでは確かに肌寒かった。
「ひとっ駆けしねぇか、玉英、琥珀の嬢ちゃん」
しばらく歩を進めたところで、突雨が追い付いてきて言った。──長城を通過する際は雲儼を先頭にしたため、自然、雲儼軍が先、熊族軍は後に続く形だったのだ。
玉英が突雨の後ろ──左後方を振り返って見ると、熊族十騎程が後ろに付いていた。
全員が髭を蓄えており、体格も優れているが、年頃は突雨と同じかやや下に見える。
単に突雨を慕っている者達なのか、麾下中の麾下なのかはわからないが──
「私達では追い付けませんよ」
眉尻を下げて微笑む。
玉英も琥珀も、銀泉で借り受けた馬に再び乗っている。
特段悪い馬というわけではない。むしろ良馬の類だろう。……とは言え、比較対象が突雨の駆る駿馬となれば差は明白。続く十騎と比べても同様であろうことは見て取れた。
熊族の馬は強く、疾い。
熊族の体格では馬への負担も大きい。にも拘わらず意に介さず駆け、しかも周華の馬より数段疾いのだ。
馬の中でも、氏族の差のようなものがあるらしい。
「ああぁ、そう、だなぁ……悪ィ。緑野で馬を選んだら、な!」
眉根を寄せて謝ったかと思えば、満面の笑顔で『次』を提案する。
切り替えの早さは、突雨の魅力の一つだった。
「はい、是非」
玉英も満面の笑みを返すと、
「良し! そいじゃあな」
「はい、お気を付けて」
「応よ!」
突雨は十騎を引き連れ、風のように去っていった。
どこまでも続く草原。
雲儼軍が足並みを揃えて行軍する横──あるいは前──で、熊族軍が散らばって動く様子を幾度も見た。
馬が駆けたいように駆けさせ、休みたいように休ませる。
戦の最中ならばそうはいかない場面もあろうが、少なくとも脅威の無い行軍中はこんなものらしい。
全く統率されていないようでいて、毎夜、雲儼軍より遥かに早く予定地へ集まり、休んでいた。
今回は役目が役目だったため異なるが、本来は各々の兵が何頭もの空馬を連れ、乗り替えることで、全力の行軍ともなれば数倍以上の速度で移動する。──そんなことを、長城を越えて三日目の夕食の際、墨全が語った。
ただでさえ個々の馬が疾い上、軍全体が早馬方式で移動するのだから、居るはずの無いところに軍が居る……といった状況が頻発したはずである。
長城が如何に重要な役割を果たしてきたかを、長城の北へ来て、改めて学んだ。
その、長城を越えてから九日。
朔原から数えれば十三日後の夜。
緑野へ到着した。
長大な城壁を誇る城塞都市……等は無く、遠目にも大きめの天幕が、何十、何百では済まない程に並んでいる。
まずは、いつものように馬の世話を終えてから、場所を借りて預けた。──家畜を管理するための区画は無数にあった。
次いで墨全、突雨に導かれ、玉英は琥珀、子祐、雲儼と共に特別大きな天幕へ入った。
中から見れば明らかだが、多くの柱や板、杭、縄等を組み合わせ、何重にも布を重ねたような造りだ。
簡易に組み立てられる移動式の家だとは聞いていたが、思っていたよりもしっかりしている。
夜はまだ冷えるが、火も使えるようになっており、意外な程に過ごしやすい。
内部にはやや不思議な形の椅子が多数並んでおり、それぞれに毛織物が設えてあった。こちらも身体を冷やさないための工夫のようだ。
墨全と突雨は、奥に二つ並んだ大きい椅子へそれぞれ収まった。──その二脚の毛織物だけ一段と鮮やかなことを鑑みれば、権威も表しているのかもしれない。
「適当に座ってくれ」
墨全が手で示した。
「はい」「うむ」
玉英と琥珀は遠慮無く座った。
玉英は左、琥珀は右。玉英の前に墨全、琥珀の前に突雨、といった形だ。
「お前らも座れよ」
突雨が言う。
玉英が振り向いて頷いたことで、子祐、雲儼も席に着いた。──それぞれ玉英の左後ろ、琥珀の右後ろへ控えた。
一呼吸置いて。
「ま、なんだ。改まって言うことなんてのはそんなにねぇんだけどよ」
突雨が切り出した。
「まずは、良く来た」
玉英、琥珀……だけでなく、子祐や雲儼にも笑い掛ける。
「こちらこそ、ありがとうございます」
玉英も笑顔で応えた。
「来たかった場所の一つじゃからな」
琥珀も笑い、玉英と顔を見合わせて、花が咲いたように一層笑みを深くした。
「んなら、明日の話だ」
到着した段階で既に夜。
そのまま解散しなかったのは、話すべきことがあったからだ。
「元々、婿を連れてくる、ってことになってた」
雲儼と、熊族の姫君との婚姻の話だ。
「そりゃあ別にいいんだが……」
突雨にしては歯切れが悪く、
「戦になる」
墨全があっさりと引き取った、が──
「戦……ですか?」
「どういうことじゃ?」
受け取る側の思考が、繋がらなかった。
「正確に言えば、戦のようなものだが……五百騎、居るな?」
当然、雲儼軍のことだ。
「ええ。五百二十騎、ですが」
本来の編成に、指揮する者達を加えた数だ。
「その程度の端数は気にしなくても良い。問題は、雲儼の指揮で勝たねばならぬ、ということだ」
「誰に、いえ、何にですか?」
「熊族の姫……つまりは、俺達の妹とその軍に、だ」