ユージーンは毒
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「いやーっ、そりゃ惚れるわ。うん、惚れるぅ!」
「でしょ?徹夜に付き合ってくれたばかりか、接待終わった私を迎えに来てくれたんだよ?」
社食の窓際に座った私と沙織は、完全に女子高生と化しながら溜め息をついた。
「よかったあ!菜月がまともに恋愛するようになって!」
「いや、あんまりマトモじゃないかも」
「まあ、どちかといえば今はまだセフレっぽいけどさ、そんなのアンタが告りゃいー訳じゃない?」
「は?」
沙織はこんなにも能天気な人間だったっけ。私はあからさまに眉を寄せると、沙織の整った顔を見つめた。
「あんた大丈夫?!私がコクりゃ佐渡君は鬼の首獲った勢いでバカにするわ!」
「どうして?」
小首をかしげながらアイスコーヒーを飲むその仕草が女優顔負けだけど、そこに見とれている場合ではない。私は沙織を侮蔑の表情で一瞥すると、低い声を出した。
「あのね沙織ちゃん。佐渡君はね、『 俺をオトそうとか考えないで下さいよ。何の取り柄もないアラサーなんか興味ないんで 』て、完全に小バカにした顔で私に言ったんだよ?てことはつまり、彼は私に興味なんかまるでないんですよ。要するに、」
「新庄課長と同じだってか?」
私の言葉を遮った沙織は、的確に私の心を読んでいた。
「そう、それ!」
「全然違うじゃないの」
え?
私が驚いて眉を上げると沙織はフワリと笑った。
「ユージーンは菜月を何度庇った?何度助けた?どれだけあんたの世話焼いてる?そんなの何の感情もないただのセフレにしないでしょ」
「……もういいです……」
「なによ、その言うの面倒臭い感は!」
だって、沙織は佐渡君を贔屓目で見てるもの。
「ユージーンはね《毒》なの。《麻薬》なのよ」
「麻薬?!」
沙織は私の麻薬発言に、意味不明だと言わんばかりに声をあげた。
……確かに庇ってくれたけど、世話を焼いてるというよりは小言を言ってる感が半端ないし結構な意地悪だって言うんだよ?
けど……あの端正な顔がたまらなく素敵で、私が弱ってるところにつけこんで甘やかしてくる。
……毒に似ている。私にとって佐渡君は甘美な、毒。肌を重ねた時のあの仕草もあの表情も……すべてが麻薬だ。
……ダメだ、ダメだわ、私。もう、自己嫌悪もいいところだ。
「……さ、沙織……私、今抱えてる仕事が一段落したらもっとちゃんとした女になるわ。それからもうユージーンとは寝ない。実はね、好きなのに寝ちゃって後悔したんだ、凄く」
呆れ顔だった沙織が、更に呆気にとられている。
「はー?寝てもいいじゃん、好きなんだし。それにあんたちゃんとしてるじゃん。仕事は一生懸命だし家事もやってるし。なにがダメなわけ?」
「だ、だから……」
私の言葉を遮って沙織は続けた。
「私には及ばないけど、菜月は綺麗だし可愛いよ?女子力になんの問題もないし」
それから沙織は私を見つめてニッコリと笑った。
「性格もいいしね。あんたが頑張らなきゃいけないのはさ、別のところだよ」
「別のところ?」
「そ。あ、これ以上の助言は期待しないで。面白くなくなるから。まあ仕事が一段落ついたら家飲みしよ!じゃあ私行くわ。今日、直ちゃん体調よくないんだよね。少し早めに休ませてあげなきゃ」
「あ、うん。頑張ってね」
直ちゃんとは沙織の後輩で、同じ受付係の女の子だ。私は小さく手を振ってからトレーを持ち上げた沙織に笑って頷いた。
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「中山さんと西野さんの案件のスキンケアショップだけど、俺午後から空きますからチェックしに行ってきます」
私は仙道くんのこの言葉に救われる思いで彼を振り仰いだ。
「マジ?!助かる!実は呉服桜寿に家具の最終確認に行かなきゃならなくて。大女将のオッケイもらったらすぐに発注して、次に業者と現場に入るから。あ、関さんによろしく言っておいてね!」
「了解。で、呉服桜寿の件、施工スタート出来そうならすぐ電話ください。俺、直で現場いきます」
私は仙道くんに頷いた後、
「安藤くん。この間、営業に頼んでたインテリアの本あったじゃん?あれ借りたいんだけど。骨董品店のリニューアルに茶箪笥をチョイスしてたんだけど、オーナーがもう一回り小さいのをふたつ並べたいらしくて」
私がオフィスの端のコピー機の前にいた安藤くんに声をかけると、彼はニコッと笑った。
「同じ物の一回り小さいサイズなら、僕が代わりに発注しておきます」
「ありがと!お願いします!」
その時、課長がオフィスへと帰ってきた。
「あ、課長。私今から呉服桜寿に行ってきます」
「おう。俺も行こうか?」
「いえ。大女将のオッケイもらったら工房に顔出さなきゃならないんです。それから業者さんを迎えに行って現場で打ち合わせしなきゃならないので」
「……そうか。その後は?」
……え?
課長が私に一歩近づいた。距離がやけに近い。今まではオフィス内では一定の距離を保っていた。態度も。物理的にも。なのに課長はゆっくりと手を伸ばすと、私の頬を手の平でフワリと撫でた。
オフィスの皆は半数が出払っているし、残っている人間も慌ただしく仕事に取りかかっていて、そんな課長に気付いていない。
思わず一歩下がった私に、課長が早口で告げた。
「菜月、話があるんだ」
「時間です、行きますよ」
「いたっ!」
グイッと後ろから髪の毛を引っ張られて、私は自分の意思とは関係なく仰け反った。それからそのまま腕を引っ張られた時、佐渡君が課長に口を開いた。
「課長、呉服桜寿へ行ってきます」
「……分かった」
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「ちょっとっ!凄く痛かったんだけど!髪は女の命なのよっ?」
エレベーターを待つ間に私が佐渡君を睨むと、彼はフン、と鼻をならした。
「オフィスでイチャつくから目を覚まさせてあげたんですよ」
「だったら課長にやればいいじゃん!」
「リーチが届きませんでした」
シラーッと頭上を見上げて腕を組んだ佐渡君はモデルのように綺麗だけど、どこか不機嫌そうにしていて私を見ようとはしなかった。
エレベーターに乗り込んでからもそれは続く。
……。
「あのさ」
「なんです?」
「 東大寺の金剛力士像ってさ、実は人間に出来そうで出来ないポーズで立ってるって知ってた?人に見えて人にあらずっていう感じを醸し出すためっていうか、神格的な」
「この雰囲気でよくもまあそんな豆知識を飄々と言えますね」
「すみません……」
せっかくニコニコして言ってみたのに、叩き落とされた気分だわ。
……気まず……。
私は氷よりも冷たい佐渡君の視線に完全に挫けながら呉服桜寿へと向かった。
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「待ってたわよ」
「大女将、こんにちは」
「大女将。お時間頂いてありがとうございます。本日はわが社の案をお持ちしました」
立派な個室に通された私と佐渡君は、出された高級抹茶を一口戴いた後、持ってきた資料を広げながらこう切り出した。大女将が見易いように、家具のみの写真と室内全体のパースを大きめにプリントアウトしたものだ。
ああ、いつでもこの瞬間はドキドキする。大女将は気に入ってくれるだろうか。私と佐渡君が静かに見守る中、大女将が静かに口を開いた。
「ガラス?」
「はい。強化ガラスです。一番奥の区切られたスペースはすべて桐箪笥ですが入り口付近の浴衣スペースは反物ケースを強化ガラスにしようと思っています。安っぽくならないように家紋を彫り込んだ銅か真鍮のプレートを縁にあしらい、金、銀、銅、もしくは朱色等で色を流し込もうと思っています」
「それは素晴らしいわね。それから明るくてとても解放感があって美しいわ。なんて素敵なの。浴衣のスペースと小物類のケースも同じようにしてほしいわ」
「かしこましました。小物類のショーケースに関しましては鏡を全面に貼る予定です。それと、日焼けを防ぐために内装の施工に取りかかる前に全ての窓ガラスににUVカット溶液処理を施します」
「とても楽しみだわ。菜月さん、佐渡さん。期待していますよ」
「はい!」
私は差し出された大女将の細い手をそっと握ると、彼女の眼を見てしっかりと頷いた。
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株式会社デザインタフにプレート加工の依頼をし、デザインの確認が終わった時には既に午後九時をすぎていた。
「……大丈夫ですか?強化ガラスの着物タンスなんて……」
「確かに心配はあるよね。でもコストは抑えられる。全てのプレートが出来上がるには七日かかるけど、出来たものから取りに行って工房に運ぶ。で、工房に泊まり込みでプレート取り付けをやる」
「……安藤くんとですか?」
「そ。雅野工房はね、私の大学時代の先輩の会社なんだよね。だから気心は知れてるし腕は確かだし、安藤くんとも面識あるしね」
「…………」
駅の改札を抜けて最寄り駅の沿線ホームに足を進めながら佐渡君は私を見たけれど、なにも言わなかった。
「今日は凄く進んだね!佐渡君の用意してくれた資料が見やすかったし、職人さんも連休の間に頑張ってくれるからかなり期待できるわ。大女将のために頑張らないとね」
やって来た電車に乗り込んで、発車したと同時に私は佐渡君を見上げてニッコリと笑った。すると佐渡君は窓を見ながら静かな声で言った。
「……家まで送ります」
そう言った佐渡君が真顔だったから、私は更に笑った。
「冗談でしょ?佐渡君の駅のが二駅も手前だよ?私なら平気。佐渡君もそのまま帰って休んで」
暗い窓ガラスに写った佐渡君の顔は相変わらず無表情だから、私は少し心配になって眉を寄せた。
「ちょっと、大丈夫?何だか疲れてるみたいだけど」
「……別に」
別にって……別になんなんだ。……もしかして、また機嫌が悪いの?
電車内の混み具合は激しく、ドアの窓ガラスに身体を預けている佐渡君はとても物憂げ……というか、気だるげだ。
そういえば、私の徹夜に付き合ってくれてからというもの、佐渡君も働きづめだしなぁ。……ちゃんと食べてるんだろうか。もしもこの時期に体調不良になんてなっちゃった暁には、
『どうしてくれるんですか?なんの取り柄もないアラサーどころか、俺の優しさを仇で返して病気にするとか疫病神ですか、あなたは』
とか言われたりして……怖い。これ以上嫌われたくない。
「……あのさ、ちゃんとご飯食べてる?」
「は?」
問いかけると彼がこっちを向いたから、私はそのまま彼の額に手の平を押し当てた。
「平熱何度?」
額に触れた私に佐渡君は少し驚いたように瞬きをしたけれど、小さな声で答えた。
「……35度」
35度?!嘘でしょ?!
「マジ?!じゃあ熱あるんじゃない?!しんどくない?!」
「……そう……いえば……」
やだ、どうしよう。
「わかった、取り敢えず私も佐渡君の駅で降りる。家まで送るよ」
佐渡君は瞳を伏せたまま小さく息をついた。
「俺は……平気です」
「だめ!」
ここで見捨てて帰ったら後でどんな毒舌で攻撃されるか分からない。それに……本当に心配だし。
佐渡君の自宅の最寄り駅に到着し、電車の扉が開くや否や、私は彼の手を握ってホームへと降りた。
「おいで、佐渡君」
「……!」
その瞬間、佐渡君が眼を見開いて私を見つめた。
電車の発車を知らせるベルの音とアナウンス、それに特急列車の通過する音が私たちを包む。
多種類な音が響く中、佐渡君が私を見つめたまま何か呟いた。
「なに?!聞こえなかった。大丈夫?」
コクンと佐渡君が頷いたから、私はそのまま彼の手を引いた。
「おいで。何か作ってあげる」
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佐渡君の家のリビングに荷物を置くと、寝室にあるという部屋着を見つけて手渡しながら私は彼に声をかけた。
「シャワー浴びれる?無理ならこのまま着替えてベッドに入ってて」
「……」
「冷蔵庫、見てもいい?」
「……はい」
私は彼が頷くのを確認すると、冷蔵庫に近付いてその扉を開けた。
……うっ。……私の冷蔵庫よりも充実しているではないか。しかも野菜と肉がゴジャ混ぜで、まるで整理整頓していない私とは雲泥の差じゃないの。……やだ、へこむ。
「えっと……お米ある?」
「……はい」
お米があるなら決まりだな。私は冷蔵庫のドアを閉めながら佐渡君に続けた。
「じゃあ、お粥でいい?」
「……嫌です」
……へっ?
こういう場合って……漫画やドラマじゃ大抵お粥……だと思いますけど。
想定外の答えに思わず面食らい、反射的に振り返ると私は佐渡君を見上げた。
「嫌なの?じゃあ、何がい」
「菜月さん」
は?
「……菜月さんが食べたい」
そう言った佐渡君は真顔だった。結んだ彼の唇が、何か言いそうに微かに開く。トクンと、私の鼓動がひとつ跳ねた。
「佐渡君……大丈夫?」
彼は返事を返さなかった。そんな彼の腕が、身体の前でゆっくりと交差した。
その手が、シャツを掴む。
私の真正面で、何の躊躇いもなく彼が白いシャツをまくり上げた。
「あ、の、」
言葉が出なかった。佐渡君の瞳が、私を見つめて甘く光ったから。筋肉のついた男らしい上半身が露になり、私の喉がコクンと鳴った。広い肩幅、筋肉の張った逞しい腕。
心臓が爆発する勢いで血液を送り出し、しかもそれが顔だけに集中するような感覚に微かな目眩を感じる。
シャツが佐渡君の手から滑り落ちた途端、彼はゆっくりと私に一歩近付いて僅かに顔を傾けた。
「菜月さん」
キュッと、胸が鳴る。艶やかな低い声と、貴石のような美しい瞳に。でも、だけど。私、もう佐渡君とは……寝ない。あの日……二度目のあの日、私は自分の犯した過ちに後悔した。あの夜、私は佐渡君と寝るべきではなかったのだ。好きだとハッキリ分かった後だったから。だからきっと、課長の時みたいには割り切れない。割り切れないなら、いつかもっと辛くなる。
課長との時だって色んな思いが重なり、涙が出たくらいだ。心から好きになってしまった佐渡君なら、多分耐えられない。目まぐるしく考えている私の腕を、佐渡君がそっと引いた。
「……ちょっと佐渡君、待って、」
「……待てません」
ふわりと逞しい身体が私と密着して、彼の腕が腰に回った。
「あのさ、熱があるんだから寝てないと。ね?私、何か作ったらすぐ帰るから」
「熱なんかありません。あれは……嘘です。あなたをここへ連れてくる為の」
急に立っている床が抜けて、落ちていくような感覚に包まれた。
……なんで?
「……嘘?」
佐渡君が私の髪に頬を埋めた。
「嘘ですよ。俺の平熱は37度です」
早鐘のように鼓動が激しくなる。
「どうして……どうしてそんな嘘をつくの?」
佐渡君はいとも簡単に即答した。
「あなたを抱きたいから」
ああ、やっぱり私は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだ。佐渡君は、課長と寝ていた私を都合のイイ女として使おうとしている。
つまり、誰とでも簡単に寝る女だと思い、『発散するためだけの相手』として扱っているのだ。
心臓に、ギュッと握られたような痛みが走った。
「……本気で言ってるの?」
残酷なほど佐渡君が即答した。
「本気です。あなたを抱きたい」
胸にナイフが降り下ろされる。佐渡君というナイフが。これは罰だとすぐに分かった。課長と身体だけの関係を続け、それで一時の寂しさを紛らわしてきた私の罰なのだ。
「……無理」
信じられないくらい声が震えた。すぐに佐渡君が身を起こして私の眼を見た。抱き締められていて涙が拭けない。
「……佐渡君とはもう寝ない」
滲む視界の中、私は佐渡君を見上げて笑った。
「変な期待をさせたなら謝る。でももうあなたとは寝ない。熱がないなら帰る。じゃあね」
少し身をよじると、佐渡君の腕が解かれて距離があいた。佐渡君は私を見たまま息を飲んでその場に立ち尽くしていたから、私は素早く荷物を持つと彼の脇をすり抜けた。
……バカだ。私は本当にバカだ。後悔が渦巻き、それが縄になって胸を締め上げる。夜道を歩きながら何度も何度も大きく息を吸い、それを吐く。意外にも涙はすぐに止まった。
……大丈夫。この気持ちには気付かれていないから、このまま彼とは仕事以外で関わらないようにすればいい。
半年が過ぎたら彼はイギリスのSAグループに戻り、私達はもう二度と会うことはない。
私は早足で駅へと向かいながらもう一度大きく息を吸った。
∴☆∴☆∴☆∴
慌ただしく日々は過ぎ去って行った。
チーム一丸となっておし進めた仕事はかなり順調に進み、急ぎの仕事は残すところ呉服桜寿のみとなった。
「菜月さんと安藤、悪いけどよろしくお願いします!」
「俺、一日繰り上げて出勤するから!」
「俺は、土産いっぱい買っとくから!」
「僕も!」
私は皆を見て笑った。
「徳永君も葉山君も休日返上で頑張ってくれたじゃん!あの企画だから私も仙道くんもスムーズにやれたんだよ?!凄く感謝してる。それに中山君と西野君も、企画にミスがなかったし、凄くいいセンスだった。ありがとね。あとは任せといて!」
私がそう言って皆を見回すと、最後に佐渡君と視線が絡んだ。出来るだけ平静を装って私は彼に微笑む。
「佐渡君も呉服桜寿の件、何度も業者さんと打ち合わせしてくれてありがとう」
私がそう言ってペコリと頭を下げると、彼はフッと視線をそらした。それから感情の込められていない口調で、
「いえ。仕事ですから。……大女将がよろしくと」
……完全に嫌がってる感じじゃん。ヤれないなら、もういーや、的な?……へこむわ。いやいや、今は仕事中!考えるな、私。
「うん。明日アポとってるから挨拶しておくね。じゃあね、みんな!連休明けに会いましょ!」
オフィスの皆と手を振り合い一息つこうとブレイクルームに入ると、後ろから安藤君が声をかけてきた。
「菜月さん、今日はもうあがりですか?もし用事がないなら、飯行きません?」
振り返るとニコニコと笑う安藤君と眼が合う。……犬みたいだな、安藤君は。やっぱ可愛い。
「行く行く!明日からは現場作業だからさ、体力つけないとね。焼き肉なんてどう?」
そう言うと安藤君が私を見たまま、一瞬ボケッとした。それから我に返ったように瞬きをして、
「マジですか?!スゲー嬉しいです、僕!菜月さんと焼き肉なんて……!」
「大袈裟だよ!じゃあ、コーヒーやめて行こ!」
「はい!僕ちょっと資料室行ってきますからオフィスで待っててください」
「分かった」
安藤君が手を振って入り口から姿を消し、私は手に取っていたカップを元に戻した。明日は連休初日だ。今のところ呉服桜寿の案件は順調に進んでいる。全ての窓ガラスの紫外線対策は完了したし、壁の珪藻土も塗り終えた。ライティングは仙道君がチェック済みだし、明日はフロア自体の細かなチェックをした後、大女将に見てもらって……。あ、スタッフルームももう一度見なきゃね。
頭の中で、明日自分がすべき事を順序立ててシュミレーションをすると安心する。うん、大丈夫。
その時、誰かの気配がした。それからガチャリと閉まるドア。振り向こうとした時にはもう遅かった。
「悪い人ですね、あなたは。俺を拒んだクセに……今度は彼に抱かれようとしてるんですか」
「っ!」
低くて艶やかな声が耳元で響いた。佐渡君だ。言葉のわりに、後ろから抱き締めた彼の腕は優しい。フワリとしていて、温かくて。それなのに、なんでそんな事言うの?
「前にも言いましたが、安藤君で満足できるんですか?」
……なんとまあドツボにはまりきっているのだろう、私は。私、ヨゴレ扱いよね、完全に。好きな男からガツガツした軽い女だと思われちゃってるこの事実が、堪らなく悲しい。
なのに、大切なものを守るように私に回す腕が切ないし、正直全く訳がわからない。
「なに考えてるんですか?仕事だからですか?それとも、仕事に託つけて安藤君とどうにかなりたいんですか」
……好なのに……イラッとする……。
「そうだよ。私、安藤君に興味あるんだよね。安藤君は誰かと違って癒し系だし、優しいもん。誰かみたいに意地悪も言わないだろうし身体だけを求めたりしないだろうし」
ああ、やらかしてる、やらかしてる、私!!
佐渡君と安藤君を比べるなんて、嫌な女でしかないじゃん!なんでこういう事言っちゃうかなぁ、私!
その時ほんの少し、佐渡君の身体がピクリと動いた。
「……離して」
可愛くない私の快進撃は更に続く。
「……」
「離してよ。帰ってきた安藤君に見られたらどうするのよ。どうにかなれる確率さがるじゃん」
少し力をいれると、佐渡君の腕は簡単に外れた。……彼の顔を見る勇気も、私の顔を見せる勇気もない。
俯いて髪で顔を隠し、大股でブレイクルームを出ながらめちゃくちゃ落ち込む自分に気づく。ああ。私、本当につまらないダメ女だなあ。
佐渡君を置き去りにしてデスクに戻ると、私はガツンと頭をぶつけて突っ伏した。
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オフィスを出ていったまま帰ってこない安藤君から連絡が来たのは、それから数分後だった。
『菜月さん、僕、急な打ち合わせが入っちゃったんで、《牛神》で待っててください。僕の名前で予約いれましたから』
『了解。じゃあ、先に一杯だけ飲んで待ってるよ』
牛神は、たまにSD課の皆で行く焼肉店だ。オーナーとも顔見知りだし、平気。私は荷物をまとめるとスマホをしまい立ち上がった。
∴☆∴☆∴☆∴
三十分後。
「……大丈夫かな、安藤君……」
安藤君は元々安積君のチームだ。もしかしたら手掛けた案件に、クレームやメンテが発生したのかもしれない。
連休限定の助っ人として私の手伝いをしてくれる予定だけれど、安積チームのSDになにかあれば引き留める事は出来ない。
……大体ね、私の嫌な予感ってすぐに当たるのよね。その時、引き戸が静かに開いた。
「お待たせしました」
……ほらな!
だって、引き戸の向こうに立っていたのは佐渡君だったんだもの。
佐渡君は私の顔を見てすべての動作を止めた。それから小さく息をつくと、
「なんですか、その顔は」
私を一瞥した後、部屋へ入ってきてゆっくりと引き戸を閉める。
「安藤くんなら急用が出来て来られません」
「……佐渡君の事は待ってませんけど」
テーブルをはさみ、私の真正面に座った佐渡君が再び口を開いた。
「俺では嫌ですか」
「安藤君が来ないなら、帰るよ。私明日は仕事だし」
私は残っていたビールをグイッとあおると仕切られた個室から出た。とてもじゃないけど佐渡君とお酒なんて飲めない。二人きりも……辛い。
だって、好きな相手に『身体だけの相手』だと思われてるんだよ?自業自得だけど、やっぱりもう佐渡君には近付かない方がいい。
店を出て駅へと足を進めた先の赤信号で、私は大きく溜め息をついた。
……おかしい。仕事は出来ない方じゃない。むしろSDは私の天職だと思うほどにアイデアが沸き上がってくるし、クライアントからの評判もいい。
恋だって、順調だった。課長の前に付き合ってた人とも、そりゃあ別れはしたけど結果的にはいい恋だったと言える。
課長とは……割りきった付き合いだったけど、それは納得の上だった。
……じゃあ、今は?今の私は……?わかってる。こんな私……そりゃ好かれないよね。
でも今はあまり考える時間がない。今は仕事が一番大事だから。恋はまるでダメダメだけど仕事はきっちりとやりたい。
信号機のメロディが鳴り響く中、人々につられるようにして私は歩いた。佐渡君が追いかけてくることはなかった。