第十二話 鎮戎公
当作比では短くなっております。お付き合い頂ければ幸いです。
馬はしばしば、『走るために生まれてきた』と称される。
しかし長期的には、速度を抑えて移動した方が、長い距離を少ない日数で往くことが出来ると云う。
『走る』だけではない。地形こそ選びはするものの、『移動』そのものが得意な動物なのだ。
実際、適宜休憩を挟みながら、玉英等を背に殆ど歩いていただけでも、一日経ってみれば、一行の徒歩と比べ三倍近くの距離を移動していた。
銀泉での騎乗修練に三日掛けた甲斐は、十分にあった、と言えた。
その騎乗修練では、得手不得手が大いに出た。
玉英は幼い頃に指導を受けていたため、馬へ話し掛けながら遊んでいるうちに勘を取り戻し、鐙にも慣れた。
琥珀は経験こそ無かったが、馬の方が、自らの導き方を教えるような動きを繰り返していた。──琥珀がどのような存在か、馬にもわかったらしい。
子祐は、元より熟練者である。鐙の使い方も即座に習得し、皆を指導して回った。
文孝は軍での生活により馬への慣れはあり、体格に恵まれているのもあって比較的すぐ乗れるようになったが、同じく体格に恵まれた梁水はどうにも馬に慣れず、三日目に漸く、という有り様だった。
猫族のうち、唯一体格的な問題の無い伯久は順当に初日から乗りこなし、叔益や仲権、季涼も、二日目には通常の馬を駆ることに成功した。──猫族にとって、鐙の効用は非常に大きかった。
残る猫族は概ね小型の馬を選び、楽楽習得する者も居れば、三日目の朝になっても転げ落ちることの方が多い、という者も居たが、どうにか全員、出発までには間に合わせた。
ともあれ、その後も各々が修練を積みつつ、広大な荒野を抜けて朔原へ辿り着いたのは、慎易が「多少手間取っても」と言った通り、十一日目の夕刻遅くのことだった。
朔原の負郭外縁部へ辿り着いた一行は、銀泉の際と同様、明朝まで待つ覚悟をしていた。
既に、三つの月が出ていたのだ。
「皆、共にここで待つのじゃ」
いつものように、琥珀が馬達へ言い聞かせると、全馬が了解の意を示すように耳を動かし、足を止めた。
だが、一行が馬から降り、銀泉で叩き込まれた『休む際には先ず馬の手入れから』を実践しようとしたところで、
「そこな者共、何奴か」
騎乗の亀甲族男性に見咎められた。
四名連れているが、全員が騎乗しており、揃いの武具と馬具を着けている。巡邏隊だろう。
それぞれが兵として十分な体格と立派な甲羅を有し、声を掛けてきた先頭の一名は、特に大柄だった。
「何奴とはご丁寧な挨拶じゃのう」
玉英に庇われつつ、琥珀が棘を含んだ言葉で返すと、二十頭の馬が一斉に巡邏隊へ目を向ける。……のみならず、巡邏隊の馬達も各々の騎乗者を見上げた。
一挙に見つめられ、見上げられた四名はいくらか動揺した様子だが、先頭の一名は円な黒い瞳で真っ直ぐ琥珀を見据え、
「確かに言葉は悪かった。詫びよう。しかし、身元と、朔原へ来た目的は話して貰いたい」
と落ち着いた声で言った。
巡邏隊の側からすれば、見慣れぬ二十名の、種族が入り混じった、それも全てが騎乗可能な一団を警戒するのは、当然の責務である。
「うむ。じゃが、一先ずそれを見よ」
各自が馬の首をゆっくりと撫でている間に、子祐が竹簡を手渡した。銀泉で慎易から預かったものだ。
「わかった」
男は、警戒こそ解かなかったが、読むことは拒絶しなかった。
それどころか、いくつも数えぬうちに読み終え、慌てて馬を降りて頭を下げ、言った。
「大変失礼致しました。私は雲儼。世に謂う鎮戎公の七男に当たる者です。どうか、父のところまでご案内させて下さい」
無論、断る理由は無い。琥珀は玉英と軽く頷き合って、
「良かろう。頼むのじゃ!」
と笑った。
朔原。
かつて周辺の支配者だった戎──犬族を屈服させた鎮戎公が、対熊族の要地として大きく発展させた城塞都市。
激しい実戦を前提とした外城壁は高さ九丈(約十六・二メートル)、厚さは底部で十三丈(約二十三・四メートル)に及び、王城都市京洛に次ぐ威容を月夜に誇っている。
同様に多重の内城壁も充実しているが、それ以上に圧巻なのは水の用い方である。
城塞都市の南西から西、北、そして東へと周囲を取り巻くように竜河が流れており、そこから引き入れた水が城壁外の堀を満たしている。これは、規模こそ異なるものの、紅水と同様の施策だ。
朔原の場合は更に、都市内水路としても整備され、移動、輸送、連絡と、様々に活用されている。周華のほぼ北限、荒野の都市とは思えぬ光景だ。
所謂南船北馬に反する形だが、水に親しむ者の多い亀甲族ならでは、と言えるかもしれない。
「なんとも不思議な光景じゃのう」
琥珀が目を輝かせ、笑っている。
琥珀の故郷では湯こそ湧いていたが、移動用の水路という発想は無かった。──必要無かった、とも言える。
「ああ、本当に」
玉英にとっても、伝え聞いた以上の水路の細やかさは驚嘆に値するもので、琥珀に負けず劣らず好奇心の虜となっていた。……とは言え、口調を整えておける程度には、節度を保った。
雲儼は、求められれば説明し、されど余計な口出しはせず、馬を引きながら先に立って歩いている。玉英等も同様に続いた。
都市中央を貫く大道である。
その道幅は、小さな邑であれば道の中へ建設出来てしまう程に広く、夕刻を過ぎて行き交う者は減っているが、それでも十分に多い。
対熊族の前線付近にありながら、五十万を超える民が暮らす、周華有数の大都市なのだ。
鎮戎公のお膝元、と称するに相応しい賑わいだった。
ここまで世話になった馬達を精一杯労い、内城に設けられた大規模な馬房へ預けた。
鎮戎公の麾下(『麾』は軍勢の指揮をとる旗のこと。『麾下』で旗の下に集う者、即ち指揮下にある者、部下の意。狭義では、直属の者を指す。)最精鋭、その愛馬達が暮らす一角である。
琥珀が立ち寄ったことで馬房の馬達が浮足立ち、馬匹の任にある者達まで混乱させてしまったのは、少々申し訳なかった。
閑話休題。
雲儼が声を掛ければ兵達は即座に道を開けた上、先触れも出してあったため、政庁の奥の奥、鎮戎公の邸宅へ辿り着くまで、さほど時間は掛からなかった。
鎮戎公。
周華北部を統べる者。
周華王室の最も信頼厚き盟友にして、英雄。
果たしてその風貌は、名望に見合うだけの異質なものだった。
椅子へ座っている状態ですら、子祐より大きい。立ち上がれば十五尺(約二百七十センチメートル)はあるだろう。
既に休んでいたためか、着物はゆったりとしたものだが、筋骨隆隆とはこのことか、と思わされる絶大な身体の厚み。
正しく、山のようだった。
その、山頂だけはほぼ黒に近い暗緑色に染まった褐色の山が、雲儼以外の部下は全て下がらせ、雲儼とよく似た──実態は逆だが──黒い瞳で玉英を見据えて、老いて尚覇気を含む、深みのある声を発した。
「よくぞ、お越し下さいましたな、殿下」
「「っ!」」
元より鎮戎公には全て話すつもりだったが、一目で見抜かれ、片膝を立てて跪いていた玉英と琥珀は息を呑んだ。
背後で控える子祐は流石に微動だにせず、玉英の剣にして盾、という本来の役割に徹している。──場所が場所である。他の者達は、別の間に留め置かれたままだ。
紅水の明華の部屋と似て非なる、竹簡と武具、異国の飾りらしきものが壁面を埋めた、広くて狭い部屋の中、玉英は顔を上げ、口角も上げて、言った。
「久しいな、鎮戎公」
鎮戎公も皺を深くして応える。
「まこと、お久しゅう御座います、殿下」
十五年前……玉英が誕生した直後、鎮戎公が王城を訪っていたということは、父王からも、子祐からも聞いていた。
玉英の記憶にあるはずもないのは互いに承知の上。
現在の姿勢と合わせて、縁と立場を辨えている、ということは伝わっただろう。
鎮戎公は、深めた皺を維持したまま、続ける。
「災難でしたなぁ、京洛のことは」
叛乱、そして簒奪のことを、言っている。
それも敢えて、軽い態度で。──三百年以上に亘って周華北部を治めてきた、軍事と政治の怪物が、この場で表情や言葉を過つことなどあり得ない。間違いなく、意図してのものだ。
玉英も、合わせるようにして答える。
「うむ、痛み入る。ついては、鎮戎公の助力を願いたい」
老獪窮まる相手には、同じ文脈で会話出来ることを最低限示した後、立場と若さのままに請うのが、一つの手筋である。
つまるところ、『甘える』のだ。
天下の様相を鑑みれば、甘えざるを得ないことは明白。この際、恥ずべきことではない。──玉英の兄、玉牙ならば、この五年半で相応の兵を揃え、堂々と命じることも出来たかもしれない……が、玉英にそれだけの力は無かった。
故に今、跪いている。
鎮戎公の瞳を真っ直ぐに見つめながら、玉英は、自身の心の臓の音を聞いていた。
今、この瞬間が、これまでの旅の……いや、『あの日』から続く日々の、一つの境なのだ。
鎮戎公を味方に付けられるか、殺すしかなくなるか。
無論道中、鎮戎公がどちらへ付くつもりか、情報を集めて来た。
十中八九、いやそれ以上の見込みで、周華の正統後継者たる玉牙や玉英の陣営に付いてくれるはずではあった。
鎮戎公の姪に当たる明華とて、「そんなの考えるまでもないってば! だってあの伯父さんだよ?」と断定していた。
だが、万が一、ということはあり得る。
そも、万が一にも、『あの日』がやって来るとは、思ってもみなかったのだ。
もしここで鎮戎公があちらへ付けば、全ての力を以て、脱さなければならない。──最大の脅威を、排除して。
それが、周華に如何なる混乱を齎すか、承知の上で。
最悪の事態を覚悟し、鎮戎公の次の言葉を待って、いくつ数えただろうか。
子祐よりも更に背後、部屋の入口に立つ雲儼の、微かに身動ぎする音がやけに大きく響いた頃──
「殿下の叔父、麒角が、王を僭称しております」
鎮戎公は、玉英等の緊張に気付かぬふりをしつつ、あっさりと立場を表明した。──僭称とは、身分に見合わぬ称号を名乗ることである。即ち、先の言は、『麒角の王位を認めていない』という意味になる。
「吾等玄一族は正統なる王家の藩屏。殿下がお立ちになると仰るなら、否やは御座いません」
鎮戎公は微笑みつつ立ち上がり、その巨体を玉英の前までゆっくりと動かして、跪いた。
「殿下が周華の民の王たらんとする限り、鎮戎公は殿下に従いましょう」
ここで謂う『民の王たらん』とは、王位のことではない。
民を安んずること──経世済民の志のことである。
加えて言えば、『鎮戎公は』とすることで、玄家のみではなく、北部を挙げて、の意を示している。──玉英が請うた通りに。
君臣が互いに跪き合う、等という礼法は無い。
玉英は立ち上がり、
「感謝する。……よろしく頼む」
微笑んで言った。
「ハッ」
鎮戎公はどうにか玉英を見下さないところまで頭を下げ、
「殿下、吾輩のことはどうか、雲理と」
「玉英だ、雲理」
「まだ、公にはなさらないおつもりで?」
「動きにくくなろう」
いくら鎮戎公──雲理の庇護を得たとしても、即座に開戦、というわけにはいかない。
仮に『玉英ここに在り』と今すぐ天下に示した場合、周華の民の血がどれ程流れることになるか、わかったものではない。
そうとは知られぬうちに極力優位な状況を作り、必勝の策を以て、可能な限り小さな戦で終わらせたいのだ。
その上、北部は熊族と接している。内戦に全力を傾ければ、大過を招くのは必定。
鎮戎公──雲理は、その程度のことは当然理解した上で、敢えて尋ね、更に重ねて、
「しかし……殿下のお立場を使わせて頂きたい策が、一つ御座いまして」
と、巨大な身体に見合わぬ窺うような視線を、敢えて見せている……ということすら敢えて伝えている。
そうすることで、手練手管の一端を、教えてくれているようだ。
「策とは何だ?」
「北の、熊族への対処に御座います。実は近いうちに彼の王と見えることになっておりまして」
「何だと!?」「何じゃと!?」
安堵しつつ、立ち上がる機を逸していた琥珀までもが、驚愕のあまり声を上げた。




