ユージーンは嘘つき
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翌日、朝。
事件は程なくして起きた。
「先輩、やるじゃん!」
「だろ?」
雅野工房に赴いた私は、工房のオーナーであり大学時代の先輩でもある雅野さんを感嘆の声と共に見上げた。
市外ののどかな田園風景の中にある雅野工房は周りの穏やかさとは真逆で、ひっきりなしに運送業者が出入りしている。
「相変わらず先輩の造る家具は大人気ですね」
「まあな!天才は周りがほっといてくれなくてよ」
「連休何処も行かないんですか?」
「お前のせいで行けねーんだよっ!」
「はははは!あ、引き出しの件、お心遣い感謝します!」
呉服桜寿の反物タンスを雅野工房に依頼した私に、先輩から連絡が入ったのは昨日だった。
先輩は強化ガラスを材質にした反物タンスを造るにあたり、ケース内に湿気が溜まるのを心配してわざわざ防止剤を入れるための浅い引き出しを作ってくれたのだ。
「先輩、ありがと。実は私、強化ガラスの反物タンスは初めてでさ、湿気の事まで考えてなかったんだ」
私がそう言うと、先輩は軽く頷いた。
「値段は据え置きだから心配すんな。お前、この度は総桐箪笥を五点もうちで発注してくれたしな。親父も喜んでたよ。あとは微調整が残ってるけど納期は守るから安心しておいてくれ」
「うん」
私が頷いたのを見ると、先輩は頭に巻いていたタオルを外して首にかけながら続けた。
「他に湿気対策出来てて必要ないなら、手ぬぐいなんかディスプレイしたらいいんじゃないか?」
確かに壁は珪藻土だし、強化ガラスのタンスは浴衣のディスプレイ専用だけど、やっぱり湿気防止剤を入れられるとなれば心強い。
「惚れるわ、先輩。さすが職人!」
「じゃあ俺と結婚するか?」
無精髭をカッコよく生やした先輩が、至近距離からニヤリと笑った。
「ずっと好きだったんだぜ?」
言いながら、筋肉質の腕を私の首にグイッと回す。
「ちょっと先輩!嘘つくなっ!」
私が先輩の腕を投げる勢いで外すと先輩は少し拗ねたように、
「最近お前がこき使うからさ、俺、女子に餓えまくりなんだよぉ!」
「女遊び激しいんだから、たまにはおとなしくしてたらいいんですよっ」
「もう、お前で我慢するからさ、今晩俺と」
「あ!電話だ」
「ちぇ!なんだよ」
渋々先輩が離れ、私はバッグからスマホを取り出して画面を確認した。
……佐渡君だ。なんだろう。
「はい。佐渡君?」
「大女将が倒れられました。内装のチェックの最中に……今、救急車を呼んだところです」
嘘。
脚が痺れるような感覚がして、力が抜けそうになった。大女将が……どうしよう……!目眩を覚えたけれど必死で踏ん張り、私はスマホを耳に押し付けた。落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ……!
「安藤君は多分まだ社内にいるんだけど、連絡とって現場で作業チェックしてもらって。佐渡君、悪いけどもしも搬送先が判ったら携帯に連絡して」
「了解です。一階店舗の呉服桜寿の方には連絡しましたが、俺も病院に向かいます。状況の説明もありますので」
「分かった。ありがとう」
スマホを切って先輩を見ると、彼は手にした車のキーを私に見せて口を開いた。
「菜月、駅まで送ってやる」
「ありがとう、先輩」
ああ、大女将、どうか無事でいて。私は先輩に頷くと、滲み出る額の汗を拭きながらバッグを肩にかけなおした。
∴☆∴☆∴☆∴
大女将が搬送されたのは、呉服桜寿から車で十分程の総合病院だった。
「……大女将……」
七階の大女将の病室をノックしようとした時、ゆっくりと引き戸が開いて中から佐渡君が出てきた。
「佐渡君……大女将は……?」
「先程まで菜月さんを待ってましたが、今、眠られました」
言い終えた佐渡君が、私の手を引いて廊下を左に曲がった先の談話室へと足を進めた。
「……」
「……」
誰もいない談話室はガランとしているわりに太陽の光のせいで明るく、雰囲気は悪くなかった。
カタンと小さく椅子の音がなり、コーヒーを買った佐渡君が私の前に腰かける。
「今、若女将が入院の手続きをされています。秘書の三村さんが急用の為、大女将と二時間だけ別行動だった間の出来事で……」
「……うん」
私は、三ヶ月前の大女将と現在の彼女の姿を脳裏で思い返しながら小さく頷いた。初めて会って話をしたあの日に比べると……彼女はとても痩せてしまっていた。
「倒れた時、大女将は舌下錠を持っていました」
「……」
「……誰も知らなかったみたいです。若女将はたいそう驚いていました」
「……」
「あなたは……知ってたんですか?」
「……」
「知ってたんですか?」
無言で見上げる私に、佐渡君は溜め息をついた。それから、答えない私の代わりにこう続ける。
「今は安定しましたけど、舌下錠を服用したにも関わらず数分以上経っても回復しなくて……焦りました」
「……そう……」
ようやく呟いた私に、佐渡君はコーヒーを差し出して続けた。
「さっき意識を取り戻した大女将に呼ばれて話をしました。……あなたの事をしきりに誉めていましたよ」
……私の事?私は佐渡君をただ見上げた。すると彼は、小さく苦笑いを浮かべて手元の缶コーヒーに視線を落とした。睫毛が瞳に影を落として、それが少し切なげな表情を作る。
「あなたは……大女将が狭心症を患っているのを知っているんですね」
コクンと喉が鳴った。佐渡君は静かに続ける。
「若女将から聞きました。呉服桜寿が東京進出を果たした時の家具入れの際の話を。あなたは大女将の病気を知っていたから、」
「関係ない」
私は思わず立ち上がると、佐渡君の言葉を遮り彼を一瞥した。
「関係ない。若女将に何を聞いたのかしらないけど、大女将の病気とあの時の私の行動とは関係ない。余計な事を大女将に言わないでよね。彼女に恩を売るような事を言ったら許さないから。私、もう行くわ。安藤君が待ってる」
「菜月さん、待ってください」
待たない。待てない。さっきの佐渡君の言葉が頭の中に蘇る。
『呉服桜寿が東京進出を果たした時の家具入れの際の話を』
……この話は終わりだ。これ以上この話を誰かとするつもりはない。私は、私の仕事をやるまでだ。大女将が待っているもの。
話していればわかる。眼の輝きを見ていれば分かる。
自分に厳しく気高い彼女は、病気なんかを理由にしたりしない人だ。同情や憐れみなどは彼女に失礼なのだ。
東京の店舗拡大は、彼女の残りの人生を懸けた夢。
私はそれを、私の持っている限りの力で手助けしたい。
エレベーターを出ると、広い総合受け付けを突っ切り、私は正面玄関から外に出た。
同時にスマホを取り出し安藤君に連絡を取る。
『菜月さん?』
「安藤君、お願いがあるの」
『どうしたんですか?何でも言ってください』
ごめんね安藤君。でも、助けて。私は心で呟いた言葉を、そのまま安藤君に告げた。
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「安藤君、ちょっと休憩しよう」
二階の呉服桜寿新店舗のSD現場で、私は業者さん達が忙しく働く中、安藤君を見上げた。
「あ、はい、俺コンビニ行ってきます」
「一緒に行こう。さっき課長が見に来てくれたじゃん?その時にお小遣いくれたんだよね!業者さんの分も!」
「マジですか?ラッキー。じゃあ行きましょう」
「ん」
階段で一階に降り、コンビニへと足を進めていると、安藤君が辺りを見渡しながら口を開いた。
「菜月さん、今の仕事が落ち着いたら今度こそ僕と飲みにいってもらえますか?」
言い終えて私を斜めから見下ろした安藤君の瞳は凄く優しくて、私の胸がキュンとした。
「あ、でも僕が連休中助っ人に来たからその借りを返すためとか、そんなの考えないで下さい。嫌なら……断ってください」
安藤君……。
真っ直ぐで涼やかな安藤君の眼が、ちゃんと私を見てくれていて……。
……そうだな……それもいいかも知れない。
「うん!じゃあそれを楽しみにして仕事頑張るよ」
私の言葉に安藤くんが、眼を見開いた。
「いいんですか?」
「もちろん」
「マジ嬉しいです。僕頑張ります」
安藤君の笑顔があまりにも可愛かったから、私は佐渡君との間に起こった出来事を考えずにいられた。
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休日出勤最終日。
「ありがとね、安藤君!安藤君のお陰で泊まり込む日がゼロ日だったね!本当にありがと!早く大女将に見せたいよ」
私が出来上がった呉服桜寿の新店舗でこう言うと、安藤君は苦笑した。
「僕の力より、佐渡さんの力の方が大きかったというか……凄く段取りが上手くて無駄な時間が出なかったのは佐渡さんのお陰ですよ」
「………」
……確かに佐渡君の仕事ぶりは、眼を見張るような鮮やかさだった。施工業者がガチ合って作業が滞るのを上手く防いだり、業者さんに頼らなくても私達に出来る作業は器用にこなしてくれた。でも……。
私は少し咳払いをすると、安藤君を見上げた。
「安藤君、凄く成長したね。この連休中、仕事を助けてもらって本当に驚いたよ。新入社員の頃はさ、毎日安積くんに叱られてしょぼくれていたのに」
私がそう言うと、安藤君は更に困ったように頭を掻いた。
「佐渡君は確かに私達がスムーズに仕事が出来るように上手くサポートしてくれたけど、やっぱりこんないいSDが出来上がったのは現場作業をしっかりやれるようになった安藤君の力が大きいよ。本当にありがとう」
私が安藤君の真正面に立ち、ペコリと頭を下げると、彼は何とも言えない顔をして私を見つめた。
「菜月さんって、佐渡さんが好きなんですか?」
「えっ?」
ドキッとして思わず硬直する私に、安藤君が寂しそうに続けた。
「……佐渡さんをよく眼で追ってるから……」
「……」
純粋に私にそう問う安藤君に、嘘はつけなかった。
「うん」
「……そうですか……」
呟いた安藤君は一方の壁にディスプレイされた鮮やかな京和傘を見つめながら、ホッと息をついた。
「佐渡さんがライバルなんて、勝てる気がしません」
……安藤君……。それって……。安藤君が続けた。
「僕、入社した時から菜月さんが好きだったんです。可愛くて、仕事に関しては自分に厳しいのに周りの人には凄く優しくて。この人を見習いたいって思いました。だから、早く仕事を覚えて少しでも近付きたかった」
そんな風に思われていたなんて……。凄く驚いて何も言えなくて、私はただ、安藤君を見つめた。
「でも今日分かったんです。菜月さんの圧倒的にずば抜けたSDのセンスを。そしてそれを、僕は一生越えられないって」
「安藤君……」
「だから……潔くここで身を引いておきます。僕の性格からして万が一でも菜月さんと付き合えたとしても、このままだと卑屈になって愛想を尽かされるのが眼に見えてますし」
「そんな……安藤君は素敵な人だよ」
私の言葉に安藤君がユルユルと首を振った。
「菜月さん、でもたまには飲みに行ったりランチに付き合ってくださいね。もっと仕事を覚えて菜月さんみたいな人になりたいから」
その時入り口が静かに開いて、外の喧騒が聞こえた。
「佐渡さん」
安藤君の声に私も入り口を見つめると、佐渡君が書類とタブレットを手にこちらを見ていた。
途端に、部屋の中央で向かい合っている私達が不自然に思えた。
……佐渡君ってなんか鋭いところがあるから察知したりして……。
やだな、突っ込まれたら。その時、
「佐渡さん、最終チェック完了しました。僕、このまま直帰します」
「分かりました。お疲れさまでした」
「お疲れさま。あと一日しか休みないけど、ゆっくり休んでね。ありがとう安藤君」
私の言葉に安藤君が微笑み、ボディバッグを背負うとフワリと笑った。
「僕こそ菜月さんの仕事を間近で勉強できて嬉しかったです。ありがとうございました」
ドアの外に消えていった安藤君を見送りホッと息をついた私を見て、佐渡君が無愛想な声を出した。
「……告白でもされたんですか?顔が赤いですけど」
「はい?!」
な、なによ、やっぱり鋭いわね!
「そ、そんな訳ないでしょ!この呉服桜寿の二階店舗、凄く素晴らしい出来だねって、二人で自画自賛してただけ!」
焦りを必死で隠しながらそう言うと、佐渡君は部屋中を見回して頷いた。
「確かに……良い出来です」
「……ほんと?」
佐渡君がしっかりと頷いた。
「はい。きっとこの店舗に来るお客は、幸せな気分になるはずです」
胸がギュッとした。
「本当に素晴らしいです。安っぽくならないか不安だった強化ガラスの着物タンスが、こんなに素晴らしいなんて思いもしませんでした。真鍮製の縁がなかなか渋いです。きっと色とりどりの反物を入れたり、浴衣をディスプレイすると宝石箱のように美しいでしょうね。奥の間の総桐箪笥も実に立派で、部屋全体のデザインはそれにひけを取らず良いバランスを保っています」
佐渡君の言葉に凄くドキドキした。いつも私に対して不機嫌で辛辣な佐渡君が、こんな風に誉めてくれるなんて……。
ああ、大女将はこの部屋を見てどう思うだろう。入院を余儀なくされている大女将は作業の進捗状況や家具、小物などをまだ写真でしか見ていない。それに私は……まだ一度も入院した彼女と会っていなかった。私に出来ることを、彼女のために精一杯したかったから。
今完成し、やっと彼女にこの空間を贈ることが出来る。
「大女将に……報告にいかないとね」
何だか泣きそうになってしまった。それを悟られないようにわざと明るくこう言うと、佐渡君が私に手を伸ばした。
「大女将はきっとまたあなたを誉めるでしょうね」
私は無意識に首を横に振ると、佐渡君を見ずに答えた。
「誉めてもらえなくてもいいの。それよりも、大女将がこの空間で幸せでいてくれたらそれでいい」
「……」
そう言い終えたとき、私に手を伸ばそうとしていた佐渡君がピタリと動きを止めた。あと少しで私の頭を撫でようとしていた彼の手が、そのギリギリで止まったのだ。
「引き渡し日までに一度、病院に行って報告しましょう」
「……うん」
佐渡君は、私に触れることなくその手を下ろした。その顔は無表情に近く、私には何も読み取ることが出来なかった。
……どうして触れるのを止めたの?とてもじゃないけどそんな事は訊けないし……よく考えたらそんな仲じゃないもんね、私達……。
戸締まりをし、呉服桜寿から出た私を佐渡君が振り返った。
「お疲れさまでした」
「うん。じゃあまた会社でね」
小さく手を振ると、佐渡君は少し両目を細めて私を見つめた。綺麗な顔だな、やっぱり。SD課の女子だけじゃなく、社内中の女子に人気だって、この間沙織がラインしてきてたっけ。ボケッとしてたら取られちゃうよって。
その時佐渡君が、私を見つめたまま口を開いた。
「そんなに見つめてどうしたんですか?」
夕陽に染まった瞳が、本当に綺麗だった。そんな佐渡君が身体ごと向きを変えて、こちらを食い入るように見つめた。
「何か言いたいことがあるなら……ちゃんと聞きます」
ギュッと胸が軋む。
……嘘ばっかり。絶対ちゃんと聞かないでしょ。
そんな事言って、私が『好き』なんて言ったらどうするのよ。
嘘つき。佐渡君の嘘つき。
なんか、泣きたくなる。私、凄く弱い。
「……何もないよ。言いたいことなんて。じゃあ、連休明けね」
瞬間、佐渡君が私から視線をそらした。たったそれだけの筈が、何故か瞳に影が落ちた気がした。おまけにその影が、私の心にも流れ込む。
「……はい」
胸が重い。佐渡君も嘘つきだけど、私も嘘つきだ。
言いたいことはちゃんとあるのに。
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その日の夜。
「ユージーンは《イケメン》、《エロい》、《毒》、《嘘つき》……結構な書かれようだわね、佐渡君も」
久々に二人だけの家飲み女子会を開いた私は、ゴクゴクとハイボールを飲む沙織を少し睨んだ。
「ちょっと!伏せ字にしてあるでしょ?エロいなんて書いてないじゃん」
「はいはい」
ジョッキを煽りながら冷蔵庫の《ユージーンスペース》を凝視する沙織は、まるで私よりもこの家の住人みたいだ。
「それよりさ、凄い話って何よ?」
『今夜はね、凄い話を持っていくわよ』
そもそも何かスクープを入手したとかで家に来たはずの沙織は、ガンガン酒を煽り私とユージーンの事ばかりを聞きたがっている。
「新庄課長の事よ。玲奈、あんたに直で話したかったみたいだけど、あんた連休中激務だったじゃん?玲奈も田舎帰らないといけなかったからさ、代わりに私がしっかり聞いてきたってわけよ」
胸がキュッとして、何だか嫌な予感がした。
「……課長がどうしたの?」
「変なのよ」
「何が?」
思わず眉をひそめた私に、沙織はニヤリと笑った。
「聞きたい?」
「聞きたい」
「佐渡君に告白したら話してあげる。今から電話しな」
「もうっ!早く喋れ!」
私がイラついて睨むと、沙織は大袈裟に肩をすくめた。それから冷蔵庫を開けて新しい缶を取り出すと、そのままリビングへと足を進めながら口を開いた。
「……早くも破局の予感よ。総務課の玲奈が人事部長の話を盗み聞きしたらしいの」
……破局?課長が?だって、婚約して間がないのに……もう破局なんて、信じられない。私は眼を見開いたまま、沙織の綺麗な顔を見つめた。そんな私に沙織は更に続ける。
「玲奈の話じゃね、新田麗亜の父親が婚約の祝いに贈った高級マンションに二人は早々と同棲していたらしいんだけど、どうやら最近になって課長がマンションを出たらしいの。しかも辞表を提出して保留処分。叔父にあたる社長が激怒してね」
ドクドクと心臓が脈打ち、何だか寒い。
「新庄課長ってさ、早くに両親を亡くして社長が親代わりじゃん?育ての親の恩を仇で返すような事しちゃってさ、どうなるんだろうね。新田麗亜といったら、わが社とも取引ある新田商事のご令嬢だし、言わばグループ会社じゃん?関係崩れるのはまずいでしょ」
「……」
黙り込む私を、沙織が見つめた。
「菜月……心当たりあったりする?」
……どうしよう。原因が……私だったら。私はユルリと首を振る事しか出来なかった。
「……わからない。一度はちゃんと断った。そしたら課長が『話がある』って……でもその時も佐渡君がうまく助けてくれて……課長とはそれ以来プライベートな話はしてない……連休中は、呉服桜寿二階店舗の施工中だった私や安藤君の様子を見に来てくれたけど、いつもの通り仕事の顔だったし変じゃなかった」
「……そっか……とにかく、二人きりにはならない方がいいわよ。今の課長はヤバイわ。もしもあんたが課長に会ってるところを新田さん側に見られたりしたら……」
「分かった。気を付けるよ」
……課長……。
課長とは……男女の関係を経て今はただの上司と部下だ。でも嫌いじゃないし、上司として尊敬できる人間だ。どうでもいい人じゃないから、そういう事を聞くとやっぱり気になってしまう。
この日私は、胸がモヤモヤしてなかなか眠りにつけなかった。
∴☆∴☆∴☆∴
翌日。
連休中仕事漬けだった私は、最終日の今日、朝早く起きて溜まっていた家事をこなした。
昨夜は家飲みの前に、見るに見かねた沙織が大量の洗濯を手伝ってくれたからかなり助かった。だって洗濯って、畳むまでが洗濯でしょ?正直大嫌いなんだよね。
掃除機をかけてからシャワーを浴び、メイクをすると買い出しに出掛ける。今日は自炊をする予定だ。
連休中はほぼコンビニかスーパーのお総菜ばかりに頼っていたから。
料理は得意じゃないけどたまには自炊して、作ったものを小分けにしてストックしておく。仕事で遅く帰っても温めてすぐ食べられるから便利だし、それに何より『私、ちゃんと自炊してます』っていう自分に対しての安心感が欲しいしね。
それから今日はね、待ちに待った大イベントがあるんだよね。
ああ、この日を糧に私は仕事を頑張り続けたと言っても過言ではない。
『はあ?!私の誘いを断ってあのBL漫画家の瀬戸カナデのサイン会に行くってか?!』
沙織はあからさまにムカついた顔をしていたけど、沙織ならいつでも遊べるもん。だけど瀬戸カナデ先生にはそう会えないもの。先生の人気コミックの完全受注生産限定のDVD&Blu-rayを購入して、尚且つ抽選に当たらなきゃ握手会には参加出来ないんだから。実は私、なんと瀬戸カナデ先生の握手会には四回連続当選してるのよね。ああ、久々に先生に会えると思うと凄くドキドキする。
時計を見るともうすぐ十時になるところだった。
マンションのエントランスを出ると、金色の光が辺りに降り注いでいて綺麗。気分もアガる。私は駅へと足を進めると、頬を撫でる爽やかな風に微笑んだ。
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思いもかけない事って、急に起こるのよね……。私は目の前の信じられない光景に、石になる勢いで硬直した。
その恐怖は何の前触れもなく、私が浮き浮きと瀬戸カナデ先生のサイン会場へと向かっている途中に襲ってきたのだった。
「みんなーっ!今日は来てくれてありがとぉーっ!」
…………驚かないわよ、私は。
マイクを通しているにも関わらず萌え系ボイスでそう叫ぶ女子を、私は横目で見ながら通過しようとした。
「アンナーッ!」
「今日もアイラブユーッ!」
……そう、この野太い声援にだって動じるもんですか。ここはビルの地下一階にある、小さなCDショップだ。一般的なCDはまるで入荷されなくて、はっきり言ってかなりマニア向けの店だ。簡易ステージに立つこの女の子も今、ここでCDを買ったファン、もしくは会員のみの握手会の真っ最中なんだと思う。
混乱を避けるため、ショップと通路の境界線にロープが張ってあり、スタッフが目視で通行人や、客の安全をチェックしている。
「中二階アイドル、真中アンナでーす!この度は三枚目のシングルCD発売記念握手会にようこそぉ!」
………おめでとうございます……。
中二階アイドルとやらのアンナがステージでピョンピョン飛び跳ねるごとに、彼女のメロンみたいな胸が激しく揺れている。
アイドルにしたら顔はそこそこだけど(ごめん)、胸は爆発的にデカイ。
私は人の流れがストップし、やむなく足を止めなければならなくなったついでに自分の胸をシゲシゲと見た。
……なんだ、この差は。同じ人間だというのに……。
その時、何の気なしにCDショップの客を見回した私の眼に、背が高く頭の小さい男性が映り込んだ。
あれは……あのモデルなみにスタイルのいい男性は……昨日会ったぞ。漠然とそう思った私はすぐに我に返ると、咄嗟に瞬きを繰り返した。
……嘘……!
さ、佐渡君じゃん!
なんと、マニア向けCDショップのど真ん中に佐渡君がいたのだ。他のマニアックな男性に混じって。
……マジ?!思わず眼を見開く私に気づく様子もなく、佐渡君はステージ上の中二階アイドルを凝視している。
「ア・ン・ナ!」
「毎日毎日アイラブユー!」
周囲の男性客が縦揺れする中、佐渡君の身体も同じように揺れているのがハッキリ確認できた。
……幻ではないようだ。
…………。
『人の趣味をバカにするな』
以前誰かがそう言っているのを聞いた事がある。……そうよ。私に他人の趣味をバカにする権利はない。必死でそう思い込もうとしたけど、全身に鳥肌が立つのを抑えられない。バカにしないけど……怖いわっ!!
中二階アイドルのアンナの胸が揺れる度に、佐渡君もまた揺れている。しかも何だか彼の視線が、アンナの胸ばかりに集中している気がするじゃないか。
……ちょっと!もしかして私の胸と心の中で比較してるんじゃないでしょうね?!もしそうだったら……ムカつく。
その時急に、以前の私と佐渡君との会話が脳裏によみがえった。
確か、
『二次元の男の方が現実世界の男よりいいですか』
だの、
『今までロクな男と出逢わなかったんですね、お気の毒に』
だの言ったわよね?!
しかも、私の趣味を小馬鹿にして、
『趣味は……舞台観賞です。オペラやミュージカル、ああ、能も好きだな……芸術性の高い物が好みです』
とかなんとか言ってたわよね?!
私のBL漫画趣味を鼻で笑っておいて、自分は一階でも二階でもない中途半端な階数の胸のデカイアンナにご執心な訳?!
……何がオペラじゃ!何がミュージカルよ!これのどこが《能》なのよ?!よくも言ったなテメー!
その時、
「瀬戸カナデ先生のサイン会に来られた方は、会場が変更になりました!係員の指示に従ってこのまま真っ直ぐお進みください!」
マイクを通さない声が響き渡り、私はハッとして佐渡君から係員の顔へと視線を変えた。
……不覚にも本来の目的を忘れるところだったわ。
……そうよ。
思わず取り乱しそうになったけど、人の趣味をバカにするのはよくない。佐渡君が中二階アイドルだろうが屋上アイドルに入れあげようが、彼の自由だ。……私に関係ない。関係ないわ。……まあ、沙織との家飲みでネタにはするけど。ユージーンはやっぱ嘘つきです!ってね。
私は進み出した人の波に紛れて足を進めると、瀬戸カナデ先生との対面に思いを馳せた。