ユージーンはヤキモチ焼き
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「また来てくれたんだね、ありがとう」
「は、はいっ。ずっとずっと応援してますっ」
ビルの地下一階の本屋さんは、先程のCDショップ並に小さい。なんでもこの店は、まだ新人で知名度の低かった先生の漫画を沢山置いてくれた店らしく、彼はいくら有名になってもこの小さなお店でサイン会を続けているのだ。
この度は当選人数を増やした為に、この店の隣の空きテナントで開催する予定だったけど、床の一部に不備が生じたらしかった。
「少し窮屈で、ごめんね」
「だ、大丈夫です!」
カナデ先生に優しく声をかけられた私はトキメキを覚えながら夢中で先生の顔を見つめた。先生の色素の薄い明るい茶色の瞳は柔らかな光を称えていてとても優しい。ああ、ちょっと特別な気がする、私。だって、《また来てくれたんだね》だよ?!覚えてくれてたんだ、先生。嬉しい。嬉しすぎる。
長い睫毛を伏せて、流れるように私のDVDにサインをしてくれた先生がやがて顔をあげた。
「……」
……ん?
先生が本屋の外を見つめて目を見開いている。それから私に、先生は遠慮がちに尋ねた。
「……ところで……通路の販売機の傍から僕を睨んでいるあのイケメンは……知り合い?」
「はい?うわっ、佐渡君っ」
先生の視線を追った私は驚きのあまり声をあげてしまい、慌てて、
「いや、あの人は会社の……」
なによ、あの顔っ!マジで睨んでるじゃん!
「ご、ごめんなさい、先生。彼、変なんです」
焦った私がこう言うと、先生は私を見上げてクスリと笑った。
「全然、変じゃないよ。普通だよ」
「え?」
先生は私に微笑んだまま立ち上がった。
「君は本当に僕を応援してくれてるよね。嬉しいから……ハグしていいかな?」
「……っ!」
言うなり先生が机越しに私を抱き締めた。やだ、嘘みたい……!
それを見た周りのお客さんがキャアと羨ましそうな声をあげる。その時、
「瀬戸先生、申し訳ありませんがその辺にしていただけますか」
はっ?!
誰かが後ろから私の腕を引っ張り、先生から私を引き剥がした。
コツンと後頭部に熱い身体が当たり、振り仰ぐと憮然と先生を見つめる佐渡君が眼に飛び込む。
先生はそんな佐渡君を見たあと、悪戯っぽく私に視線を送った。
「ああ、失礼……彼女はいつも僕のサイン会に来てくれるから、つい愛着が湧いて」
「失礼します」
「は?!わ、きゃあーっ!」
「お幸せに」
笑いを含んだ先生の瞳が一瞬だけ見えたけれど、恐ろしい勢いで本屋さんから連れ出された私にはどうする事も出来なかった。
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気になっていたカフェ。インスタ映えするランチは心が踊るような色合いだ。じっくり煮込まれたコンソメスープ、トマトパスタに水菜のサラダ。その上にはオレンジに近い濃い黄身が印象的なポーチドエッグがトッピングされていて。
本場である関西のとある町から直送されているアーモンドバターは、甘すぎなくてとても香ばしく、パンに塗ってトーストすると本当に絶品らしい。
リサーチしたところによると、噛むと同時にジュワッと口に広がる旨味は、思わず笑みがこぼれるレベルだとか。
そのアーモンドバタートーストを近いうちに食べたいと思っていた。それが……それが、こんな形で叶うなんて。
私は真正面に座る人物を見つめて両手を膝で握りしめた。
「全く、なんなのよ」
ムッとして睨む私を一瞥したあと、佐渡君はツンと横を向いた。
「あれが瀬戸カナデ先生ですか」
「そうだけど」
「他の女性客には握手だけだったのに、どうしてあなたにはハグしたんですか?」
「私が先生を凄く好きで、何度もサイン会に行ってるからよ」
「……」
脚を組んで横を向いたその顔が、本当にモデルみたいだ。いちいちワケわかんないけど、佐渡君がカッコイイのは確かで、たちまち店内の女子達が佐渡君の存在に気付きこちらを頻繁に見だした。……私、もしかして恋人だとか思われてるんだろうか。……優越感に浸るべきか、劣等感に落ち込む場面なのか、果たしてどっちなんだろう。
当の本人は物心ついた頃から女子に見つめられているのか、絡み付く視線も日常化しているらしく動じる様子はない。
「あなたは、瀬戸先生の作品が好きなのかご本人が好きなのかどっちですか」
「はー?どっちも好きよ。先生、イケメンだし」
「顔がよかったら何でもいいんですか?全くあなたは新庄課長といい安藤君といい先程の瀬戸カナデ先生といい、」
その時偶然、本当に偶然、窓際に座る私の視界に課長が入った。
佐渡君は窓に背を向けて気づいておらず、私だけが課長を見つけたんだけど……その課長が何だか変だった。通りすぎようとしている課長の横顔は疲れきっていて、痩せたわけではないだろうに酷く頬がこけている。
昨日、施工現場に来てジュース代をくれたときは……こんなだったっけ?いや、こんなに酷い顔なら、安藤君が何か言ってくる筈だ。
そういや沙織の話じゃ、新田麗亜さんと住んでいたマンションから出ていって会社には辞表を出したって……。
「佐渡君ごめん、すぐ戻るから待ってて」
気付くと私は荷物も持たず、カフェを飛び出していた。それから、課長が歩いていた方向に目を凝らす。見付けたものの人通りが多く、なかなか傍まで辿り着けない。
「すみません、ごめんなさい」
後ろから声をかけて三列で歩く若者に道を譲ってもらい、私は駆け出した。
「課長!」
ビクンと課長の背中が跳ねた。
「課長!」
決して少なくない人々の中、不思議なことに私と課長はお互いの全身が見えていて、何だか障害物が透明になったかのようだった。立ち止まった課長がゆっくりと振り向く。
その眼が私を捉えた瞬間、私は眼を見開いた。だって課長が私を見て泣きそうな顔をしたから。
「菜月……こんな俺を見るな」
課長が私を見たまま後退りをした。
「課長、待って、危ない……」
課長のすぐ後ろは車道で、彼は多分それに気付いてない。彼は私を見たまま後ろ歩きをしていて、止まる気配がない。私は無意識に駆け出していた。
「課長!止まってっ!」
「菜月……?」
血相を変えているであろう私を見て、課長が眉を寄せた。彼は車道との段差に気付いていない。
横断歩道のないここは車が歩行者に注意しながらがら徐行しているけど、後ろにひっくり返ったりしたらひとたまりもない。
「課長!後ろっ!危ないっ!」
ありったけの声で叫ぶ私の声に、課長が漸く足を止めた。そのギリギリをバイクが猛スピードで走り抜け、課長の髪を乱した。
「な、つき……」
近寄ると、僅かに酒臭い。……課長……なんでよ、どうして。
フラリとよろけた課長にムカつきを覚え、私は彼の腕を引っ張ると人通りを避けるために歩道の端へ連れていった。
「何やってんのよ課長っ!しっかりしてよっ」
そんな私を見下ろして、課長が苦しげに眉を寄せた。
「菜月……俺は間違ってた。お前と別れるべきじゃなかった。こんなに愛してるなんて……気付いてなかったんだ」
……そんなの……そんなのもう遅い。私達は縁がなかったのだ。もうどうしようもないのだ。
「課長、私達はお互いに運命の相手じゃなかった。課長は……これから新田麗亜さんと幸せになるべきです」
課長が眼を見開いて私を見つめる。
「菜月……」
その時、
「和哉さん!」
澄んだ声と同時にフローラルな香りが漂い、私は反射的に駆け寄ってきた人物に眼を向けた。
それは……両目に涙をいっぱい溜めた新田麗亜さんだった。
たちまち心臓が痛いくらい脈打ち、私は息が出来なくなるほど硬直した。
麗亜さんが私をチラリと見た後、課長を見上げた。
「和哉さん、随分探したのよ?!心配したのよ?!」
「麗亜、君とは結婚出来ない。俺は……」
その瞬間、麗亜さんが課長の頬を打った。パァン!と乾いた音がして、課長の横顔と麗亜さんの眼からこぼれた涙が同時に見えた。
近くを通りかかった人が驚いたのが分かったけど、誰も足を止めなかった。
一気に全身が冷たくなり、私は息を飲んで麗亜さんの華奢な身体を見た。どうしよう。この状況は一体どうしたら収まるんだろう。私がなす術もないまま立ち尽くしていると、麗亜さんが私に向き直った。
可憐で清楚だとばかり思っていた麗亜さんが、私を厳しい顔つきで見つめる。
ああ、きっと彼女は今から私を責め、なじるだろう。でも、私にはどんな申し開きも出来ない。だって、彼女を傷付けているのは課長だけじゃない。私だって同罪だもの。
「岩本菜月さんですよね」
麗亜さんが涼しげな声で私に口を開いた。
「……はい」
「お騒がせして申し訳ございません」
……え?
麗亜さんが深々と私に頭を下げた。それから再び彼女は課長に向き直り、キッパリとした口調でこう言った。
「和哉さん。終わりを告げた恋にしがみついて菜月さんを苦しめるのはもうやめてください。それから、ちゃんと私を見てください」
課長が、信じられないと言った顔で麗亜さんを見た。
「確かに私達は政略結婚です。でも、私はあなたを好きになりました。あなたもこの結婚を承諾したなら、少しは私を見てください。こんな風に何も言わずにいなくなったりしないでください。きちんと私と向き合ってください。それでも私を愛せないというなら……私も潔く諦めます。でも、最初からこちらを向いてもくれないなんて納得できません。あなたには私と向き合う義務があります」
ハッキリと、それでいて優しい彼女の口調に、私は圧倒されて息を飲んだ。
……確か、麗亜さんはこの間二十歳になったばかりだ。若い彼女はきっと、私と課長の破局を認めず、私を敵視して責めるとばかり思っていたのに……。
ああ、彼女はただのお金持ちのお嬢様ではないのだ。きちんと物事を見極め、しっかりと自分の意思を相手に告げる、芯の通った女性だったのだ。
「麗亜……」
麗亜さんが、笑い泣きの表情で課長を見上げている。
「和哉さん、私は努力します。あなたにいつか愛されるように。だから……私を見てくれませんか?」
その時、誰かが私の肩を掴んだ。
「菜月」
すぐに佐渡君だと分かった。
「佐渡君……」
黒い瞳が私を捉え、ホッとしたように優しくなる。その眼差しに安心して、私の全身から力が抜けた。見つめ合う私達の傍で、麗亜さんがそっと課長の手を取った。
「和哉さん、帰りましょう。……菜月さん、失礼します」
課長は私と佐渡君を少しだけ見た後、麗亜さんと車道の端に停車してあった車へと姿を消した。
……課長……どう表現したらいいか分からないけど……課長が幸せになったら……いいな。だって、麗亜さんは素敵な人だもの。
「菜月さん、大丈夫ですか?」
「……え?」
「身体が凄く熱い。体調悪いんじゃないですか?」
……そう言えば全身の汗が半端ない。てっきり、さっきの出来事で緊張したからかと……。
「自分で立てますか?」
え?自分で……立て……。気付くと私は佐渡君に寄りかかっていた。それどころか強い目眩とフワフワする感覚が襲いかかってきていたし、なにより全身が痛かった。でも言わずにはいられなくて、私は口を開いた。
「……ねえ、佐渡君。課長……きっと麗亜さんに恋をするよね?だって彼女……私なんかよりも何倍も素敵な人だもの」
眼を閉じたまま私がそう言うと、額に佐渡君の息と柔らかな感覚がした後、彼が私に言葉を返した。
「あなたは仕事で無理をしすぎたんですよ。タクシー捕まえます。菜月さん?菜月さん!」
ダメ。ほんともう無理。それから、観念しよう。
麗亜さんを、私も見習いたい。
「佐渡君……」
「なんですか?いまタクシーを」
「……き……」
「聞こえません、しっかりしてくだ」
もうこの重い身体をどうすることもできずに、私はグッタリと佐渡君に身を預けた。
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岩本菜月の第一印象は、単純な女といった感じだった。
小柄で背中までのウェーブヘア。形のよい輪郭や、黒目がちの大きな瞳は悪くはない。
だが気が強く、すぐ感情を顔に出すところが俺よりも二歳年上のわりには子供っぽかった。
仕事に対する考え方を知りたくて少し煽ると、たちまち彼女はムッとして俺を睨んだ。
『さぞかし岩本さんのデザインする空間とやらは、見るものを魅了する無限の可能性を秘めてるんでしょうね』
それからほんの出来心で俺が言った嫌みなこの言葉に、彼女は自信満々でこう答えたのだ。
『見るものを魅了?そんなの甘いわ。見る人だけじゃないわよ。私が作った空間に一歩入ったなら、その人に夢をあげるわ。たとえその人が涙していたとしても、私がデザインした空間にいる限り、幸せにしてあげるのよ』
凛とした眼差しで俺にこう言った彼女に、思わず息を飲んだ。今までに俺は、こんな風に自分の仕事の腕を自負する女性に出逢ったことがなかった。これが、俺が岩本菜月に興味を抱いた瞬間だった。
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岩本菜月に興味は湧いたが、恋愛対象としては些か幼く感じた。あからさまに俺に見とれていたから、若干の不安を覚えたのも確かだ。
……こういう勝ち気な女は、好きになった相手に猛アタックを繰り返し、相手の迷惑を省みないタイプが多そうに思えた。釘を刺した俺に彼女は、
『私、彼氏いるから安心して。それにいくらビジュアルがドストライクでも佐渡君を好きになる日なんか百万年生きれたとしても来ないから大丈夫だよ』
なんて可愛くない女なんだ。俺だって願い下げだと思った。ところが俺に不思議な事が起こった。それは新入社員の歓迎会での事だった。俺は多分……その日に彼女に恋をしてしまったのだと思う。
居酒屋に姿を現した彼女は、仕事を目の前にした時とは全く別人のような印象で、眼が合った瞬間、強く鼓動が跳ねた。フワフワとした可愛らしい笑顔や、職場の皆を気遣う優しい眼差しや態度。異性同性を問わずどこか隙があり気さくで、それが作られたものではないのが一目瞭然だった。
年下からは慕われ、年上からは好かれているのがこの飲み会の間にすぐ分かった。
完全にギャップ萌えだ。
そんな彼女が失恋するのを見てしまった時、不謹慎だがあまり同情はしなかった。可哀想だという気持ちよりは、これをきっかけに彼女が不毛な恋愛から自由になれるのだからよかったと思ったのだ。
けれど、人の感情は一種類じゃない。課長の婚約者を目の当たりにし、酷く傷ついていたのに俺には必死でそれを隠そうとする態度。
先のない関係で最初から割りきっていたと言いつつ、彼女の瞳は苦しげに瞬いていた。けれど、彼女は俺に弱さを見せようとしない。
なのに俺が邪魔しなければ、きっと後輩の安藤には有りのままの自分を見せたに違いない。何故なら安藤は俺とは真逆で、岩本菜月に安心感を与えるタイプだからだ。
……あの時芽生えた強烈な嫉妬心を、俺は一生忘れないと思う。
この嫉妬心を感じた瞬間、俺は自分が彼女に引かれているのを自覚した。
なんて事だ。まるでタイプじゃない女に惚れるなんて。でも事実だ。このまま彼女を連れ去りたい。誰にも渡したくない。
勝ち気だと思えばフワフワと笑い、心許なく瞳を瞬かせては必死で自分を奮い立たそうとする岩本菜月。
こんなにも可愛い女を男がほっておく訳がないと思った。さらわなきゃ、彼女は手に入らない。
あの時の俺は必死だった。何とかして彼女を独り占めしたかった。狡くても騙してでも。
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岩本菜月は手強かった。
ふたりで熱くて甘い夜を過ごしたのに、次に会った時にはそれを全く感じさせなかった。
一方俺はというと……見事に落ちてしまっていた。彼女……岩本菜月に。俺の腕の中での彼女は本当に可愛くて、この先、この人が他の誰かのものになる日が来るかも知れないと思うだけで胸が焼けるようだった。
なのに、彼女には自分が可愛いとか魅力的だとか、そういう自覚がまるでなかった。新庄課長は相変わらず彼女に未練があるようだし、安藤に関しても彼女を真剣に狙っている。
それからこれは……彼女の同僚である川島沙織から聞いた話だが、何でも同期入社で営業課のエース、上條斗真が彼女を好きだとか。
当の彼女はまるでそれに気付いていないらしいが、この分だと上條斗真がアクションを起こす日も近いんじゃないかという話だった。
……自分勝手は百も承知だが、俺に見向きもしない彼女が恨めしく思え、ついついつまらない意地悪や素っ気ない態度を取ってしまっていた。それが拍車をかけてしまい、俺と岩本菜月の距離はいっこうに縮まらない。
『くれぐれも俺をオトそうとか考えないで下さいよ。俺、何の取り柄もないアラサーなんか興味ないんで』
つくづく、こんな事を言わなければよかったと後悔したが、後のまつりだ。
岩本菜月は完全に俺を恋愛対象から外しているようだった。自業自得だが、こんなにも気になる俺とは対照的に、こちらを鼻にもかけない彼女が憎らしい。
会社での彼女は相変わらず仕事の顔で、キリリとしている。
一方気がつくと俺は、彼女の事ばかりを考えていた。
仕事漬けの彼女が心配でたまらない。課長と接待?そんなのダメに決まってるだろ。俺以外の男と徹夜で仕事なんて有り得ない。
嫉妬ばかりしている自分に呆れたが、止められなかった。彼女に近づきたい。彼女を抱きたい。
けど、そのうちに俺は悟った。いくら身体を重ねてもダメだと。何処かに置いてけぼりの、彼女の心を探さなきゃダメなのだと。
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彼女と何の進展もないまま、呉服桜寿の二階店舗の施工が始まった。
家具の最終確認に出掛けた彼女に代わり、内装……壁の珪藻土とUVカット溶液塗布が終了した窓ガラスの説明の矢先に事件が起きた。
大女将が倒れたのだ。彼女が必死で鞄から出したのはニトログリセリンの舌下錠で、俺はすぐに彼女が狭心症だと悟った。本来なら数分で改善されるはずの体調は良くならず、彼女の意識は混濁していた。
「菜月さんに……私に何かあってもやり遂げてと伝えて」
苦しい息の中、大女将はこう口にした。
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「大女将は……苦労人なんです。創業四百年の老舗呉服店に嫁いだ大女将は、それはそれは先代の大女将に辛く当たられて……。きっと大女将は、自分の代でなにか大きな事を成し遂げて私達にこの呉服桜寿を繋げたかったのだと思います。その足掛かりである関東進出をかけた第一店舗のデザインを岩本菜月さんが手掛けてくださって……大女将はその店内の美しさに圧倒されていました」
NTビルディングの一階店舗を任されている大女将の次男の妻……若女将は更に続けた。
「実は家具入れの日、アクシデントが起きたんです。向かい隣の漆器店の商品搬入日とこちらの家具入れが重なってしまって……。気になさらない方もいらっしゃるでしょうが、私共は店柄、縁起を重んじますので家具や品、あるいは嫁入り道具などを乗せた車をバックさせたり予定よりも遅らせる事を非常に嫌いまして……。創業年数はあちらの方が長いし、これから御近所としてのお付き合いもありますから、あまりこちらの我ばかり通せません。……でもこちらも創業以来、荷車を後退したり遅らせたことは一度も有りませんし厳しい状況でした。あちらもあちらで格式高く伝統を重んじるお店で、荷車の後退や時間の変更は出来ないと仰られて……」
……確かに店舗前の道路は狭く、向かい同士でそれぞれのトラックを停車するのは不可能だ。
「そんな状況を岩本菜月さんが助けてくださったんです。うまくあちらのお店とお話をしてくださって……本当に驚きました。こちらは京都の本店から大型トラックで荷を積んでいましたから大変ハラハラして……心臓が痛いくらいでした」
若女将の話を聞いた俺は、胸に大きな衝撃を覚えた。
恐らく彼女は何かのはずみで大女将の病気を知ったのだろう。
だから余計に、彼女の心臓に負担をかけないように漆器店の当主と話をつけたのだ。
実に然り気無く、実に鮮やかに。いや、彼女の事だ。大女将の病気がなくても出来るだけ穏便にトラブルを回避したに違いない。
けれどあちらの店にも事情があるし、漆器店が老舗の名店である事を考えると余程の事がない限りはこんな願い事を言いには行けないだろう。
そう考えるとやはり、大女将の身体を気遣ったのが一番の理由だと思う。
若女将は眩しそうに笑った。
「あの時の菜月さんを見て、私も大女将に信頼していただけるように一生懸命精進して参りたいと思いました」
その時、俺の脳裏に岩本菜月が言った言葉が蘇った。
『私が作った空間に一歩入ったなら、その人に夢をあげるわ。たとえその人が涙していたとしても、私がデザインした空間にいる限り、幸せにしてあげるのよ』
彼女のこの言葉は、客のためだけのものではなかったのだ。
岩本菜月は、その店で働く人間にも同じように、夢や幸せを与えようと考えていたのだ。
こんな風に誰かの話をして胸が……いや身体全体が脈打った事なんかない。苦しいくらい彼女に会いたくて、抱き締めたい。けれどこの話を聞き終えたとき、俺は自分が取ってきた行動を心の底から後悔した。
岩本菜月という人間は、俺が簡単に触れていいような人間ではなかったのだ。軽々しく触れると彼女が汚れるような気がした。それくらい彼女は素晴らしいと思った。
そして、どうしようもなく俺は彼女に焦がれた。