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緑風

作者: 橋本

一 生ぬるい空気を切り、最後のコーナーにさしかかる。体育館の上に見える空は既に薄紫色になっていた。少し暗いと、いつもより速く走れているような気がして気持ちが良い。

地面にひっぱられる足を必死に上げ、体勢が崩れないように背筋に力をいれる。視界の端で景色が動く。人が、校舎が、まるで私の中に吸い込まれてゆくかのようだった。この感覚が私は好きだ。

最後は本番と同じようにトルソーを突き出してゴールラインを超えた。膝に手をやり肩で大きく息をする。なかなか良い調子だ。この調子を週末まで保たせなければならない。

トラックに沿ってゆっくりと歩く。まだ六月だが、既に夏と変わらない気温だ。夕方になっても吹く風は生暖かい。

サッカーゴールを過ぎたあたりで佐藤先生が近づいてきた。

「どうだ、神田、調子は」

「いい感じです、今は」

顧問の佐藤先生とも三年の付き合いなる。私が県大会でも争えるほどの選手になれたのは、この先生のおかげと言っても過言ではない。

「そうか、このまま頼むぞ」

いつものように、感情がいまいちこもっていない声で佐藤先生は言った。 今週末に県大会に繋がる最後の大会があり、その大会に女子二百メートル走の選手として出場する。

私としては通過点のつもりだが、気は抜けない。最近の記録会では思うような記録が出ていないのだ。何とかして弱い自分に打ち勝ち、県大会にいかなければならない。

スパイクを脱ぎ、ダウンジョグを始める。後に続いて後輩達もばらばらと走り出した。

陸上部の三年生は私だけだ。先輩や後輩は男女合わせて十人ほどいるのに、私の学年だけ一人しかいない。もともと全校生徒が少なく、スポーツをやるなら、男子は野球部かサッカー部、女子はバレーボール部という風潮があるため、仕方のないことではある。

だから、花形の種目でもあるリレーを組む相手が、三年生にはいない。もちろん、一、二年生と組むこともできるが、今年は二百メートル走に集中したかったので、リレーは二年生に任せることにした。二年生にとっては来年に繋がる良い経験になるだろう。

そのことに関しては、佐藤先生も理解してくれている。四×百メートルリレーの予選の後に、すぐ女子二百メートル走の予選がある。リレーを走った後では、万全な体調で二百メート走に臨めない。

とにかく、最後なのだ。三年間の集大成だ。まずは、県大会にいく。

「みどり先輩、お疲れ様です」

急に声をかけられ、ワンテンポ遅れて振り返る。

「ああ、千夏お疲れ」

「調子、どうですか?」

「うーん、まあまあかな」

一つ上の先輩にずっとくっついていた分、後輩との関係作りに少し失敗した私だが、千夏だけは別だ。あまり話すタイプではない先輩の私にも、唯一話しかけてくる。今となっては部内での数少ない話し相手だ。

「千夏は?バトンは上手くいってる?」

千夏は他の二年生三人とリレーを組む。その中でもタイムがいい千夏は、四走を務める。

「いい感じですよ!バトンが繋がれば県大会もいけるはずです!」

「すごい自信、頑張って」

自然と「ふふ」と笑いがこぼれる。千夏は自然と人を惹きつける力がある、と、時々感じる。

実際、私から見ても県大会は夢ではない。もしかしたら、決勝にも残るかもしれない。

ただ、後輩を気にかけてあげられる余裕は、今の私にはない。通過点だとは思っているが、絶対に落とせない勝負だ。そのプレッシャーが私を押し潰そうとする。

ため息をついて、既に藍色に染まった空を見上げる。

いつからだろうか、素直に陸上を楽しめなくなったのは。




「みどり!ファイト!」

先輩の声が耳に届く。第四コーナーを抜け、ホームストレートにさしかかる。ラストには自信がある。まずは一つ外のレーンを走る選手を捉えると、直ぐに内側のレーンの選手も追い抜いた。この追い抜く瞬間がたまらなく気持ちが良い。

風に乗っているかのように体が軽い。日差しの熱も感じない。

最後はトルソーを突き出して一位でフィニッシュを迎える。タイムも自己ベスト記録だ。

観客席を見ると、柵から乗り出した先輩達が笑いながら手を振っていた。「みどりー!ナイスラン!」

その姿を見て、自然と笑みがこぼれる。

「ありがとうございます」と呟いた瞬間、目が覚めた。カーテンから漏れた光がベッドに一筋の線を引いている。

何度も見た夢だ。この記憶は、去年の最後の大会のものだ。

あの頃は純粋に陸上を楽しんでいた。記録がどんどん伸びていたし、何より、走ることに喜びを感じていた。

今も記録が伸びていない訳ではない。むしろ、県大会上位入賞も夢ではない程まで伸びた。

ただ、私の選手としてのレベルが上がった分、周りの選手のレベルも高くなっていった。簡単に勝てる相手は決勝や県大会にはいない。

そして、いつからか勝ちにこだわるようになった。勝てなかったときは酷く落ち込んだ。そのせいか、走る前は息が苦しくなるほど緊張する。

弱気になってはいけない。弱い自分に負けてはいけない。常にそう思うようになったときには、もう既に陸上を楽しめなくなっていた。



*

大会までの一週間の練習は、基本的に調整が主となる。大会まで残るはあと二日。女子二百メートル走は日曜日なので、実質三日の猶予がある。

今日の練習はマッサージだけで、一旦体を休める。そして、残りの二日で体の調子を上げていく、という考えだ。

マッサージを終え、ストレッチ用のマットレスの上で大きく息をつく。

足の疲労はない。体調も良い。これなら本番も問題ないはずだ。

私の場合少しでも体に違和感を覚えると、そのことが気になって走りが崩れてしまい、本番も良いパフォーマンスができない。これが私の一番の弱点だ。気持ちが走りに影響を与えすぎる。

そのことを考える度に、弱い自分に負けてはいけないと思う。もっと、もっと、強く気を持たなければいけない。

「はーい!」

バトンを渡すときの掛け声が響き渡る。目の前では、二年生がバトンパスの調整をしていた。

後ろの走者が、前の走者の手の中にバトンを押し込むかのように渡す。

バトンを渡した後も、二人一緒に十メートルほど走り、ゆっくりとスピードを落として止まった。

「どう?詰まってない?」

「いや、ぴったり」

三走の滝島ちゃんと千夏のバトンパスだ。私から見てもぴったりだったと思う。

先程まで滝島ちゃんと話していた千夏がこちらを向く。

「みどりせんぱーい!どうでしたか?」

額に汗を滲ませながら、嬉しそうに言った。

「うん、いい感じ」

私がそう言うと、千夏は「えへ」とわざとらしく言い、頭に手を当てる。 楽しそうだ、と思う。実際、千夏は心から走ることを楽しんでいる。きつい練習のときも誰よりも声を出すし、後ろ向きなことは絶対に言わない。

羨ましいと思うと同時に、少し前の私の姿を重ねる。私もあんな風に楽しめていたときがあった。一年経っただけなのに、少しだけタイムが速くなっただけなのに、なぜここまで変わってしまったのだろうか。

「せんぱーい、すぐスパイク脱ぐんでダウンジョグ一緒にいきましょう!」 千夏の声が私を現実に引き戻す。「はいよ」と言いながら立ち、伸びをする。

千夏はどうなのだろう。勝ち負けにこだわったことはあるのだろうか。




窓の外に広がる青空に、ひこうき雲が線を引いていた。

給食の後の授業は眠くて仕方がない。教室は冷房のおかげで涼しいし、佐藤先生の話すテンポや声は、眠気を誘う。

机に着いた手に顎を乗せ、外を眺める。少し遠くには入道雲が見える。空が低い。手を伸ばせば届きそうだ。

完全に集中力が切れたが、窓側の後ろから三番目の席だ、佐藤先生からもそれほどよく見えないだろう。

ついに明日から大会が始まる。泣いても笑っても最後の大会だ。やれることはやった。あとはその成果を出すだけだ。

不安や緊張は、今のところはない。

決勝に残れなくても、全体の十三番以内に入れば県大会にいける。そう考えれば、全く難しい話ではない。調子が良いときの走りが出来れば何の問題もない。

授業もあと少しで終わるというときに、再び佐藤先生の話に耳を傾ける。 佐藤先生はどう思っているのだろうか。一年生のときから指導をしてもらい、ここまでこれた。県大会で上位を争えるレベルにまでなった。

そんな唯一の三年生に、期待しているだろうか。

佐藤先生も私も、お互いに口数が多い訳ではないので、そんなに言葉を交わすことはない。それでも、三年間お世話になった分、信頼しているし感謝もしている。

佐藤先生のためにも、この大会でつまずく訳にはいかない。



*

「神田」

大会前の最後の練習を終え、ダウンジョグをしようとしたとき、佐藤先生に呼び止められた。

「ちょっといいか?」

「はい」

何の話だろうかと考えながら、小走りで佐藤先生の方へ行く。

「どうだ?調子は」

一昨日と同じことを聞かれ、「悪くありません」と反射的に返す。

佐藤先生は「そうか」と一言だけ言い、その後は続かない。

話が終わったのかまだ続くのか分からず、黙って立っていると、再び佐藤先生が口を開いた。

「楽しかったか、三年間」

こんな話を振られたのは初めてだった。最後だからだろうか。少しだけ驚き、一呼吸おいた後「楽しかったですよ」とだけ返す。

佐藤先生は大きく頷き、私の目を見る。

「今、陸上、楽しいか?」

一瞬、顔が強ばる。どうして今、そんなことを聞くのだろう。

どう答えようか迷ったが、ここで嘘をつく理由もなかった。

「そんなにです。」

「どうして?」

今日の佐藤先生はよく喋る。三年間あまり話してこなかった分を、今補ってるかのようだ。

なぜ陸上を楽しめなくなったのか、それを言葉にするのは難しい。タイムは伸びたし大会でも入賞できるようになった。普通なら楽しいと言えるのだろうが、私は違った。

「私が、精神的に弱くなったから…」

これが、精一杯の答えだった。勝負にこだわり、走りを純粋に楽しめなくなったのも、走る前に胸が苦しくなるほど緊張するのも、全部、私が弱くなったからだ。もっと私が強かったら、今も昔みたいに陸上を楽しめていたはずだ。だから、弱い自分に負けたくない。また陸上を楽しみたい。これが、今の私の気持ちなのだと思う。

また「そうか」と一言だけ言い、佐藤先生は遠くを見つめた。

「あんまり気負いすぎるなよ」

佐藤先生は私の肩を軽く叩き、リレーメンバーの方へと歩いていった。




大会当日は快晴だった。気温も高く、日差しも強い。

今日は軽く体を動かして、明日に備える。その他の時間は応援だ。

一番最初の種目の、女子百メートル走に千夏が出場する。千夏も去年に比べて速くなった。県大会にも進めるかもしれない。

「千夏、頑張りなよ」

ウォーミングアップの準備をしている千夏に、後ろから声をかける。

「みどりせんぱーい、大好き、頑張ります!」

泣く真似をしながら、抱きついてきた。やはり、彼女は緊張していない。「はいはい」と笑いながら千夏を引き剥がす。

私から離れた千夏は、私の目を真っ直ぐ見て言った。

「みどりさんも、明日、頑張ってくださいね!」

私は軽く笑って「ありがと」と返したが、額には少しだけ汗が滲んだ。

「行ってきまーす」と言ってサブトラックへ走って行く千夏に手を振って見送ったあと、ブルーシートに腰を下ろした。

大丈夫。大丈夫だ。調子は良い。普通に走ればいける。

自分に言い聞かせるように、頭の中でそう繰り返した。



*

ホームストレート側にある客席の、一番上の方に座った。ここなら屋根が日陰を作ってくれるので、快適だ。

スタート地点寄りの席に座ったので、スタートを待つ人だかりの中に千夏を見つけることができた。

他の選手は他校の友達と話したり、携帯をいじったりしていたが、千夏は、一人でストレッチをしていた。明るくて抜けたところもある千夏だが、陸上に対してはストイックなのだ。

だからこそ、千夏には県大会に進んでほしい。いつもの走りができれば、きっといけるはずだ。

レースが始まり、少しずつ、千夏の順番が近づいてくる。千夏は真っ直ぐゴールだけを見つめていた。遠く離れていても集中しているのが分かる。

私も、明日になったら同じように自分のレースを待つことになる。そのとき、私は一体、何を思うのだろうか。千夏のように余裕を持つことができれば良いのだが、いつになってもスタート前の緊張には慣れない。きっと明日も緊張でそれどころではないだろう。

色々と考えているうちに、千夏のレースが始まろうとしていた。

千夏は四レーン。横並びになった選手たちが、一斉にスターティングブロックを調節し、スタートの練習を始めた。

千夏の動きには落ち着きがある。周りのペースを気にせず、ゆっくりとスターティングブロックを自分の歩幅に合わせ、スタートの練習をする。

二十メートルほど走った後、歩いてスタート位置まで戻ってくる。そのときも決して慌てる素振りを見せない。他の選手が既にスターティングブロックの後ろで待っていても、歩くペースは一切変えない。

こういう姿を見ると、千夏はつくづく大物だと思う。いつもの姿からは想像ができない。

「O n y o u r m a r k s」

審判の声が、競技場のスピーカーから響いてくる。その声と共に、先程まで雑音で溢れていた客席は静まる。

選手がスタート位置につく。

千夏はその場で何回か跳ねた後、空を見上げた。深呼吸をして膝をつき、ゆっくりとスターティングブロックに足をかける。足を置く位置が決まると一度体を起こし、真っ直ぐゴールを見つめる。

この体勢をとれるのは、余裕がある選手だけだ。私はこの姿を見るのが好きだった。

ラインに指を合わせて静止する。この体勢になるのに、一番時間をかけたのは千夏だ。

「S e t」

選手がスタートの体勢をとる。

静まっていた客席から完全に音が消えた。これだけ人がいるのに、一切音がしないこの光景は、いつ見ても異様だ。

一瞬の間をおいたあと、破裂音が響き渡る。

選手が一斉にスタートした。静寂が客席の叫び声で破られる。低い体勢で走り出し、徐々に体を起こしていく。千夏はこの時点で他の選手より体一つ分前に出た。

体を完全に起こした後は、どんどん加速する。周りの選手を引き離していく。真っ直ぐに伸びた背筋に、位置のぶれない頭。後ろで一つに結んだ髪が翻る。

私より少しだけ背の高い千夏が走りは、他のレーンを走る誰よりも美しかった。

終盤もペースが落ちない。ゴールの瞬間は後ろから見る形になってしまったが、トルソーを突き出す姿勢を一番最初にとったのは千夏だった。

タイムは十二秒八八。県大会にはまずいけるだろう。

胸を撫で下ろすと同時に、次は私だとも思った。千夏の走りを見て勇気づけられたが、その反面、少しだけ不安も感じた。

自分の関係ないところで直ぐに気圧されてしまう。私の悪い癖だ。問題ない。大丈夫だと自分に言い聞かせる。

その瞬間、急に客席がざわつき始めた。何かと思いゴールを付近に目をやる。一人の選手がしゃがんでいるそばに、千夏が足を押さえて倒れていた。

ブルーシートの上に座った千夏の足に、佐藤先生がテーピングをする。その周りには、千夏を心配するリレーメンバーがいた。

千夏はゴールした後、隣のレーンの選手とぶつかり、転倒した。普通なら、ゴールをした後はそのままレーンに沿って走るのだが、内側のレーンの選手が直進してきたため、交錯する形になってしまった。

骨は折れていないようだが、右足を捻挫してしまった。とても走れる状態ではない。

千夏は決勝まで進むことになったが、棄権せざるを得ない。

そして、何より問題なのが、明日の四×百メートルリレーだ。千夏がいない分、誰かが四走を走らなければならない。二年生と一年生は他にもいるが、とても千夏の代わりにはならない。千夏はそれほどに速い。

千夏がいればリレーも県大会に進めた可能性があったが、この状態では難しいだろう。

千夏は泣いていた。リレーに出られない悔しさや、他のメンバーに対する申し訳なさがあるのだろう。

しかし、私にはどうすることもできない。見ているのが辛くなり目を逸らした。

「ごめんね、ごめんね」

千夏が他のリレーメンバーに謝る。その姿を見た滝島ちゃんは泣き出してしまった。

その輪の中で、何かを考えていたかのように黙って口に手を当てていた佐藤先生が、不意に立ち上がった。少し辺りを見回し、私を見つけると、真っ直ぐこちらを見て言った。

「神田、いけるか?」




ベッドの上で仰向けになり、今日のことを思い返す。

あのとき、私は「はい」と反射的に返事をしてしまった。頭が真っ白になってしまったのだ。その後、滝島ちゃんとバトンパスの練習をしたが、記憶がはっきりとしない。

あの状況で断ることはできなかった。確かに、百メートル走のタイムは千夏より少し速い。それに、リレーだって県大会に進んで欲しい。これは本心だ。

でも、それでも、私だって二百メートル走で県大会にいきたい。県大会で入賞して、さらに上までいきたい。

そのためには、万全な体調で臨まなくてはならない。

百メートルの全力疾走によって蓄積する疲労は馬鹿にできない。リレーは最終レースで二百メートルは第二レース。つまり、ほとんど休む時間がない。 それに二百メートル走は、百メートル走以上に体力を使う。疲労が足に溜まった状態では、体力が保たない。少なくとも、私はそういうタイプの選手だ。

このようなことを苦にしない選手はいくらでもいる。しかし、私はそのような選手にはなれない。レースの終盤に動かなくなった足を、無理にでも動かして走るタイプなのだ。つまり、もともと何本も本数を走れるほどの体力はない。

ベッドの上で頭を抱える。

どうして、どうして、どうして。佐藤先生だって私のことを分かっているはずだ。それなのにどうして。

千夏は私の考えを分かっていた。だからこそ、私に泣きながら謝った。

リレーも県大会に進んで欲しい。嘘ではない。でも、二百メートル走で県大会にいきたい。

ここでも私の弱さを実感した。なぜ、リレーを快く引き受け、二百メートル走も県大会に行くという心持ちで臨めないのか。結局、私は弱い自分に勝てないままなのだ。

布団を頭から被り、体の底から湧き出てくる思いを噛み殺し、静かに涙を流した。




朝は緊張で何も喉を通らなかった。なぜ今更緊張するかもよく分からないが、体が何も受けつけなかった。競技場に着いた後、コンビニで買ったゼリー状のエネルギー飲料を無理やり流し込んだ。

昨日に引き続き、天気は快晴。風もなく、日差しが私たちを強く照りつける。

ただ、調子は最悪だった。体はだるく足が重い。つくづく精神的な面が弱いと思う。その弱さが、直接体調に影響するのも絶望的だ。

四人でウォーミングアップをし、バトンパスの練習をする。どの繋ぎも悪くない。昨日初めて合わせた滝島ちゃんとも上手くいっている。

日陰にあるベンチに一人で座り、一息つく。

昨日はこんなことは考えなかったが、もしリレーが県大会に進めなかったら、私のせいになるのだろうか。

誰に向かってでもなく「ふふ」と一人で笑う。

また弱い自分が出てしまった。こんなことを考えても意味が無いのに、どうしても頭に過ぎってしまう。

「みどり先輩」

振り向くと千夏が立っていた。

「どした、千夏」

なるべく感情を押し殺して声をかける。上手く笑顔も作れた気がする。

「すみません、みどり先輩、二百メートル走あるのに」

千夏はそう言うと、顔に手を当てて泣き出した。

なぜ私が千夏の代わりに走るのだろうかとは思うし、この出来事がなければ万全の体調で二百メートル走に臨むことができたが、それでも千夏を恨めしく思う気持ちは一切なかった。こんな純粋な子を責める訳にはいかない。私が弱い自分に勝てば良いだけの話だ。

「大丈夫だから、県大会までにゆっくり怪我治しな」

そう言って千夏の肩を叩いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

謝り続ける千夏を見て、何とかして結果を残さなければならないと思った。



*

エントリーを済ませ、それぞれの走者の待機場所へと向かう。

待機場所には多くの選手が居た。私は適当に荷物を壁際に置き、その場に座った。

リュックからウォークマンを取り出し、イヤフォンを耳につける。

曲などなんでも良かった。私はただ、このどうしようもない緊張感を紛らわすために、外からの雑音を無理やり締め出した。

鼓動が早くなっているのが分かる。音楽で誤魔化してもその音は頭の中に響き渡る。

リレーを走るのは初めてではない。それにも関わらず、嫌な汗が止まらない。

もしバトンを失敗したら、県大会に進めなかったら、誰かに抜かれてしまったら、この後の二百メートルで県大会にいけなかったら…。

考えてはいけないと思えば思うほど、頭の中がそのような考えで溢れた。 このままではいけない。弱い自分に飲み込まれてしまう。勝つのだ。自分に。弱い自分に打ち勝ってリレーも、二百メートルでも、県大会にいくのだ。 大丈夫、大丈夫。問題ない。ここまでやってきたのだ。ここで勝つために練習してきたのだ。バトンパスだって練習では上手くいった。走りだって昨日までの感覚なら悪くない。大丈夫、大丈夫、問題ない、きっといける、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫…。

「神田」

イヤフォンから流れる音楽を押しのけて耳に入ってきた声に顔をあげる。 そこには審判員の上着を羽織った佐藤先生が立っていた。



*

「どうだ、調子は」

いつもと変わらない口調で、佐藤先生は言った。どうにかして言葉を紡ごうとしたが、何も出てこない。

その代わりに、涙が溢れてきた。今までの思いが全部噴き出したかのように、涙が頬を伝う。

その姿に特に驚いた様子を見せずに、佐藤はしゃがんで私の目を見た。

「どうした」

「走るのが…怖いです…」

やっと言葉を紡げたが、声が震えて上手く喋ることができない。

いつものように、佐藤先生は「そうか」の一言で返す。しかし、今日はその後にも言葉を続けた。

「神田、今からお前はどうしなきゃいけないと思う?」

普段とは違う、まるで幼い子どもに言い聞かせるかのように私に問いかける。

私は一瞬だけ迷い、答えた。

「私の内側にいる弱い自分に、勝たなきゃいけないです」

私は、私の中にいる弱い自分を倒さなければならない。千夏のためにも、自分のためにも、何とかして、勝たなければならない。勝って、結果を残すのだ。

「それは、違うよ」

佐藤先生の言葉に顔をあげる。佐藤先生は少しだけ笑って言った。

「神田、自分が最大の敵、とか、自分に勝つ、なんてのはまやかしなんだ。今からお前がやらなきゃいけないのは、周りの選手たちと争って勝つことだよ」

佐藤先生はゆっくりと、それでもはっきりとした口調で言った。

「陸上は個人技だけど、一人でやる訳じゃない、いつだって周りの選手が相手なんだ。その周りの選手を追い抜いたり、競り勝ったりするのが楽しいんだ」

「お前も昔はそうだったろ?」と佐藤先生は初めてはっきりと笑顔を見せた。 佐藤先生の言葉が頭の中に響く。

そうだ、私は、人を追い抜いていくあの感覚が好きだった。競り勝った時に感じられる喜びに魅力を感じたのだ。陸上が楽しくて仕方がなかったあの頃に思っていたことだ。たった今まで、その感覚を忘れていた。

「それに、内面に弱い自分なんて居ないんだ。もし居るとしたら、それはお前自身だ。それを倒してどうする」

ずっと自分に打ち勝とうとしていた私は、少しだけ心が軽くなった。

「別に負けてもいいんだ。お前が走って負けて文句言うやつはいない。二百だって、お前なら大丈夫だ。」

涙で濡れた私の顔を、佐藤先生は真っ直ぐ見つめて言った。

「だから、もっと楽しめよ、神田」




*

前のレースが終わり、レーンに入る。スタートを切るのは、私の歩幅二十三歩分後ろにあるマーカーを、滝島ちゃんが通り過ぎた瞬間。

スタートの練習をする。コーナーを抜け、直線を少しだけ走る。

陸上の競技場は、外から中を見るより、中から外を見渡す方が広く見える。外から見たときとはまるで違う景色が、目の前に広がっていた。

ゆっくりと歩きながらスタート位置まで戻っていく。空を見上げると、入道雲がすぐそこにあった。手を伸ばせば届きそうだ。

スタート位置につく。緊張はあるが、焦りはない。集中もできている。

「O n y o u r m a r k s」

審判の声と共に、一走がスターティングブロックにつく。それぞれの選手が、ばらばらにスタートの体勢を取る。会場が徐々に静まってくる。全ての選手が静止する。

「S e t」

一切の声が消えた。蝉時雨だけが耳の中に響き渡る。

その静寂が破られた瞬間、選手が一斉に走り出した。

つんざめくような歓声は、私の耳にはどこか遠くに聞こえる。

四走にバトンが渡るまでは、少し時間がかかる。この時間は、生きた心地がしない。

バトンが二走に渡る。間合いはぴったりだ。

バックストレートを走る二走は、実力差がそのままレースに現れる。順位の変動が目に見えて分かるのだ。

はっきりとした順位は分からないが、内側のレーンの選手に詰められながら、バトンが滝島ちゃんに渡る。

あと十数秒後には、私にバトンが渡る。

世界から音が消えた。走ってくる滝島ちゃんを見つめる。

あと半分という所で、私もスタートの体勢を取り、マーカーを見つめる。 あと少し、あと数メートル、あと数歩…。

滝島ちゃんがマーカーを通り過ぎたのをほぼ感覚で捉え、スタートを切る。 あとは後ろを見ない。滝島ちゃんの声が聞こえた瞬間、手を後ろに出すだけだ。

もう信じるしかない。信じて、テイクオーバーゾーンの二十メートルを全力で走るしかない。

周りの選手の掛け声が聞こえてくる。私たちより少し速い証拠だ。それでも焦りはない。

そろそろ二十メートルを過ぎる。ラインを超えた瞬間、失格だ。

「はーい!」

そのとき、滝島ちゃんの掛け声が、音が消えていた世界に響き渡った。

手を後ろに差し出し、バトンが押し込まれる。ラインも超えていない。完璧なバトンパスだ。

前には三人。この三人を、私が全員抜き去るのだ。

加速していくのが分かる。風に乗っているかのようだ。日差しの熱も、今は何も感じない。

このままどこへでも行けてしまうような気さえする。

一つ外のレーンの選手を捉えた。風とともに抜きさり、視界の端から少しずつ消えていく。

あとは、内側のレーンに二人。トップとは少し差があるが、問題は無い。 目の前の景色が私に吸い込まれてゆく。景色とともに、二位の選手も抜き去る。

残りは一人。一つ内側のレーン。

少しずつ差は詰まっていく。

風が音を立てて顔の横を通り過ぎる。体が軽い。脚が勝手に前に出る。最高に気持ちが良い。これなら、ずっと走っていられる気がする。いや、ずっと走っていたい。

私は今、陸上を楽しんでいる。

前に見える背中が近づいてくる。いつの間にか差がほぼなくなっていた。 肩を並べようとした瞬間、向かってくる景色が急に遅くなった。 ゴールラインを超えていた。今までで一番長い百メートルが終わってしまった。

そのままレーンに沿って走り、ゆっくりとスピードを落とす。

レーンに一礼をしてから外にでて、日陰を探し、その場に倒れ込んだ。抜けるような青空が、そこには広がっている。蝉時雨が降り掛かってくる。体から汗が吹き出す。

ああ、この感覚だ。追い抜いた瞬間の感覚が、今もまだ残っている。久々に走ることを楽しいと思った。風に乗って走ることの気持ち良さを思い出した。そうだ、これが陸上なのだ。

気分は最高だ。頬を撫ぜる風が心地が良い。

陸上はこうでなくてはならない、と思った。

すると、どこから現れたのか、佐藤先生が私の顔を覗き込んだ。

「どうだ、調子は」

いつも通りの口調だが、顔を少しだけ綻ばせていた。

「いい感じです」

目を閉じて、息を吐きながら言った。




「みどり先輩!頑張ってください!」

スターティングブロックを調節しながら客席を見ると、千夏が柵から乗り出していた。

さすがに照れくさい。少しだけ笑い返し、ふたたび調節を始める。

リレーは決勝の進出が決まった。それと同時に、県大会への進出も。

あとは、私の二百メートル走だ。足が重い、少し張っている気もする。しかし、不安はない。

軽くスタートの練習をして、歩きながら戻ってくる。

周りの選手を見る。彼女たちは、どのような選手なのだろう。

「O n y o u r m r k s」

ゆっくりと片膝をつき、ブロックを少しだけ蹴る。ラインを超えないように手を添える。

「S e t」

何も聞こえない。心地が良い。このときだけは、時間が止まっているのかもしれない。

破裂音とともに時間が動き出した。コーナーへと走り出す。世界が私に向かってくる。

私は、今、風になっている。




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