八話
棚にみっちりと整然と詰め込まれた本の、その固そうな背にぴたりと人差し指をつけ。
ずららら、と横に歩く。
すると、それぞれの中身が私の頭の中に入り込んできた。
(う……)
気持ち悪いほどの量であった。
辞書を無理やり脳にスキャン、読みこんだかのような塩梅。おえっぷ。
(初めて、魔術書を手に取った時も……こんな風に)
吐きそうになったものである。
あわや、といったところで私はどうにか嗚咽をごまかすことができ、口を片手で覆いながら苦虫つぶしたかのような顔を自覚する。我ながらアホだ。
「はあ……」
少し、落ちついた。
机にもたれかかり、なんとか自分を鼓舞する。
そうだ、あと少し。僅かな時間しかないのだ。
見上げると、棚の板の部分、側面にそれぞれ番号とあいうえお行が刻まれていた。
(確か……神人やら、神の迷い鳥とかなんとか)
言ってたような気がする。
私は、まずは鳥、の内容がありそうな所へ向かった。
(……ううーん)
やはりといってはなんだが、鳥類、まさしく野生の鳥について書かれたものばかりが並んでいる。見知らぬ雑学は新鮮かもしれないが、かといって異世界の野鳥について詳しくなったところで謎が解決できる訳じゃない。
(てことは、やはり神話関係か)
別の場所へ。
(さて、神話は。ええと)
建国にもしかしたら絡むかも。
そう思い、建国史、歴史あたりをつぶさに確かめる。あった。
ただ、問題なのは。
(時間が……)
差し迫っていた。
じりじりとした焦燥感も自分を圧迫している気がする。宿題に追われているような、締切に追われているような、感覚。本棚と本棚の隙間にてまごつく。
(……まずいけど、でも)
やるしか、なかった。
「ではごきげんよう、伯爵夫人」
「ええ、男爵夫人。またお会いしましょう」
夜会はそこそこの盛況であったらしい。
滅多に出ないと噂される珍獣扱いの王族がひょっこり姿を現したらしい、とは他の召使いの談。
彼女は他の貴族に出入りする召使いと仲が良いので信ぴょう性の高い話だ、実際、私が護衛している奥様は非常にご機嫌であった。珍獣王族が殊の外お気に召したものらしい。
「精悍で!
なんとも華やかなお方でしたわね、ねぇ?」
「ええ、奥様」
きゃいきゃいと騒ぐ奥様と召使い、そしてその隣で俯く私。
「あら、リア。
どうしたの、具合悪いのかしら?」
「お酒でも出ましたっけ」
頭を横に振り、
「いえ、奥様。
その、馬車に乗るとたまに酔うので」
「あら、吐きそうなの?」
「だ、大丈夫です……今の所。
ご心配おかけしました」
脳にばら撒かれた文章たちは、細切れに私の頭の中で飛んだり跳ねたりして私を散々に苦しめていた。弾ける意味、重なる理由。積み重ねられて崩れ落ちる文体たちは、綺麗に私の中を苛め抜いてくれた。
建国史が、あんなに長く、無駄にあるなんて。
私はこの世の終わりのような顔をしていたんだろう、奥様に命じられ、速やかにその日は休むよう申し付けられた。
北の国の人間は武勇に優れている、らしい。
噂でしかないし、第五次戦争では確かに南とドンパチやっていた。
私はそれを目の当たりにして、うわー巻き込まれたくないや、なんて他人事のように思っていた。
そしてどっちの国も奴隷制を活用している。
まず、奴隷は一般庶民が気軽に扱えるものではない。
金さえ払えば使える。が、免許制だった。
そして、その免許によって支配された権利は奴隷本人が買い取ることだって可能。
つまりは、成り上がることができるのだ。
(どっちにしろ、気持ち悪いが)
人が人を。
なんとも言えない心地だ。
それに、確かに買い取ることは可能ではあるものの、奴隷への使役がかなり酷いものが多い。見目が良ければそれ相応なことをさせられるし、体力あるならそれなりの場所を与えられる。単調作業が嫌で自ら命を捨てる奴隷もいるらしい。卑猥な行為が大嫌いで自ら主を殺して己も命を絶つ、凄まじい奴隷だっている。良さそうに見える免許制だが奴隷に人権がないのである。生死に対する奴隷主への責任がないのだ。つまりは殺すことも可能だ、ということ。ただし勝手に殺すのは駄目だという意味において免許という、どうでもいいような、取っ手付けたようなものが宛がわれている。
(あまりにも酷い扱いで亡くなったら、免許が奪われる。
だが、金を払って国におさめればまた手に入れられる)
主次第の奴隷制。
そして、奴隷は高く売り買いできる。生死を問わないやり方は、誰もが奴隷を疎い、奴隷になるのだけはやめたほうがいいと皆が心底願う。そも、奴隷は犯罪者がおとされる場所でもあった。
この男爵家にも奴隷はいる。
ひとりだけ。彼女はミランダ。娼館で働かされていたらしい。そして、あまりにも酷い扱いをされたがゆえに……まあ、女性として必要な機能がなくなってしまったのだ。
茫然自失、あと少しで奴隷の身分ではなくなるといった時であった。自分で自分の身分を買う。なんとも真面目な奴隷であったらしい。
高級とりではなくなったミランダ曰く、
「冤罪」
であったらしいが。元々貴族の出で、婚約者もいた。
だが、家族の不祥事に巻き込まれた彼女、奴隷の身分に落とされ、見目の良さを使われた、ということだそうな。相手は誰でも。同年代の、かつての知り合いも客になったことがある、と、自嘲する。
「元婚約者も、相手になったことあるわ」
壮絶過ぎて言葉にならない。
彼女はただひたすらに同じ日々を送って、少しの希望を抱いていただけ。それなのに、もしかしたらどこぞの旦那に拾い上げられるかもしれないと、そして、子を抱くことができると諦めずに奴隷奉公をしていた。それなのに。
失ったものがあまりにも、大きすぎた。女の月のものさえも来なくなった絶望。
まったく動けなくなった彼女、娼館の主も匙を投げ売り払った。
そうして、やってきたのがこの男爵家というわけだ。
その頃にはもう、見知らぬ相手に肌を許さなくていいということに喜び、彼女はせっせとまた単調な洗濯メイドとして仕事をすることに、楽しんではいないが苦しんではいなかった。
二束三文で働き者の儲けものの奴隷が手に入ったわ、なんて。
男爵夫人はほくほくであった。
この家には、滅多に男爵夫人の夫は帰ってこない。激務であるらしい。
それでいて夫人と旦那さんは互いに愛人相手に忙しいという家でもあることから、そう滅多に奴隷に目を向けることはなかった。元娼婦のミランダにとって良い場所にとうとうたどり着いたようである。
「給金は少ないけれど。でも、ためていけば……、
私は自由になる」
まあ、自由になっても……、ここで洗濯し続けようかしらん。
そんなことを言い腐りながら、彼女はせっせと今日も奥様のドレスを綺麗にしていく。
すっかり洗濯メイドが板についてしまったようである。
前に見たときは、二十歳も前だった。見目の変わり映えのしない私に、ミランダはびっくりしすぎて意識を飛ばしそうになったものだが、私だって驚いた。
あんなに飛べば消えそうだった洗濯メイドが、娼館で働くほどの綺麗な顔だちだったミランダ、どんな男も手玉にとるという娼婦であったのに今じゃすっかりぼいんぼいんの太め体型になっていたのだから。
「リア、あんた本当、変わらないわね」
「そうかなあ」
「その分かってんだか分かってないようなトボケっぷりも、
十年前と変わらない。
……呆れたわ」
基本同じ場所に停留しない私だけれど。
この男爵家は昔と変わらず、歳だけとったようなものだったから私もついつい雇われに来てしまった。
この家は、貴族らしく見栄を張るし、ちゃんと使役する使用人たちのことをそれなりに扱う。
だからか、ついつい足が向いてしまうのだ。
奴隷に対しても、どちらかといえば優しい対応をとる。
私からしてみるとなんとも居心地の良いところだ。人使いは荒いが。