平和な日常
虫の触角や羽、内臓の感触が口の中に広がり、ミロックはすぐにでも虫の死骸を吐き出したくなった。
しかしミロックが『妖精女王』に視線を向けると『妖精女王』は相も変わらず淡々とした表情でミロックたちを観察していた。
少しでもミロックが反抗的な態度を取ったら、『妖精女王』はためらうことなくミロックを洗脳するだろう。
そう確信したミロックはすでに『妖精女王』に洗脳されて食べ物も虫の死骸も機械的に口に運ぶクバーナをうらやましく思いながら食事を続けた。
そして数十分後、定食五人前を食べ終えたミロックたちは『妖精女王』の恐怖も一時忘れ、苦しそうに腹部を押さえていた。
虫の死骸を抜きにしても定食五人前を食べるのはかなりきつく、しゃべるのも苦しい程だったがいつまでも『妖精女王』を放っておくわけにもいかない。
そう考えてミロックが『妖精女王』に視線を向けると、『妖精女王』が口を開いた。
「よし、じゃあ、これで終わり。この人はもう一生このままだけど」
食事を終えた後何をするでもなく座っていたクバーナに一度だけ視線を向けると、『妖精女王』はミロックたちに今後の注意点を伝えた。
「明日以降この店はもちろん西部に顔を出したら僕への宣戦布告と見なしてあなたたちの人生をもらう」
「わ、分かった。もう二度とここには近づかない」
この店はまだしもこの店がある地域への出入りすら禁止されたのは痛かったが、ここで『妖精女王』の出した条件に逆らう程ミロックは勇敢でも愚かでもなかった。
その後会計を終えて店から離れようとしたミロックたちに『妖精女王』の声が届いた。
「これは迷惑料にもらっておく」
『妖精女王』の声にミロックたちが振り向くと、『妖精女王』の手にはミロックたちの財布が握られていた。
クバーナを除くミロックたち三人が慌てて自分の懐を確認する中、『妖精女王』の体が先程同様紫色に光る無数の蝶になりミロックたち目掛けて飛来した。
「ひっ」
『妖精女王』に洗脳されると思いとっさに身をかがめたミロックたちだったが、『妖精女王』の創り出した蝶の群れはミロックたちに危害を加えずミロックたちをドーム状に包み込んだ。
その後ミロックたちを包み込んだ蝶の群れから『妖精女王』の声が聞こえてきた。
「あなたたちの様な人間はどうせ悪いことをしても大していい思いはできないと思うから早く足を洗った方がいい。まともな仕事がしたければ『猟犬』か『聖女』に泣きつけばいいようにしてくれると思う」
アヤネやテュールの二つ名を口にした『妖精女王』の発言をミロックたちは黙って聞くしかなかった。
「あなたたちは今日ここでご飯を食べただけ。ここでは何も起こらなかったから僕はあなたたちに何もしなかった。それがあなたたちを見逃した理由。だから今日のことを誰かに言ったらあなたたちにも罰を与える。人生をもらうなんて生温いことはしないし、僕は『千刃』と違って敵を殺す程優しくない。そのことを覚えておいて欲しい」
この発言を最後に蝶の群れは消え、その後ミロックたち三人はクバーナを置いて一目散に逃げだした。
この日の夜、無事に開店初日を終えたミーシャはほっと胸を撫で下ろしていた。
ミーシャは店への嫌がらせは必ずあるだろうと予想し、店員たちにも少しでもトラブルが起こったらすぐに自分を呼ぶように指導していた。
ミーシャとしては開店初日が危ないと思っていたのだが、今日来た面倒な客はたばこを吸いながら入店してきた四人組ぐらいで彼らも店員が注意するとすぐにたばこを消してくれた。
四人全員が懐から取り出した携帯灰皿に吸殻を入れ、その後彼らは二十人前の定食を注文して四人で平らげて帰って行った。
一人当たり五人前以上の料理を頼まれた場合は注文を受けないよう『アクア』の店員は指導されており、もしあれ以上頼まれるようだったら面倒だったが終わってみれば彼らはただの上客だった。
ミーシャが警戒していた四人組は店を出てからも特に立ち止まることもなく立ち去ったので、ミーシャはあの四人を警戒していたことに罪悪感を覚えた。
実際のところはミーシャを含む店員全員とミロックたち以外の客はミロックたちが入った直後から『妖精女王』の創った幻覚を見せられていて、実際のミロックたちの振る舞いは傍若無人なものだったのでミーシャが罪悪感を覚える必要は無かった。
しかし今回の様に騒ぎが起きたことすら周囲に気づかせずに騒ぎを鎮めるためにシュウは自分ではなく『妖精女王』を『アクア』に送り込んだのだから、こればかりはしかたがなかった。
基本的に『妖精女王』は何か行動を起こす際には周囲に気づかれないように事を運ぶ。
しがらみが一切無い『妖精女王』は比較的簡単に激高して暴れるのでこれまで何度もリクを含む治安維持局の局員たちを殴り飛ばした時の様な事件を起こしてきた。
しかし『妖精女王』の起こした事件の内アイギスの市民が気づいているものはほんの一部に過ぎず、実際は『妖精女王』はその数十倍の犯罪を行っているにも関わらずそれらの事実にアイギスの誰も気づいていない。
シュウに匹敵する戦闘力よりもこの隠密性の高さが『妖精女王』の売りで、『妖精女王』はミロックたちと別れた後誰にも姿を見られることなく今回の件の首謀者、キャペスのもとに向かった。
キャペスからは全財産と情報を引き出してから自首させよう。
我ながら勤勉だなと自画自賛しながら『妖精女王』はアイギスでも数人しか知らないキャペスの隠れ家へと向かった。
この日の昼下がり、訓練後に一緒に昼食を済ませたミアとサヤはミアの部屋ですでに何度か行っている勉強会を開いていた。
勉強会といっても本当に基本的な読み書きと四則計算をミアがサヤに教えているだけなので、一回の勉強会は二時間程で終わり、その後はしばらく雑談をするのがいつしか二人の慣習になっていた。
そして今日、ミアは以前から用意していたあるものをサヤに見せた。
「今週の土曜テュールさんが出るライブのチケットが取れたんですけど一緒にどうですか?」
「ライブ、歌とか楽器を聞くというあれですか?」
ライブという単語自体はサヤが働いている喫茶店、『ネスト』で何度か聞いていたのでサヤでも意味は分かった。
今になって考えるとテュールが出るからネストの店員も話題にしていたのだろう。
そんなことを考えながらサヤはミアとの話を続けた。
「そのライブというのは何時からですか?」
「ライブ自体は夕方の五時からですけどテュールさん、というよりアリアさんの出番は最後ですからテュールさんたちの出番は七時頃ですね」
アイギスにはアイギス全体をあげて行う大きな催し物用の巨大な会場もあるが、今回ミアがサヤを誘ったライブの会場はアイギスにいくつもある収容可能人数二百人程の小さなライブハウスで行われるものだった。
これまでミアは何度かサヤを遊びに誘い、ここ最近はサヤも誘いに乗ってくれるようになったがいまいち楽しんでいるように見えなかった。
どうすればサヤに楽しんでもらえるかと考えた結果、ミアはサヤがシュウとテュールについて話す時は比較的口数が多くなることを思い出した。
しかしシュウに関してはすでに仕事で何度も顔を合わせているのでこれ以上会う頻度を増やすのは難しく、そもそもサヤのシュウへの興味が好ましい類のものかは怪しいとミアは考えていた。
そこでミアはあらゆる伝手を駆使して人気の高いアリアとテュールが出演するライブのチケットを手に入れた。
これなら少しはサヤも楽しめるのではないかとミアは考え、ミアの思惑通りサヤはミアの誘いに興味を示した。
「テュールさんは歌も歌えるんですか?」
「いえ、歌うのはアリアさんの方です。アリアさんは知ってますか?」
「いえ、有名な人ですか?」
「まあ、それなりに……」
サヤがアイギスの誇る二大歌姫の一人を知らないと聞きミアは少なからず驚いたが、シュウに助けられるまでのサヤの境遇を知れば無理もないと考えて話を先に進めた。
「アリアさんは外周部出身の人でここ数年で一気に有名になった歌手です」
「へぇ、その人とテュールさんが一緒にライブに出るんですか?」
ミアと遊びに行く以外は機構と『ネスト』の仕事以外では外出せず、特に娯楽に興味も無いサヤはミアの予想通りアリアのことは知らなかった。
あくまでサヤはテュールにのみ興味を持ってミアに質問をしてきた。
そんなサヤを見たミアはアリアの歌唱力は実際に聞けば分かってもらえるだろうと思い話題をテュールに移した。
「テュールさんってすごいですよね。あれだけ精力的に人助けしてて、その上楽器まで弾けるなんて」
今のアイギスには楽器はそれ程多くなく、楽器を演奏できるというだけで一種のステータスになる。
しかもテュールがライブで弾く楽器はピアノで、今のアイギスに使用可能なピアノは数える程しか無く弾ける者も限られていた。
ミアにとってもテュールは才色兼備というべき存在で、ミアの理想像の一つといえた。
そんな聖女という呼び名にふさわしいテュールについて話している内にミアもどんどん饒舌になっていった。
そんなミアを見たサヤはある疑問を抱いた。
「ミアさんはテュールさんと戦ってみたいとは思わないんですか?」
サヤはミアを好戦的な性格だと考えており、そんなミアがテュールの強さを一切話題に出さないのは不自然だと思った。
そのためサヤはこのような質問をしたのだが、サヤの質問を聞いたミアはしばらく考え込んでから口を開いた。
「別にテュールさんの強さにはそこまで興味無いですね。動きを封じる能力はすごいとは思いますけど地味ですし、見られなければいいなら私でも勝てると思いますから」
テュールは特別指定犯罪者を一人捕まえているが特別指定犯罪者は別に全員が隊長並に強いわけではないので、相手次第では今のミアやサヤでも捕まえられるだろう。
そのためミアはテュールをそういった視点で見てはいなかったのだが、テュールへの自分の評価を口にしてからミアは自分の失言に気づいた。
サヤの前でテュールについて否定的な発言をしたのはまずいと考えたのだ。
しかし当のサヤはテュールが隊長程は強くないというミアの発言をただ事実として受け止め、特に気にしてはいなかった。
そのためこの件に関してはミアが気を遣い過ぎているだけで、実際サヤはミアの発言を気にした様子も見せずに会話を続けた。
「ライブの件は分かりました。五時からなら大丈夫だと思います。お礼にライブの後ご飯をおごらせて下さい」
「はい。ありがとうございます」
ミアはサヤがライブ自体には食いつくと思っていたが、まさかライブ後に食事に誘ってくると思っていなかった。
そのため気づかない内に笑顔を浮かべながらミアはサヤに礼を言った。
その後も雑談をしていた二人だったが、不意にサヤが今日の昼に行われた機構の会見について口にした。
「ミアさんのおじいさんが会見に出ていたそうですけど見なくてよかったんですか?」
機構の局長四人が会見を行っていた頃、ミアはサヤと昼食を取っていた。
ミアが祖父のシンラを尊敬しているのはサヤの目から見ても明らかで、そのためミアがシンラの出ている会見を見なかったことがサヤには不思議だった。
そんなサヤの質問を受けてミアは会見を見なかった理由をサヤに説明した。
「ああいう会見って基本的に局長にはきつい質問が来るじゃないですか?だからおじい様が記者にうざい質問されてるところを見るのが嫌なので見ないようにしてるんです」
サヤにこう説明した時のミアの心底嫌そうな顔を見て、サヤはこの話題をこれ以上続けるべきではないと判断した。
そのためサヤはすぐに話題を変え、その後しばらくミアと話した後で『ネスト』での仕事があったためシンラの家を後にした。




