1-2 取り扱い説明書
恐ろしい出来事を経験した翌日の朝8時。気を失っていたせいか、あまり眠れず、補習もない土曜日だというのに朝早くに起きて自室から出た葵は目を疑った。
「おはよう葵、今日は学校休みなのに早いのね」
「おはよう葵、お昼家族でどこかに食べに行くか?」
リビングで朝食を食べている母親と父親の姿が一瞬、真っ黒に塗りつぶされているように見えた。まるで昨日屋上で見たクラスメイトのように。
「お、おはよう。お昼は友達と食べる約束してるから」
なるべくいつも通りの自分を演出して挨拶をする。友達なんていないが、友達と約束があるからという嘘は友達のいない人なら1度は使ったことがあるのではないだろうか。
「そうか、それじゃあ家族でお昼を食べるのは明日にするか」
そう言って父親は新聞を読みながらコーヒーを飲む。
「あんたもようやく友達が出来たんだねえ」
母親は温かい目をこちらに向けながら朝食のオムレツを食べる。葵の目にはにはそれらが気味が悪く映った。この両親も、昨日のクラスメイトのようにいつか化け物に変身して自分を襲うのだろうか。自分は誰を信じればいいのか。そう考えるとなんだか家にもいたくなかった。1人になりたかった。
◇◇◇
家を出て近くの公園のベンチに座る。昨日の事があるため学校の屋上へはもう行けない。利私服で学校に入る言い訳も制服で家を出る言い訳も思いつかなかったので、屋上どころか学校にも行けない有様だが。
公園では小学生くらいの子供達が缶蹴りをして遊んでいる。朝から元気だなあと思いつつ、小学生達をじっと見つめる。よく目を凝らして意識してみる。すると、小学生達の姿が一瞬、黒くなったように見えた。
「ッ‼」
こんな子供までという驚きと、やっぱりかという落胆が、心の中に同時に生まれる。まともな人間はどこかにいないのだろうか。
「はあ……」
思わずため息が出る。こうしているとまるで仕事をクビになったことが家族に言えずに出勤するフリして公園で過ごすサラリーマンのお父さんのようだと思いながらも、家族にも言えない深刻な悩みを抱えているという意味では似た心境にあるため全然笑えない。そして葵はさらにため息をこぼす。
「はあぁ……」
「そんなにため息ばかりついてると幸せが逃げるよ?悩みがあるなら話してみるといい」
「いえ、話してどうにかなるような悩みじゃないんで……」
「そうかい?話してみるだけでも楽になれるかもしれないよ?」
「今楽になっても後々辛いんじゃ意味ないですよ。時間が解決してくれる問題でもないですし……って」
そういえば自分は今誰と話しているのだ?それもこんなにスムーズに会話が成立しているなんて家族以外にはあり得ないことだ。ふと、下を向いて地面を見ている頭を横に向ける。
「やあ」
言葉の後ろに星の記号でもつきそうなくらい満面の笑みで、真がすぐ隣に座っていた。
「な、い、いつからそこに⁉」
「ふふ、いつからだと思う?」
ちょっと動けば触れ合えそうな距離で、少女はこちらに細めた目を向ける。からかっているような、遊んでいる様な、そんな目だ。心臓の鼓動が早くなる。女の子と一緒に座っているというシチュエーションに対する恥ずかしさと心の隙に入り込んできた少女に対する恐怖がごちゃ混ぜになる。昨日の出来事が脳裏に浮かぶ。
「あ、あの、何か用ですか?」
決して真には目を向けず、顔をそらしたまま葵は尋ねる。
「君が知りたがってると思ってね、昨日の事とか色々と」
「ッ‼」
真の言葉に葵はビクッと肩を震わせる。そんな葵の様子に真はクスクスと笑う。
昨日の事について、知りたい気持ちと知りたくない気持ちがある。知ってしまえばもう二度と息苦しくはあるが平穏な日常に戻れなくなってしまうだろうという恐怖。知らないままでいれば昨日の出来事や黒く変わる人達を忘れることも見ないようにすることも出来ず、得体の知れない奴らと同じ日常を何も知らないまま過ごしていかなければならないという恐怖。どちらを選んでも葵には平穏も幸福も訪れない。
「君が見た黒い奴らはね、NPCって呼ばれてるんだ。本来はゲームとかでよくみるプレイヤーのいないキャラクターを指すんだけど、この世界でも大体役割は同じだよ。まあ、簡単に言えば奴らは人じゃないのさ」
そんな葵の気持ちを知ってか知らずか、加減も戸惑いもなく、いとも簡単に真は葵の世界を破壊する。最初から選択肢など無かったのだ。
「NPCなんてモノ、現実世界にいる訳がない。つまりここは異世界。君は自分が気付いていないだけで、いつの間にか異世界に住んでいたんだ」
真のさらなる言葉が葵にとどめを刺す。葵の平穏な日常は完全に崩れ去った。そして、彼は自覚する。昨日の出来事も、黒く変わった両親やクラスメイトも、全て今の現実んい起こったことなのだと。未知の世界に足を踏み入れてしまった恐怖が葵を襲う。体が震える。嫌な汗が出る。
「大丈夫かい?」
「だ、大丈夫なわけ……⁉」
呑気な質問をしてくる真に対して、さすがに文句の1つでも言ってやろうとして彼女の方を向いた時、柔らかい感触がした。自分が抱きしめられているということに気付くのに数秒かかった。
「な、なにを……」
背中に回された真の左手が葵の背を優しく叩く。すると不思議なことに、こんな状況だというのに自分の心が落ち着いていく。
「もう、大丈夫かい?」
「は、はい」
質問にそう答えると、真は葵から離れる。相変わらず隣に座ってはいるが。
心が落ち着いたおかげか、葵は自分が恐怖と一緒に解放感を感じていることに気付いた。説明を受けたことでこれまで抱いていた世界に対する違和感が消えたからだ。
「あの、結局、この世界って何なんです?」
質問する余裕も生まれる。
「この世界を作った神様はこの世界を『ドリームランド』って呼んでる。死んだ人間の願いを叶える世界だよ」
「神様?し、死んだ?」
「そう。神様とNPC以外、この世界には君も私も含めて既に現実世界で死んでいる者しかいないんだ」
実際にこの目で見ているNPCと比べると実感がわかない。突拍子もない話ではあるが情報源が真の言葉以外にないうえ、既に世界の異質さを知ってしまっている現状では信じるしかない。
真はベンチから立ち上がって葵の方を向く。
「死んでしまった人間の『ああすればよかった』『こうしなければよかった』っていう後悔や叶えたくても叶えられなかった願い、達成できなかった目標。そうしたいろんな欲望を持った死者を神様はドリームランドに勝手に連れて来てその夢を叶えてあげるの。健康な体が欲しい、スポーツの大会で優勝したかった、あの職業に就職したかった、友達と楽しい学生生活を送りたかった、とかね」
話ながら真はベンチの後ろ側へと歩き、後ろから葵に向かって抱きつく。そして、葵の耳元で小さな声で囁いた。
「ここで夢が叶った者はその幸せに捕らわれるんだ。幸せな日常に浸ってこの世界に何の疑問も抱かなくなる。死ぬことはあるだろうけど、決して老いることもなく、永遠の幸福に捕らわれ続ける。ここはそんな世界だよ」
葵は思い出す。自分のクラスにいた幸せそうに笑っている生徒の姿を。アレも夢を叶えてもらった姿なのだろうか。1人の生徒が楽しそうに笑うその横で、一体何人の生徒がNPCなのだろうか。この世界が幸せに包まれた世界だというのなら。
「な、なら僕は、何の願いを叶えてもらったっていうんだ?」
こんな世界で自分は何を叶えてもらったというのだろうか。葵には分からない。友人のいない高校生活を送り、中学の友達とも疎遠になり、やることといったらゲーム、ネット、漫画、ラノベ。成績が特別良い訳でもなく、運動が得意な訳でもない。だが後悔してることがある訳でもない。望んで独りになった訳でもない。ならば、自分の生活は何も変わっていないではないか。そして、自分は一体何時からこの世界にいるのだ?自分が死者だというのなら、一体何時死んだ?
「わ、分からない……分からないことっばっかりじゃないか」
頭が混乱してくる。気持ち悪いし気味が悪い。思わず頭を抱えたくなるが、後ろから抱きついている真のせいで腕が動かせなかった。
「まあ、君の全ての悩みに答えられる訳じゃないけどさ、君が自分の死について何も覚えてないのは神様がその記憶を封印してるからだよ。生前の記憶や死んだ記憶なんてあったら幸福感に浸れないでしょ?邪魔な記憶は全部封印してあるのさ。誰かにちょっと矛盾を指摘されると簡単に解けちゃうような封印だけど、全員が記憶に細工されてるこの世界じゃあ、誰も人の記憶を下手に刺激したりしないからね」
まるで世界が何から何まで全部「都合の良さ」を追求して作られているように感じる。知らない人からすれば幸福に包まれた理想郷なのだろう。だが、知ってしまえば全てハリボテになってしまう。
「それで、貴方は僕にそんなことを話してどうしたいんですか?」
この世界についてはある程度分かってきたが、真については何も分からないままだ。彼女は何を企んでいるのか。何故葵に話しかけてきたのか。
「折角名乗ったんだから本当は名前で呼んで欲しいんだけど、まあいっか」
真は葵から離れると小走りで葵の前までやって来て、ぐいっと顔を近づけた。
「そもそも私が君に声をかけたのは君があまりにも幸せそうにしてないからだよ。この世界におけるイレギュラーだったからさ」
真のぱっちりと開かれた目が葵の目を見つめる。その目はやはり蛇のようだ。吸い込まれそうというよりも、見透かされているというよりも、まるで心の中に入り込まれているような気分になる。圧倒的な存在感に気圧されてしまう。声が出なくなる。瞬きすら忘れてしまいそうになる。
「いつまでもこんな世界にいたくないだろう?いつまでも異世界で気味の悪い思いをしていたくないだろう?だからさ、私と一緒にこの世界から脱出しようよ。この世界を作った神様をなんとかして、新しい人生を手に入れようよ!」
段々と彼女の語りは楽しそうになっていく。もしかしたら本当にこの世界から逃げる事が出来るのかもしれないと思わせられる。だが。
「か、考えさせてください……」
震えた声で葵はそう答えた。自分の中で気持ちの整理もつけずに言われるがままになる勇気はない。自分が1番大事なのだ。何が起こるか分からない事にそう簡単には飛び込めない。
瞬間、真の顔から表情が消える。しかし次の瞬間にはまた細めた目で笑顔を作っていた。
「……分かった。まあ仕方ないよね」
そう言って真は葵から離れる。
「返事は明日また聞かせてもらう事にするよ。また明日この公園で会おうか」
そのまま真は公園から出て行く。彼女の姿が見えなくなった途端、どっと疲れが襲ってきた。いつの間にか子供達もどこかへ消えてしまっている。
「はあぁ……」
誰もいなくなった公園で、葵は大きく息を吐いた。解放感で気が緩む。元々両親が真っ黒に見えたのが原因で外に出たのだが、外にいても家の中と大して変わらないな思いつつ、家に帰ろうとする。
すると、ポケットで何かが震える。取り出してみると、携帯電話に着信が入っている。画面には電話番号しか表示されていない。
「はい、天音です」
宅配なんて頼んだかな?と思いつつ、電話に出る。
「こちら、天音葵さんの携帯電話でよろしいですか?」
「はい、そうですけど?」
「さっきぶりだね、蛇乃目真です」
出てきた名前にがっくりと肩を落とす。さっき別れたばかりじゃないか。
「1つ言うのを忘れてたんだけど、また公園まで戻るのも面倒だから電話で言うことにしたよ」
「いや、その前にどうやって番号……」
「昨日君が気を失ってる間に携帯電話を調べさせてもらったよ」
日常もプライベートも徐々に真に侵食されつつあるような気がする。頭の痛い話だ。
「それで、伝え忘れた事って何ですか?」
「うん、私がプレゼントしたゴーグルは持ってるかな?」
「ゴーグル……あの水色のヤツですか?」
そう言えば、目が覚めた時近くに置いてあった。現在はとりあえず自室の机の上に置いてある状態だ。
「そうそう。その水色のカッコイイゴーグルは持ってるかな?」
「家に置いてるんで手元にはありませんけど」
「それじゃあ、今後はいつもゴーグルを身につけておく事をオススメするよ。昨日は私がNPCを意図的に襲わせたけど、今後も襲われないとは限らないからね。もしも危ない目にあった時にはきっとゴーグルが君を助けてくれるよ。じゃあ、今度こそバイバイ、また明日」
そう言って返事も待たずに電話は切れる。昨日の出来事を思い出すと、それだけで気が滅入る。素直に従った方が良さそうだ。
「ただいま」
「おかえり。どうした?友達とお昼じゃなかったのか?」
家に帰ると父親にそう言われて、朝の言い訳を思い出した。携帯を見れば、午前10時。朝食を食べてから2時間程しか経っていない。
「サイフ忘れちゃって」
そう言って葵は、自室に戻ってサイフとゴーグルを手に取ると、また外へと出て行った。