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ミステリアスなユージーン  作者: 友崎沙咲
第三項目
3/7

ユージーンは優しい

∴☆∴☆∴☆∴


その夜。



『何してるんですか?』

『……別に。家で飲んでるけど』

『なに飲んでるんですか?』

『ハイボール』

『ひとりですか?』


もうーっ!なんなのよっ!

私は佐渡君からのラインにイラッとして舌打ちした。夜、シャワーを浴びて汗を流し、お酒を飲みながらテレビを見たり本を読むのが私のリラックスタイムだ。それなのに。

どうせまた、『新庄課長にフラれてやけ酒ですか』だの『独り身のアラサーは寂しいですね』とかいう返しだろう。

そうはいくかっ!

ゆったりと過ごしていた至福の時を邪魔された忌々しさに眉を寄せると、私は少し考えてから文字を入力した。


『残念でしたー!今、安藤くんと飲んでますよーだ』


嘘だけどな!

送信した途端に既読と記されたけど、彼からの次の一手が来ない。フッ、観念したか。私はニヤリと笑うと空になった空き缶を手に、キッチンへと向かった。


∴☆∴☆∴☆∴


翌朝。

月曜日でもないのに、私は二本早い電車に乗り出勤した。理由は、次の仕事の大まかな案を忘れないうちにデータ化したかったからだ。セキュリティゲートを通り、エレベーターホールで足を止めた途端、


「おや岩本さん。おはようございます」


……おやって……お前は童話の中のお婆ちゃんか。密かに心の中でそう突っ込みながらも、私は思いきりニッコリと微笑んだ。


「あら佐渡君、早いのね。どうしたの?もしかしてSDの仕事が一週間で覚えきれないから早出してるとか」


参ったか。

ところが佐渡君はエレベーターに乗り込んだ途端、予想外の言葉を口にした。


「まだ怒ってるんですか」


……は?

何の事か分からず二人きりのエレベーター内で彼の顔を見上げると、彼は少し眉間にシワを寄せていた。

……まだ怒ってるんですか、ということは……佐渡君は私に何かしたってこと?……はて。……でも。

もしかして佐渡君は、私の機嫌を損ねたと思い、焦ってるんじゃないだろうか。だって妙に落ち着きがないし。

……ふーん……。

私は密かに心の中でニヤリと笑い、口元を手で押さえて佐渡君から眼をそらした。


「……もういいよ……悪いのは……私だから……」


……ふふふ。何の事か知らんが罪の意識に苛まれてろ!

すると案の定、佐渡君がオロオロし始めた。


「や、ちょっと岩本さん……俺、」


フフッ、焦れ、気を揉めっ!

外見からは想像できない焦りっぷりに笑いが込み上げてきたその時、エレベーターが5階に到着し、ドアが開いた。


「あ!岩本さん、おはようございます!」

「安藤くん、おはよ。どこ行くの?」


すれ違うようにしてエレベーターに乗り込む安藤くんが、少し早口で答えた。


「営業部の同期のところにインテリアのカタログ頼んでたんで取りに行くんです」

「マジで?後で私にも見せて!実は骨董品店のSDで悩んでるんだよね」

「いいですよ。じゃあ今日一緒にランチどうですか?もしよければその時にアドバイスもらいたいなあ」

「もちろん」

「やった!じゃあ」


安藤くんはボタンを押してドアを閉めながら、少し私に手を振るとニッコリと笑った。

……可愛い。安藤くんは可愛い。茶色の人懐っこい瞳が私を優しく見つめていて、思わずキュンとしてしまう。

その時後ろから、恐ろしいほど冷めた声が耳に届いた。


「全くあなたは飢餓状態ですか、みっともない。男にガツガツしすぎです」


……なんなのよ、こいつはっ!


「ガツガツしてるよ?私、婚活中だからね。だけど四六時中男の事ばかり考えてる訳じゃないから。仕事は真剣にやってるし佐渡君に私のプライベートに踏み込んでほしくない」


早足でオフィスまで進みドアの前で足を止めると、私は彼の顔を見上げてキッパリこう言った。すると意外にも佐渡君は息を飲み、すこし唇を開いたまま私を見下ろしていたから、私は畳み掛けるように先を続けた。


「今から私、次の仕事の段取りに取りかからなきゃならないの。悪いけどもう話してる暇ないから」


大体、小うるさいのよ。ほっといて欲しいわ。

私は佐渡君に背を向けると、ラックにバッグを置いてブレイクルームへと向かった。



∴☆∴☆∴☆∴


「菜月さん、急ぎが入りそうです」


半数が出払ったオフィス内で、受話器を置いた仙道君が血相を変えて私を振り返った。


「なに?」

「三ヶ月前に手掛けたNTビルディングの呉服店覚えてますか?」

「ああ……うん。呉服桜寿だよね」


確か呉服桜寿は京都に本店を構える創業四百年の老舗呉服店だ。

この度初めて東京に銀座店をオープンさせた際、京都から運んだ反物箪笥や商品の搬入に手こずって……。


「呉服桜寿がどうしたの?」

「実は大女将が、店舗拡大を熱望していて、二階の空きテナントと契約したらしいんです。で、またSDをうちに依頼してこられたらしいんですが、納期が……正直厳しいです」

「新庄課長はなんて?」

「菜月さんに任せるって……」


今、私の受け持つ仕事は来月までいっぱいだ。しかも施工業者との兼ね合いもあり、予定よりも引き渡し日が早まる事はまずない。


「今回は別のチームに回せないか課長に聞いてみるよ。課長は社内?」


私がそう言った時、仙道君が首を横に振った。


「それが……大女将直々に菜月さんをご指名らしくて」

「大女将が……」


私は、気品をたたえ優雅でありながらしっとりと着物を着こなした美しい大女将を思い出して苦笑した。


「凄く嬉しいけど……参ったなあ」

「多分、大女将はあの時の菜月さんの計らいが嬉しかったんだと思うよ」


仙道君が同じく私を見て困ったように微笑む。

……私を指名してくれるのは嬉しいけど……チーム編成し直さないと厳しいかも知れない。だって、この分じゃ休日返上は確定だ。ゴールデンウィークも連休とはいかないだろう。チームの全員がそれを快諾するとは思えない。

私が腕組をして考えていると、後ろから爽やかな声が耳に届いた。


「僕、実家がこっちなんで帰省とかしなくていいし休日返上で働けます。是非岩本さんのチームに入れてください」

「……安藤くん……」


すると仙道君が、


「課長が戻り次第、チーム編成の相談をしましょう」


私は頷いてから腕時計を見た。


「じゃあ私は徳永君と葉山君の案件の最終確認やっとく。行程組み直しになるから、中山君と西野君の分は現場から帰ったら取りかかって明日の朝までには形にしておくから」

「分かりました」


皆が頷いたのを確認すると、私は後ろを振り返った。


「佐渡君、この間の資料の直しプリントアウトしてもらえる?あと、お薦めとしてピックアップした小物の画像は先方のメアドにあらかじめ送信しておいて。後でメールでやり取りしたいから。必ず二日以内の期限付きでね。担当者に電話も忘れないで」

「分かりました」


佐渡君は私を見て頷くと、パーテーションで区切られた打ち合わせスペースを後にした。今日は徹夜だ。デザインを決め、施工業者との細かな打ち合わせを終わらせておけば、後は空いている企画担当者に引き継ぎも可能になる。


「よし」


私は深く息を吸うと、気合いを入れるために自分の両頬を軽く叩いた。


∴☆∴☆∴☆∴


「徹夜って事は……会社に泊まるんですか」


定時後、ブレイクルームでコーヒーを飲んでいた私は、佐渡君の問いに軽く頷いた。


「うん」

「そこまでしなきゃならないんですか?呉服店には無理だと言えばいいじゃないですか」

「それは絶対にダメ」

「何故です?」


私は佐渡君の問いに答えず、唇を引き結んだ。


「佐渡君、もう帰っていいよ。お疲れさま」


少しだけ緩い雰囲気の漂う定時後のオフィスは、人もまばらだ。

結局私のチームは、連休までの土日返上で『呉服桜寿』のプロジェクトを進める決意を固めた頼もしい人間ばかりだった。

それに安藤くんは連休の間手伝ってくれる事になり、なんとか人員は確保できた。


「俺がいても何の役にも立たないって言いたいんですか?」

「そうじゃないけど佐渡君って私の事嫌いでしょ?前に『何の取り柄もないアラサー』って言ってたし」


急にこんなことを言い出した私に面食らったのか、佐渡君は両目を見開いた。


「私は今から自分の持ってる全てをスペースデザインに注がなきゃならない。私を指名してくれて、私の手掛けた空間を待ってくれている人がいる。今夜やる仕事は行程の中でも一番重要な事なの。モチベーションを上げて取りかからなきゃ携わる全ての人に迷惑がかかる。だから、私を否定する人間とはいられないのよ」


一度そらした視線を再び佐渡君に戻すと、彼は呆気に取られたように私を見ていた。


「こんな事言うなんて可愛くないし益々嫌われるかも知れないけど、私の人格を否定する人とは二人きりでいたくない。余計な事に気を取られてるといい仕事が出来ない。集中したいの」


ああほんと感じ悪い、私。分かってる。分かってるよこんな根性悪い言い方しなくてもって。でも佐渡君、私には毒舌なんだもん。モチベーションを下げたくないんだもん。大女将が私のデザインを待ってくれてるんだもん。

完全にイケメン・佐渡に嫌われただろうけど、仕方がない。私は佐渡君にもう一度お疲れさま、と言うと、受話器に手を伸ばした。



∴☆∴☆∴☆∴


「あなたを信じているから、あなたに全部任せるわ。希望を言うとしたら、若者に和装の良さを伝えられるお店にして欲しいわね。それともうひとつ。出来るだけ早く完成させて欲しいのよ」


あれから呉服桜寿の大女将にアポを取り、二階のフロアをチェックした後、店舗の詳しい要望を訊いた私に彼女はこう答えた。

三ヶ月前よりも幾分か痩せた大女将は、相変わらず素敵だった。長く生きた人間にだけに与えられた独特の美しさをまとった彼女は眩しくて、私は夢中でこう言った。


「大女将。期待していて下さい。私、大女将に喜んでいただけるようなお店にしてみせます」


私は秘書の三村さんに車へと促される大女将を見送ると、急いでオフィスへと戻った。

デスクに座り、精神を統一するために眼を閉じると、自分があの何もない二階の店舗の真ん中に立っている画が浮かぶ。

……私が着物を買う為に店を訪れるとしたら……風格のある店構えも素敵だけど、気軽に入れるのがいい。出来るだけ沢山の反物を手軽に見れるようなオープンな箪笥がいい。

着物に疎い私は、怖じ気付いてすぐに店員さんに訊ねる勇気はないな。伝統を崩さずに流行りを取り入れた柄や着こなしを、それとなしに眼で確認したい。


部屋のライティングは明るめが安心するし、棚の類いはあまり重厚や荘厳だと緊張する。

……となると……。

ひとつ、ふたつと、何もなかった空間に色が増えていく。……うん。手前には透明感を出そう。となれば……。

私は唇の端で微笑むと、手に持っていた鉛筆を画用紙に走らせた。



∴☆∴☆∴☆∴



「ああー、ダメ、お腹すいた!」


夢中になっていて夕御飯を食べてない。少し前までは安積チームの面々がクレーム対応の為に居残っていたけどそれも解決したらしく、オフィスには私ひとりだけになっていた。


「うーん、コンビニに行くか牛丼屋さんに行くか迷うわあ!」


おおよそのデザインが完成したから少しだけ気が楽になり、私は口に出してこう言うと財布を手にオフィスを出た。

その時、何か動いた気がして思わず立ち止まる。だってエレベーターホールに続く廊下に一瞬黒い影が見えた気がしたんだもの。……人っぽかったけど……。


「……誰かいるんですか?」


だって角を曲がった途端に鉢合わせたら怖いもの。ここは自社ビルだけどセキュリティは万全だと思いたい……。


「誰かいるの?」


角になっている先の手前で声をかけるも返事は返ってこない。

5階にはSD課と資料室と会議室、それに展示室がある。従って実質、オフィスはSD課しかないわけで……。腕時計を見ると、午前零時になるところだった。……気のせいかなぁ。だってこんな時間に社内のエレベーターホールをうろつく暇人なんていないだろうし。

……行こう。お腹減ったし。私は少し息をつくと、再び歩き出した。

その直後、心臓が止まるような出来事が私を襲った。


「きゃああっ」


角を曲がった途端、私は鉢合わせたのだった。ウロウロしていた男性と。


「大きな声を出さないでください」

「やだーっ!バカッ!最低!!」


大きな手に口を塞がれたものの、拳を振り回す私に恐れをなしたのか、その人物は私から飛び退いた。

さ……佐渡君……だった。

だったけど……。


「なんのつもりよ、バカなんじゃないの?!」


驚きすぎて泣いてしまった私に、佐渡君は狼狽えて口を開いた。


「いやその、俺は」


心臓が激しく脈打ち、身体中が熱い。


「何でこんなとこにいるのよ!?ビックリして死にそうになったじゃん!私こういうの凄く苦手なんだから!」


ショックのあまり怒りが込み上げてきた私は、泣きながら佐渡君を睨んだ。


「驚かす気は、」

「大嫌い!佐渡君なんか大嫌い!驚かすなんてひどいよっ」


その時、グイッと腕を引かれた。

アッと思う間もなく佐渡君と身体が密着し、フワリと彼の香りに包まれて、私は眼を見開いた。

首筋に佐渡君の息がかかる。


「泣かすつもりはありませんでした。……大丈夫ですか」


そう言った彼の唇が頬に当たり、不覚にもそれを心地よく思う自分がいて……。


「っ……」


舌先が優しく頬に触れ、その後に唇だけが再び頬に押し付けられる。なんで……?どうして?痺れるような感覚に、目眩を覚えた。私の頬に広がる、優しくて甘い佐渡君のキスに。

分からないけど佐渡君の事だ。どうしてキスをするのか聞いても絶対にムダだと思う。それなのに、


「あなたの人格を否定するつもりなんかありません」

「……え?」


佐渡君が両腕に力を込めて私を抱き寄せた。たちまち心臓が煩く騒ぎ出し、私は少しだけ顔を起こすと佐渡君を見上げた。


「……」


唇を離し、私を見下ろす佐渡君の瞳がエレベーターホールのライトを反射していて綺麗だった。でも……。


「どうして眼をそらすんですか」

「だってまた『見惚れてもムダですよ』って言うんでしょ」

「……」


佐渡君が僅かに両目を細めて私を見下ろしている。

……分からない。この眼差しと沈黙の意味が分からない。

私は彼の心を見極めたくてその貴石のような瞳を見つめた。その途端、彼の部屋で抱き合い、一夜を共にした記憶がまたしても蘇る。せり上がるような快楽の波に漂った私と佐渡君の熱い夜。

うわ、マジでヤバい。

その時、佐渡君がニヤリと笑った。


「思い出したんですか?あの夜の事」


バーン!と針が振り切れる勢いで顔に血液が集中する感覚。私はキッと佐渡君を睨んだ。


「バカなんじゃないの?!大体何しに来たのよ。ハハーン、もしかして佐渡君の方こそあの夜を思い出して私に会いたくなったんじゃないの?!こんな風に抱き締めてキスするなんて」


すると今度は佐渡君が驚いたように眼を見開いた。

それから刺し殺さんばかりの鋭い眼差しで私を見るや否や敢然と口を開き、


「全くあなたは自意識過剰な人ですね。俺は海外暮らしが長いんですよ?こんなの、海外では当たり前のスキンシップです」


言い終えてツン!と横を向く仕草が憎たらしい。


「あっそ!でもここ日本だから離してもらえる?!ちなみにどこの国の時間で行動してるのか知らないけど日本じゃ今、午前零時だから!日勤の人、大抵家で寝てますから!」

「……」


グッと佐渡君が言葉に詰まった。


「……」


端正な顔がなんともいえない表情になり、私の背中の腕が緩む。


「あ……」


すると今度は何故か私が不安になり、無意識に彼の胸のシャツを掴んでしまった。


「……」

「……」


ギャアギャアとエレベーターホールに響いていた私たちの声が消え失せ、代わりに静寂が二人を包む。その沈黙を佐渡君が破った。


「徹夜だと聞いたから疲れてるかと思いましたが……こんなに煩いなら大丈夫ですね。俺、帰ります」


淡々とこう言うと佐渡君は腕を解き、私から離れようとした。

……ちょっと待って。えっと、あの……!心がザワザワと焦っている。こんなのは嫌で、ほんとは、本当は……。

わかってるんだ、本当は……。

彼が私を気にかけてくれてこんな夜中に来てくれたのを、本当は心の隅で想像がついていた。なのに私ったら……ほんと可愛くないしヤな奴だ。

でも何て言ったらいいか分からない。分かっているのは、このまま佐渡君と別れるのは嫌だという気持ち。


「じゃあ、また朝に」


ああ、もうーっ!!

踵を返してエレベーターのボタンを押した彼の背中に、私は意を決してしがみついた。


「だ、大丈夫じゃない!お腹すいた!ひ、ひとりで食べに行くのは嫌」


な、なによ、子供か私はっ!ダメだ、死ぬほど恥ずかしい。やっぱ断られるに決まってるし、迷惑でしかないよね。


「ご、ごめん!空腹すぎて取り乱しちゃったみたい。大丈夫、私は大丈夫。じゃ、じゃあおやすみなさい」


急いで離れようとした私の腕を、佐渡君が振り向きながら素早く掴んだ。


「あ」

「え」


多分だけど数秒間……私たちはお互いに驚いて見つめあった。

でもその後、佐渡君は私から顔を背けて小さく息をつき、私はどういう訳か鳴り止まない胸の鼓動に戸惑っていた。


「……」

「……」


どうしよう……。

その時、佐渡君が私とは逆の方向を向いたまま、ボソッと言った。


「あなたは……可愛いのか可愛いくないのかさっぱり分からない」


私から顔を背けるようにしてそう言った彼の表情は見えなかった。でも、私の腕を掴む佐渡君の手はそのままで……。その手が温かくて、身体全体が彼の温度に変わっていくような感じがする。


「……可愛いって言われたい。だから、頑張るよ」


その直後、フワリと空気が動いた。視線をあげると、佐渡君が真ん丸な眼をして私を見ていた。額にかかる前髪が僅かに乱れていて、それが少しだけ彼に隙を作っているように見える。

いつもよりも親しみやすい佐渡君のその顔が可愛かった。


「少し仕事が落ち着いたら女子力上げるよ。男の人に可愛いって言われるように」

「……」


佐渡君は相変わらず驚いたように私を見ていたけど、ようやく小さく息をついて両目を閉じた。


「……あなたは本当に……分からない人だ」


佐渡君だって……私の腕を離さないままだし少しだけいつもと違ってるよ。でも私はそれを口に出さず、彼を見て少し笑った。


∴☆∴☆∴☆∴


んー……。……なに……?トクントクンと耳に鼓動が響く。頬が温かくて気持ちいい。ううん、頬だけじゃなくて、身体全体がホカホカするなあ。どうして?確か昨日は……佐渡君が来てくれて……えーっと……。眠気を押し退けながら、ゆっくりと考えていたその時、小さな吐息が聞こえた。

ん?勿論、私じゃない。

その直後、額に柔らかな感触とフワリと小さな風を感じた。その二つの正体を知ろうと、無意識にうっすらと眼を開けると佐渡君が見えた。それも、有り得ないほどの至近距離に。

なんで?!

驚きすぎてまたしても石になってしまった気がした。

なんでこんなに近いの?!しかも寝てるし!!

佐渡君は眼を閉じていて、規則正しい寝息を繰り返している。


……ヤバい。ヤバすぎる。混乱しすぎて思考が正常じゃないかもだけど、なんでこんなに近いのかを思い出さなければならない。

私は瞬きも出来ないまま、死に物狂いで昨夜の出来事を思い返そうとした。


『俺、本職柄文書にするのが得意なんで、手伝いますよ。帰っても大して寝る時間ないですし』


確か佐渡君は食事中にこう言うと、再びオフィスまで来てデザインが完成した呉服桜寿の案件を全部まとめてくれて……。私はそれを彼に任せてすぐ、中山君と西野君の案件に取りかかった。中山君達の案件は、六坪程のスキンケア製品の個人店で、オーナー様からの細かな注文が沢山入っていたために逆に時間短縮出来た。


『……さすがですね。オーナーの希望を叶えつつここまでオリジナリティを追求出来ていると、大型商業施設の中でもこのお店は一番目立つかもしれませんね』


佐渡君が初めて私のデザインを見てこんな事を言ってくれて嬉しくて……。


『寝てていいですよ。コンピュータールームは床が絨毯だし、ブランケットを敷けば、何とか眠れるでしょう』


そう、確かこう言ってくれたから、私は少しだけ仮眠を取ろうと思って……。と、ここまで思い出した時、ギュッと身体を圧迫されて鼓動が跳ね上がった。


「菜月……」


……え。

佐渡君が私の身体に回していた両腕に少し力を込めた。でも、私の心臓がキュッとしたのは彼の腕のせいだけじゃない。


『菜月』


呟くように囁くように彼が、私の名前を呼んだから。

なんで?どうして?

これ以上は無理というほど心臓が脈打つ。痛みにも似た、甘くて切なくなるような胸の痺れ。こんな事は多分、初めてだ。こんな気持ちは。

その時、佐渡君がゆっくりと眼を開けた。その漆黒の瞳に、一際鼓動が跳ねて息を飲む。男らしい顔立ちと、筋肉の張った逞しい腕。それに……私を心配して来てくれた事。仕事を手伝ってくれた事。しかも、深夜に。


「ああ……おはようございます」

「お……はよう……」

「……」

「……」


しばらく見つめあった後、佐渡君が起き上がりながら私から離れた。


「……昨夜はあれから少し冷え込んできて……もしも岩本さんが風邪を引くと大変ですから。というのも、エアコンのリモコンが何処にあるのか見当たらなくて」

「あ……うん……」


私は身を起こすと、気付かれないように深呼吸をして立ち上がった。


「ありがとう、手伝ってもらって。お陰で凄く助かったよ」

「材料手配と施工業者も、過去の資料からピックアップしておきました」


マジで?

正直そこまでしてもらえるとは思っていなかった。私は佐渡君から手渡された書類に眼を通すと、思わず口を開いた。


「凄い……。業者さんの作業日数や休日対応まで調べたの?それに材料手配表なんて、うちに来て間がないのに、大変だったでしょう?!」


驚きのあまり食い入るように佐渡君を見つめると、彼は淡々とこう答えた。


「いえ。過去の資料が実に分かりやすくファイリングしてあったからですよ」

「でも……普通はここまで出来ないよ。凄く嬉しい!ありがとね、佐渡君。仕事が落ち着いたら一杯おごるよ」


本当に助かった。本音を言うと……SD未経験の佐渡君は使い物にならないと思っていた。でも、先を読む力や行動力もあるし、頭の回転も早い。チームにとって戦力になりそうだ。


「この分じゃ、徹夜の日数が減りそう」


私の独り言に佐渡君が反応した。


「これからも徹夜するんですか?」

「するよ?施工が始まると現場に泊まりこむなんてザラなの。でも連休に予定を空けてくれた安藤くんが一緒に泊まりでやってくれるっていうから、かなりはかどると思うんだ」

「二人だけでですか」

「多分ね。他の皆は毎年GWは帰省するんだ。大きな施工は業者に任せるから、細々したものは二人でやるよ」

「……」

「あ、佐渡君は残業も徹夜もしなくていいからね。もう十分助けてもらったから。ありがとう」


私がそう言って佐渡くんを見上げて微笑むと、彼は固く唇を閉じて私を見下ろした。


「……」

「ん?」

「……」

「なに?」

「今日」


ようやく佐渡くんが短く言葉を発した。


「今日?今日なに?」

「今日はまさか……残業しないでしょう?俺、家まで送りますよ」


……今日は……実は定時では帰れない。


「ありがたいけど……今日は無理なんだよね」


私がこう言うと、佐渡くんが僅かに両目を細めて眉を寄せた。それから再び、即答した私を黙って見つめる。その顔に少し影が落ちた気がしたから、私は正直に理由を言った。


「今日はね、施工業者さんの接待なんだよね」


彼は私の言葉を黙って聞いていたけれど、すぐにこちらを見据えて低い声を出した。


「……課長と二人でですか?」

「うん」

「どうして施工業者にこちらが接待しなきゃならないんです?されるならともかく」

「そりゃあ……課長は色々と考えてるんじゃない? 徳永君と葉山君の案件、絶対行程通りに進めなきゃ後の二件がかなりキツいからちゃんとお願いしとかないといけないもの。キツい行程でやってもらうし、やっぱり労う気持ちや感謝の気持ちを現さないと次に繋がらないっていうか……そんな感じ?」


佐渡くんから視線をそらしてこう言うと、彼はあからさまに溜め息をついた。

なに!


「ちょっと!私、私情を挟むつもりなんてないんだからそういう態度やめてくれる?」

「あーそーですかー」


語尾を伸ばすなっ!

大袈裟な次は棒読みのような口調で佐渡くんはそう言うと、クルッと踵を返してコンピュータールームから出ていってしまった。

……なんなのよ。あんたに関係ないでしょうが。それとも課長と再びどうにかなりそうだと思うほど、私は頼りなくてイライラする存在なのだろうか。


…………。

優しいと思えばこれだ。佐渡くんはほんとに分からない。今度は私が大袈裟に溜め息をつくと、佐渡くんが消えていったドアを見つめた。後に起こる出来事に、まるで気づかないまま。


∴☆∴☆∴☆∴


午後十時。


「菜月、少し飲み直さないか?」


施工業者である飯星工務店との接待兼打ち合わせが終了した後、課長がニコニコしながら私を見た。すぐ傍の四車線道路を行き交う車は、まだ数が多く騒々しい。


「課長。私、徹夜だったんでもう無理です。眠くて……」


車のエンジン音にかき消されないように、かぶりを振りながら私は課長を見上げた。もう、本当に眠い。飯星さんに注がれた日本酒を数杯飲んだのが運のツキだった。妙にそれが美味しくて、注がれるがままにガンガン飲んでしまった自分が完全に悪いんだけれども。


「……大丈夫か?じゃあ……送るよ」


こんな状態なのに、それはダメだと頭では分かっている。だって、課長だってお酒を飲んでいるし……もしも俺様課長を拒めず、何か起きたら……。

その時、課長の胸ポケットでスマホが震えた。


「電話……出てください」

「……いや、いいんだ。気にするな」


課長はスマホの画面を見ながら僅かに眉を寄せて、再び胸ポケットにしまった。


「それより、いこう」


課長が私の腰に腕を回した。それは実にスマートで、少し前の私ならただただ嬉しく思っていただろう。でも、私達はもうそんな関係じゃない。

店を出た先の歩道には人も大勢行き交っていたけど、スーツ姿の課長が私を抱き寄せるのは些か眼を引く。


「課長、大丈夫です、私」

「……俺が……こうしたいんだ」

「……ダメです。課長は婚約したんですよ?こんなの良くないです」


腰に回された課長の手を解こうとした時、課長が私の後頭部に手を回した。

アッと思った時にはもう遅かった。

私の唇に課長の唇が重なり、私は瞬間的に硬直した。だってこんなのもう望んでないもの。わたしはもう、課長にキスを返すことは出来ない。

課長は唇を離すと、キスに答えない私の眼を訝しげに見つめた。なにかを探るような課長の表情に、喉の奥がキュッとしまる。


「なあ……菜月……」


無邪気に微笑み、悪びれる様子もなく私を見る課長。課長は、分かっているのだろうか。私が傷付いていることを。こうされる事を、私が望んでいるとでも思っているのだろうか。


「……佐渡と付き合ってるなんて嘘なんだろ?」

「……どうしてですか?」


課長は何でもないと言ったように即答した。


「ブレイクルームでお前、不自然だったから。あんな猿芝居で俺が納得するかよ」


あんなに眠かったのに、今は身体中が冷たくて寒い。思わず腕を擦ったその時、私は佐渡君の温もりを思い出した。コンピュータールームの床の上で、私を囲った逞しい腕。温かい彼の身体と、私を呼んだ低くて優しい声。


「……嘘じゃないです」


気が付くと私はポツンと呟いていた。

丁度信号が赤に変わるのが眼に写り、僅かに車線の騒音が収まる。


「課長。私は佐渡君が好きです。私達は付き合ってるんです」


課長が鼻で笑った。


「なら今から電話しろ。アイツが迎えに来たら信じてやる」


コクン、と私の喉が鳴った。

……どうしよう。来るわけない。だって嘘なんだもの。

動揺を隠しながらバッグに手を入れ、スマホを探り当てて静かに眼を上げると課長の不敵な眼差しと私の視線が絡む。


「課長、佐渡君も昨日は徹夜だったんです。多分もう寝てますよ」

「だったら叩き起こせ。恋人が呼んでるんだ。他の男と二人きりが嫌なら来るはずだろ。これでアイツが来なかったら……俺は我慢しない」

「……バカじゃないの?」


溜め息と共にそう呟いて私は課長の整った顔を見上げた。本当にバカバカしい。私も、課長も。だって課長は新田麗亜さんと婚約中なのだ。そして私は佐渡君と恋人でもなんでもない。なのに、課長は私を求めようとして私はそれを拒む為の嘘をついて。そして課長はそれを見透かしていて、我慢しないと言う。

疲れが、一気に私を引きずり倒そうとしがみついてくるような気がした。

ダメ。もうしんどいんだけど。その時、


「菜月!」


背後から聞こえた声に、私の身体がビクッと震えた。


「菜月、電話して来いって言っただろ」


振り返る前に腕を引かれて、私と課長の間に距離が生まれた。課長の息を飲んだ顔と、私の跳ね上がる鼓動。佐渡君だ、見なくてもわかる。

何も出来ない私の身体の向きを変えると、佐渡くんはクスリと笑った。


「何だよその顔。課長すみません。菜月がご迷惑かけませんでしたか?菜月は徹夜だったものですから」

「いや……」


突然現れた佐渡君の自然すぎる振る舞いと言葉に、課長は眼を見張ったままだ。


「では失礼します。菜月。帰ろう」

「うん……」


ようやく返事をすることが出来た私の手を、佐渡君がギュッと握った。


「今日は泊まれよ」

「うん」


ニコッと課長に向けて爽やかに微笑み、その場から私の手を引いて歩き出した佐渡君。白いVネックの半袖シャツと、濃い目のジーンズという姿の佐渡君はとても新鮮だった。でも、なによりもその大きな背中が凄く頼もしく思えて、私は胸がキュッとした。


「佐渡……」

「何してるんです?行きますよ」

「……うん」


佐渡君はチラリと振り返ってこちらに視線を送ると、私の手を優しく握り直した。


∴☆∴☆∴☆∴


「過去のデータを見ると、飯星工務店との接待に使う店はあの店を含めて三軒だけでしたから、大した手間もかかりませんでしたよ」


駅からそう遠くない佐渡君のマンションにお邪魔した私は、平然とそう言った彼を見上げた。


「……心配して見に来てくれたの?」


オズオズと私がそう言うと、佐渡君は思い出したかのように不愉快そうな顔をした。


「案の定あなたは課長に誘われていたじゃないですか。しかもあんなに密接して……」

「……」


決まり悪くて眼をそらした私の態度が勘に障ったのか、彼は溜め息と共に続けた。


「どうせ注がれるがままに飲んでたんでしょう、ヘラヘラしながら。課長はあなたの事なんか本気で考えてないんですよ?!なのにあなたは隙ばかり作るから」


「……」


……その通りだ。私は……ヘラヘラしながら飲んでただけた。だから隙が出て、課長にあんな風に……。


「……ごめん」


情けなくて情けなくて、佐渡君を見ていられない。この歳になって、こんな風に助けてもらうなんて子供のようで悲しい。


「……」


ジワリと涙が浮かび上がって視界が滲んだ。慌てて空いている手で拭ったけれど隠すことはできなくて、私は俯くことしか出来なかった。


「本当に……分からない人です、あなたは。気が強いクセに、こうやって俺の前ですぐ泣く」

「あ」


言い終えた佐渡君が、私に腕を回した。


「困った人です、あなたは」


端正な顔を少しだけ傾けて、至近距離からこちらを見下ろす彼の顔は本当に困っていた。


いつもは少し冷たげに見える顔が、今は何だか幼くて可愛い。それに……どうしてこんな風に私を抱き寄せるのか分からないけど、ドキドキする。それから、嬉しい。……もっとくっ付きたいと思った。佐渡君に、もっと。


「……」

「……」


思案しながら佐渡くんの瞳を見つめていると、彼は諦めたように笑った。それから私の後頭部に手を回すと、トンと額を自分の胸に押し付ける。


「そんな顔で見ないでください」

「……」


何も言わずに私が佐渡君の背中に両腕を回すと、彼は僅かに息を飲んだ。

ああ、また冷たくあしらわれるだろうか。『俺をオトそうとか考えないで下さいよ』って。だったら、内緒にしておこう、この気持ちを。この、芽生えてしまった恋心を。

その時私の耳元で、佐渡君が優しく囁くように言った。


「シャワー浴びますか?ベッドはご存知のとおり、ひとつしかないですが」

「……うん」


∴☆∴☆∴☆∴


「……徹夜明けだし接待だったし、疲れてるって言ったじゃん」


肌触りのよい夏布団にくるまって小さくそう言うと、肘をついた佐渡君が私を見下ろしてニヤリと笑った。


「そのわりには凄くエロい声でしたけど」

「ふっ、普通こういう時は大抵エロいんじゃない?!女子も」


すると佐渡君は更にニヤニヤと笑った。


「さあ……」


ず、ズルい。男は大抵エロいって言ったくせに……。


「おっと」


恥ずかしくて反対側を向こうとした私を、佐渡君が素早く両腕に囲った。


「見ないでよ」

「見ますよ。今は俺ものです」


トクン、と心臓が音をたてた気がした。

今だけじゃなくて、ずっと佐渡君のものでいたくなってしまった私には、少し悲しい響きだ。

私は、真上から澄んだ瞳で見下ろす佐渡君を見つめた。汗の滲む額に、前髪が乱れて散っていてセクシーだ。通った鼻筋も薄すぎない唇も、何もかもが魅力的でずっと見ていたい。

好き。私はこの人が好きだ。

でも多分、彼は私を好きな訳じゃない。身体の相性がいいとかその程度だろう。だから私は……この気持ちは内緒にしておこう。

密かにそう決心したとき、佐渡君が私にチュッとキスをした。


「寝ましょう。明日も頑張らないと」

「うん。……おやすみ」

「おやすみなさい」


言いながら仰向けになると、彼は私の手を握った。

ダメだ……切ない。私は佐渡君の温かさを感じながら、そっと眼を閉じた。

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