十九話
予想していたよりも戦況は悪化の一途を辿った。
街並みを埋め尽くす馬車の群れ。見晴らしの良い窓辺から見渡す限り、あちこちのお屋敷から紋章入りの馬車が山盛りの家財を抱えて出馬している。
(さて、倍率はいくらか)
縦列渋滞である。北の国から、北へ。
「なんか、とんでもないことになってるし」
首都から先、行き止まりしかない訳で。
雪ばかりが降り積もるという、不毛の地。彼ら貴族はそこへ向かうつもりのようだ。疎開先としてはあまりにも寒そうだが、お隣のお屋敷も出ていくつもりのようだ、馬丁がどうどうと、鞭をしならせたり鼻を撫でていたりする。興奮状態の馬は戦時の空気を感じ取っていた。
「……負けるのかな?」
私の独り言に、ぴくりと耳を動かす猫耳。
私の懐にひょこりとその金髪頭を突き出し、背伸びをして窓枠に手をかけて一緒に見下ろしている。レンガの街並み。人の手入れがいずれなくなり、廃墟になるんだろうか。あんなにも人がいた街なのに。
「なんだい、ルキゼ」
「……争い?」
「まぁ……、」
仰ぎ見てくる金色の瞳に、私は言い淀んだ。
「そうだね。
……戦況はまず間違いなく勝利している、
なんて話だったのに、貴族が真っ先に逃げている」
一般庶民に流れる情報なんて、そんなものだ。
北の国は確かに武力があって強いらしいが、武勇を誇る国王の弟が行方不明、なんて。
「……リア。あたくしたちを守ってちょうだい」
「どうされましたか、奥様」
男爵家の奥様、なんとも深々としたため息をついて、葡萄酒の入ったワイングラスを煽った。はあ、と。嘆息めいたものさえ吐き出した。美しい化粧が少々、剥がれているように見受けられる。
「……奥様?」
それは珍しい光景だった。普段、貴族らしい振る舞いしかしない奥様が、真昼間から酒浸りである。
「まったく、とんでもないことよ、リア」
俯き、額に手を当てながら男爵家の奥様は喋り出す。
「あの公爵様が。
裏切ったのよ……、我々を」
「えっ」
「箝口令が敷かれているから、一般的には出回ってはいない。
けれど、ねぇ。さすがにもう、隠しようもない。
……ああ、まったく。こんなことになるのならば、賭けの相手を南の国にすれば良かったわ」
私の相槌が間に合わないうちに、また奥様は酒を呑む。
そんな様子を見守っていた長年奥様付きで、今日も猫耳にお菓子を与えて満足していたプロメイドが、ひそひそと私のほうへ近寄ってきて小声を。
「……リア。
なんでも、奥様、あの公爵様に多額のお金を……」
「え、」
「……それで、負けてしまったようで」
愛人候補に名乗り出ていたようだった。
(つまりはスポンサーか)
なんとも愛欲まみれたものだったらしいが、しかし、その賭けた相手がいなくなってしまってはどうにもならない。最前線に送られた公爵カッコイイ王族様の安否はようと知れず。軍備にでも費やされたのであろう、国王に楯突いた弟様のことである、大した予算はつかなさそうだった。それはそれはあらゆる手を使ったんだろう、その手にかすめ取られたのが我が男爵家の奥様であるというだけで。ちなみに、その男爵家の旦那様は早々に愛人館に引きこもってしまっているらしく、もしかしたら首都を捨てて出て行ってしまったのかもしれなかった。派手に喧嘩したのがこの前のことらしいから、もうこんな火の粉が上がりそうな館、奥様ごと切り捨てたのかもしれない。
(だけど、奥様のご実家もそれなりの成金……)
私の期待は失墜した。
「奥様のご実家、ここから遠いのよ、リア。
それも国境付近に近い。あの関所よ。
……便りをどれだけ送ったと思う?」
どうやら、かなりの確率でヤバいようだ。色々と。
男爵家は成金の貴族位である。
お金がなくなれば、もっといえば命が危険に障りあるとしたならば召使いは皆が皆、こぞってお暇していなくなるのが寸法である。
「お世話になりました……」
執事もいなくなった。居残ったのは事情がある者ばかりなり。たとえば私。留めるにはさすがに無理というものである、金がなければ義理もないんじゃしょうがない。がらん、とした男爵家。館の中は静まり返っていた。いつもは大して気にもしない調度品の数々がかえって不気味だ。肖像画とか特に。太陽の光に照らされて埃が舞うなんて、以前の男爵家ならば信じられない凋落ぶりだ。
奥様のイライラっぷりは近づきたくないほどのものであったが、人口密度が少なくなったこの区画、貴族たちばかりが住んでいる地帯である。すなわち、まさしくがらんどう、な訳で。どこかしこから何か、誰かが持ち運びをする物音がした。夜中なんて特に。一応、貴族のお屋敷を護衛する者らも居残ってはいるが、大した数は置かれておらず。多勢にはさっさと逃げ去り、貴族たちが持ち運びを断念した残りの金目のものを奪い、ガラスを思いっきり叩き割る破壊音があちこちのお屋敷から木霊して男爵家のほうにも飛びこんでくる。そのたびに私は奥様に呼ばれ、
「リア、あなたはわたくしに前借したのよね。
約束はきちんと果たしなさい」
目の下にくまが出来ている妙齢の女性のために、頷くばかりである。
そういう時、ルキゼがやってきて私の耳元で囁く。
「ねぇ、逃げなくていいの?」
「何で?」
「ボクたちなら、ううん、ボクなら……、
あなたを担いで逃げられるよ。ボクの足は誰にも負けない足だから」
「なら、ルキゼ、あんただけ逃げたらいいじゃないの。
私は咎めはしないよ」
夜警をするための門番として、玄関付近に据え付けられたソファで寛いでいるとこの問答を猫耳とすることがある。そのたびに、この奴隷少年は首元にあるブカブカな赤い首輪を主張しながら、
「ボクは奴隷だから」
ふんぞり返って私の足元でゴロゴロと寝転がる。
ぱち、と目が醒める。
どうやら夜半も過ぎらしい。雨音がしたはずなのに、消えた気がした。
(なんだろう……)
私は違和感を覚えた。そして、ぱちぱち、と。何か聞き覚えのあるような、それでいてぞっとする音を耳にしてソファから立ち上がる。
と、側にいたはずの猫耳ルキゼがいないことに気付く。
――――まあいい。
あれはあれで、獣耳だ。それも、とんでもない身体能力を持つ、別の大陸の種族だ。大図書館での調べた事柄が脳裏をよぎる。あちらの大陸では人ならぬ人によって支配されている所であり、彼らはすべからく人間より秀でた力を持ちあわせていた。ほんの少しの傷でも気にもせず戦いに埋没できる、実力主義社会でもある、と。人間たちがいたはずだが、何故彼らがいなくなったのかといえば、逃げ出したのではないか、という記述のある本があった。いや、本というか。誰かのメモ書きであったが。
私の指で調べた本の隙間に挟まれていた箇条書きの羅列。それらは私の能力に引っかかり、なるほど、と私は納得がいった。誰のメモ書きかは不明だが、そのようなことを考える人間がいるのかと感心するばかりであった。
(人間の背後をあんなに素早くとれるんだもの、人間を支配してしまうのも納得)
全員が魔術書を操ることができれば話は別だろうが、残念ともいうべきか、僅かであった。私よりも派手な魔法を使う魔法使いもいたし、魔法使いは一人いれば百人力だろうが、それでも絶対数が。
(さてそんなことよりも、今は)
匂いの元を辿った。
廊下を走る。僅かにいる使用人たちは未だ異変に気付かず、深夜なので眠りこけている。ボヤならばまだしも、これが意図的なら。私は早めに対策を打たねばと、しかし、頭の中でぐるぐると巡るのは、この館の外で待ち構えているであろう輩どものことだ。彼らは燻し出すために、このようなことを仕出かしたのかもしれない。
果たして、そこは食事を作るためのうらぶれたキッチンだった。私は慌てて抱え込んでいた魔法を使い、ぼうぼうと燃えるそれを揉み消す。しかし、間に合わなかったようだ、バタバタと走り回る人の足音が、男爵家のあちこちから聞こえた。使用人、の逃げる音、のようなものと、不遜な物音。
そして、私の前にも。