第十三話 雲理講
ほぼ当作平均程度の長さとなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
跪き燭台に照らされた山、もとい雲理は、玉英と琥珀が驚愕の声を上げても、谺を返すことは無かった。
ただ顔の皺を深め、円な黒い瞳で玉英を、次いで琥珀を見つめ、
「琥珀様、ですな。どうぞお立ち下さい。椅子を、いえ、食事も用意させましょう」
と雲儼に視線を遣り、自らの七男が駆け出すのを見てから、
「熊族については後程、ということで如何でしょう」
改めて琥珀へ、そして玉英へと視線を戻した。
琥珀は一瞬何か言い掛けたが、「良かろう」と立ち上がり、子祐を玉英のすぐ横まで呼び寄せた後、自身は離れて壁面の飾りらしきものを見分し始めた。
その琥珀には見向きもせず、
「殿下、吾輩を、お赦し下さいますか?」
唐突な言葉。
「何を、言っている?」
玉英は、紅玉の如き目を見開いて、雲理の瞳の奥を見つめた。
黒曜石そのものの深い輝き。
その奥の奥に、僅かに昏い揺らめきを感じた。
──敵意は無い。……苦悩、か?
雲理の側でも、玉英が何かを察したことを見て取ったらしい。
「【麒麟の眼】は、見事、受け継がれたようですな」
と目を細めた。
──麒麟の眼。
西王母もかつて言及していた。
最初は「麒麟の血が濃い」という言い方で、後に「眼を得たのは天運じゃったのう」と。
鬼族の王族は、他の者達とは一線も二線も画す資質を受け継いでいることが多い。
それは単純な膂力であったり耐久力であったり、現れ方は様々だが、その一点に於て並ぶ者は無いとされる。
とは言え所詮、資質は資質。
適した場、適した導き、適した鍛錬によって初めて開花するものに過ぎず、生涯自らのそれに気付かなかった王族も過去には存在した。
その点、玉英の父麒飛は兎角眼に優れ、早くから【麒麟の眼】と称えられた……と、玉英は極幼い頃、麒飛に自慢されたことがある。──いや、あれは願いだったのかもしれない。「そなたが継いでおるように」と。
幸いにして受け継がれた【麒麟の眼】は、様々な場面で玉英を助けてくれている。
庸才と評された身でありながら、掛け値なしに天下一である西王母の教えを一応は受容出来たのも、この【眼】のおかげだろう。
無論、その【眼】の成長すら、西王母が、切いて、磋いて、琢いて、磨き尽くすよう導いてくれたからに他ならないのだが。
その【麒麟の眼】を──赤い瞳を見つめたまま、雲理は語り始めた。
「吾輩は、何もしないことを選び続けてきたのです──」
──『あの日』の京洛にも、雲理の手の者は居た。
『北』について王の諮詢(諮問とほぼ同義。意見を問うこと。)へ迅速に応えるべく、一定の地位の者を王城へ置いてあったのだ。
また、朔原との間には早馬を多数配備してあったが、その練度と道程は周華の護りの要となるため、間者を警戒し、代々の王との間でだけ共有してきた。
結果、叛乱の報へ雲理が接したのは、簒奪者の思惑よりも数段早かったはずである。
雲理さえ決断すれば、簒奪者の態勢が整う前に、京洛を囲うことすら可能だったかもしれない。
しかし、まず間違いなく王と王妃は既に亡く、その子等の行方も安否も知れなかった。
旗印無しに、熊族の侵攻を招きかねない大規模な内戦を起こす決断には、踏み切れなかった。
最悪の展開となれば周華が滅ぶ。そうでなくても、鎮戎公の叛乱になるだけかもしれないのだ。
幾度思い返し、考え直しても、結論は変わらなかった。
変わらなかったが、もし知った瞬間に動いていれば、記憶の中では少年と赤子に過ぎない玉牙や玉英が、何処とも知れぬ場所で没することだけは避けられたかもしれない、と後悔しない日も無かった。
今夜、玉英の来訪により懊悩の日々は遂に終わったが──
「──お扶けに上がらなかったこの身の不義不忠、誠に申し訳御座いません」
雲理は額を床へ打ち付け、擦り付けて、山全体を震わせている。
玉英がこの部屋へ現れた際の雲理の第一声──「よくぞ、お越し下さいましたな、殿下」──は、およそ五年半その心身を苛んで来た、あらゆる感情を込めたものだったのかもしれない。
先程その激情を読み取れなかった己の未熟を、最初、玉英は恥じた。
だがすぐに、相手が周華一とも云われる──前提として『神』は除く──政治の怪物であることを思い出した。
その上で考えてみれば、未熟な【麒麟の眼】相手に内心を出し入れして見せ、次いで「内心を吐き出さざるを得なかった」かのように振る舞うことで、二重三重の構えで教育してくれていたのだと気付いた。
否、気付かされた。
雲理の極端に短く太い褐色の尾だけが、明らかに意図的に、しばしば不可思議な動きをしていたのだ。
またもや敢えてである。
──これが鎮戎公か。
今この瞬間の態度が、嘘ではないらしいことが何よりも恐ろしい。
つまり、どこまでも味方であると示しつつ、「主の器が足らなければ、このまま操らせて頂きます」と言わんばかりの、悪辣なまでの老獪さをも敢えて見せている。
兵力や領地といった外側からでもわかる部分ではなく、最も内側に在る雲理一個の遣い方を、自ら開示しているのだ。
──この者を従えるに相応しくならねばならない。
玉英は、覚悟を以て言う。
「力を失わずに居てくれたこと、感謝する。……私は未だ若い。大いに扶けよ」
雲理が、一層激しく頭を床へ擦り付けて答えた。
「ハッ! 全身全霊にて!!」
尾の不可解な動きは、已んでいた。
「面を上げよ」
雲理の忠誠は芯から理解出来たが、気にせざるを得ないことがあった。
「兄上の行方は、未だ知れぬのか?」
「はい、残念ながら」
視線を合わせたばかりの雲理が、やや目を伏せた。
「そうか……」
玉英の兄、玉牙は『あの日』の段階で齢二十二。
持って生まれた堂々たる体躯を王族として可能な限り鍛え上げ、武に関してはそうそう遅れを取らない域に達していたはずである。──当時の玉英では正確な見立ては出来なかったが、子祐にも劣らない、という意味のことを子祐自身が言っていたのだ。
──生きている。
そう信じるのであれば、玉英と同じ理由で密かに動き、頼ったはずの竜爪族と共に機を見ている……とも考えられた。
竜爪族は鬼族、白虎族と天下最強を競う程の戦力を誇るが、簒奪者たる麒角が鬼族軍を全て掌握しているとすれば、竜爪族単独では読み切れない賭けになる。
北の亀甲族がどう動くかはわからない、はずなのだ。
「竜爪族から使者は?」
もし竜爪族が亀甲族と組めたなら、賭けの分は相当に良くなる。
周華の大勢力のうち、残る西の白虎族や南の鳥翼族は、周華の外敵や竜爪族が不穏な動きをしない限り、滅多に俗世に関わる動きをしないためだ。──竜爪族は史上幾度か叛乱を起こし、粛清の末赦されてきた。……鬼族は、五神の一柱たる青龍に連なる一族の滅亡を、避けたのだ。
「いえ、一度も」
「それは」
──不自然ではないか?
賊徒が横行しているとは言っても、相応の精鋭が選ばれるだろう使者──一般に騎兵──を捕らえ得る程の者が、そうそう居るとは思えない。ほぼ全ての賊徒が、騎乗すら出来ないはずなのだ。
──鬼族軍に補足されたか?
使者の往来を全て監視するには、周華はあまりにも広い。考え難かった。
──そもそも使者を送っていない?
王家に忠実な鎮戎公へ玉牙の存在を明かせば、早々に同盟を纏められる可能性はある……が、
──万が一、を嫌ったか?
玉英がつい先程まで緊張し続けざるを得なかったのと同じ理由である。
──あるいは、雲理に信用され得ない、と考えたか。
ここ二百年は竜爪族の動向も平穏だったと聞くが、雲理はそれ以前の竜爪族の叛乱も体験している。
──だが仮に兄上について隠匿するにせよ、様子見を兼ねた打診はあって然るべきではないか?
北や西、南と異なり、東──支配領域で言えば京洛の南東方面──の竜爪族は、周華外の敵とは接していない。北と比べれば格段に動きやすかったはずだ。
「こちらから使者を送ったことは御座いますが」
「帰り着かなかった、と?」
「はい。行方知れずのままです」
雲理の瞳の奥が僅かに揺れた。
「何名送った」
「三名ずつの隊を二つ、それを二度」
「何かあった、と見るべきだな」
玉英が抑え気味の溜息を吐き、
「御意」
雲理はやや頭を下げた。
「使者は、白虎族や鳥翼族にも送ったのか?」
「いえ。大変畏れ多く……」
雲理が首を竦める。
無理もないことだった。
白虎族を治める西王母は元より、鳥翼族を治める祝融も又、『神』そのもの──朱雀である。
両者は、民の大半が山岳部に暮らす点や、連絡手段が殆ど存在しない点で似ている。
後者に関しては、『天下』の外側に暮らし、連絡を拒絶している節のある西王母と比べれば、『天下』の内側に取次所を設けている祝融の方が、いくらかましかもしれない。
『王族が訪ねれば一定期間内には連絡が付く』とされる鳥翼族の名目上の都、雀慶が、双龍河を挟んで鬼族領域と接しているのだ。
ただし、周華の定命の者の長老に当たる雲理ですら、この条件の例外ではない。「畏れ多く」というのはそれ故である。
「確かにそうだな。すまぬ」
「いえ」
「では、話を変えよう。熊族の──」
と言い掛けたところで、雲儼が他の部下と共に戻ったため、食事ということになった。
食事は、極めて上等なものだった。
柔らかく蒸した小麦の香り高い餅、丁寧に処理された羊肉の香草焼き、鶏肉を塩と共に茹で山椒等で味を整えた汁、茹で炒めた葉物野菜のごまダレ掛け、極め付きは脂の滴る豚肉に下味を付けて焼いたもの。
銀泉で十分な補給を受けたとは言え、荒野の道中で食せるものには限度があったため、久方ぶり、あるいは初めての豪華な食事に玉英も琥珀も笑みが絶えなかった。
控えているつもりだった子祐も、
「かの【麒麟の双角】と卓を共に出来る、せっかくの機会に御座いますから」
と雲理が玉英へ申し出、玉英が頷いたため、末席に加わった。
他の者達も、別の間で同様の物を饗されているという。
肉料理が多いこともあり、猫族達の喜ぶ顔が玉英等の目に浮かんだ。
存分に堪能した後、清冽な水で喉を潤し、本題へ戻った。
玉英等の食べっぷりを見て満面の笑みを浮かべていた雲理も、表情を引き締めた。
「熊族の王と会う、という話だったな」
互いに椅子へ座っているため、玉英がやや見上げる形になっているが、食事の際、気にしないよう言ってあった。
「ハッ」
雲理は頭を下げて応じる。
「私は熊族についてさほど知らぬ。そなたの良きように話して貰いたい」
「ハッ。では熊族の現状を極力正確にお伝えするべく、地理、歴史の概要と、過去二十年程の動向について申し上げます。……ただし、以下は周華側の記録及び吾輩が調査させた結果に過ぎず、熊族側の伝承は元より、事実とも異なる可能性が御座います。どうかご留意下さい」
「忠告感謝する。その調子で頼む」
玉英が微笑んで軽く頷くと、
「ハッ」
雲理はまた頭を下げ、ゆっくりと戻し終えてから、講義を始めた。
「それではまず基本から──」
周華の外側、北東から北西にかけての果てしなく広大な地域には山、森林、草原、砂漠等が存在しており、その殆どが高原や山岳に属する。
そもそも周華においても高原や山岳は相当な割合を占め、国家規模で連続した平野と呼べるのは、京洛近辺から東側へ広がる一帯と、北東の『三つ子半島』と称される王家直轄地のみである。──全体に、西へ進めば山がちになり、だからこそ竜河や双龍河は概ね東の海へ向かって流れ、周囲に肥沃な大地を形成してきた。
つまるところ、現状周華と周華以外を分けているのは、天然の地形以上に政治と軍事、即ち国家や種族であり、最もそれを象徴するものは長城である。
現在の長城は、ちょうど三百年前に雲理が当時の王へ進言し、許諾と支援を受けて、長い年月の末に完成させたものだ。
部族毎に分かれた数多の騎馬民族が、周華の民から度々略奪していたためである。──単なる交易に訪れる場合も稀には存在したが。
なお、雲理が完成させる以前にも近いことを考えた者は多く、各地に小規模な長城はあった。それらを改修・延長し、大規模な一つの長城としたことを「完成」と表現している。
その長城の外側を現在支配している者達こそが熊族だが、彼等とて最初から強大だったわけではない。
羊や馬を代表とする家畜を大量に飼い、草を喰ませては移動する遊牧騎馬民族は、先に述べたように部族毎に分かれていた。
戦による従属や滅亡|、婚姻による同盟及び同化、別地域への移動等によって部族数が減り、しかし個々の規模は増して、現在に至る。
元々生活様式が似ていたこともあり、次第に一定の価値観が醸成されてきたことも、大集団を形成する要因になった。『女は殺さず勝者が総取りする』『末子が跡を継ぐ』といった慣習──掟が代表的である。
ところが、二十年程前、事件が起こった。
既に北方を支配していた当時の熊族王──代々単于と称する──が、後継者の指名を掟と違えたのだ。
即ち、本来指名されるべき末の子とそのすぐ上の兄をそれぞれ西と北の他国へ体の良い質に出し、寵姫が生んだ更に上の子を後継者とした。
とは言え、そこから十年程は何事も無く過ぎた。本当に事件が起こったのは、その後だ。
質に出された子供達が、各々他国の中で伸し上がり、王となって、父たる単于への復讐に舞い戻ったのだ。
当時、それぞれ齢は十六と十八。孤独な他国においてこの若さで王──やはり単于と称するのだが紛らわしいためここでは措く──として認められた尋常ならざる武と信望は、北方において最も支配的だった本国すらも散散に打ち破り、続けて他部族も糾合あるいは討滅し、絶対的な王として北方諸部族を統一するに至った。
「それがここ十年程の、北方の戦乱に御座います」
前提はここまで、と深く礼をする雲理。
「何の寄す処も無い他国で……独力で成り上がったというのか? 兄弟揃って? しかも質とされた際は齢六と八だったということだろう?」
『あの日』の玉英ですら齢十だった。更に幼かったはずの子供達が、単独で?
「いや、それ以前に、どちらが王……単于となったのだ? やはり掟により末子か? それとも兄が?」
雲理は「対立した」とは言わなかった。平和的にどちらかが継いだのだろう。
「両方なのです」
「両方?」
玉英は思わず訝り、すぐに改めた。──臣下とは言え、知識と経験に卓越する相手への態度としては相応しくなかった。
「双王。彼等が名乗ったわけでは御座いませんが、吾輩はそう称しております」
雲理は僅かに口角を上げつつ、淡々と続ける。
「兄弟の何れもが単于であり、何れもが支配者として振る舞う。そういった形を、熊族は許容した、ということに御座います」
「……絶対的な王がそうと決めたなら、良かれ悪しかれ、それが新たな掟となる。そういうことか」
「御意」
両単于の権力は絶大だが、その分だけどう転ぶかわからない国家。
雲理はそう教えると同時に、玉英自身の振る舞いについても視点を提供している。
万が一、玉牙が見つからなかった場合は、玉英が王となるしかないのだ。また、王となるつもりで動いた先で、玉牙と再会出来た……という場合もあり得る。
──兄上が既に九泉の下(黄泉。死者の世界。)……等ということは無い、と信じたいが。
いずれにせよ、王たる者が権力を濫用することについて、戒められていることは確かだ。
玉英は目で礼を述べ、
「その双王いずれと会い、何を話す?」
「予定では兄の方と、議題は不可侵の約定、及び移住について、となっております」
「不可侵はわかるが、移住とは?」
「熊族を周華内部へ移住させたい、と先方からは伝えられております。交易であれば、長城の一部で行って参りましたが……」
「つまり……本格的な同盟への第一歩、ということか」
「御意に御座います」
雲理が頭を下げた。
「どこまで信じて良いものかはわからぬが、良い知らせだな」
「吾輩と致しましては、幾分か彼等の力を削いでから、が最善に御座いましたが……」
──叛乱によってそれどころではなくなった、と。
だが、もし本当に熊族と手を取り合えるなら、玉英陣営にとっても大いに利点はある。
警戒を解くことは出来ないまでも、移住者は質でもあるのだ。
無論、雲理や単于はそれを理解した上で、今後のために積み重ねていくつもりなのだろう。
それすら罠、という危険性を考慮から外すことは出来ないが、かつて灰猫族の邑で墨全が語った「次世代の王が立ち、この国――周華との関係も、変えようとしている」との言葉に、嘘は無かったと思っている。
もしかしたら、墨全や突雨が周華へ──と言っても西王母の領域だが──入って来ていたのも、その『次世代の王』の命令だったのかもしれないのだ。
少なくとも、そう考えると辻褄は合う。
──『辻褄を合わせようとしてはいけない』……わかっているよ、魯丞相。
王城で座学を叩き込んでくれていた老宰相の口癖を思い出し、玉英はふっと笑った。
思考の陥穽(落とし穴。)を戒める言である。
「相互に関連するかもしれない」と『自分が考えた』だけの事項を、「相互に関連する事項である」と思い込む。
実際にそうであるという可能性も勿論存在するが、断定するに足る材料も無しに断定していては、容易に罠へ嵌まる。
戦場では命取りになるのだ。
「私を使いたい、と先に言っておったのはソレか?」
玉英が悪戯程度に意趣返しすると、
「殿下のお立場を、に御座いますが……御意に」
軽く躱された。
微笑みを交わす。
「良かろう。熊族と結べれば周華の慶事だ。むしろ正統王家の健在を伝えておいた方が安全やもしれぬ」
世が乱れていることはどうせ知られているだろう。ならばせめて、それに歯止めを掛ける存在が居ることは示しておきたい。
──未だ少女と目されるであろうこの身が恨めしい……が、詮無きことだ。私は私にやれることをやるのみ。
この場に居たのが玉牙であれば、あるいは玉英に子祐程の恵まれた肉体があれば、いくらか説得力も変わったろうに。
口惜しさは慣れのままに受け流して、決意も新たに訊く。
「して、幾日後だ」
「ハッ、三日後の昼に御座います」
存外、早い。
「良し。それまでに、必要な知識を叩き込んでくれ」
「ハッ。……しかし今夜は、そろそろお休みになられては?」
頭を下げた雲理の言に、思い当たって右を見れば、正しく夢現といった様子の琥珀が居た。
玉英は眉尻を下げて微笑み、
「部屋を頼む」
「ハッ」
雲理の視線に応えて雲儼が案内し始め、玉英は琥珀を自ら背負って歩き、子祐は更にその後へ続いた。
改めて頭を下げたまま見送った雲理は、静かに独り言ちた。
「三百年。……三百年掛かったが、漸くここまで来たぞ、貴淑」
貴淑。
それは三百年前、熊族に殺された、雲理の最初の妻の名。
病で死んだと言い続けたため、実の子供達ですらそう信じており、もはや事実を知るものは雲理以外誰も居ない。
「君は、和平を望んでくれるだろう?」
祈るような声を聞いた者も、誰も居なかった。