010「父」
「雪枝。なんだこいつらは」
声を初めて聴いたとき。ある言葉が僕の脳裏に浮かんだ。
『化物』
一目見ただけで、声を聞いただけで。
僕は一生この男にはかなわないと。
この男には何を言っても通じないと。
逆にこの男の言う事なら何でも従ってしまうと。
僕はそう直感した。
「お父様……」
枢木雪枝の声はかつてないほど弱弱しく、震えていた。
枢木の父、という事はクルルギグループの現代表だ。
僕が普通に生きていたら絶対に出合わないであろう人物。
日本を牛耳り、世界を動かす人物。
「こいつらはなんだ、と聞いている」
男はもう一度聞いた。
「あの……おばあ様の写真を……。写真家さんを呼んで……」
「あの話はもう終わったと言ったはずだ」
「でも……おばあ様がまだ……」
「口答えするな」
ぴしゃり、と。
実際に手を上げたわけではないのに、僕は枢木が男から平手打ちをもらったように見えた。
「俺はそんな話聞いていない」
「それは……」
「俺の知らないうちにすべて終わらせようとした。違うか?」
「……」
「俺を出し抜こうとしたんだろ? 下衆が」
ぴしゃり。
男の声に、枢木は答えられずにいた。
下衆? 実の子供に言う言葉なのか?
「勝手なことをするなといつも言っているだろう?」
ぴしゃり。
男の言葉は、親が子供を叱るというより、できの悪い部下を見下すような響きがあった。
いや、もっと言えば、思い通りに動かない電化製品に向けるような無感情な響きがあった。
「余計な問題が起きればそれはもうお前だけの問題じゃない」
「グループ全体の印象に関わると、何度も言っただろ? お前の頭は飾りか?」
ぴしゃり。
「得体のしれない写真家を家に上げるなんて、何を考えているんだ?」
「家の内部を撮られて、あることないことマスコミに騒がれたらどうする?」
「そんなこともわからないのか?」
ぴしゃり。
「……ご、ごめんなさ」
「謝ればすむとでも思っているのか? その精神が腐っていると言ってるんだ」
ぴしゃり。
ぴしゃり。
ぴしゃり。
ぴしゃり。
ぴしゃり。
ぴしゃり………
僕とササキを無視して、男は枢木をいたぶり続けた。
当事者でもない僕でさえ耳をふさぎたくなる罵倒が続く。
単に感情で怒っているわけじゃない。
理性的に、理論的に、男は枢木の心を痛めつけている。
反論さえも許されない、正当な理由を用いた人格否定。
枢木の顔はどんどん感情を失っていくように見えた。
枢木は小さいころからこの男と対峙してきたのだろうか。
余計なことをするなと言われ続けて、
勝手なことをするなと言われ続けて、
間違えるたびに罵倒され続けて、
自分を否定され続けて、
謝っても許されず、
何をすればいいのかわからなくなって、
そのなれの果てが今の彼女なのだろうか。
「誰ともしゃべらない」はそんな彼女が導いた結論なのだろうか。
僕は情けないことに何もできなかった。男が枢木を静かな声でいたぶり続けるのを黙ってみていることしかできなかった。
このまま、永遠とも思える陰湿な折檻が続く……
「あのー」
かに思われたが、ササキが沈黙を破った。
「親子喧嘩はあとでやってもらえます? 無視されると寂しいのですけど……」
こいつ……、ハート強!!
「……なんなんだお前は」
「写真家のササキです。本日はこちら、枢木雪枝さんのおばあ様の遺影用写真を撮りにまいりました」
男は忌々しそうにササキを見た。
「その必要はない。すでに別の写真家が写真を撮った。お引き取り願おう」
「いえ、依頼主はあなたではありませんから。その言葉は聞き入れられませんねぇ」
ササキはいつも通りにやにや笑っている。こういう時は無駄に心強い。
「なんだと?」
「そちらの枢木雪枝さんが依頼主ですから、彼女の言葉でなければ僕らは帰りません」
ササキがそういうと、男は小さく舌打ちをした。が、すぐに表情を戻した。
「わかった。おい。雪枝」
「……はい」
ほとんど表情のなくなった枢木が返事をする。
「お前の言葉で依頼を取り消せ。そうすれば今回のことは不問にしてやる」
「……!」
自分がやったことが間違っていたと、自分で認めろ。
自分が正しいと思ったことを、自分で否定しろ。
そうすれば、この場は許してやる。
逃げ場のないプレッシャーをかけ続け、逃れる道を一つだけ用意してやる。
その道が間違っているとわかっていても、それを選ばざるを得ない状況に追い込む。
この男はおそらく今までもこうやって、枢木の判断力を奪っていったのだろう。
何をしても無駄だと感じさせてきたのだろう。
この男は、人間の心の折り方を心得ている。
枢木は僕らの方を向いた。表情はなく人形のようだ。
無理するな。僕らは大丈夫だから。依頼を取り消したって、怒ったり落胆したりしないから。
そうつ伝えてやりたかったが、枢木の目は虚ろで、ほとんど僕らが見えていないようだった。
「……申し訳ありませんが、今回の依頼は……」
枢木は小さな声で言った。
それでいい。そんなに苦しむくらいだったら、こんな依頼諦めていい。
これで、枢木がこの状況から解放されるなら。
しかし、男は容赦がなかった。
「おい。迷惑をかけるんだろ? 申し訳ないことをしたんだろ? じゃあ膝をついて頭を下げろ」
……そこまでさせるのか? 親が、実の娘に?
やはりこの男は『化物』だ。
そして、この家は、狂ってる。
枢木の様子もおかしい。目の焦点があってない。
何も考えていない。いや、必死に何も考えないようにしているようにも見える。
枢木は崩れ落ちるように膝をつき、手を床に付けた。
「今回、の、依頼は……」
「それは、私がお願いしたことなのよ。雄一さん」
男の後ろから声がした。年老いた女性の声だ。
その場にいた全員が声の主の方を向いた。
その先には小柄な老女が杖を持って立っていた。
紹介されなくともわかる。これが、枢木雪枝の祖母、枢木幸のようだ。
「私が頼んだのだから、責任は私にあります。雪枝ちゃんは悪くない。責めるなら、私にしなさい」
男は苛立ちをあらわにして言った。
「嘘をつくな。これはコイツの独断だろう?」
「いいえ。私が頼んだんです」
「ふざけるな。写真ならもう撮っただろ。死にぞこないの癖に贅沢を言うな」
「死にぞこないだから、贅沢を言っているんです。とにかく、あの写真では駄目なの。死ぬ前の最後のお願いくらい、聞きなさいよ」
男は声こそ荒らげなかったが、明らかに不愉快そうだった。
しかし、枢木幸も譲らない。姿は弱弱しいが、態度は毅然としていた。
「……ちっ」
男は舌打ちをすると、男は足早に去っていった。
とりあえず事なきを得たようだ。
僕は、びっくりするぐらい何もできなかった。
枢木は放心状態のようだ。膝をついたまま立ち上がろうとしない。
「ごめんなさいね。あなた達。中、入って?」
枢木幸は申し訳なさそうに言うと、僕らを部屋の中に招き入れた。
枢木篇、折り返しです。
最後までついてきていただけると幸いです。