四話
翌朝。
「おはようございます」
爽やかな朝である。
不機嫌そうな天使は変わらずである。
天使はまた泣き始めた。泣きたいのはこっちのほうだ。
ぼろぼろと泣き始める天使のあまりの美々しい姿に、私は途方に暮れる。
毛布はとられてしまったし、私は小刻みに震えているのだ。
さすがにこの時期の朝は毛布がないと寒さが身に染みて仕方ない。
天使からの返事はなく、じっとうずくまってばかりである。
(どうしよう……)
静まった慟哭が再び開始されたので、しばらくそうしていることになった。
「う、うぅ、うう……」
呻きが、ずっと聞こえる。
ずっと。
私は、また頭のてっぺんあたりをかきつつ、これからの算段を考える。
(仕方ないか)
このままでは盗賊に見つかる。危ない目に遭いかねない。
すう、と。朝もやで肺をめいっぱいにして吸い込み、天使を説得することにした。
(本当は、見捨ててしまいたい。見なかったことにしたい)
でも、もしそうしてしまったら。
(私はまた、後悔するんだろうな……)
本当、見なければよかった。奴隷狩りなんて。
ちくちくとした痛みが胸の奥で突き刺さる。くそう。
「ね、ちょっと」
「う、う……」
「聞いてくれる?」
そっと、うつむいてた顔が持ち上がる。
やはり早朝でも、天使は天使の美貌であった。
まだらの黒い羽がばさりと動き、私の言葉に揺れて動いているように見受けられた。
涙が綺麗な宝石のように、しとどその白皙を濡らしている。
思わずまた見つめてしまった。あまりにも芸術的な顔であったのだから。
(勘弁して……)
心を奪われてばかりではお話にならない。
「ね、聞いてほしいことがあるのよ」
「……」
とりあえず、天使はわめくことはしなくなった。
これ幸いとして私は話を続けることにした。
「とにかくこの場を離れたい。
ここにいては、いけない。
また、あの盗賊たちが、やってくるかもしれない」
「……人間、あれは盗賊だというのか?」
天使は、ぽつり、と囁く。
「え?」
薄い唇が、艶めかしい。
「あれは……、人間の王だった。
わたしたちを……、統率された動きで、連れて行った……」
わたしは、あまりの衝撃で声すら出なかった。
「やはり、知らぬか」
「……そ、そりゃあ……ねぇ?」
天使はまるで自嘲するかのように、歪んだ顔をみせた。
「そうだ、そうやっていつも人間は……、
わたしたちを、連れ去っていく……。
勝手に……」
私は、乾いた頬を晒し私を見詰める天使の青い眼差しを、初めて怖いと思った。
見詰め続けること、どれぐらい経っただろうか。
やはり、私の危惧することは起きてしまったようだ。
……遠くから、人の歩く音がする。
それも、集団だ。
天使の肩がびくりとし、震えだした。
そうして亀のように身動きをしなくなる。元々白い顔がさらに青白くなっていく。
私は、さて。
どうすべきか。
機転を利かすなんてことができない私。
いつもなら見捨てる。こんな、厄介なもの。
じゃないと私は死んでしまう。
あるいは奴隷にされてしまう。このままではいけない。
誰も助けてはくれない世界である。
現実は厳しい。世界は優しくなんてない。
私はこの世界を慎重に歩いて、そのことを知った。
けど、けどね、
(このままじゃいけないことは、分かるよ)
死にたくはない。でも、私は、私の心はこのままでは死んでしまうだろう。
罪悪感に苛まれて。
(少しは、善人だったのかな……)
拷問されたら、速攻口を割れる自信はある。
私は弱虫だ。
でもこんなにも、震える命を見捨てることはできない。
私は毛布ごと、天使を頭からかぶせ立ち上がらせ。
耳元に囁く。
「逃げるよ」
天使が、私の顔を至近距離で覗き。
ひどく驚いている。
「逃げなきゃ。
じゃないと、あなたまで、あいつらに捕まる……。
いいの?
このまま捕まって。
助けたいんでしょ?
悔しいんでしょ?
ここにいたら、そのチャンスだって掴めない」
そうして返事を待たずして、無理やりに連れ出す。
「奴らのされるがままだよ、いいの!?」
天使の手をつかみ、肩を抱き、といっても私の身長的に届かなかったので羽ごと腰を抱き込み、前に前にと進む。というか、強く押し込む。もつれる天使の足。
(軽いな、でも、されるがままだ)
次に掴んでいた上半身を離して、腕を引っ張ることにした。恐ろしいほどに細長い二の腕である。
(まるで重労働なんてしたことがない、って筋肉だわ……)
天使はまごついているが、それでも、私の手を振り払おうともせずにいた。暖かな人肌。久しぶりに触れた気がする。
はぁ、はぁ、と、あがる息がうっとうしい。
だが仕方ない。逃げなければ、ひどい目に遭う。
しばらく走り続けた。
天使は死にかけの顔をしている。
まあ、ひどい目に遭ったばかり、という理由もあるが……。
(可哀想だけどね……)
家族を失う痛みは私だってよく知っている。
腰にまとった魔導書の揺れが収まった。
ようやく人を巻くことができたようだ。後ろを何度も振り返り、物音に耳を澄ます。
「ふぅ」
緑の丘から、さらに北上したところ。
地図を改めて、見直す。
天使は、私の足元で寝そべっている。
ひどく疲れているようである。
あんなに走ったわりに毛布を落とさずに抱え込み、民族衣装をも地面に汚している。
「……人間」
「ん?」
天使は座り直し、私を見上げてきた。
「なぜ、助けた」
「え? ああ……」
天使は私の心を見透かそうと、見詰め続けてくる。
(あの、毛穴広がるんですけど……)
こんな美貌の天使に見られるって、実にこそばゆい。
ごほん、と咳をして、
「まず、私が逃げたかったから」
「まず?」
「え、あ、うん」
「まず? とは?」
「えっ」
じーっと見てくる天使……。
いや、天使という生き物……。
私よりも背が高くて、軽い体重の謎天使。
私が持ち運べるほどの体重でしかない人の形をした美天使……。
キラキラしている金髪が眩しい……。
その青い眼差しから、思わず目を逸らす。
「ええと……逃げたかったからさ……」
「ならば、なぜわたしを連れて逃げた」
「ええと」
「わたしを……どうするつもりなのだ……」
そうして天使は、眉根を寄せて苦悶の表情を浮かべた。
(ああ、そうか……)
天使は不安に思っているようなのだ。
私は、広げていた地図を片手に持っておろし、座る天使と目線を合わせて答える。
つまりは、座った。天使の正面に。
「私はね、あなたをできる範囲で助けたいと思った。
確かに、捨てることだってできた。
なんか、ややこしいこと言ってたし……人間の、王、だっけ?」
こくり、と頷かれた。
「そう、私の立場からしてみれば人間に属するのだから、
正直、人間の権力者、
いわゆる、同族の権力者に喧嘩は売りたくはないわけ。
でも、あなたをあのままにしていたら、
なんというか、その……」
頭をぽりぽりかきつつ、答える。
「面倒そうだったし……。
助けたかった、のかもしれないね」
「人間……」
「私は、人間って名前じゃあないけどね、はは……」
「知っている」
深く、頷かれた。
いや、そりゃあ、知ってくれないと困るが……。
人間がみな、人間って名前じゃあないし。
「人間よ、お前は悪い人間ではなさそうだ。
わたしをあの人間どもに引き渡そうとはしなかった。
むしろ、助けようとさえ、した……。
わたしは、村という守りから放たれた神の迷い鳥……」
天使は、私の頬に手を伸ばしてきた。
白魚のような手だった。手の甲が、私の頬にかかる。
温かな、手。あの炎から逃げ延びた手だ。
天使の青い目から、ぷくりと涙が溢れ、流れ出てきた。
鼻をすすりながら、今度は私の両頬をおわんを持つようにして触れてくる所作。
それは、あまりに悲壮なものに思えた。
「わたしは、どうすればいい……、
わたしは……」
ぐすぐすと、せっかく乾いた頬が、また濡れすぼる。
天使の羽が、私のちいさな体を包み込むようにして、抱き込んでくる。
まるで、この天使に覆われているかのようだった。
黒い羽、まだらの白が見える、くすんだ羽……。
温かで、それでいて、哀しげな色の……。
悲壮な声と、私の頬を触れ続ける指の感触に、私はどうにも口をつぐむ。
(……精神、やられてしまったのかな、この天使は……)
あまりにも苦しげな様子であった。
そりゃあ、そうだ。
(あんな目に、遭ってしまったらね……、
誰だって、そうなる)
私は、天使にされるがままになっていたが私もまた、天使の頬に触れてやる。
すると、天使は目を細め、同じことを繰り返してきた。
私もまた、天使の頬をなぞり、想像していた以上の感触に驚く。
つるつるの、すべすべの肌。
(もしかしたら、そういった一族なのかもしれない。
だから、奴隷狩りに……)
人間の王、か。
統率された動き。
(人間はどこまでも貪欲というが、この世界でも……)
いや、むしろ、人権とかそういったものが声高に叫ぶことのできない、この世界のほうが……ある意味。
(厄介な)
けどこの天使は幸いにしてまだ、見つかっていない。
(それだけが、救い、か)
気づかれぬよう息を殺した。