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ミステリアスなユージーン  作者: 友崎沙咲
第二項目
2/7

ユージーンはエ○い

∴☆∴☆∴☆∴


で、再び現在。沙織と家飲みの続きなんだけれども。


「じゃあSD課の新入社員の歓迎会は明日の夜からなんだ」


沙織はカシュッという音をたてて新たに開けたハイボールの缶を一口飲んで私を見た。


「そう!幹事の安藤君が張り切っちゃって。なんでも従兄が独立して居酒屋を始めたんだって。で、そのオープンが明日でさ」

「へえー、いいじゃん!レビュー待ってるわ。良かったら私も行く」


コクコクと頷いた私に沙織がニヤリと笑う。


「ユージーンとあんたの激闘も気になるしね」

「激闘って!別に敵同士じゃないし!」


焦って缶を置く私に沙織が口角を引き上げたまま言葉を返す。


「この間さ、社食で私が先に帰ってからのあんたと佐渡君の会話を聞いてた後輩がさ、『恋の匂いがしてた』って言ってたけど?」


不覚にもその言葉に胸がゾワリとした。ここで重要なのは、佐渡君の私に対する感情に『恋』のコの字もないという事実だ。

したがって『恋の匂い』の正体は、彼に見惚れていた私の視線を感知した第三者の感想であって……。

何とも気恥ずかしく、私は沙織を見ずにサラッと答えた。


「いや、ビジュアルだけがどうしても私のドストライクでさ、思わず見つめちゃうんだよね」

「ふうーん」


……凄くネットリとした『ふうーん』だなあ……。なんと言葉を返してイイかわからず、私はビールに手を伸ばした。


「ところでどうして『ユージーン』なの?」


少しだけ話がそれてホッとする。


「昨日の朝、佐渡君が携帯で話してるの聞いたんだけど相手の声が駄々漏れで、『ハイ、ユージーン!』て言ってたから」

「へえー、それでユージーンか」

「そ。外国人みたいだったよ」

「じゃあ、歓迎会で恋のハプニングが起こるの期待してるから報告は必ずするのよ」


……結局話はそっちに戻っていくわけ?私は少し口を尖らせると、沙織の額を指で弾いた。


∴☆∴☆∴☆∴


土曜日、午後七時。


「岩本さん!」


待ち合わせの居酒屋にあと数メートルというところで、店の前でこちらに手を振る安藤君が見えた。

場所は駅に近い繁華街で、土曜日だからか人で溢れている。


「迷わなかったですか?岩本さん、とてつもなく方向音痴だから」


……まあ確かに方向音痴だけど。


「言われた通り、スマホのナビ機能で住所いれたら連れてきてくれましたよ」


私が少し睨んで笑うと、安藤くんはポッと顔を赤くして私を見下ろした。


「今日の服……可愛いですね。いつもはパンツスタイルだから……スカートってなんか新鮮というか」

「嬉しいけど、安藤君みたいに若くて素敵な男の子に褒められたら照れ臭いなあ」


私がこう言いながら背の高い安藤君を見上げると、彼は少し笑みを消しながら真剣な眼差しで私を見つめた。


「……凄く可愛いです、岩本さん」

「ありがと!安藤くん!」


私がニッコリ笑うと安藤君は、


「今さっき佐渡さんも着いたところです。新庄課長がまだなので、僕は後で入ります。どうぞ」

「ありがと。じゃあお先に」


安藤君の開けてくれた引き戸から中に入ると、


「まあ、いつもの男みたいなファッションよりはいいんじゃないですか?安藤君が惑わされるのも頷けます」

「うわっ」


引き戸越しにさっきの会話を聞いていたらしい佐渡君のこの言葉に、私はビクッとして思わず声をあげた。


「ビックリするじゃん!何してんのっ!」


そんな私を一瞥し、彼は淡々と続けた。


「店に入ってすぐにメールがきたから返信してたんです」


あっそ。

そんな佐渡君は厚手のマルチボーダーの七分袖のシャツと、ツイルチノパンツというスタイルで、とても良く似合っていた。上下ともにダークカラーで、シャツに関してはVネックが彼の首と肩幅を強調していてとてもセクシーだ。

ダメだ、やっぱりカッコイイ。またしても見とれそうになったところで私はハッと我に返った。ダメ!一秒以上はもう絶対見つめない!

その時、カラッと再び戸の開く音がした。


「いらっしゃいませ!」


私たちを案内しに来た店員さんがニッコリと笑顔を向けた時、


「おお、岩本」


安藤君と新庄課長が中に入ってきた。


「じゃ、僕先に行ってます」


安藤君が私達の脇を通って予約している席へと姿を消し、私と佐渡君は新庄課長に頭を下げて挨拶をした。


「課長、こんばんは」

「ん」


アッと思った。そんな私を眼で捉え、課長が優しく頷く。……なんだか嬉しい。だって課長の手首に、私がプレゼントした時計がしてあったから。


「……」


課長の眼が誘っている。……歓迎会の後、どうかと。課長の茶色い瞳に頷こうとした時、


「行きましょう、課長」

「ああ」


佐渡君に促されて課長が歩き出した。それにつられるように私も後に続く。


「いらっしゃいませ!」


店の奥へ入るにつれて活気付いた声と料理の良い香りを感じ、私は立派な梁の見える天井を見上げた。


「改めて言いますが……良い感じです」


少し振り返って佐渡君がこう言ったから私も頷いた。


「うん、とても高級感があって落ち着ける内装だよね。お料理が楽しみ」


言い終わった途端、佐渡君が少し眉を寄せた。


「店の話じゃなくて岩本さんの今日のファッションを褒めてるんです」


え?


「いつもよりかなり若く見えます」

「それは……どうも」


……なんだ、どうしたんだ、コイツは。

何か裏があるのかと訝しげに佐渡君を見つめると、彼はツンと前を向いてしまった。


「……」


なんだか分からないけど、まあいいや。お腹すいたし。

私はSD課の面々が既に集まっている個室に上がると、みんなと笑顔を交わした。


∴☆∴☆∴☆∴



二時間後。


「課長、カラオケの予約も取ってますよ!行きますよっ!」


安藤君の従兄のお店で散々楽しんだ私達は、温かいもてなしと美味しいお料理に大満足して店を後にした。

そこですかさず二次会担当の安積君が課長に声をかけ、それに焦ったように課長が両手の平を彼に向けて苦笑した。


「いや、俺はいいよ。小遣いやるからお前らで行ってこい」

「えーっ、課長の歌声聞きたいのにーっ!」


安積チームの皆がニヤニヤしながら声高にこう言うと、新庄課長は彼らを甘く睨んだ。


「お前らーっ、俺の歌を聴いて笑うつもりだろうっ!」

「あれ、バレました?!あはははは!」

「バカ!忘年会の時は、声が枯れてただけで俺は音痴じゃない!」

「じゃあ今日、証明してくださいよ!」


店を出た皆が大笑いする中、私も課長を見て微笑んだ。

……課長のこういうところが好き。仕事に対する姿勢も、そこから離れた時に見せる無邪気なところも。

広い車道に面した歩道は人通りも多く、いつまでもこうして立ち話はしていられない。


私は大きく口を開けて笑う課長の横顔を見つめたまま思った。……身体を重ねても……課長は私のものじゃない。なんだか、ママゴトみたいだな。いつまで私達はこんな関係なんだろう。一年?……半年?……分からないなあ。

その時だった。分からないそれが、突然やってきたのだった。


「和哉さん!」


良く通る澄んだ声が、私達全員の耳に響いた。皆の中で、一番反応したのはきっと私だったと思う。



《和哉》



だってそれは……課長の名前だもの。

皆が声の主を捜す中、私は既に車道の端に停車した車から覗く女性を見つけていた。黒塗りの高級車の後部座席のドアが滑らかに開き、その華奢な女性がゆっくりとこちらに歩を進める。皆が小さく驚く中を彼女は歩き、やがて課長の前で足を止めた。


「和哉さん」


課長が彼女を見下ろす。


「……麗亜さん。どうしてここに?」


……麗亜……さん。

驚きを隠せない課長に、麗亜さんが首をかしげて微笑んだ。


「先日の、私の二十歳の誕生日会で和哉さんに頂いたネックレスをつけた姿を、どうしても見せたくて」


ドクンと鼓動が跳ねた。私の場所から彼女のネックレスは見えなかったけれど、首元に触れた彼女の指先と課長の視線でそれが見えるような錯覚を覚えた。


「か、課長?」


安積君の控え目な声に、課長が弾かれたように顔をあげた。それから、皆を見回して口を開く。


「彼女は新田麗亜さんだ。俺の婚約者だよ」

「初めまして。この度、二十歳になりましたのを期に、新庄和哉さんとご婚約させていただきました、新田麗亜と申します」


華奢な身体を少し曲げて会釈した麗亜さんに皆が慌てて頭を下げ、私も少し目線を下げた。


「おめでとうございます、課長!」

「婚約者がお迎えにいらっしゃるならどうして教えてくれないんですか!」

「本当ですよ、水くさい!」


そんな皆に麗亜さんがクスッと笑った。


「いえ、お約束をしていた訳ではないんです。私が会いたくなってしまって、叔父様に伺って勝手に会いに来てしまったんです」


その言葉に皆が一瞬ポカンとしたけど、すぐに安藤君が、


「課長、新田さんとごゆっくり」

「じゃあ課長、また来週会社で!」

「え?ああ、分かった」

「では皆様、失礼いたします。行きましょう、和哉さん」


その柔らかい声と課長の腕に伸びる彼女の細い指。


「悪い、みんな!じゃあまた来週な!」


行き交う車のテールランプと、街の美しい灯り。

それらの中で私達に背を向け車へと歩き出した二人は、まるで映画の主役のようだった。

……終わった……。ほんとに突然、終わった。

二人を乗せた車が滑らかに発進し他の車と混ざって消えた後、ようやく私の耳に街の喧騒が戻ってきた。……課長は……私を見なかった、一度も。


私の脳裏に新田麗亜さんの可愛らしい顔が蘇った。

……先日、二十歳になったんだ……。二十歳の誕生日に彼女は課長からネックレスをプレゼントされて……。もしかして、婚約指輪も?やだ私、肝心なところ見落としてるじゃん。あの彼女の白くて細い指に指輪はあったのだろうか。

……思い出せない。思い出せない!待って、今からあの二人はどうするの?二十歳を過ぎた彼女と課長は……二人でお酒でも飲むのだろうか。それとも……二人で……。


グッと胸を踏まれたような圧迫感に襲われて、私は咄嗟に口を開けて息を吸い込んだ。やだなにこれ、苦しい。

その時、苦痛に眉を寄せて俯いた私の視界に突然ネイビーの靴先が現れた。


「岩本さん、カラオケ行きましょう」


顔を上げると、私を見つめてニコニコと笑う安藤君と眼が合う。


「俺、岩本さんの歌、聴きたいです」


その瞳には一筋の甘さが浮かんでいて、私は思わず彼を見つめた。


「安藤……君……」


少し掠れた私の声に、安藤君は僅かに唇を開いた。それから一旦照れたように視線を反らし、再び私を真剣に見つめる。


「行きましょう、カラオケ。その後……僕に送らせて下さい」


『僕に送らせて下さい』



私は驚かなかった。だって何となく、彼の気持ちに気付いていたから。

幾度となく視線を感じ、その先にはいつも安藤君の照れた瞳があったから。

その瞬間、無意識に私は絡み合う新庄課長と麗亜さんを想像した。

あの二人は今夜寝るかもしれない。もしかしたらもう既に……彼女の二十歳の誕生日会の夜に。そう思うと何故か胸が焦げるような気がした。

嫌……だ。嫌だ、私だけ独りで部屋に帰るなんて。独りになるくらいなら、いい。安藤君となら……。

カラオケの後、彼となら二人になっても構わない。……寝たっていい。安藤君さえいいなら。

私は安藤君を見つめたまま彼の名を呼んだ。


「安藤君、……わっ!」


その直後、急に後ろから腕を引っ張られて、私はドスッと背中に衝撃を覚えた。


「安藤君、安積さんが呼んでますよ」

「え?あ!しまった、残りの会費を……」


背負っていたダブルジップのボディバッグを焦っておろす安藤君が段々遠くなっていく。

一方、私を引っ張った張本人はそのままの勢いで道の端へと歩を進めた。


「二次元の男に飽き足らず、手近な男に欲情するとは……はしたない」


なんだとっ?!


「ちょっと佐渡君っ、なによその言い方っ」


軽蔑したように私を見下ろし、ようやく腕を離した佐渡君を私はグッと睨んだ。それからツンと横を向く。


「はしたなくて悪かったわね。けど私が誰に欲情しようが佐渡君に関係ないでしょ」

「やっぱり欲情してたのかよ」


聞こえるか聞こえないかのギリギリの大きさで呟くところがまた癪に触るっ!!しかも舌打ちするなんて!突然避難されたことに腹が立ち、私は彼を言い負かしてやろうと敢然と口を開いた。


「あのね、私は今フリーなのよ。しかも私も安藤君も大人なのよ、オ、ト、ナ!一夜を共にして何が悪いのよ」

「……」


佐渡君が唇を引き結んだ。もしかして、私の勝ち?!そう思った瞬間、


「安藤君で満足出来るんですか?新庄課長とは随分タイプが違いますが」


ビクッとした。バレていたと思うと、全身から血の気が引く思いがした。やだ、へんな誤解は勘弁してほしい。私は別にそんなんじゃ……課長を好きだとかそんなんじゃ……!

今思えばこのときの私は、三十路の女が二十歳の女の子に恋人を盗られたとかいう、惨めな感情を持たれたくなかったのかも知れない。

私は身体中からありったけの『虚勢細胞』を集めると、ニヤリと笑って佐渡君を見あげた。


「課長?課長がいずれ彼女と結婚するのは知ってたよ。バレてるみたいだから言うけど、彼とは身体だけよ。それに……安藤君みたいに可愛い男の子が案外想像を越えるかも知れないでしょ。……まあ佐渡君はイケメンだけど持ち前の性格の悪さで独りよがりのセックス……きゃあっ」


私の言葉を遮るようにして、再び佐渡君が腕を掴んだ。おまけに驚く私を気にもかけず、そのまま狭い路地に入ると振り向きもせずに歩き出す。


「ちょっと!どこ行くのよ離してっ」


気でも狂ったのかと思うほど冷たい声で佐渡君が言葉を返した。


「行き先は俺のマンションです。それから着くまでは離しません」

「何言ってんの?皆が変に思うでしょうがっ」

「じゃあ安藤君に電話します」


言うなり彼は、私を掴んでいる手とは逆の手で器用にスマホを操作し、耳に当てた。


「もしもし、佐渡ですが岩本さんが飲み過ぎて気分悪いらしいです。すごく迷惑な話ですが俺、送って帰りますから二次会はパスします。すみません、はい。はい」

「コラーッ!私は飲み過ぎてもないし酔っぱらってもない!」


叫んだ私を佐渡君が振り返って刺すように見た。


「そんなひどい顔をして二次会にいくんですか?俺だけでなく皆にバレますよ、課長に失恋したことが」

「なっ……!」


ただでさえ胸の圧迫感に苦しんでいたのに、佐渡君のこの言葉にトドメを刺された気分だった。


「失恋?!バカ言わないでよっ!」


路地を抜けて広い歩道に出たところで思わず声を荒げ、ありったけの力で佐渡君の腕を振りほどくと私は彼を睨んだ。


「恋なんか……私は課長に恋なんかしてないっ!」


両手をパンツのポケットに突っ込むと、佐渡くんがそんな私に向き直った。

夜のライトが佐渡君の頬を照らし、その精悍さをより際立たせていて、私はそんな綺麗な彼と自分に大きな差を感じた。

……嫌だ……こんなの。

たちまち若くて綺麗な新田麗亜さんが脳裏に蘇る。社長令嬢で可愛らしい二十歳の麗亜さん。それに比べて私は……。

その時ポケットの中で私のスマホが震えた。……安藤君だ。今度は安藤君の屈託のない笑顔が胸に浮かぶ。アラサーの私なんかに安藤君は……。

スマホの画面を見つめながら、私の胸がギュッとした。

……安藤君が私を必要としてくれるなら……今晩は彼といたいと思った。スマホをタップして電話に出ようとしたその時、


「出る必要はありません」

「だって、わ、きゃあっ」


言うなり佐渡君が大きな手で私の手もろともスマホを握った。それと同時に着信音が止まる。それから驚く私のすぐ脇に屈むと、なんと佐渡君は私を抱き上げて素早く体勢を整え歩き出した。

はあっ?!


「やめてよっ!何考えてんの、おろしてっ!」

「自宅まであと数分なのでおとなしくしてて下さい」

「おとなしくなんかするわけないでしょっ!おろさないなら今よりもっとデカイ声出すわよっ」


私の金切り声に佐渡君が顔をしかめた。


「壊れたヴァイオリンみたいな声を出さないで下さい。耳が痛い」

「あんたがこんなことするからでしょっ!おろしてっ!誰かっ、誰か助け、っ……んーっ!」


そこまでしか言えなかった。だって急に佐渡君の顔がドアップになり、私の唇が塞がれたからだ。その清潔そうな唇で。

なんでっ!!

キスをしているというのに甘い雰囲気など一切なく、私は眼を見開いて佐渡君を凝視した。一方佐渡君は冴え冴えとした瞳で私を見据えている。……こ、こんな冷えきった顔でキスするって何!?


「今度騒ぐと舌入れますよ。入れられたいなら叫んでいいですけど」


驚く私からようやく唇を離すと、佐渡君は低い声で囁くようにそう言った。


「…………」


それから、ピタリと口を閉じた私を見てフッと口角を上げる。


「なんだ……残念」


もがこうにもガッチリと身体を抱かれ、身動きがまるで取れない。

確かに私はイケメンが好き。でも、こんなの……屈辱でしかないじゃないの!

こ……殺してやる、降ろされた直後に葬ってやる!

私の全身全霊から駄々漏れしている殺意を感じ取ったのか、佐渡君がこちらを見て早口で言った。


「くれぐれも言っておきますが、降ろした途端暴れないでくださいよ」


佐渡君は一旦言葉を切ってから、私の眼を覗き込んだ。それから再び言葉を続ける。


「……いくら俺がハイスペックでも、泣きながら怒る女性は手に余りますから」


は?……泣きながら……?


「なに言ってんの、私、泣いてなんか」

「泣いてますよ」


佐渡君が私を見つめた。


「あなたの心が泣いてるんですよ。その辛そうな顔が何よりの証拠です」


その声がやけに低くて優しかったから、私は食い入るように佐渡君を見つめた。私の……心が……?


「いいですよ。誰にも言いませんからもっと泣いても」


佐渡君の言葉を聞いた後、私はゆっくりと眼を閉じた。自分の心と向き合う為に。

……課長と親しくなったのは……ある日施工現場から遅く帰った私に、まだオフィスにいた彼が飲みに行かないかと声をかけてきたのが最初で……。

課長には最初にキチンと告げられていた。歳の離れた結婚相手がいること。関連会社の社長令嬢で彼女が二十歳になると婚約し、出来るだけ早くに結婚すること。

それでもよければ、俺と付き合わないかって。私は課長と付き合った。後で辛くならないように、付かず離れずの関係を保ちながら。いつ別れが来ても動揺しないように、深入りはしないように。なのに、今私は……私の心は痛くて、苦しくて……。嫌だ、どうすればいいの?こういう時って……。


「着きましたよ」


佐渡君のその言葉にハッとして私は眼を開けた。

路地を出て大通りを一本西へ抜けたところまでの記憶はある。

……私ったら……課長の事で動揺していた。抱き上げられて運ばれておいて、佐渡君の部屋に着いた事にまで気付かない程、私は課長を?


「嘘よ、そんなわけない」


気づくと私は呟いていた。ゆっくりと降ろされた彼の自宅の玄関で、小さくかぶりを振る。こんな……こんな自分を私は想像すらしていなかった。私に恋人が出来るより先に課長が婚約したら、言う台詞だってちゃんと考えていた。


『課長おめでとうございます。今日をもってお別れですね。今までありがとうございました』


ちゃんと彼の眼を見てしっかり……。

その時、上手く息が吸えなくて、私の喉からヒュッと音が漏れた。頬を伝う涙が思いの外速くて追い付けず、私はそれを拭う事を諦めて佐渡君を見上げた。

……この男は……一体何が目的なのだろう。どうして私を自宅に連れてきたのだろう。この男が入社してからまだ日は浅い。私と仕事をするようになってまだ数日しか経っていないのだ。従ってお互いに何も知らないし、自宅に招かれる間柄でもない。なのに課長との事を鋭く見抜き、心が泣いているとダメ出しにも似た指摘で私を揺らす。

そこまで考えた時、胸にジリジリと焦げるような痛みと共にくゆる黒い煙が生まれた気がした。切り込んだような佐渡君の二重の眼が、私を静かに見つめている。


「……誰にも言わないって言ったよね。それにもっと泣いてもいいって」


掠れた私の声に佐渡君はゆっくりと頷いた。


「言いました」


落ち着き払った声に、無性に苛立ちを覚えた。バカじゃないの?なにも知らないクセに。


「っ……!」


そこまで考えた時にはもう、私の手は佐渡君のシャツを掴んで引き寄せていた。それから首に片腕を回すと、彼の唇にキスをして抱き付く。咄嗟に身を固くした佐渡君に、私は囁くように告げた。


「……さっきのあなたのキスは……下手すぎた。あなたがどうして私を家に連れてきたのか知らないけど、あんなキスじゃ欲情しない。じゃあね、ハイスペックな佐渡君」


ニヤッと笑って見せた後で踵を返そうとした時、物凄い早さで腕を引かれた。アッと思った時には既に部屋に引きずり込まれていて、私は息をする間もなかった。そんな私を見て佐渡君がフワリと笑った。


「煩い口を塞いだだけの行動をキスと呼ぶとは。幼いんですね。キスってこうですよ」


言うなり佐渡君が、私の後頭部を掴みながら唇を寄せた。


「さ、佐渡……」

「黙って」


低い声を出した佐渡君の瞳が一瞬甘く光り、再び端正な顔を傾けると、彼は私を玄関の壁に押し付けた。口内に佐渡君の舌先が入り込む。最初は柔らかく、次に野性的に。


「……っ……」


他人の唇の感触が私の心拍を上げ、至近距離にある彼の熱い身体に軽い目眩を覚える。

生意気な言葉と態度からは想像出来ない程、優しいのに情熱的な佐渡君のキス。

全身が温かくなり、私は思わず眼を閉じてしまった。だって佐渡君がキスをしたまま私の両頬を手のひらで包み込んだから。

それも大切な物を扱うように、フワリと優しく。大きな彼の手の平は温かくて心地よくて、身体の隅々にまで電流が伝うような感覚がたまらない。

何度も角度を変えて私にキスをする佐渡君に、思考が追い付かない。

そっと眼を開けると、半ば伏せられた瞳は色気に彩られ見つめずにはいられなかった。

頭が痺れるような、快感にも似たようなこの高ぶりは一体。

無意識に、私は彼の首に両腕を絡めた。


「……もっと」


僅かに空いた唇の隙間から、吐息のように呟いた私に佐渡君が言葉を返す。


「もっと……何ですか」


痺れる中、私は再び思った。この男は、なに?欲情を煽るような口付けの果てにそれを問う、この男は。


「……いや……いい」

「……いいんですか本当に、ここでやめても」

「佐渡君こそ……」


相手の出方を見ながら探り合う私たちは、同じくらい狡い。やがて佐渡君が私から唇を離した。冷たい空気が唇に触れ、視線が絡む。でもそれはほんの一瞬だけで、彼は私を再び抱き上げると部屋の中へと進んだ。


「キスだけで終わらせるほど、お互いに子供じゃないでしょう」


言い終えると佐渡君は、何も言うなというように再び私に口付けた。

これでいい、今夜は。

頷く代わりにもう一度彼の首に腕を絡めると、私は眼を閉じて彼のキスに答えた。


∴☆∴☆∴☆∴


週明け。

月曜日の朝は、いつもより早起きすると決めている。週末の気だるい雰囲気を気合いで振りきる為だ。

二本早い電車はわりと空いていて、私はその時点で最初の早起きの醍醐味を味わう。

オフィスに着いたら着いたで賑やかなSD課の面々はまだ来ておらず、ガランとした部屋独特の雰囲気を独り占め出来る。私はバッグをラックに置くと、ブレイクルームのドアを開けた。


月曜の朝はここで至福の時を味わうのが、私の儀式だ。私はお湯を沸かすと小さな戸棚を開けた。最高級のコーヒー豆が、ここで私を待っている。

のはずが。

ないんですけど。

なんで!?その時、


「おはようございます」


ギクッとして振り返ると、佐渡君がそんな私を見ていた。


「あのさ、ここにあったコーヒー知らない?」

「一杯ずつお湯を注ぐヤツですか?小さな袋の」

「そうそれ」

「一時間前に飲みましたけど」


はっ?!な、んだって?!あれは私のヤツなんだけれどもっ!思わず眉間にシワを寄せて、私は佐渡君を見上げた。


「あれ、私のなんだけど!」


すると彼は私の前まで歩を進めてペコッと頭を下げた。


「ご馳走様でした」


何がご馳走様じゃっ!ご馳走した覚えはないわっ!


「ちょっと!あれはね、一杯二千円の高級品なのよ!名前書いてたのにどうして勝手に飲むのよっ」


キッと睨んで声を荒げる私に佐渡君は、


「それは気付かなかったなあ。すみません」

「ダメ!」


私のこの声に佐渡君が眼を見張った。


「返してっ」

「……」


見つめ合っている内に、ポカンと私を見ていた彼の顔が徐々に変わった。


「じゃあ……一昨日の宿泊費ということで」


言い終えた途端、彼が僅かに眼を細めてニヤリと笑った。


「それにワイン二本と俺の身体と、」


一瞬でカアッと全身が熱くなり、私は眼を見開いた。


「ちょっと!何言って……!」


加えてたちまちバクバクと心臓が騒ぎ出す。


「あんなに乱れておいて……何を今更焦ってるんですか?」


バ、バ、バ、バカじゃないのっ?!

咄嗟に佐渡君に飛び付き、私は彼の形の良い唇を利き手で塞いだ。だって、ドアが開きっぱなしなんだもの。


「うわっ」


ところが、華麗なステップで彼に近付いたつもりが足がもつれてつんのめり、私は佐渡君の身体に体当たりをする勢いでダイブしてしまった。


「おっと」


固い彼の胸に頬が密着し、抱き合うように身体が絡まる。


「バカッ、離してっ」


その時、カツンと誰かの靴音が聞こえた。


「おはようございます、課長」


……嘘でしょ。そのまま首だけでドアを振り返った私の眼に、課長の驚いた顔が飛び込む。やだ、ちょっと待って。

焦って離れようとする私とは対照的に、佐渡君の片腕は私の腰に絡まったままで、おまけにもう片方の手は私の手首をしっかりと掴んでいる。


「ちょっと、離して」


その時課長が気を取り直したように少し笑った。


「何やってんだよ?!もしかして、お前ら……」

「ち、違いますよ課長っ!私の大切な高級コーヒーを、佐渡君が飲んじゃったんですよ!だから今、」

「菜月、ごめん。また身体で払うから」


冗談めかした佐渡君の瞳が私を優しく見下ろす。なんじゃコイツは。……自分が石像になっていく気がした。すべての動作が一切出来なくなり、固まっていく感覚。

眼で殺す勢いで睨んでいるのに、佐渡君は私に見向きもせずに課長を見ていた。課長もまた佐渡君に視線を移し、何かを見定めるかのように彼を見つめた。


「……」

「……」


三人いるブレイクルームが静まり返り、妙な空気が充満する。そんな沈黙を一番に破ったのは佐渡君だった。


「なあ菜月、今晩部屋に行っていい?俺が晩飯つくるからさ」


こ、こいつはイカれたんじゃないのか。

私は密接したままの佐渡君の耳に唇を寄せて、圧し殺した声を出した。


「……なんのつもりよ!?」


そんな私に、佐渡君が言葉を返す。


「全く鈍い人ですね。あなたはまるで分かってないんですよ。俺に合わせていればいい」


言いながら半ば伏せられた佐渡君の瞳と、端正な頬に心拍が上がる。その時、


「……岩本、ジュエリーショップの件で話があるんだ」


言い終えて唇を引き結んだ課長は、相変わらず佐渡君を見据えたままだったけど、私は即答した。


「分かりました」


それから手に力を入れ、佐渡君の腕を解く。私のその行動にようやく身体を離した佐渡君は、課長に声をかけた。


「課長。その件、俺も同席していいですか?」


直ぐに課長は首を横に振った。


「いや。岩本だけでいい。佐渡は仙道に付いてやってくれ。子供服店に改装中の現場が遅れてるんだ」

「……わかりました」

「……じゃあ岩本、チームミーティングの後、会議室まで来てくれ」

「はい」


課長がコーヒーを淹れて出ていった後、佐渡君は小さく息をつくと呟くように言った。


「あれが課長の口実だと分からないんですか」

「分かってるわよ」

「ズルズルしますよ?ここで断ち切らないと」


……分かってる。そんな事。


「というか、さっきのは何よ!何が『菜月』よっ」


ムッとして睨む私を見て佐渡君がまたしてもニヤリとした。


「よく言いますね。ヤッてる最中、菜月って呼んでって」

「あんただって、右仁って呼んで下さいって言ったじゃん!」


バリバリと睨む私とは真逆で、佐渡君はフッと笑うと私の頭にポンと手を置いた。


「さあ、コーヒー飲んだら仕事ですよ」

「コーヒー返せ」

「だから、俺の身体で」

「変態!」


拳で佐渡君の脇腹をゴン!と殴ったのに、彼は唇の端を上げて笑っていた。


∴☆∴☆∴☆∴


「マジーッ!?寝たの?!」


抑え気味の声に反比例した沙織の瞳が、星よりも輝いて見える。

午後六時半。

場所は、駅からは距離があるけど私と沙織のお気に入りの居酒屋えにしの一番奥の座敷だ。

私は一口飲んでテーブルに置いたジョッキを見つめながら、コクンと頷いた。


「どうだった?!」


どうって……すごく……。

私は佐渡君とのあの夜を思い起こしながら、ざわめく店内に視線を巡らせた。



∴☆∴☆∴☆∴



二日前。


「キスだけで終わらせるほど、お互いに幼くないでしょう」


再び唇を合わせた後、佐渡君は寝室のベッドに私を降ろして至近距離からこちらを見つめた。

レースのカーテンからは小さな夜の明かりが点々と見えている。


「どっちを向いているんですか」

「いや、何階なのかなーって思って」

「カーテン開けてても誰にも見られない階ですよ」


どうでもいいといったように早口でそう言うと、佐渡君は私の真正面で膝をつき、腕をクロスさせて自分のシャツに手をかけた。

薄明かりの中で見る彼の裸の身体は、鍛えているのがはっきりと分かるほど美しい。

首から肩にかけてのラインが美しく逞しい。

この身体に抱き締められたら、私は一体どうなるのだろう。

欲しいと思った。この逞しい身体が、欲しい。


「佐渡君…抱いて」


私は彼の首に両腕を回すと小さく囁いて、彼の鎖骨に唇を押し当てた。


「忘れさせてあげます、誰の事も」

「……っ」


身体の至るところで佐渡君の唇や舌、指が扇情的に遊ぶ。

それが甘い痺れを呼び、疼くような感覚に身体の脈打ちを止められない。

端正な彼の顔が快楽に歪むのを見て、ほんの僅かな自分の価値を見出だせた気がする。


「もっと深くしても……いいですか」

「……して」


荒い息遣いと甘い眼差し、それに波のように動く互いの身体に欲情を止める事が出来ない。


「……菜月」

「……!」


まるで大切だと言われたような気になった。

低く艶やかな声で名を呼ばれたその時、確かに私は課長を忘れていた。




∴☆∴☆∴☆∴


「……凄く、よかった」


私がボソッと一言こう発すると、沙織は深い溜め息をついて真上にあるライトを切な気に見上げた。


「そっかあ……よかったじゃん!新庄課長とスッパリ別れてさ、ユージーンをゲットすれば」

「それはやめとくよ。何の取り柄もないアラサーなんか興味ないんだって」

「うわ、キツ!」


ガタンと沙織の手からジョッキが少し滑り、テーブルに音を響かせた。


「涙が出るくらい悲しかったくせにさ、ユージーンと寝たらアッサリ吹っ切れたんだよね。ひどいヤツでしょ私。多分あの涙は新田麗亜さんが成人した事を言わずに、バレるまで私と関係を続けようとしていた課長の心に裏切られた悲しさだったんだと思うの。だからユージーンと一夜を共にして、彼が課長の前で恋人役を演じて仕返しをしてくれて、もう吹っ切れたんだ」


私の言葉に耳を傾けていた沙織が、再びハアッと吐息を漏らした。


「なに、ユージーンは一瞬であんたを救う手だてを考え出して実行し、成功したわけ?」


私は苦笑しながら沙織の綺麗な顔を見た。


「何の取り柄もないうえに、惨めに捨てられそうになってたアラサーが不憫だったんじゃないの?けど少なくとも私はあの夜、彼とああなって後悔はしてない」

「……新庄課長は?彼とは話したの?」

「……うん……。なんか歯切れが悪くてさ、ちょっと幻滅したわ」


言い終えた私に、沙織が大きく頷いた。


「新庄課長、イイ男だと思ってたのになあー。 彼女と正式に婚約したのを内緒にするズルい男だったとは……残念だわ」


私はジョッキを空にするとハアッと大きく息をついて笑った。


「ユージーンと寝たのは、変な言い方だけど安定剤になった。課長との事は綺麗サッパリ忘れる!で、ちゃんとした恋人を作る!」


沙織がパアッと顔を輝かせた。


「やっとその気になった?!なんか私、嬉しい!二人で頑張ろっ!恋人作ってさ、婚活しよ!」

「……そうだね、もう三十路だしね。これを期にいっちょ頑張るか」

「そうよそうよ!新たなスタートラインに立てたと思えばいいわよ」

「だね!」

「二杯目頼むわよ!」

「オッケ!私、ハイボールに変えるわ」

「私も!」


私達は顔を見合わせると大きく笑った。



∴☆∴☆∴☆∴



『そんな顔して、これ以上煽らないでください』

『もっと動いてもいいですか』


薄く闇の広がる部屋で低く艶やかに響いた佐渡君の声と、引き締まった逞しい身体。

次第に荒くなっていく呼吸と、クッと奥歯を噛んで眉を寄せた彼の顔。


「うわああっ!」


だ、ダメよダメ!あの濃かった夜の事はもう封印しなきゃダメ。

駅からの帰り道、一人になった私は思わず佐渡君との夜を思い出してしまい、慌てて頭をブンブンと振った。

思い出すな、思い出すな私!あれはもう過去の出来事でこの先有り得ないのだ。

駅から自宅までの道のりが進むにつれて人の数が減り、やがて追い抜かされることもなくなる。

完全にひとりになったマンションの花壇の数歩手前で、私は肩にかけていたバッグを下ろして開いた。その時、


「菜月」

「わっ!」


植え込みの中のライトに照らされた人物に、私は気づくのが遅れた。

花壇の角に誰かが腰を掛けていても、背の高い植木が邪魔をして見えないのだ。


「課長、どうしたんですか?びっくりするじゃないですか」


胸を撫で下ろしながらこう言った私を、課長は少し笑って見下ろした。それからスラックスのポケットに両手を突っ込み視線を落とす。何か言おうとして思案する時の課長の癖だ。


「今朝は……あまり話せなかったから」


私は立ち止まったまま、課長から目をそらした。



『あれが課長の口実だと分からないんですか』

『ズルズルしますよ?ここで断ち切らないと』



佐渡君に言われた言葉が胸に蘇り、私は再び課長を見上げるとニッコリと笑った。


「ジュエリーショップ『Gracia』の件ならクリアしました。急遽増やしたショーケースの上のライティングが甘くて焦ったんですけど、業者さんが予備のライトを持参してくれてて、うわっ!」


突然私を抱き締めた課長が、クスッと笑った。


「全くお前は……『うわっ!』じゃなくて、『きゃあ』だろ」


これまでの私なら喜んで彼の背に腕を回していたんだろうな。でもそんな私はもういない。


「課長、やめましょう。もう終わりです」

「……っ」


課長が僅かに息を飲んだのが分かった。それと同時に私は手のひらを持ち上げ、課長の胸を押して距離を取り、一歩下がった。


「……悪かったと思ってる」


……悪かったと……本当に思っているのだろうか。あの夜の課長は多分、麗亜さんが現れなければ私を部屋に呼んでいた。バレるまで、私を縛るつもりでいた。


「菜月に二度と触れられなくなると思うと怖くなって言い出せなかったんだ。こんな気持ちになるなんて、計算外だった」


……何が言いたくて課長はここで私を待っていたのだろう。言い訳をして私を納得させ、自身の罪悪感を消すため?それとも私に愛を乞い、関係を続ける為?分からない。でも、もうどうでもいい。私は課長の眼を見ると、きっぱりと告げた。


「課長。私、近々結婚する男に興味なんかありませんよ?」


お休みなさいと小さく頭を下げた私の腕を課長が掴んだ。


「佐渡が本気で好きなのか?!」

「……課長よりは」


お互いに口を閉じた私達は、探り合うように視線を絡ませた。やがて課長が諦めたように笑う。


「キツいぞ、それ」

「課長。ご婚約おめでとうございます」


一瞬、課長がグッと顔を歪めたけど、私は直ぐに踵を返した。だって、振り向かないと決めたから。


∴☆∴☆∴☆∴


数日後。


「佐渡君、グラフィック確認して。すこしでも画と違うと思ったら教えて。それとオーナー様との待ち合わせ時間もうすぐだからね」


今日は子供服のお店『Seven colors』の引き渡し日だ。


「……ちょっと待ってください。あそこ、人形の靴が脱げそうになってますけど」

「え?うわ、ほんとだ」


天井からワイヤーで吊り下げている人形の靴が片方脱げそうになっていて、踵が見えている。


「マジックテープがしっかり止まってなかったみたいだね。仙道くん、脚立……」

「もういませんよ。道具も全て車に積みました。午後から別行動ですから」

「あ、そうだったね。ちょっと、椅子ない?」

「あそこの椅子はもう固定済みです」

「じゃあパイプ椅子とか」

「ありません。施工業者も帰りました」

「えー……」


どうしたものかと一瞬眉を寄せたけど、私は直ぐに佐渡君を上から下まで眺め回した。

……佐渡君ならいけそうじゃん。長身じゃん。


「ねえ佐渡君、届かない?やってみて」


佐渡君はタブレットを置くと、私を見て首を振った。


「ワイヤーの長さと人形の背丈、部屋の高さを確認すると、靴までは230センチはあります。俺が手を伸ばして指先がギリです。靴を掴んで履かせるのは無理ですね」

「……」


チャレンジする素振りもない佐渡君に若干イラついていた私は、思わず胸の内を声に出してしまった。


「デカいクセに……」


小さな独り言にカチンときたのか、突然佐渡君が私の手を掴んで言い放った。


「ちょっと岩本さん、床にうずくまってください」

「は?」

「さっさとしてください」


嘘でしょ?!


「ちょっと!私を踏み台にする気?!」


驚きのあまり眼を見張る私に佐渡君は、


「チビの岩本さんが役立つチャンスですよ。早くしてください」

「抱っこにしてよ。抱っこして持ち上げてくれたら履かせられるかも」

「それでもいいですけど、やれ『胸を揉まれた』だの『必要以上に腰やお尻を触られた』とか、まるで俺が岩本さんを求めたみたいな事、後で言わないでくださいよ」


な、何よその言いぐさはっ!

……でも待てよ。確かにそうだ。抱っこはまずい。だからって肩車も絶対に嫌。怖いし。


「いたいけな子供の頭に靴が落ちてきたらどうするんですか?岩本さんさえほんの一瞬我慢したら済む事でしょう」


言い終えた佐渡君がニヤリと不敵な笑みを私に向けて、わざとらしく腕を組んだ。


「……」

「……」


ああ、もうっ!なんか悔しい!


「くつは脱いでよねっ!」

「俺もそこまで鬼じゃないですよ」


……充分鬼じゃ!

内心舌打ちしながらも、渋々私は床にうずくまった。


「……いいわよ」

「いきます」


大きく息を吸ったその時、


「ぐっ」

「何ですか、今の。変な声出さないでください」


だ、だって、重いもん!

でも、それはほんの一瞬だった。


「オッケイです」


はあ、よかった……。

ホッとしながら折り曲げていた上半身を起こすと、目の前に佐渡君の大きな手が見えた。


「はい」


あ……は、はい……。

そう言って私を見つめる佐渡君の眼に前髪の影が落ち、より神秘的な雰囲気を作っている。

……本当に……綺麗な人……。


「なんですか?また見惚れてるんですか」


し、しまった。

でも肯定するわけにはいかない。だってまたバカにされる。


「はー??自意識過剰すぎない?エロい上にえげつない程のドSっぷりに驚いたから呆れて侮蔑の眼差しを送っただけよ」


佐渡君の手に掴まって立ち上がった後、内心焦りつつもこう言った私に、


「エロい?ああいう時は大抵の男はエロいんじゃないですか?それとも新庄課長はエロくなかったんですか」


小さく、ほんの小さくズキッと胸が痛んだ。佐渡君の皮肉がどうの、という訳じゃない。でも課長と肌を重ねる日はもう一生来ない。プライベートの時間を共に過ごす日はもうないのだ。

……気持ちには決着をつけた筈だし、そりゃあ少しは泣いちゃったけど割り切っていたし大失恋でもないのに、どうして胸が痛むんだろう。

……感情って案外、自分で考えているより複雑なのかも知れない。

腕時計を見ると正午前で、ガラス越しにオーナー様の車が見えた。約束の時間だ。私は店内をぐるりと一周見て確認すると、出入り口に向かった。

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