生きててよかった!(……いや、死んでよかった?)
(あれ……?)
なんだろう、この既視感。わたし、目の前の男性にものすごく見覚えがある。
サラサラした金色の長い髪、鋭い水色の瞳。スラリと長い手足に、あまり人を寄せ付けない雰囲気――。
(わかった! ブレディン様だ!)
合点がいったその瞬間、脳裏に記憶が押し寄せてくる。わたしとは違う『わたし』の記憶。間違いない。これは前世のわたしの記憶だ。
状況を整理しよう。
わたしはマヤ・アップグルント。十七歳。侯爵の娘だ。
両親は健在。三歳年上の兄が一人いて、家族仲良く領地で暮らしている。
幼い頃の記憶だってバッチリ残っている。わたしがわたしであることは間違いない。
そして、今しがた思い出した記憶――前世のわたし、摩耶は病弱で、人生の殆どを病院のベッドで過ごしていた。学校に通うこともできず、友達だっておらず、家か病院でジッと過ごす日々を送っていた。
そんなわたしを支えてくれたのは、大好きな少女漫画の存在だった。
漫画の主人公たちはいつも活き活きと人生を楽しんでいた。学校生活だったり、夢や魔法の世界だったり、恋愛だったり……わたしが経験してみたくて、けれどできないことを教えてくれた。漫画はわたしの生きがいだった。
けれど、わたしは病気に勝てなかった。
若くして亡くなった摩耶は、マヤとして生まれ変わったらしい。
……いや、生まれ変わったというより、もしかしたらここはわたしにとっての天国なのかもしれない。
だって、今目の前にいるのはブレディン・グアダルーペ様。摩耶が最終回まで見届けられなかった作品の――一番大好きだった漫画のヒーローなんだもの。
(生きててよかった! ……いや、死んでよかった?)
ここが天国だろうが、なんなら作者様の頭の中だとしても一向に構わない。神様には感謝しなきゃならない。このお話の続きが読めなかったのはわたしにとって唯一の心残りだったのだから。
それにしても、原作でこんな場面は見た覚えがない。もしかしたらこれって、お話の続きなんじゃなかろうか? 次号新展開って書いてあったし。だけど、わたしと一体なんの関係が……?
「マヤ、紹介しよう。彼はブレディン・グアダルーペ侯爵令息。お前の婚約者だよ」
わたしの隣でお父さまが微笑む。
「……は!?」
***
お父さまの嘘つき。ただのお茶会だって言ってたじゃん!
まさか婚約者を紹介する流れだなんて思ってなくて、わたしは大いにテンパってしまった。ブレディン様だって驚いていたし。こんなのってない。完全な騙し討ちだ。驚きすぎて、なんにも言葉が出てこなくて、早々に場を辞して部屋に引きこもってしまった。
(っていうか本気で無理)
だって、ブレディン様にはヒロインが――アイラがいるんだもの。二人は絶対に結ばれなきゃダメなんだもの。こんなところでポッと出の婚約者がでてくるなんてありえない。少女漫画はハッピーエンドじゃなきゃいけないのに!
「失礼します、お嬢様」
そのとき、部屋の外から声をかけられた。執事のアンセルだ。
「旦那様がお呼びです。ブレディン様ともう少し交流を深めるようにと。明日まで屋敷に滞在なさるので、それまでに……」
「いやだって言っといて」
こたえると、アンセルが部屋の中に入ってきた。
「お嬢様ならそうおっしゃると思ってました」
テーブルに色とりどりのスイーツが載ったティースタンドと、あんずの香りのする紅茶が並べられていく。先程のお茶会で食べ損ねたものだ。
「どうぞ」
「……いいの? アンセルがお父さまに怒られるんじゃない?」
「構いません。私はお嬢様の執事ですから」
アンセルが微笑む。わたしは思わずドキッとしてしまった。
(よく考えたら、アンセルってものすごいイケメン……っていうか、漫画映えしそうな執事よね)
艷やかな黒髪に神秘的な紫色の瞳、バカみたいに整った顔立ちをしていて、執事服がめちゃくちゃ似合っている。当然のようにハイスペックで文武両道、いつもわたしの思考を完璧に読み取って、やりたいようにやらせてくれる。漫画のキャラだって言われたらものすごくしっくりくるんだけど、脇キャラにしておくにはもったいない――それがわたしにとってのアンセルだ。
「あのさ……信じなくてもいいからわたしの話を聞いてくれる?」
「はい、なんでございましょう?」
「わたしね、前世の記憶を思い出したんだ」
それからわたしは、アンセルに自分のことを話して聞かせた。摩耶だったときのこと、この世界の話。漫画がなんなのかも描いて説明してみせた。それから、ブレディン様のことも。
「……なるほど。それでお茶会を早々に退室なさったのですね?」
「信じてくれるの?」
「もちろん。他でもないお嬢様の話ですから」
アンセルはそう言って穏やかに微笑む。わたしは思わず泣きそうになった。
「ありがとうアンセル。わたし、ブレディン様と結婚するなんて絶対に無理。彼にはアイラがいるし」
「アイラ……もしかしてアイラ・ブバスティス男爵令嬢のことでしょうか?」
アンセルが尋ねてくる。わたしは勢いよくうなずいた。
「そう! そのアイラ! さすが、アンセルはなんでも知っているわね」
「もちろん。お嬢様のためですから」
そっと瞳を細められ、わたしはまたもやドキリとする。
アンセルは情報通だ。貴族たちの名前やプロフィール、領地の状況はもとより、彼らを取り巻く複雑な人間関係にもかなり詳しい。誰と誰が不倫をしているとか、税金絡みの不正をしているとか――そういうこと。それをわたしのために調べているっていうんだから、実に献身的な執事だと思う。
「アイラってね、赤みを帯びた茶色のストレートロングヘアに、この世界でも珍しいピンクの愛らしい瞳をしているの。実家は貧乏だけど、心根の真っ直ぐな素敵な女の子でね、侯爵家の跡取りとして厳格に育てられてきたブレディン様の心を優しく解きほぐしたすごい人なのよ! それで、ブレディン様は……」
わたしがブレアイへの愛を語ると、アンセルは黙ってそれを聞いてくれる。前世では話し相手なんてほとんどいなかったから、相槌を打ってくれるだけでもとても嬉しいことだ。ひととおり二人のなれそめを話し終えると、アンセルは小さく息をついた。
「しかし、だとするとお嬢様にとっては困ったことになりましたね」
「そうなの! 二人の恋路を邪魔するのがわたしだなんて、悲しすぎるでしょう? ブレディン様とアイラは絶対にハッピーエンドになるって信じてたのにさ。……いや、今も信じてるんだけど! わたし、物語の結末を知らないから、これからどう立ち回ったらいいのかわからないんだもん」
――本当に、これが一番の問題で。
二人がこれからどんな行動をとるのか、どんな結末を迎えるのかをわたしは知らない。知っていたら、寸分違わず再現をしてみせるのに……! と思うけど、摩耶として生き返ることはできないんだもの。物語の結末を確認するすべはない。どうしたらいいかを想像しながら動くしかないのだ。
「ひとつ確認なのですが」
「なに?」
「お嬢様がブレディン様との結婚を望まれることは?」
「ない! 絶対にない! わたしはカプ厨なの。ブレディン様単推しでもなければ夢女でもない。ブレディン様はアイラと一緒にいてこそって思っているし!」
キャラ推しタイプの人なら『このキャラと……』って思うのかもしれないけど、わたしは少女漫画の民だから。少女漫画は基本カプ固定だし。ヒロインとヒーローは結ばれてこそって思うんだもん。ヒロインに転生したいとも思わないしね。
「そうですか」
「うん。だからね、もしも彼との結婚を回避できないなら、その前に自ら命を絶つ。だって、わたしにとってこれはアディショナルタイムみたいなものだし、ブレアイがわたしのせいで幸せになれないなんてダメだもん」
「物騒なことを……。では、そうならないように尽力いたしましょう」
「協力してくれるの?」
尋ねると、アンセルはわたしのそばに跪く。それからわたしを見上げつつ「お嬢様の御心のままに」と目を細めた。
とはいえ、一度決まった婚約を覆すことは難しい。我が家とブレディン様の家、双方に利益があるからこそ縁談が持ち上がったんだろうし、身分的にも同じ侯爵家同士で釣り合いがとれている。
漫画として読んでいた頃はまったく気にならなかったけど、男爵令嬢と侯爵令息って絶妙に身分差があるし、アイラの実家は貧乏だから、すんなり結婚とはいかないのだろう。
(切ないわぁ……)
アイラの心情を思うとものすごく切ない。多分……いや絶対、漫画ではそういう描写があるんだろうなあ。読者として読んでいたら、これから先の展開にハラハラドキドキしつつ、二人のハピエンを願っているに違いない。当事者となった今、そんな悠長なことは言ってられないんだけど。
「外堀は私が責任を持って埋めます。お嬢様はブレディン様やアイラ様に直接アプローチをなさってください」
「えっと……わたしから二人にアプローチするのはいいんだけど、外堀ってなに?」
「外堀は外堀です。どうぞ安心してお任せください」
アンセルがニコリと笑う。一体なにをする気かはわからないけど、頼もしいことこの上ない。
「それじゃ、任せた」
***
ひとまずわたしは、我が家に滞在しているブレディン様の元を訪れることにした。
元々お父さまから交流を深めるよう言われていたし、はからずも彼の婚約者となってしまった今、わたしを止める人間は誰もいない。ノックをすれば、彼はすぐに応じてくれた。
「あの、先程は大変失礼しました。気が動転してしまって……」
「構いません。正直俺も驚きましたし」
ブレディン様はそう言って困ったように笑う。すごく丁寧な受けこたえ。アイラに対してはもっとずっと砕けた口調なのに。……そう思うと感慨深いものがある。
(やっぱりアイラは特別なんだよね! わかるよ、わかる)
ブレディン様にとって素の自分を出せるのはアイラだけなんだって再確認できたことがとても嬉しい。尊い。
わたしは気を引き締めつつ、そっと身を乗り出した。
「嫌……ですよね?」
「え?」
「わたしと結婚なんて。ブレディン様にはもっと愛らしくて素敵な方のほうが似合います。というか、好きな人と結婚するのが一番ですもの。親同士が勝手に決めた婚約ですし、父にはわたしから……」
「いえ……嫌ではないです」
「嫌ではないです……?」
ブレディン様の言葉をそっくりそのまま繰り返しつつ、わたしは思わず目を見開く。
(嘘、嘘! 嘘だ。嫌じゃない? そんなバカな!)
だってだって、あなたにはアイラがいるじゃない! アイラ以外の女性と結婚とか無理でしょう? ありえないでしょう? というか、わたしが受け入れられないんですけど!
「俺は貴族です。貴族とは家や領民のために生きるものです。いつかはこんなふうに結婚をする日が来ると思っていました。こんな良縁はまたとありませんし」
「いや、そうかもしれないけど……!」
じゃあ、なに? ブレディン様ったらそんなことを思いながらアイラと交際していたの? やだ。無理。見損なった! ……というか、切なすぎて涙が出てくる。いや、貴族としてはこれが正しいのかもしれないけどさ。
「婚約者として、これから仲良くしていただけたら嬉しいです」
ブレディン様がそう言って微笑む。今にも泣き出しそうな表情で。……ああほら、やっぱり嘘。全然、いいと思ってないんじゃない。
(絶対、なんとかしなきゃ)
決意を新たに、わたしはひとり拳を握った。
***
しかしながら、ブレディン様が拒否していない以上、すぐには婚約解消できそうにない。
この場合、わたしから破棄するのが一番なんだろうけど『ブレディン様とアイラ様がハッピーエンドを迎えてほしいから』なんて理由が通る気がしないし、下手すりゃ余計に話がこじれる。というか、それが果たしてハッピーエンドといえるのか……激しく疑問だ。
(ああ、どう動くのが正解なのか誰か教えてほしい)
この漫画、隔週連載だったからな……。乙女ゲームみたいにルートが全部わかっていたら対処しようもあっただろうに。結末が唯一無二な上、その過程がわからないんじゃどうにもならない。
「お困りですか、お嬢様?」
「アンセル!」
ひとりでウンウン唸っていたら、アンセルがお茶を持ってきてくれた。本当によく気が利く執事だ。
「それがね……」
わたしはブレディン様とやりとりした内容をアンセルに説明した。アンセルは特段驚いた様子もなく「そうですか」と返事をする。
「まあ、想定の範囲内ですね」
「嘘!? わたしはすごくショックだったのよ? あそこでカッコよく『実は俺には心から愛する令嬢がいます。彼女を幸せにしたいから、あなたとは結婚できません』とか言ってほしかったのに!」
「……まあ、お嬢様がそう思われるのもわかります」
そう言ってアンセルは笑う。わたしは思わず唇を尖らせた。
「しかし、ブレディン様の立場を思えば、そう言うしかなかったのでしょう」
「え、なんで?」
「グアダルーペ領は先日、大規模な水害に遭われましたから」
「そんな……」
知らなかった。お父さまやアンセルはわたしにそういうことを教えてくれないんだもの。『マヤは知らなくていい』なんて言って、わたしを除け者にするんだから。
「そっか……それで多額の資金援助を必要としているのね。だからわたしと婚約を」
「そうです。もしも平時であれば、ブレディン様も婚約を受け入れてなかったかもしれません」
アンセルの言葉に、わたしは思わずうつむいてしまう。
(見損なったなんて思って悪かったな)
ブレディン様にもちゃんと事情があったのに。
しかし、だったらなおさら、わたしはどうしたらいいんだろう?
ブレディン様と偽装結婚して、アイラを実質的な妻にするとか。
――ダメだ。そんなの少女漫画のハッピーエンドじゃない。
でも、最悪そういう道も検討しなきゃならないかもしれないのかな? わたしは別に自分自身が幸せな結婚をしているところとか、あんまり想像したことがなかったし。……そう思いつつ、ちらりとアンセルのことを見る。なんでかチクッと胸が痛んだ。
「わたしも投資を勉強しとけばよかったな。そしたら、お父さまを介さずにブレディン様に資金援助ができたのに」
「……お嬢様に投資の才能があるとは思えませんね」
「知ってる。だから手を出してないんだよ」
笑ったら、少しだけ元気が出てきた。
現状を憂いても仕方がない。なにかきっと道はあるはずだもん。
「アイラ様に会いに行かれてみますか?」
「うん。そうしたいと思ってた」
会って、アイラの気持ちを確かめてみなきゃ。……一応、最悪のパターン(偽装結婚)も想定して。
「では、そのように手配いたしましょう」
アンセルはそう言うと、丁寧に頭を下げた。
***
数日後、わたしはアイラのもとへ向かった。
ブレディン様との婚約からすでに二週間。おそらくはもう事情を聞いている……と思う。
(しかし、一体どんな顔してアイラに会えばいいんだろう?)
アイラからすれば、わたしは横からブレディン様をかっさらっていこうとしているヒールだもん。会ってすぐに罵倒される可能性だってゼロじゃない。……いや、アイラは決してそういうタイプじゃないんだけどさ。
「ごめんください」
アイラの実家は、貴族にしては小さな邸宅だった。漫画で見たのとまったく同じ。こんなときだけれど、なんだか感動してしまう。
ややして、アイラがわたしたちを出迎えてくれた。アンセルが事前に訪問の連絡をしてくれていたからか、お茶菓子まで準備してある。多分だけどこれ、アイラの手作りだ。推しの気遣いに感激するやら、申し訳なく思うやら――後者のほうが若干強い。
「ありがとうございます。急にお邪魔してすみません」
「いえ、そんな。私のほうこそマヤ様には申し訳なく思っておりましたのに、わざわざご足労いただいてしまい……」
「申し訳なく?」
一体なにが? とわたしが思案するまもなく、アイラは大きく頭を下げた。
「申し訳ございません! 私がブレディン様とお付き合いをしていたこと、どなたかからお聞きになったのでしょう?」
「え? ええ、だけど謝られるようなことじゃ……」
むしろ発売日ごとに楽しませていただいてましたし。喜び萌え散らかしておりましたし。謝罪をされたり申し訳なく思われるようなことじゃ決してないわけで。
「いいえ! 私のようなものが分をわきまえず……本当に反省しております」
「なにを言っているんですか! あなたは大変素晴らしい女性です!」
「そんな……マヤ様は私のことをご存知ないから」
いいえ、存じ上げております。
落馬して行き倒れていたブレディン様を助けたこと、献身的な看病の様子、貴族の令嬢なのに料理が得意でブレディン様の胃袋をガッツリ掴んだこと、両親のために毎日必死で働いていること、ブレディン様からプレゼントされた髪飾りをとても大事にしていること、それからいつか彼の隣に並び立つ日を夢見て努力を重ねてきたことも……。
だけど、今そんなことを口にしたら、わたしがアイラ様のことを色々と調べ上げたみたいに聞こえるよね。普通に生活していたら知り得ないことだし。ものすごく……ものすごく悩ましいけど、きっと言わないほうがいいんだと思う。
「安心してください。私、もうブレディン様とは会いませんから」
「なっ!」
アイラとブレディン様が会わなくなる? そんなの無理! 絶対無理!
二人は一緒にいてこそだもん。互いの存在が心の支えであり、生きる理由なんだって、読んでたらちゃんと伝わってきたよ? それなのに、それなのに……!
「そんなことする必要ないわ! 今後もブレディン様と思う存分会ってください! というか、わたしは二人が結ばれることを望んでいて……」
「……だけど、私じゃダメなんです」
胸を締め付けられるような切ない声音。気づいたらアイラは泣いていた。
わたしは思わずアイラの側に駆け寄って、彼女の背中をそっと撫でる。
「私には豊かな領地も、政治的な後ろ盾も、彼の領地を立て直すだけの資金も、なにもありません。けれど、マヤ様にはそれがある……でしょう?」
「アイラ様……」
ダメだ。ずっとアイラの目線で物語を読んできたんだもの。アイラの気持ちが痛いほどわかる。わたしまで涙が出てきた。
愛する人の側にいたい。
力になりたい。
けれど、それができないもどかしさといったらたまらないだろう。
「どうかブレディン様の力になってあげてください。どうか、どうか……」
アイラの必死の懇願に、わたしはかける言葉が見つからなかった。
***
(詰んだ……)
天井を仰ぎつつ、わたしはひとりため息をつく。
あれ以降もわたしはアイラとブレディン様、それぞれにアプローチを続けていた。けれど、二人の返答は変わらない。わたしとの結婚は避けられないという話だった。偽装結婚を持ちかけるような雰囲気でもないし、正直言って参ってしまう。
「お嬢様、そろそろブレディン様のお屋敷に参りませんと」
「……ああ、そうだったわね」
今日はブレディン様のお屋敷に行くことになっている。あちらに行くのは今日がはじめてだ。
(せっかくの聖地巡礼なのにな……)
残念ながらまったくもって気乗りしない。
むしろ、見れば見るほど悲しくなってしまいそうだ。二人がここで幸せに過ごしていたのにな、って。
「ほら、そんな顔をなさらないで。せっかくの愛らしいお顔が台無しですよ?」
「そんなこと言ってくれるのはアンセルぐらいよ? ……だけど、お世辞でも嬉しい。ありがとう」
「いいえ、心からの本心ですよ」
アンセルはそう言って恭しくわたしの手を握る。胸がキュンと跳ねた。
(アンセルが貴族だったら良かったのになぁ)
……なんて、そんなことは考えたって意味がないってわかってる。
アンセルがわたしの側に仕えてくれているのは彼が平民だからだし、出会い方が違っていたらこんなふうに感じていたかもわからない。多分だけどアンセルを知る時間なんてほとんどないんだろうな。社交界デビューした途端すぐに結婚相手が決まりそうだもん。
というか、もしも身分が同じだとして、アンセルがわたしを好きになってくれるかはわからない。……今だって、仕えている主人だから親身になってくれてるだけかもしれないし。こんなふうに一々反応して喜んだり切なくなるのは無駄だって、頭ではわかってるのにな。
結局、馬車に揺られている間中、わたしはアンセルのことを考えていた。
「お嬢様、到着しましたよ」
「うん」
目の前には我が家に負けずとも劣らない立派なお屋敷。漫画で見たとおりのブレディン様のお屋敷だ。高台にあるためここは水害にはあっていないらしい。
「……やっぱり気が引けるなぁ」
「それでは、少しの間お庭を散策させていただきますか? 先方からは自由に見て回って構わないと言われておりますし」
「……うん。それで時間稼ぎになるなら」
ブレディン様に会いたくない。彼と婚約するのがわたしだなんて、どうしても受け入れられないんだもの。
こんな結末なら知らないほうが良かった……っていうのは読者のわがままだってわかってるけど。
(生きててよかったって思ったのにな……)
本当に。唯一の心残りを果たせたって思ったのに。
じわりと涙がにじんだそのときだった。
「ごめんなさい……もう会わないって決めていたのに」
風に乗って鈴のように可憐な声音が聞こえてくる。アイラの声だ。
急いであたりを見回すと、わたしたちから少し離れた位置にアイラとブレディン様を見つけた。すぐに木の陰に身を隠し、必死に耳をそばだてる。
「アイラ……」
「だけど、どうしても会いたくて……諦めきれなくて……」
一瞬の沈黙。ブレディン様がアイラのことを強く抱きしめた。
「俺も。本当はアイラに会いたかった。……アイラと結婚したいって思ってた」
(うわぁあ! うわぁああああ)
これです先生! わたしはこの画が見たかったんです!
二人は互いを抱きしめながら泣いている。わたしも一緒になってむせび泣いている。
(よかった……よかった…………)
やっぱりわたし、生きててよかった。いや、死んでよかった? もうどっちでもいいや。だって、今がすごく幸せだから。
(ここまできたら二人はきっと大丈夫。一緒に生きていく方法を探していくに違いないわ)
というかそうであってほしい! この二人を幸せにしてくれるなにかがあるって信じたい。
だけど、この状況を覆せるなにかってなんなんだろう?
単純にわたしとの婚約を解消したところで、グアダルーペ領の問題はなにひとつ解決できないし――。
「……お嬢様、実は今日、私は旦那様から頼み事をされているのです」
アンセルが耳元でささやく。わたしは思わず振り返った。
「頼み事?」
一体なんだろう? わたしが首を傾げると、アンセルはわたしの側にひざまずいた。
「ええ。此度の婚約をこちらから破棄することのお詫びと、事の顛末を説明してくるように、と」
「え……?」
婚約を破棄? しかもわたしから? なにそれ、当事者のわたしが聞いてない。なにも知らないんですけど。
目を丸くして驚いているわたしに、アンセルは優しく微笑んだ。
「お嬢様はディアブローゼ次期公爵との婚約が決まりましたので」
「婚約? ディアブローゼ次期公爵って……だけど、公爵は奥様との間に後継者が生まれなかったって話でしょう? 傍系から養子をとられたのかしら?」
戸惑いながら尋ねるとアンセルはさらに笑みを深める。それからわたしの手をギュッと握った。
「……ええ。公爵の実の子である『私』があとを継ぐことになりましたので」
「え……?」
公爵の実の子? 私……ってことはアンセルが次期公爵ってこと?
状況がまったく飲み込めていないわたしに、アンセルは静かに息をついた。
「私には母親がおりません」
「知ってる。だからお祖父様である執事長のところに――わたしの屋敷に来たのよね」
「ええ。母は生前ディアブローゼ公爵家に侍女として勤めていたところ、現公爵と恋に落ち、私を身ごもったのです。けれど、身分の差から妻として受け入れてはもらえず……」
「まあ、そうでしょうね」
相手は公爵だもの。受け入れてもらえなくて当然というか、そのへんの事情についてはわからなくはない。
「そうして月日が経ち、公爵――父は妻を娶ったのですが二人の間には子ができず……私のところに話が回ってきた、というわけです」
「……そう」
状況はわかった。だけど、普通庶子を跡継ぎにするだろうか? 分家の優秀な人間を引き抜くのが妥当な気がするんだけど。
「公爵家に連なる人間のなかで私以上に優秀な人間はおりませんでしたし、公爵の妻――私の義母がたいそう私を気に入ってくださいまして」
「公爵夫人が?」
アンセルが優秀なのは疑いようのない事実だ。どこで学んできたのか、ありとあらゆる知識と技術を身につけているし、礼儀作法だったり領地経営術だったり投資だったり、そんじょそこらの貴族令息よりもすごい人だってわかってる。
だけど、公爵夫人に気に入られるなんて――いや、アンセル人に取り入ることとか、根回し関係が上手だけど! ともすれば憎んだり蔑まれたりしそうなものなのに、いったいどんな手を使ったのやら……。
「いいですか、お嬢様。あなたは私の妻になるんです」
考え込んでいたわたしにアンセルが言う。思わず心臓がドキッと跳ねた。
「でも……でもさ、そしたらグアダルーペ領は――ブレディン様はどうなっちゃうの?」
「心配ございません。私から資金援助をさせていただく手はずになっています。加えて、人的支援もさせていただきますので、婚約破棄の対価としては十分かと」
アンセルが微笑む。目頭が熱くなった。
「アイラ様のご実家も新たな取引先が見つかったらしいので、これから経済的に立て直していかれるでしょう。お二人の間に多少の身分の差はあれど、それを覆せるだけの想いがおありのようですから、お嬢様が心配することはございません」
「新たな取引先が見つかったらしいって……どう考えてもアンセルの差金だよね?」
「さあ、なんのことでしょう?」
おどけたように笑うアンセルを見ながら、いよいよ涙が込み上げてくる。
「アンセルはそれでいいの?」
「……どういうことです?」
「だって、わたしの願いを叶えるために色々と自分を犠牲にしているじゃない? 公爵になったら絶対に今より窮屈な生活を送る羽目になるし、せっかく投資で貯めたお金も投げ打ってしまって……しかも、結婚相手がわたしだなんて。本当に、いいの?」
不安でドキドキと心臓が鳴り響く。アンセルはほんのりと目を見開いたあと、わたしの手の甲にそっと口づけた。
「以前申し上げたでしょう? 外堀は私が責任を持って埋めます、と」
「うん、聞いた。だけどそれが、わたしのためにアンセルが自分を犠牲にすることだとは思ってなかったし」
「……お嬢様はバカですね」
アンセルは立ち上がり、わたしのことを抱きしめた。ふわりと香るシトラスの香り。思わず胸がキュッとなる。
「たとえお嬢様が望まずとも、私は今と全く同じことをしていました。お嬢様のため、というのはすべて建前です。私は自らの意志で外堀を埋めました。お嬢様が――マヤ様のことが好きだから」
アンセルの腕に力がこもる。瞳から涙がポタポタとこぼれ落ちた。
「ですから私は、どうしてもあなたと結婚したかったんです」
「……うん」
「十年かけてコツコツと準備をしてきました。けれど、まさか私が情報を得るまもなくブレディン様との婚約が決まるとは思わなくて。遅れを取ったのは一生の不覚です」
「アンセルでも失敗することがあるのね」
「面目ありません。今日まで黙っていたのはマヤ様を驚かせたかったから……お好きでしょう? サプライズが」
「そうだけど! ちょっとぐらい、なにを考えているか教えてくれたってよかったのに」
アンセルの唇が額に触れる。頬を撫でられ、思わずぎゅっと目をつぶる。アンセルがクスリと笑う声がして、わたしは彼を睨みつけた。
「……ねえ、わたしの気持ちは聞かないの?」
「はい。だって、私と一緒でしょう?」
チュッと触れるだけの口づけをされ、身体がブワッと熱くなる。
やっぱり、アンセルにはなにもかもお見通しらしい。ちゃんと隠していたはずなのに。……だって、アンセルと結ばれることはないって思っていたし。だけど――
「うん」
アンセルの言うとおり。わたしはアンセルのことが好きなんだもん。
前世を思い出すまでは彼と生きていく想像なんてできなかった。だけど、もしも自分の気持ちに素直になっていいのなら――わたしはアンセルと一緒に生きていきたいと思う。
これが原作通りの結末なのかはわからない。けれど、ここから先は筋書きのないわたし自身の人生だ。
「私がマヤ様を幸せにします。いつも何度でも、あなたの望む幸せをご覧に入れますよ」
アンセルが笑う。それはこれまで見たことないような飛び切りの笑顔で。
「アンセル、わたし生きててよかった」
わたしも彼と一緒になって満面の笑みを浮かべるのだった。
本作はこれにて完結しました。
もしもこの作品を気に入っていただけた方は、ブクマやいいね!、広告下の評価【★★★★★】や感想をいただけると、今後の創作活動の励みになります。
改めまして、最後まで読んでいただきありがとうございました。