ユージーンはミステリアス
∴☆∴☆∴☆∴
所々の記憶は曖昧だけど、佐渡君にタクシーに乗せられて家まで連れて帰ってもらったのはしっかりと覚えていた。
ゆっくりと眼を開けると、辺りは既に薄暗かった。
「……大丈夫ですか?」
私のベッドの脇に座り、こちらを見つめる黒い瞳にドキンと鼓動が跳ねる。
「……ごめんね、佐渡君……」
佐渡君が首を横に振って優しい声で言った。
「きっと疲れが溜まっていたんですよ。ベッドに入る前に飲んだ頭痛薬が効いたみたいで熱は下がりました。……菜月さんが眠っている間にコンビニで食べるものを買ってきましたが、飲み物を買い忘れて……冷蔵庫になにかありますか?」
コクンと頷いた私を見て、佐渡君はゆっくりと立ち上がるとキッチンへと向かった。
……あ。
「わっ!」
思わず私は小さく叫んだ。
ダメ、ダメよ。冷蔵庫には私のプライベートな写真やスケジュール、それになにより《ユージーンスペース》が……。
自分の口で告げる前に、あれを見られる訳にはいかない。ああ、彼がユージーンスペースに気付きませんように!私は飛び起きると急いで佐渡君の後を追った。
「ちょっと待って、佐渡君……」
「最終項目……そんなユージーンが大好き……」
……手遅れだった。ダッシュも虚しく、私がキッチンへと辿り着いた時には既に佐渡君が最終項目を読み上げてしまっていた。ユージーンスペースを凝視し、佐渡君がポツンと呟くように私に問いかける。
「これは何ですか?」
「そ、れは……」
ど、どうしよう、訴えられたら。だって密かに観察してたなんて、怖がられた挙げ句訴えられて、私の片想いは犯罪扱いだわ。ああ!どうしようっ!
ところが滝のような汗を流して危機を感じる私とは対照的に、佐渡君は涼しげな声で私に問いかけた。
「ユージーンとはどこの誰です?」
え。
「今あなたが……恋をしている相手ですか?」
あれ。……気付いてない……?……自分の事だって……。
……どうやら気付いていないみたいだ。だって今、佐渡君はすごく真面目な顔をしているもの。
からかっているわけではないみたいだ。
私はコクンと喉を鳴らして、佐渡君の整った顔を見つめた。
どうしよう、ここはどう答えるのが正解?……嫌われたくない。もうこれ以上、佐渡君に嫌われたくない。なにも答えられないでいる私に、彼は小さく息をついた。
「……答えなくていいです」
言い終えて、瞳を伏せた横顔が綺麗だった。
「そんなの関係ないんで」
その言葉がグサリと胸に刺さって凄く痛くて、 私は想いを伝えられないまま失恋してしまった事実を実感した。
……私に興味がないから……関係ないから……だから答えなくてもいいって事だよね。
瞬く間に視界からすべての色が失われ、灰色になったような気がした。少し前までは、課長に恋心を告げた新田麗亜さんを見て勇気が湧いたばかりだったのに。
……ダメだ、私にはあんな風に佐渡君に想いを伝えられない。想ってもらえない相手に好きだなんて私は言えない……。
涙が浮かび上がってきてこぼれそうになった時、佐渡君が再び口を開いた。
「あなたが何処の誰に恋していようが、俺があなたを好きな気持ちは変わりませんから」
佐渡君のその言葉が、私の動作全てを奪い尽くした。
今、なんて言った……?
動けないでいる私に、佐渡君がゆっくりと近付く。
「もうこれ以上、この想いを胸に留めていられません。菜月さん、好きです。俺と付き合ってください」
その瞬間、私の眼からこぼれ落ちた涙が頬を伝った。
「他の男なんかすぐに忘れさせます。だから俺の恋人になってください」
……夢なの?……それともこれは……現実?
「さ、わ」
佐渡君が僅かに両目を細めて眩しそうに私を見つめたまま、ゆっくりと手を伸ばした。
「……触れてもいいですか」
……触れられたい。佐渡君に、触れられたい。小さく頷くと、佐渡君が私を引き寄せた。
「……返事は要りません。何故かといえば」
端正な頬を傾けて、至近距離から私を見下ろす彼が少し笑った。
「理由は……あなたを誰か他の男に渡す気なんか更々ないからです。あなたの事は俺がもらいます。その代わりめちゃくちゃ大切にしますし、死ぬほど愛します」
もうダメだと思った。嬉しくて、本当に嬉しくてたまらない。涙の下から私は漸く声を出した。
「もう、死にそうだよ。嬉しくて死にそうだよ。佐渡君。あなたが好き」
「え?」
みるみる佐渡君の切れ長の瞳が丸くなって、キョトンと私を見下ろした。
「本当ですか」
「うん。とっくに好きになってた。でも佐渡君は意地悪だし冷たいし見込みがないと思って……」
泣き止まない私に、佐渡君が困ったように首を振った。
「それは……」
信じられないくらい、佐渡君が狼狽えている。それを見たら漸く私の涙もおさまってきて動揺している佐渡君を観察する余裕が出てきた。
「……どうしていつも意地悪だったの?……忘れてたけど、子供服の現場で背中踏まれた……」
「……」
想定外の反撃だったのか、佐渡君が張り付いたように私を見ている。
「私、嫌われてるって思ってたよ」
「……」
やがて佐渡君が観念したように天井を仰いだ。それから私を抱き締めると、首元に顔を埋める。
「あなたが俺の気持ちを乱すから」
低くて艶やかな佐渡君の声が耳のすぐ近くから囁くように聞こえた。
「コロコロ変わるあなたの表情が俺を狂わせるんです。仕事に対して真剣なところやそんな中で少しだけ見えるプライベート。あなたを見ていると俺はイライラするし切なくなる。こんなに俺の気持ちを弄んでいるのにそれに気づかないあなたが恨めしくて」
……信じられなかった。
「あなたは無自覚な小悪魔です」
そ、んな……。
その切なげな佐渡君の声を聞いたとき、彼は私の観察記録を上回る程、私を見ていたのかも知れないと思った。
「好きだよ、佐渡君。凄く、凄く、」
そこまで言った時、佐渡君に唇を塞がれて、一層強く抱き締められた。熱くて優しいキスに胸がキュッとして、私は思わず彼のシャツを掴んだ。それにピクリと佐渡君の身体が反応する。
「あまり可愛くなりすぎないで下さい。今すぐ結婚したくなります」
「……えっ」
けっ、結婚?!
驚いた私に、唇を離した佐渡君が僅かに眉を寄せた。
「なにをそんなに驚いているんですか?さっき言ったでしょう?もうあなたを離す気なんか更々ないと。ということは近い将来、結婚するってことですよ、分かるでしょう?」
分からんわっ!
……やっぱり変……。佐渡君って、ちょっと変わってる……。
かなりのドヤ顔でこちらを見下ろした佐渡君を、私は冷や汗の出る思いで見上げるしかなかった。
∴☆∴☆∴☆∴
数日後。
「大女将、退院できてよかったですね」
「ん。それに今日、引き渡しも出来たしね」
電車内に差し込む夕日に眼を細めながら佐渡君を見上げた私に、彼は少し笑った。
「眩しいなら、こっちに来て俺の隣に並んだらどうです?」
「……うん」
ドアを背にして夕日を避けるように佐渡君の隣に立つと、彼は私の手をそっと掴んだ。たちまちドキドキと私の心臓が騒ぎ出す。……高校生じゃないんだから静かにしてほしいと思うのに、私の心臓は言うことを聞かなかった。
そんな私とは対照的に、佐渡君はチラッとこちらを見て静かに言った。
「……今から俺の家に来ませんか。一緒に部屋で夕飯なんてどうです?」
……それってもしかして……料理を作る……とか?自分自身の名誉のために言っておくけど……料理は別に下手じゃない。でも佐渡君ってイケメンだし、常にお洒落な物を食べているイメージがある。まあ、社食では普通の定食食べてるけど。けど、どしよう……私が見たことも聞いたこともないような名前の食べ物をリクエストされたら……。
思わずゴクンと息を飲む私を見て、佐渡君が眉をあげた。
「返事は?」
「いいけど……何か作るの?」
「俺が作りますよ。その代わりそれが美味しかったら……ご褒美ください」
「ご褒美?」
「菜月さんをください」
それって、その……。
顔がカアッと一気に熱くなって思わずぎこちなく視線をさ迷わせると、佐渡君がクスクスと笑った。
「恋人になってから、まだ一度もしてません。我慢できない」
……し、信じられない。公共の乗り物の中でこんな事を言うなんて。しかも別に内緒話的に声を抑えているわけでもなく。電車内は満員で、すぐ前に何人もの人が立っているのに。
……やっぱエロいし……バカかも。
「返事は?」
真正面のサラリーマンが私をガン見してるじゃん!
「ダメ」
ツン!と横を向くと佐渡君が繋いだままの手をクッと引いた。その瞳が死ぬほど甘い。
「どうして?これ以上の我慢は次する時に歯止めが効かなくな、」
「バカじゃないの?!バカじゃないの?!」
私を殺す気か、お前はっ。ダメだ、もうダメだ。息が苦しい。その時電車が佐渡君の降りる駅に到着したらしく、彼はニヤニヤと笑いながら私の手を引いて開いたドアからホームへと降りた。
「そんなに顔を赤くされると……何だか興奮します」
「知らない!」
「あなたは……本当に可愛い人です」
……何を言ってもどうしていても、彼は私を優しく見つめては微笑んでいた。
∴☆∴☆∴☆∴
「何これ?!すっごく美味しい……!」
佐渡君の部屋にお邪魔した私は、お洒落なカットが施されたグラスを見つめて感嘆のため息を漏らした。
そんな私に佐渡君がクスッと笑った。
「これはペシェといいます。南仏の桃のリキュールです。普段はカクテルにしますが、今日はロックにしてみました。喜んでもらえて嬉しいです」
「……」
「……」
どうしよう。佐渡君の作ったピザ……クアトロフォルマッジもかなり美味しい。
「ゴルゴンゾーラを少し控えてそのかわりモッツァレラを心持ち多めにしてみたんですが……いかがです?」
「……お、いしい……です」
「……じゃあ、ご褒美に菜月さんを」
「ま、まだ食事中だしっ」
「……フッ……」
含むような瞳で私を斜めから見た佐渡君に、またしても胸がドキドキと騒ぎだす。
「する前に一つ訊いてもいいですか」
ちょ、ちょっとっ!なんてこと言うのよっ!ゴホッとむせた私を気にもせずに、佐渡君は静かにグラスを置いた。
「呉服桜寿の東京一号店の家具入れの話ですが」
「……うん」
そういえば以前、この話をしようとした佐渡君を遮って、それっきりだった。私もグラスを置くと、佐渡君を見つめて口を開いた。
「知ってたよ、大女将の病気の事。偶然、足元に置いた彼女のバッグから舌下錠が見えて……私の祖母も同じ薬を持っていたから。だから、必死だったのは確か。大女将にストレスをかけたくなかったから」
「漆器店の店主とはどうやって話をつけたんです?」
「……商品搬入の時間を一時間遅らせてもらう代わりに大口の契約を紹介したの。実は数年前に手掛けた結婚式場のオーナーに、式場オリジナルの引き出物を作りたいから、知り合いがいたら紹介してほしいって頼まれてたんだ。それと私の幼馴染が商事につとめててね、日本の伝統工芸を海外で売りたいらしくて、そっちも取り持ったの」
私は決まり悪くて佐渡君を見ることが出来なかった。
「……私は周りの人の力を借りただけで何もしてないんだよ。それに、大女将に病気の事を知っていたなんて知られるわけにはいかなかった。彼女の気持ちを乱したくなくて」
グラスに添えていた私の両手を、佐渡君が大きな手で包み込んだ。それから綺麗な眼で私を真っ直ぐに見つめた。
「あなたが素晴らしいから、周りが手を貸すんですよ。それに確かに漆器店にとっても良い話に違いないですね。漆器は素晴らしい日本の伝統工芸品です。成功すれば市場が開ける」
「私は素晴らしくなんかないよ。けど、丸く収まって良かった」
「菜月さん」
「ん?」
「あなたが好きです。……ご褒美……ください。今すぐ、俺に」
吸い込まれそうな程綺麗な佐渡君の黒い瞳。
「……うん」
私は頷くと再び彼を見つめた。
∴☆∴☆∴☆∴
週末。
「あっはははは!中二階アイドルの真中アンナ?!誰よ、それはっ!!」
沙織がゲラゲラと笑いながら、氷が一杯入ったハイボールのジョッキを持ち上げた。
今日は珍しく家飲みではなく、会社の近くの居酒屋だ。店内は漁船をモチーフにした内装で、ライティングは透明感のあるレモン色だ。
私はお刺身を口に運び、味わった後眉を寄せた。
「だから、真中アンナだっつってるじゃん!彼女の歌聴きながら縦揺れしてたんだよ?!殆どトランス状態だよ、あれは!しかも会場のど真ん中で!よっぽどのファンだよね」
沙織は素早くスマホを操作して真中アンナを検索し、ほぉー……と一言、言葉を発した。
「ね?爆乳でしょ?!」
「ほんとだね、こんな胸がいいんだ、彼!誰かとは大違いだわ」
「こら!なんかちょっと悪意を感じた!」
「あははははは!で、いつ結婚すんの?」
「はあっ?!」
私は持ち上げたばかりのジョッキを下ろし、首をかしげて沙織を見た。
「あんたまで変になっちゃったの?!付き合ったばっかだよ?!結婚なんて考えてないよ!」
「けどユージーンはイギリスのSAグループ勤務なんでしょ?!半年で戻っちゃうんじゃないの?」
「実は……詳しいことは全然知らないんだよね。付き合ってすぐそういうのって訊きにくいし」
そうなのだ。それにいつも彼は私の事ばかりを訊きたがったし、なんだかタイミングを逃したままで……。
「……」
「でも変よね。彼はブランディングが本職なんでしょ?どうしてSD課に入ったんだろう」
「……さあ……」
一通り話して会話が途切れた時、沙織が気を取り直したように口を開いた。
「ねえ、いつ紹介してくれるのよ、家具職人!」
「ほんとに雅野先輩でいいの?!見た目はワイルド系イケメンだけど、中身は多分、神経質だよ?」
「そりゃそうでしょうよ。ガサツな奴が作ったタンスなんか、引き出し閉まらなくなりそうで嫌だわ」
「それに超女好きで、週に三回はキャバクラ行ってるよ?」
「淋しいのね、可哀想に」
「知らないからね、私。クレームお断りだからね」
「いいから、紹介して!気に入らなかったらゴミのように捨てるから」
悪魔かアンタはっ!
「それにしてもユージーンスペースの第七項目はまさにその通りだわ。ミステリアスだよね、ユージーンは!」
そう言って空のジョッキを高らかに上げ、スタッフにお代わりを告げる沙織を見て私は苦笑した。
∴☆∴☆∴☆∴
何の前触れもなく、その瞬間はやってきた。
「新庄!SD課のパンフレットのサンプル上がってたからもってきてやったぞ!」
もう昼近いオフィスに、あまり聞きなれない声が響き渡った。反応したオフィス内の皆が、何事かと顔をあげる。
「島根部長。ありがとうございます」
営業課の島根部長からパンフレットを受け取った課長が皆を見回して、それを持つ手を高く上げた。
「みんな、回すから順番に見てみろ」
「あれ?!社内案内なら去年新しく作ったばかりじゃないですか?」
安積くんの驚いた声に皆が頷く。
「あれは国内求人用のものでこの度は企業向けのパンフを一新したんだ」
……企業向け?
島根部長が頷きながら言葉を発した。
「近々VP撮影も始まるそうだ。後日正式に通知がある。映像製作はSAグループが担当するそうだ」
企業VPとはVideo Packageの略語で、企業が制作する映像……いわばプロモーションビデオのようなものだ。それをSAグループが?
瞬間的に皆が佐渡君のデスクを見けれど彼は今、席を外している。
その時、私はハッとして眼を見開いた。それと同時に沙織との会話を思い出す。
『でも変よね。彼はブランディングが本職なんでしょ?どうしてSD課に入ったんだろう』
もしかして……佐渡君は……。今すぐ彼に話を聞きたいという衝動に駆られたけど、彼はここにいない。じゃあ、課長は……?課長はなにか知ってたの?
島根部長がオフィスから出ていき、課長が戸惑う私たちを見回した。
少し困ったと言わんばかりに苦い笑いを浮かべた彼は、静かに話し出した。
「佐渡の事だが、彼はSAグループの」
「課長、俺から言います」
小さくドアの開く音がしたあと、佐渡君の艶やかな声が響いた。状況を飲み込めない皆が佐渡君を見つめる中、彼は少し頭を下げた。
「色々あって、俺の素性は社長に口止めしました」
「しゃ、社長に?!」
安積くんが、驚きを顕にして尋ねた。佐渡君はそれに小さく頷いて、話し出した。
「去年アリシア工藝から俺の勤務するSAグループブランディング課に、プロデュースの依頼が来ました」
SAグループは確かに契約会社で重要な取引先だ。何故ならSAグループは色んな分野に参入していて、ヨーロッパとの繋がりも強い。
例えば依頼主が北欧スタイルをはじめや海外テイストの強いデザインを求める場合、私達SD課の使う材料なども、本場から手配する場合が多い。
そうなると、他の貿易会社を介して購入するよりも大幅にコストが抑えられるのだ。
それに材料支給で施工会社に依頼するのが殆どなSD課にとって、材料の質にこだわる事が出来るのが大きな強みとなっていた。
私達が静まり返る中、佐渡君は続けた。
「日本支社長に就任したばかりの俺は、失礼ながらその依頼をその場で快諾できませんでした。何故ならブランディングとは、企業にとってのマーケティング戦略よりも重要な事があるからです」
佐渡君が、日本支社長……?企業にとってのマーケティング戦略よりも……重要な事?いつの間にか私の心臓は、痛いくらい脈打っていた。
佐渡君はそんな私に視線を合わせたけど、小さく息をつくとそれをそらした。
「俺にはブランディングエンジニアとしての責任があります。だからアリシア工藝のSD課の技術を実際に自分の眼で見て確かめたかった。一面を見て全体としたくなかった。何故なら中身の伴わないブランディングなど、空虚でしかないからです。そんな偽物のブランディングを見てアリシア工藝に依頼したオーナー達を裏切りたくないからです」
静かに周りに視線を送ると皆が皆、とても神妙な顔をして佐渡君を見ていた。
「俺は御社の社長にはっきり申し上げました。SD課がブランディングプロデュースするに値するか確かめたいと。ブランディングによって価値を高め、信用されるに値する課であるかを肌で感じたいと」
「……だから……身分を隠してうちに来たんですか」
安藤くんがそう言うと、佐渡君はしっかりと頷いた。
「はい。それも本日までです。今までありがとうございました」
ペコリと頭を下げた佐渡君に、女子達が焦ったように声をかけた。
「は、半年間って話なんじゃ……?」
「急すぎませんか?!」
佐渡君が少し寂しそうに笑った。
「……申し訳ないです。あまり短い期間だと不自然かと思いまして」
……信じられない。こんなの……。
それを見た課長が、重苦しい雰囲気を一掃するかのように爽やかに笑った。
「で、結果はどうでしたか?SAグループ日本支社長?」
もうこれ以上聞いていられなかった。
「課長、私、施工主との打ち合わせに行ってきます。何軒か回りますから定時過ぎたら電話します」
気付くと私はこう口走り、身を翻していた。腹が立ったわけじゃない。悲しいわけでもない。でも、このままオフィスにはいたくなかった。なんだろう、この気持ち。何だか苦しい。そう……胸が苦しいのだ。じゃあ、どうして苦しいの?……わからない。
佐渡君が本当はSAグループの日本支社の最高責任者だから?
予定よりも一時間早い電車に乗り席に座った時、私は佐渡くんとの間に起こった数々の出来事を思い返した。
容姿はドストライク。でも最初は生意気でヤな奴だと思った。頭が良くて無駄がなくて羨ましかった。接するうちにぶっきらぼうだけど優しい人だと分かった。
そのうちに……離れたくなくなって……。好きになって……。
その時、地下鉄から出た私の頬を新しい風が撫でた。そういえば……佐渡君は私を好きだと言ってくれたけど……私の一体どこが良かったのだろう。分からない。まるで分からない。
その時、ポケットの中でスマホが鳴った。
『ちょっと菜月、大丈夫?!さっき蒼白な顔で正面玄関抜けてったでしょ?!何かあったの?』
沙織からのLINEだった。
『佐渡君がSAグループの日本支社長だったの。私とは釣り合わないくらいの地位にいて……好きだって言われたのも嘘だったらどうしよう』
沙織にLINEの返信をして、私はハッキリと気付いた。
そうだ。私の胸の何とも表現しきれなかった気持ちは……これなんだ。
胸がぎゅっとして痛くて……それから怖くて仕方ない。
『菜月。前に私が言ったこと覚えてる?あんたが頑張らなきゃいけないのは別のところだって言ったこと。今がその時じゃない?』
今が、その時。
そうだ……私は……私はいつも自分から頑張っていただろうか。
誰かを……好きって事を。
今がその時。
沙織の余裕の笑みが脳裏に浮かんだ。その笑顔が私の背中をトンと押す。
『うん。ありがと、沙織』
私はスマホをしまうと眩しい空を見上げた。それから大きく息を吸うと施工会社へと足を向ける。今日の仕事をしっかりこなしたら、佐渡君と話をしようと思いながら。
∴☆∴☆∴☆∴
数時間後。
『佐渡君。何時でもいいから少し時間を作ってくれない?話がしたいの』
『俺も話があります』
スマホの画面をタップした後、私は大きく息を吸って気合いを入れた。シャワーを浴びて汗を流し、メイクをする。
三十分後の私は、一体どうしているのだろう。彼と話をして……笑っているのだろうか。幸せを噛み締めているのだろうか。それとも訪れた恋の終わりに、さめざめと泣いているのだろうか。
『着きました』
『うん。今から降りる』
お気に入りのワンピースを着て大好きなハイヒールを履いた時、佐渡君の艶やかな声がスマホから流れた。
胸が押し潰されたように苦しいのは、私と佐渡君がまるで釣り合わないと分かっているから。
グループ売上二百億ユーロと言われているSAグループの日本支社長と私じゃ、どう考えても不釣り合いだ。
マンションのエントランスの数メートル手前で、ハザードランプを点灯した車から佐渡君が姿を現した。
「こんばんは」
その姿に、私は思わず両目を細めた。こちらを見つめて少し頭を下げた彼は、私の知らない人みたいだった。
沈みかけた太陽の赤い光を受けた、仕立ての良いスーツ。きっちりと整えられた髪。ああ、本当に私の手の届かない人だ。
「乗ってください」
滑らかな曲線を描いた美しい高級車は、佐渡君にとても似合っていた。
「……少し付き合ってください」
「……うん」
助手席へと促された私は、痛いくらい響く心臓をどうすることも出来ない。
ハンドルを握る大きな手や端正な横顔を、すぐ隣で感じるのに見ることが出来ない。
……佐渡君は今、何を考えているんだろう。
車内には会話の無いふたりと、静かに流れる古い黒人音楽、それと佐渡君の香り。
切なくて切なくて、もうこれだけで泣きそうになる。弱虫でちっぽけな私は、今にも消えてなくなってしまいそうだ。
「もう着きます」
低く囁くような佐渡君の声に私は頷くしかなかった。
∴☆∴☆∴☆∴
私が佐渡君に連れてこられたのはSAグループの日本支社だった。
夕陽と街灯をキラキラと跳ね返すビルの外壁は正に近代的で、スタイリッシュなそのデザインは洗礼されていた。きっとその施工方法にも最先端の技術がつまっているのだと思う。
車内から息を飲んでそのビルを見上げた私に、佐渡君が静かに口を開いた。
「地下から専用のエレベーターに乗れば最上階まではすぐです」
「……はい」
佐渡君がハンドルを切る度に、キュルキュルと独特のタイヤ音が地下駐車場に響く。暫くの後、助手席のドアを開けた佐渡君が小さく言った。
「……こっちです」
「……はい」
ああ、どうしよう。佐渡君の話を先に聞いた方がいいよね、絶対。落ち着かなきゃ。
私は彼に気付かれないように深呼吸を繰り返した。
∴☆∴☆∴☆∴
エレベーターから出て通された部屋はとても美しかった。
黒を基調としたいかにも重役の部屋といった重苦しいものではなく、デスクも来客用のクラシックテーブルも上部は美しくカットされたクリスタル製で、部屋全体が明るかった。
ライティングも透明感を全面に押し出したデザインで、部屋全体を美しく見せる計算がさりげなくだけれどちゃんとしてある。
「綺麗……」
思わず口を突いて出た私の言葉に、佐渡君がわずかに眼を見開いた。でもそれはほんの一瞬で、彼は瞳を伏せて僅かに唇を開く。
「この部屋は俺がデザインしました。あなたに誉められるなんて……光栄です」
「……」
ライトが佐渡君の男らしい頬を照らし、綺麗な輪郭を際立たせている。そんな彼の瞳が、私を見つめて苦しげに瞬いた。
「菜月さん。理由がどうであれ俺があなたに身分を隠していたのは事実です。でも、どうしても見てもらいたいものがあります」
言いながら、佐渡君が大型テレビの電源を入れた。
数秒間、SAグループの社章が浮かび上がった後の画面に、私は思わず息を飲んで眼を見開いた。
だって画面に映し出されたのは、SD課の皆が手掛けた空間デザインを撮影した画像のスライドショーだったから。
店内で弾けるような笑顔を来客に向けるオーナー様達の笑顔。それからお客様の真剣な眼差しとキラキラした瞳。
画像の間には私達アリシア工藝SD課の掲げる信念や理想が、文字として浮かび上がった。そして最後に、SD課の皆の仕事風景と、やり遂げた後の輝くような笑顔。ほんの数分のスライドショーの中に、私達の思いがたくさん詰め込まれていた。
……信じられない。
ブランディング技術の高さとセンスの良さが、私達の仕事をより輝かせてくれている。これを、佐渡君が……?
「実はこれはまだ試作段階です。それから……俺がブランディングプロデューサーとして直接手掛ける仕事はこれが最後です。……それがアリシア工藝のSD課で良かったと、心から思っています」
そう言って私を見つめる佐渡君の顔がジワリと滲んだ。
「出来る限り、ありのままのあなた方を見たかったんです。アリシア工藝SD課の、真の仕事をブランディングしたかった。身分を黙っていてすみませんでした」
瞬きをした私の眼から涙がこぼれ落ちて、弾けながら頬を伝った。
「菜月さん。でも俺があなたを好きになったのは本当です」
佐渡君……!胸がキュッとして、暖かい何かに包まれるような感覚がした時、佐渡君が私の手をそっと取った。いっそう身体が熱くなり、胸が高鳴る。
「菜月さん、俺とずっと一緒にいてください」
佐渡君が、至近距離から私を見下ろして切な気に両目を細めた。
私はそんな彼を涙目で見上げて、上ずる声を出来るだけ抑えながら言葉を返した。
「離す気ないって言ったじゃん。なのにどうして訊くのよ」
少し眉を寄せた私に、佐渡君が囁くように言った。
「この瞬間が訪れても、俺は動じないつもりでした。でもいざそれに直面してあなたの泣き顔を見ると……不安でしかたがないんです」
そう言った佐渡君の瞳が言葉通り不安そうに揺れていて、私はそんな彼を可愛く思った。
「質問してもいいですか」
「なに?」
「最初に俺が日本支社長だと分かっていても、あなたは俺を好きになってくれましたか?」
貴石のような漆黒の瞳が食い入るように私を見ている。私は迷わずに頷いた。
「好きになってたよ。この気持ちは止められない。でもきっと、『佐渡君』とは呼んでないけど」
だって、恐れ多くて。するとようやく佐渡君がクスッと笑った。
「《ユージーン》でもいいですよ」
「えっ……?!」
「あなたさえそう呼びたければ、ユージーンと呼んでもらっても構いません。でも」
そこで一旦言葉を切って、佐渡君が悪戯っぽく瞳を光らせた。
「でもその代わり、スキンシップが濃密になりますけど」
そ、れは……困るかも……。それに……いつの間に《ユージーン》がバレてたんだろう……。もしかして、沙織……?
佐渡君は、狼狽える私を引き寄せたまま続けた。
「ミステリアスでいた方が惹かれてくれるなら、色々謎を残しておきたいところですが……やっぱり少しずつ……少しずつでいいから俺を知ってください。たとえば誕生日、たとえば好きな酒。たとえば好きな映画。それからどれくらい俺があなたを好きなのかも。それでもっともっと恋に落ちてください、俺と」
そう言った佐渡君の瞳が甘く煌めいたから、私はたまらずその唇にキスをした。
「ミステリアスなユージーンも素敵だよ。でもやっぱり、あなたをいっぱい知りたい。それから落ちる。あなたと恋に、今よりもずっと。だからゆっくりゆっくりあなたを教えて」
佐渡君の切れ長の眼がみるみる丸くなり、僅かに唇が開いた。
「本当にあなたという人は……俺の心を捉えて離さない……」
「佐渡君、改めて……よろしくね」
お互いの身体を強く抱き締めて見つめ合うと、私達はどちらからともなく瞳を伏せて頬を傾けた。
∴☆∴☆∴☆∴
三ヶ月後。
「課長、おめでとうございます」
「ありがとう!」
朝のミーティング時、私達SD課の皆からの花束を、課長が笑顔で受け取った。
「新居、いつ招待してくれるんですか?!」
安積君の言葉に課長が苦笑して、
「そのうち呼んでやるよ!イイ酒持ってこいよ?!」
言い終えて皆を見回した課長が、そっと私に眼を止める。私が微笑むと課長も照れたように笑った。
その綺麗な眼に曇りや陰りはなく、私は課長が望んで麗亜さんと結婚するのだと分かった。
良かった。本当に良かった。
自分のことのように嬉しくて、私は幸せそうな課長をいつまでも見つめていた。
∴☆∴☆∴☆∴
「そうですか。それは良かったです」
「うん!麗亜さんのウエディングドレス姿、素敵だろうなぁ。だって彼女お人形みたいに可愛いもの」
私がそう言うと、ソファに腰かけて私の肩を抱いていた佐渡君が頷いた。
「そうですね。清楚な感じなので、似合うでしょうね。若いですし」
「悪かったな、三十路で!」
プッと膨れた私を、佐渡君が斜めから見下ろしてクスリと笑った。
「菜月さんは多分、セクシーさが出るでしょうね。胸もクビレもありますから」
「中二階アイドルには敵いませんけどね」
「えっ!」
不意討ちの攻撃に、佐渡君があからさまに硬直した。その瞳が空をさ迷う。
イケメンは焦ってもイケメンだな。ちょっと癪だ。
「佐渡君って、あんなメロン丸ごとみたいな胸が好みなのね。ごめんね、あんな風に大きくなくて」
「いや、あの菜月さん、それはですね、」
「フフッ」
私が笑うと佐渡君はムキになって私を抱き締めた。
「ちゃんと聞いてください!あれはそんなんじゃないんですよ!ちょっとアクシデントが起きて……」
「あはははっ!いいってば!言わなくていいよ」
「菜月さんっ!」
「ミステリアスなユージーンでいいから」
「~!!」
いいよ、佐渡君。
そういうのもゆっくりゆっくり教えて。
私はミステリアスなあなたが、凄く凄く好きだから。
《ミステリアスなユージーン》
~end~