第十四話 単于
当作平均より若干短めとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
玉英一行が朔原へ着いてから三日後。
熊族の王──単于との会談を同日昼に控えた早朝。
玉英は琥珀、子祐と共に、市場区画の一つを散策もとい視察していた。
「玉英っ! これも美味そうじゃのう!」
太陽のような笑顔を見せる琥珀。
「食べてみようか」
玉英が微笑むと、琥珀は更に瞳を輝かせ、
「うむ! 店主、三つじゃ!」
「まいどあり~」
下働きの若者に銭を手渡し、代わりに商品を受け取る。
今度こそ円滑に買えて、ご満悦だ。
朔原でも、商賈の類は犬族が多いようだ。城塞都市によっては規則外となりかねない程に早くから、勤勉に店を開いている。即ち、管轄する官吏も同様に働いているのだろう。
──これが発展の基、その一つか。
玉英は考えを巡らせつつ、やや離れて付いて来ていた子祐にも琥珀から受け取ったものを一つ渡し、既に数多い通行者達の邪魔をしないよう揃って移動して、一斉に齧り付いた。
「んん~っ! この肉汁……良い仕事をしておるのじゃ!」
「確かに、これは美味い」
顔を見合わせて笑った。
羊肉を埋め込んで蒸し上げた大きめの餅のようなものだ。全体に厚みがあり、雲理のところで出される料理程に洗練されてはいないものの、それでも十分に美味だった。
市井の食事の美味さは、城塞都市の隆盛の指標である。
玉英は時折琥珀と視線を交わし、微笑み合いながらゆっくりと咀嚼しているが、琥珀は小さな口一杯に頬張っている。
子祐はいつものように迅速に食べ終えていた。故に、反応出来た。
「掏摸だ! そいつに銭を盗られた、捕まえてくれっ!」
何軒か先で犬族の青年が叫ぶが早いか、視線で玉英の許可を得て駆け出し、五歩、六歩。別の通りへ出る直前で掏摸と思しき狐族の少年へ追い付いて叩き伏せ……ようとしたところで、先にそれを為した者が居た。
目の前の通りの右から歩いて来たらしい大男である。
件の少年の頭を握り込めそうな左の拳が、背に打ち付けられた形のまま止まっていた。
背丈は子祐より一尺(約十八センチメートル)近く大きく、胡服の上からでもわかる尋常ではない身体の厚み。
髭面の中で、円な黒い瞳が無邪気に輝いていた。
「子祐じゃねぇか! ってことは……おおい、玉英、琥珀の嬢ちゃん、元気そうだな!」
三月近く前に別れた突雨が、殆ど変わらぬ姿でそこに居た。──流石に身綺麗にはなっていたが。
「ああ、そのお供って奴よ」
公式には、鎮戎公と単于の……とされている会談のことだ。玉英の参加は、然るべき瞬間まで伏せてある。
単于は五百騎程度の麾下のみで来訪しているはずであり、この段階で単身行動している突雨は熊族内でも相当な地位と思えたが、
「何しろ暇でなぁ…………食べ歩きでも、と思ったら…………ああなったってわけだ」
食べては喋り、喋っては食べ、台詞とは裏腹に忙しい。
近所にあった食事処の一角で、円卓を囲んでいるのだ。
店の売りらしい小麦の純度が高い麺と湯気の上がる芳ばしい汁、羊肉の塊、甕のままの酒等が並び、突雨が幾度もおかわりしている。
突雨の右隣に座る掏摸被害者の犬族青年──赤茶色の短髪も爽やかな陸繁が「謝礼代わりです。お好きなだけどうぞ」と言ってしまった結果だ。──彼は途中から無言のまま青褪めていた。
陸繁の背丈は玉英と同程度。犬族としてはやや長身ながら痩身で、この大豪傑の食欲を想像出来ていたとは思えない。
手持ちで足らなければ、盗まれておいた方がましだったということにもなりかねず──
──その場合はいくらか支援してやろう。
内心ではどこまでいくのか興味を抱きつつ、会話を続けた。
「それにしても、絶妙な打ち方でしたね」
後に遺るような怪我はさせず、ただあの瞬間の動きだけを止めたのだ。
おかげで掏摸の少年は市場の警邏へ無事に引き渡せた。罪ある者としてではなく、保護されるべき者として。──雲理の名を出して頼んだため、悪いようにはされていないはずだ。
「兄貴程じゃあねぇけどな」
突雨は機嫌良く笑い、玉英の右隣で琥珀も「クフフフ」と口元を抑えて笑っている。唇の左端、微かに羊肉の脂が付いているのが見えた。豪快な一欠片を貰ったせいだろう。
「おっと、酒が無くなっちまった。こりゃあそろそろお開きだな」
既に皿は綺麗になっており、陸繁の銭は──
「足りた……良かった……」
あまり良いとは言えないような表情ではあるが、最悪の事態は免れたようだ。
会計前に計算を終えている辺り、商賈としては優秀なのだろう。
「恩に着るぜ陸繁! 何かあったら頼ってくれ!」
「いえっ、こちらっ、こそっ」
突雨は陸繁の背を軽く二度叩いてから玉英へ視線を戻して、
「夕飯はここいらで一緒にどうだ。兄貴も来てるからよ」
今回、玉英は水だけで済ませていたのだ。
「墨全殿も! わかりました。楽しみにしておきます」
「応よ。そいじゃあ、またな!」
「はい、また」
玉英が笑顔のまま一礼する間に、突雨の大きな背中は見えなくなっていた。
陸繁は立ち上がる気力が湧かないようだったため、いくらかの詫びと琥珀が食べた分を円卓へ置き、先に店を出た。
息抜きは終わり。
会談前の、最後の準備だ。
雲理邸の奥。玉英等が寝所とした、王族来訪時にのみ用いられる区画の明るい一室。
玉英は、未だ嘗て無い程に着飾っていた。
王族の象徴である黒地に金の縁取りを基調とした礼装に、やはり金糸で麒麟を模した細やかな縫い取りが美々しく連なり、麒麟の眼の部分だけが赤い糸で彩られている。
普段は隠している一房の──以前よりも豊かになった──金髪を最大限活かすように整えられたこれまた豊かな緑髪が、礼装以上に深い黒を以て在り様に重みを加えている。
最後に、顔を隠すように旒(特殊な飾り。)を前後へ垂らした冠を被って、完成だ。
王女でありながら、王──天子に準じる姿である。
「大変ご立派で御座います」
呼ばれて様子を見に来た雲理が、両膝を突いたまま頭を下げた。
「うむ。皆ご苦労であった。十分な褒美を取らせよ」
「ハッ」
玉英の偉容を整えるべく集った者達のことである。
大半は雲理の九女──母の血を継いで鳥翼族鶴氏族に生まれた雪華のお付きである、やはり鶴氏族の女性達だ。
礼装の仕立てに始まり礼法の指導に至るまで、王城の者達と遜色ない働きだった。
特に前者に関しては、「これが彼女達の戦なのだ」と言われれば断固頷くしかない程の仕事ぶりで、戦場における鬼族のような狂気すら孕んでおり、謂わば鬼気迫るようだった。
彼女等の両肩から生えているのは手ではなく翼だが、異様に器用な足──鳥翼族の足は大抵の場合、正しく鳥のような形をしている──も用いることで見事成し遂げたのだ。……この際、鳥翼族の足は手に準ずるものとして扱われ、礼には反さないということになっている。無論、清潔を保つ工夫は様々に為されているが。
「予定通り、基本的にはそなたに任せる。案内せよ」
「ハッ」
雲理の先導により、白地に銀の白虎模様の礼装を身に纏った雪の化身のような琥珀、黒地に黄を基調とした禁軍(近衛軍。)服に着替えた子祐とも合流し、刻限までに余裕を持って移動した。
会談の場は王族区画よりも更に奥、長い階の先に設けられた、天の照覧を希う祭壇、そのすぐ手前にある広場である。
本来の予定では、天の下で鎮戎公と単于が対等に向かい合う形となり、単なる客や遣いに対するものではない、最上級の扱いに他ならなかった。──なお『天』を崇める思想自体は、多少の差異こそあれ、熊族も共通している。より純粋と言っても良いかもしれない。
しかしながら、天子に準じた装束の玉英が加わったことで、意味するところに変化が生じた。
祭壇は、天子が天子たる所以、社稷(土地神と穀物神を祀ること。)を執り行う者としての権威を示す場である。
並び立つ者は無く、必然的に、天子の権威に膝を屈することこそが最低限の礼となるのだ。
──むしろこちらが礼を失してはおるまいか?
玉英はそう気にしたが、雲理曰く、
「単于は吾輩と対等の交渉をすることに同意したのです。殿下は吾輩の主にして天子の代理。これが正しい『礼』に御座います」
と。
少なくともこの点について、反論は出来なかった。
刻限を前にして各々が配置に就き、単于を待った。
玉英は北側の祭壇付近で儀礼用の筵に座して南面し、左右の脇に琥珀と子祐が控えて目を伏せ、いくらか下った位置には小さめの机と大きな筵が二揃い。机は筵同士の間に左右並べて置かれており、それぞれ竹簡が五巻ずつ載せられている。
玉英から見て左側の筵には雲理が両膝を突いて座っており、数歩外側の雲儼と共に静かに呼吸していた。
もし単于が誇りばかりの者であれば、ここへ足を運ぶことすら無かっただろう。
玉英──天子代理となる周華王女の参加も、会談目前で通知されたのだ。
だが、従者一名を連れて刻限に現れた『双王』の片割れは、不思議と愉快そうに息を漏らした以外粛粛と歩を進め、筵に両膝を突き、雲理と息を合わせて頭を垂れて見せた。当然、従者も同様である。
丁度旒と逆光が相俟って玉英からはいずれの顔も見えなかったが、雲理が語った武勇伝の主とその従者らしく、熊族としても図抜けた体格であることはわかった。
何か引っ掛かるものを感じたものの、
「面を上げよ」
先ずは一言だけ。
厳しい極北の地で生き残るため『名より実』を徹底する熊族、それも──兄弟で地位を分け合っているにせよ──歴代で最も偉大であろう単于が、民のためであれば屈辱にも甘んずる。
周華の側からすれば、懼るべき大器と言える。
その顔を今度こそ見ようとして──
「墨全殿? と……突雨殿?」
思わず名を呼んでいた。──視線を送らずにいた琥珀が一瞬にして顔を向ける。抑えていたはずの耳が立って忙しなく動き、尾はやや困惑するように動いた後、ゆったりと揺れ始めた。
──墨全殿が単于で、突雨殿が従者……いや、突雨殿こそがもう一方の単于か。さもありなん、だ。
合うと考えていたのとは違うところで辻褄が合った。
墨全と突雨ならば、「少年の身でありながら、それぞれ単身で一国を纏め上げた」とて、何ら違和感は無い。
「互いに、軽々には明かせぬ事情があったようだな、玉英殿」
髭に覆われた左頬を上げ、苦笑交じりに言う墨全。
突雨も僅かに両の眉尻を下げつつ、満面の笑みだ。
「そのようですね墨全殿、それに突雨殿……で、よろしいですか?」
単于として遇するべきか、問うた。
「ああ、それでいい。立場を知ったからといって、全て立場に拠らずとも良いだろう」
「水臭ぇこたぁ言いっこなし! そうだろ?」
旅の仲間としての関係を、無くしたくはない──その想いは、同じらしい。
「はい。では私のこともただ玉英、と」
玉英も漸く破顔した。
「承知した、玉英」
「応よ玉英! っと、そりゃいいんだが、どうすんだ?」
突雨が視線を遣った先。
雲理は、どうにか事態を呑み込もうというところに見えた。
墨全や突雨としばらく行動を共にしたことは話してあったが、然しもの鎮戎公も、それがよもや単于自身とは想定していなかったらしい。
それはそうだ。いくらなんでもこの兄弟は身軽過ぎた。──玉英が言えたことではないが。
「雲理、すまない。そういうことだったようだ」
「……いえ、殿下。吾輩であればもう一手読めたはずで御座いました」
雲理が頭を下げた。玉英が知らされていない情報も、何か得ていたのかもしれない。
「腹を割って話し合う、ということで良いな?」
雲理と打ち合わせた策はいくつもあったが、相手が墨全と突雨であれば、余分な肚の探り合いは不要だ。──単于としての両者のことは知らないが、民を想う気持ちは知っている。
「ハッ。どうかご随意に」
一層深く頭を下げる雲理。
「良し。……墨全殿、突雨殿、どうか楽になさって下さい」
「ああ、ありがたい」
「助かるぜ。慣れねぇこたぁするもんじゃねぇ」
文字通りに息を抜きながら、揃って胡坐になった。
「雲儼、突雨殿にも筵を」
「気にしねぇって」
突雨は左耳を掻きながら肩を竦める。
「私が気にするのです」
苦笑する突雨に無理矢理筵を使わせ、本題に入った。
二刻(約四時間)、話し合った。
三つの月も微かに見え始めて、やや肌寒くなる頃合いだ。
「──最後に確認しますが、一千ずつ、三十の邑を作り計三万が移住。各邑から百ずつ、計三千の兵を出す……で宜しいですね?」
汗ばむ肌に心地良い風を感じつつ、墨全へ尋ねた。
「ああ、異論はない。むしろ熊族の兵役としては少ないくらいだが、本当に良いのか?」
周華の──戦乱の世の──基準と比べても、少ない。
まして熊族は『馬上に生まれ馬上に死す』とまで言われる騎馬民族だ。幼子や女性ですら馬上からの弓──騎射に長じている。故に兵たり得る者も、実際に兵となる者も多いのだろう。しかし──
「ええ。第一陣は、やはり苦しいものでしょうから」
玉英は僅かに口角を上げて頷いた。
移住者の選抜は兵役前提で行われるため、殊更生活を圧迫するわけではない。
とは言え、これまでとは異なる土地、異なる生業を受け容れる……否、手探りで築き上げることになるのだ。
それだけでも、様々な困難に直面するだろう。
墨全はやや俯いて数瞬目を閉じ、改めて玉英を見つめて噛み締めるように言った。
「感謝する」
玉英は頭を横に振って答えた。
「いえ、こちらこそ、ありがたい限りです」
和平による北辺の緊張緩和こそが兵力換算で数十万の効果を持つ最大の利点であることは元より、騎兵単体として文句無く最強の熊族兵三千を玉英の麾下に置けることも大きかった。
無論、京洛の大軍相手となるとまるで不足だが、あくまでも第一陣である。
数年掛けて第二陣、第三陣が加わり、また熊族の指導の下で新たな騎兵を調練していけば、十分な戦力となるだろう。その上──
「何しろ俺が率いるんだからな! 期待してくれ!」
単于の片割れだと白状した突雨が、直接の指揮官として参加するのだ。しかも突雨自身の麾下から選りすぐった二千と共にである。
都合五千騎が、玉英軍となるのだ。
更には熊族が誇る強靭且つ俊敏な名馬達を周華側の牧に入れ、繁殖させる計画もある。──これは移住者達の生業の一部としてでもある。
「頼りにさせてもらいます」
突雨とも、笑い合う。
ただし、笑ってばかりもいられない。
この他様々な調整が為されたが、調整し切れていない、どうしても外せない問題が一つあった。
「ところで、婚姻の件は、改めてお断りします」
硬い表情で切り出す玉英。
墨全と突雨は、揃って眉根を寄せている。
元々は、鎮戎公の子息──三十そこそこと亀甲族としてはまだ若い雲儼と、熊族の姫君との婚姻により、今後の関係を安定させる狙いだった。
そこへ玉英がやって来たため、ならば玉英と、という話になるのは当然の帰結だった、が──
「『玉英は妾の番になるのじゃ』『誰にもやらぬぞ』──と、以前にも言うたはずじゃな?」
琥珀が黙っている訳も無かった。
瞳から溢れる黄金の光は氷にも似て、墨全と突雨を射抜く。
玉英は王族であり、政略結婚は本来義務ですらあった。その点から言えば、断る方が間違っている。──そんなことは、琥珀には関係無かった。
また、玉英自身も、琥珀を唯一無二の存在として大切にしていきたかった。
積み重ねてきた日々が、王族としての考え方をも変えたのだ。
「琥珀だけを、生涯の伴侶としたいのです」
紅玉の目を見開いて、ただただ真っ直ぐに、墨全を、突雨を見つめた。
稍あって。
「わぁかったって。俺等が悪かったよ、玉英、琥珀の嬢ちゃん」
突雨が右耳を撫で付けながら降参し、
「致し方ないな。和平どころではなくなってしまう」
墨全は冗談交じりに折れた。
玉英と琥珀も、深く溜息を吐く。
「では……」
「予定通り、鎮戎公の御子息に、ということで良いか」
墨全の言葉を受けて玉英が視線を遣り、雲理と雲儼が頭を下げる。こちらの親子はそもそも同意していたのだ。
「でもよ、祝言の立会くれぇは頼みてぇな」
熊族との関係上は天子の代理である玉英が立ち会うことで、一定の重みが生まれることは確かだった。
「それは構いませんが、何をすれば?」
「そりゃおめぇ、一緒に来んだよ」
「どちらへ?」
「あ~、こっちの言葉だと……緑野ってとこか? まだ居るはずだからな」
「つまり……」
「熊族の邑、のようなものだ、玉英。ここからだと……十二、三日というところか」
雲儼の、嫁取りの旅だった。