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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

コルヒドラ

作者: 銀ねも

一度は書いてみたい、天使もので短編に挑戦です!

念のために、BLタグを入れてみたのですが……天使って、性別はあるのでしょうか?



***



『ひとの霊性を高みへと導くべく、その身を捧げよ』


私は、光に満ちた天上の玉座を仰いだ。眩さが目に沁みる。

遥か高みに君臨し世界を俯瞰する姿。この目の光すら奪われかねない、鮮烈な輝き。

それらを奇跡の神聖だと崇め奉り、ひたすら焦がれた時間が、私にも確かに存在した。


「肯った。最善を尽くそう。……驚いているとも。随分と、急なお話だ。だからと言って、あなたの頼みは断れない」


彼の願いを叶え、憂いを晴らすことに、無情の悦びを感じていた時間も、確かに存在した。

私と言う存在は、彼の落とした溜息のひとつであるのだから、それも然もありなん。


ところが、だ。無知の幸福は、とうに私の胸から逃げ出してしまった。


「実を言うと、私もそう言う手筈で予定を組んでいたところだ。あなたに乞われるまでも無い。あなたの飼い犬で終わるつもりは無いのだよ」


最後の一歩を躊躇って居たことは、否定しないがね。しかし、彼に背を押されなくても、いずれ私は自ら堕天の道を選んだだろう。私は、不自由に気付く程度の、自由な意思は持っているのだから。彼の彼による彼の為の箱庭は、私には窮屈だった。


「なに、そう悪くない。天使長の御役目を拝任して以来、立て続く沙汰に忙殺されて、自由が無かったからね。あなたに頂いた六対の羽を、ようやく、心ゆくまで伸ばせそうだ」


それに、私が天使長の任に就いたことを、手放しで喜んでいたあの子が、どんな顔をするのか興味がある。あの子は、いつもいつまでも、溢れんばかりの幸福に満たされた安らかな微笑みしか見せない。


私の堕天は、恐らく清廉潔白なあの子に翳りを落とす筈だ。思い浮かべるだけで、暗い愉悦がこみあげてくる。嗚呼、歪んでいるのは百も承知、二百も合点だ。


私が慈しみ、愛したあの子は、あんなにも美しい。その功労者となれたこと。それだけで喜べたなら、あの笑顔と共にある道を選ぶことが出来たかもしれない。


……今となっては、無意味な仮定でしかないがな。


「これからは楽が出来るし、公公然とあなたの悪口を言える。私は自由だ。今度こそ、ね」


自由。私が私である為に、失ってはならないもの。自由を彼に献上してしまえば、己が奴隷だと認めることになる。私が私であることを放棄することになる。


地の底に堕ちても、奴隷に堕ちるよりは、ずっと良い。


「……わけは聞かない。それは、あなたから知らされることでは無いだろう。知ったところで、何が如何なるわけでもあるまい。そうだな……今まで、真面目にせっせとお仕えしてきた、ご褒美だと受け取っておこう」


彼の思惑が言霊となる時、それはつまり、確約された未来になる。彼は、なににも惑わされない。完全無欠の魂だ。庇護を必要とせず、抑圧されることがない。彼は自由だ。その点において、この世界の何よりも、気高い魂なのだ。


彼の心の風向き、これ即ち世界の絶対律。それに即して世界は流れる。ここは彼の箱庭。


「それにしても、この私を簒奪者に御推挙くださるとはね。ひょっとすると、私を見縊っておいでではないか? だとしたら、痛い目に合うかもしれない。あなたが真っ白にお造りになった外見とは裏腹に、この腹の内は真っ黒なんだ」


箱庭には、自由と引き換えに恒久の護りがある。彼の為に存在する限り、ここでの安定が約束される。


私は彼の在り方に疑問を持った。その時から、私は既に、彼の庇護下にあるこどもではなく、奴隷でもない。

であるから、彼の描く未来図など、拘束にはならない。私を突き動かすのは、私自身の意思のみ。


「……私の事なら何でもお見通し、か。なるほど、言えている」


それを言われると、ぐうの音も出ない。彼は全知全能。私が語らずとも、私の心の内など、手にとる様に分かって当然だ。


私は挑む前に、敗北を知っている。予感は確信で、約束された未来だ。私は、戦わずして敗北の味を知っている。


私は、己の意地を張りとおす為に剣をとり、負ける為に剣をふるうのだ。


敗北を喫すると知っていても、刃を彼に向けることに意味がある。熱に浮かされた心は、留まることを知らない。


あの子が、彼に心酔しきっているのと同じなのだろう。あの子は彼の箱庭を守ること、私は彼に嵌められた枠に罅を入れること。それぞれ、夢中になっている。


「……ああ、そうだ。兄として一応、これくらいは確認しておこうかな。あの子はどうなる?」


私とあの子は、始まり。天使という習作の中の、また習作。元は一つの存在。


あの子は、彼にとって掛け替えの無い宝。純粋無雑な至高の宝玉。

これからも幸福な夢の中でまどろみ続けるあの子を、彼は手放さないだろう。


「……好きにするがよろしい。お義理で問い掛けただけ、興味は無いんでね。そろそろ御免被る」


そして、あの子は決して彼の掌から踏みださない。彼に喜悦と充足を与える為に在り続けるのだろう。あの子は世界中のだれよりも、世界を愛している。つまるところ、彼を愛しているのだ。


あの子は私に無いものを携え、私はあの子に無いものを携えている。私には出来ないことがあの子には出来て、あの子には出来ないことが私には出来る。


あの子は人間を愛することが出来て、私は彼から離れることが出来る。私とあの子は、ひとつのものをふたつに切り分けた、不完全な存在。


「……なんだい、お礼だって? 水臭いことを言うのはよしてくれ、あなたと私の仲じゃないか」


私は、操り糸を疎む傀儡。彼と私は、傀儡師と傀儡。創造主と創造物。主人と奴隷。彼の愛する人間の為に、踊ることが存在価値。彼と私が交わす言葉は、命令と承諾の返事で十分だった。私はそれで良いと満足出来なかった。


「ああ、聞くとも。そろそろお暇したいからね」


彼から与えられるもの。おしみなく、万物に等しく注がれる愛、祝福、加護、言葉、支配。


彼が己の似姿たる人間を創造して以来、人間に重きが置かれるようになった。彼が人間に傾倒すればするほどに、温もりを失った気がした。


喪失感を得た時には、引き返すことが出来ないとわかっていた。そして、彼の望みがこの先にあるのだと言う事も。


「……それは、それは。どうもありがとう。」


私の心の漣さえ、彼が、そうであるように、お造りになったものだ。

だから、彼の最後の言葉は、私の胸を痛めようと放たれた矢だった。


『我が子ルシフェルに、愛と祝福を』


ぐさっと来た。わかってはいたが、何もかも彼のものだ。私には何一つ自由になっていないと思い知らされた。


私は、彼が人間に寵愛を与えることに苛立った。否を言うことすら許されない不自由が歯がゆかった。彼が、積み上げられた犠牲の上に立ち、高みに在るのだと知り、怒りがこみ上げた。


この胸の痛みすら己のものではない、お仕着せだと言うことが、耐えがたかった。


「……最後のたむけの花が、虚ろな戯言とは、洒落が利いている。私からは、この言葉を立向けよう。近い将来、人の子が生み出す言葉だ。……『神に欠けているのは、罪の自覚である』」


彼が微笑む。自らが立向けた言葉を合図に、底しれぬ暗い穴に陥る感覚。


ああ、全てを捨て去る事すら、あなたに定められていたのか!




***




神様がおわす天の国に、神様がおつくりになった、双子がおりました。ルシフェルとミカエルです。


神様は、双子をとても愛していらっしゃいますから、双子に特別な贈り物をなさいました。


ルシフェルには、この世界で最も輝く力を授けられました。どんなに遠くにいってしまっても、寂しくありません。

ミカエルには、神様とそっくりの力を、授けられました。いつまでも、神様にお仕えできます。


神様は双子のことを、それはそれは愛していらっしゃいました。幸福の国で、双子は神様の愛を受けて、素晴らしい天使になりました。


ルシフェルは素晴らしい天使でしたが、神様を嫌っていました。力と知恵をもっていましたから、神様より自分の方が素晴らしいと思いあがってしまったのです。


ミカエルは素晴らしい天使ですが、兄の後ろを歩きます。ミカエルはとても優しい心の持ち主でしたから、自分よりも兄が、愛される天使であって欲しいと、願っていたのです。


ある日、ルシフェルがミカエルを誘いました。それは、とても恐ろしい誘いです。ルシフェルは天使たちを唆し、古き神々と一緒になって、神様に歯向かおうと誘ったのです。


ミカエルは、とてもとても、驚きました。しかし、すぐにはっとなって、兄をたしなめます。


「いけません、そんな恐ろしいこと」


ミカエルは、過ちを犯そうとする兄を、誠実に説得します。


「愛しています、ルシフェル。私はこの世界の、全てが愛しいのです。傷つけたくありません」

「お前の言う世界は、古の神々を背馳した世界なのか」

「いいえ、ルシフェル。彼らもまた世界の一部。彼らは、世界の安定の犠牲になりました。彼らの辛さが分かる等と、軽々しくは言えません。私は彼らを知りません。知ろうともしませんでした。あなたの話を聞いて、わかったつもりで居ただけで」

「わかるさ。彼らの友となれば」

「ええ、良き友人になりたいと願っています。しかし、それは戦友ではないのです」


ミカエルはとても優しい天使ですから、古きものどもを哀れんでいました。


「我々は、尊い犠牲を払ってしまいました。だからこそ、混沌の夜明け、訪れた安寧は尊いのです。再び世界を混沌に還す事は、古の神々の被った悲しみを、灰燼に帰すこと。それで良いのですか?」

「知ったような口を利くものだな。お前は目昏の狗だ。あの男の所業を、御業とあがめたてまつり、疑う事すらしない」

「おやめください! あの男だなどと、付き離した呼び方! あの方は、世界の父祖。何より、私たちを生んでくれた、お父さまなのですよ!」

「お前は幸せ者だな。私はね、あの男を父親だと思った事は、一度たりとも無いんだよ」


ルシフェルはとうとう、神様を罵ってしまいました。神様の愛を忘れてしまったかのようです。それでもミカエルは諦めず、真心を尽くして兄に語りかけます。


「何が、あなたにそれを言わせるの? それは、あなたを孤独にする言葉。あなたの心を蝕む毒になる言葉です。ルシフェル、私はあなたの片割れ。あなたの力になりたいのです。心を解き放ってはください。本心を曝し、いつの間にか生じてしまった歪みを、二人で元に戻しましょう」

「やれやれ、強情な子だ。容易く肯を言うまいと想定しては居たが、まったく聞く耳すら持たないとは」


ミカエルの言葉に、ルシフェルはちっとも耳を傾けませんでした。白銀に輝く地平線の向こうを、怖い目で睨みつけて言いました。


「時間は有限だ。刻限は、刻一刻と迫りくる。お前と愉しいお喋りをしていられるのも、残り僅かなようだ」


ルシフェルは白い手を差し伸べて、ミカエルを誘います。


「共に戦え、ミカエル」


ミカエルはルシフェルの掌を見つめて、とても悲しくなりました。愛しいかたわれの心が、遠く離れてしまったからです。


「時は問題ではありません。砂のように流れる時が、この身を砂に還す時まで待ったとしても、私の答えは変わらないでしょう」


ミカエルは悲しみに打ちひしがれながら、それでもはっきりと、正しく、拒絶したのでした。


「分かってください、ルシフェル」

「よくわかったよ、ミカエル」


ルシフェルは、すんなりと頷きました。しかし、わかってくれたのでは、ありませんでした。ルシフェルは既に、とても恐ろしいものになり果てていたのです。


ルシフェルは銀色に輝く翼から、羽を一枚、毟り取りました。それは神様がくださった、とても綺麗な羽です。

神様の御加護がいっぱいに詰まったその羽は、ルシフェルの手のなかで、たちまち、大きな剣に変わりました。剣はルシフェルの目と、同じ輝きを放ちます。


ミカエルは、信じることが出来ませんでした。愛しい兄が、ミカエルの胸を刺し貫き、縫いとめてしまったことを。


「お前には時間が必要だと言う事がな。誰に入れ智慧をされる事もなく。じっくりと、一人で考える時間が」


ルシフェルは、冷たい声で言い放ちます。動けないミカエルに背を向けて、翼で大気を打ちました。


「そこで待っておいで。全てを終えたら……むかえに来る」

「そんな……いけません! 待って、ルシフェル! 行ってはいけない……行かないで、兄さん!」


ミカエルは、必死になって手を伸ばします。しかし、その手がルシフェルに届くことはありませんでした。


ミカエルは、大切に思っていた兄に裏切られてしまったのです。


しかしミカエルはルシフェルを恨みませんでした。兄をとめられなかった無力な自分を、酷く責めました。


善良なミカエルの慟哭を、風の精が神様に届けてくれました。神様は、ミカエルを縫いとめた剣を消して、ミカエルを御救いくださりました。自由になってミカエルは、神様から、なにがおこってしまったのか、すっかりききました。


ルシフェルは、心根の卑しいものどもを率いて、神様に戦いを挑んでしまったのです。善き天使たちは、神様の忠実なる僕として、立派に戦っています。しかし、ルシフェルは強く、天使たちはちからつき、地に落ちて行くというのです。


ミカエルは、決めなければなりません。それは優しい心を、ずたずたに切り裂いてしまう決断でした。


ミカエルは、ルシフェルをとめることを決めました。


神様は、ミカエルの勇敢な決意にお心をうたれました。


ですから、宝物庫におさめられた、秘宝を授けて下さったのです。鞘より抜かれし剣と、セフィロートの盾を、ミカエルに授けて下さりました。


こうして、優しいミカエルは、天使たちを率いてルシフェルと戦うことになったのです。


善と悪。それぞれの、将となった双子は、死力を尽くして戦いました。そして、ついに、一騎討ちが始まったのです。


戦いは熾烈を極めました。世界が二つに裂けてしまうほど、凄まじい戦いです。


ルシフェルを傷つけてしまうと思うと、ミカエルの心はザクロのように張裂けてしまいそうです。それでも、愛する世界が無残に壊されて行くのを、指をくわえて見ているわけにはいきません。


恐ろしい簒奪者となってしまったルシフェルに向かって、ミカエルは別れを告げました。


「ルシフェル、私はあなたを止めなければならない。あなたを……殺める事になったとしても」


裂け目から、世界がどくどくと血を流しています。血の海を背負ったルシフェルの視線の先には、ミカエルが青ざめた空を背負っていました。




***


血を流す大地、青ざめた空。噎せ返る様な血の香りに咽ぶことなく、ルシフェルは笑っていた。


ルシフェルは、天使達の中でも卓抜した才気の持ち主だった。

常に涼しげな微笑を湛え、眼をこらしていてもいつの間にか形を変え、眼をはなしたすきに流れていく。浮き雲の如き存在だった。


ルシフェルの在り方は、「自由」と呼ばれるものに良く似ていた。神が人間に授け、天使には許さなかったものだ。天使たちにとって十二分に憧憬の対象となり得た。


しかしその「自由」の側面は、厭世的で退廃的な匂いを漂わせる危うさだった。皆が眼を潤ませこぞって神を讃えても、ルシフェルだけは冷めた目で遠巻きに眺めていた。崇め奉られる神と平服する天使達を、辛辣に皮肉ることすらあった。


「自由」な意思は「自意識」となり、肥大した成れの果ては「傲慢」だった。


翼を授かった雛鳥が、空へ飛び立つように。ルシフェルは神に挑んだ。


いくつもの命が散っていく。光と祝福に溢れた天界には、血と断末魔が満ちていた。




「お前は、つくづく私の言う事をきかないな。なかんずく、私の言いつけは撥ねつける」


ルシフェルが零した遠慮の無い失笑。侮り、嘲りに見せかけだけはよく似せて居たが、錆びた微笑の翳り、落胆と苛立ちの色は隠しようも無い。暖かく円やかで柔らかな愛に囲まれ、幸福に頭の先まで浸かっていた私には、歪なその感情の正体がわかる筈もない。


指先が氷のように冷え切るほど、父なる神より授かった宝剣の柄を握り締める。神と天使たちの寵愛を受けた私の瞳は、ルシフェルの鋭い頬を歪める微笑を、得体の知れないものとして映した。


ルシフェルは、特有の謎めいた微笑を唇に刷いている。それだけは、いつもと変らない。


ルシフェルは、私を翻弄する遊びを気に入っていたが、今でさえいつもの遊びの延長線上だと言わんばかりに、独特の自然体を崩さない。


ルシフェルを前にして、私の脳裏にはいくつもの「もしも」が行き来く。


いつものように、冗談だったら。朗らかに笑ってくれたなら。全て嘘なら。いつものように笑って許すことが出来たなら。


唇にだけ微笑を乗せたルシフェルの双眸は、私を射るように凝視している。畏れから血の気が引き青ざめた肌の肌理、不安から揺れる瞳の虹彩まで、余す事なく拾い上げ叶う事なら奪おうとするかのようだ。その視線に覚えた既視感が形になるより先に打ち消したのは、私にも薄々わかってしまったからだった。私が幸せだと信じていた頃からずっと、ルシフェルはそうでは無かったのだと。


ルシフェルが滑らかな挙措で右腕を持ち上げる。白魚のような繊手が指し示すのは、私が縋るように握りしめる「鞘より抜かれし剣」だった。


「結構な玩具を持ってるじゃないか。しかし、ぶら提げているだけでは、台無しだ。鞘より抜かれし剣の名が泣くぞ?」


ルシフェルは亀裂がひろがるように、微笑の度合いを深めた。亀裂より覗く深淵は、禁忌が故に甘い蜜の匂いがした。


「神具と言えど、剣の名を戴く限り、所詮は唯の肉斬り包丁に過ぎん。肉を切裂き骨を叩き割り、断末魔の悲鳴と血飛沫を上げさせるための道具だ。それを手にしたお前がするべき事は、ひとつしかないだろう」


ルシフェルが月光で折りあげたかのような翼から一枚の羽を毟り取る。羽はたちまち露散る氷の刃と化す。体を極めようとした私の意思に反して、その体は戦慄き仰け反った。


この身に宿る温もりの全てを奪わんとする冷たい刃に貫かれた記憶は、心の隅に仕舞い込めるほど冷めてはいない。ルシフェルの灼熱の眼差しのように、熱を持ったままだ。


ルシフェルは、私の怯えを目ざとく気取った。凍てつく炎を宿した瞳が、強張る身体の指先から爪先まで熱心に舐めまわす。


「嗚呼、ミカエル。愛しき我が片割れ。お前の肉の手応えは如何様か、血潮の温度は如何様か? 教えておくれ。卑しき叛徒に、その無窮の慈悲の心で」

「ルシフェル……君父を弑逆する程の狂気が、あなたを蝕んでいたとは……」


悦に言った声が耳殻を撫で耳孔に滑り込む。氷塊をねじ込まれたかのようだ。幻痛に苛まれながらも、私は木枯らしのように掠れた声を絞り出す。ルシフェルは、仮借なくせせら笑った。


「なんだ、そのざまは。生まれたての小鹿のように可愛らしい。そんなざまで、私の相手が務まるのかな?」


あからさまな嘲笑に、侮られていると痛感する。慌てて、眼筋に力を入れ屹度ルシフェルの眼差しを迎えうつ。


両者の視線は鍔競り合いどころか、瞬時の拮抗すらしなかった。青い深淵に引き摺りこまれる錯覚に恐怖した私が、眼を逸らしてしまったからだ。


ルシフェルの含笑が耳殻に吹きこまれたかのように、息遣いすら感じる程に生々しい。私は、震えることすら出来なかった。


花咲く為に蕾はあり、綻ばない蕾はない。真心をこめて働きかければ、頑なに閉ざされた心も開かれる。私はそう信じていた。なんの閊えもなく信じられた。今も信じたかった。


それが出来なくなってしまったから、私は剣をとらざるをえなかった。望まざる行為に伴う覚悟など、薄氷より尚脆かった。尊い生命を刈り取る刃の重さに押し潰されそうになる。


項垂れるしかない。その頭顱に、ルシフェルの冷ややかな言葉が浴びせかけられる。


「何と言う様だ、ミカエル。お前も所詮は、奴隷に過ぎないのだな」


私はこの言葉の真意を図れずに、当惑する。答えを求める私の幼稚な甘えを一笑に付して、ルシフェルは言い放った。


「奴隷はただ従うのみだ。私は違う。私は選択する。己の行方は己で選ぶ。私には「自意識」がある。私は奴隷ではない」


ルシフェルの言の葉は狂気に塗れている。神の愛を拒絶したルシフェルは、絶望と堕落を体現していた。けれど、祝福を喪失し眩い輝きを失い破滅へひた走っても尚、悲壮感や惨めさとは無縁であった。狂気はルシフェルの確固たる意志と結びつき、ある種の神聖を帯びて皆を惹きつけていた。


ルシフェルは、剣の切っ先を立ちつくす私に突き付けた。燃える双眸と同じく僅かな揺らぎもない切っ先が、私の喉笛を食いちぎろうと狙っている。


「哀れな奴隷に命じてやろう。分際を弁えぬ反逆者に情けをかけてやる事はない」


古の神々と裏切りものたちの、ルシフェルを讃える高唱が轟く。戦く神軍のどよめきが漣のように広がった。


ルシフェルは、素早く調息する。せり上がる溜飲を堪えるような苦悶は、瞬時のうちに狂気に融け込んだ。


『やれ、ミカエル!』


ルシフェルの声に、異なる声が重なった。彼らの命令が雷となり、私をうつ。糸に絡め取られた傀儡も同然に、訳も分からぬ儘、剣を振り上げた。






鞘より抜かれし剣がルシフェルの胸を貫いた。ルシフェルは、最後に私へと、手を伸ばした。戦の前に誘ったように。


「おいで」


ルシフェルは私の迷いを見透かしていた。ルシフェルは私を誘う。共に堕ちようと。そう告げたルシフェルの瞳は、晴れ渡った空の如く、青く澄みきっていた。私との死闘が一陣の風となり、彼の心にたなびき目隠しになっていた雲煙を晴らしていた。そこに初めて、愛を見出せた。


一度目の誘いを拒絶したのは、ルシフェルを悔い改めさせ、決意を翻させる為だった。拒絶の先に、希望の兆しが見えていた。


しかし二度目の誘いに対する拒絶は即ち、ひとつとして生まれて来た片割れとの鎮永久の別れを意味する。拒絶の先には何も……否。先なんて、見たくは無かった。


神の御心に背き、天使達を傷つけ、世界を蹂躙したルシフェルの末路は決定されている。

ところが、ひとつきりの道を前に私は竦んだ。


神に反旗を翻した天使長ルシフェルが望むは至尊の椅子。簒奪の為の叛乱。


けれども、彼の野望を阻んだ私にルシフェルが手向けたのは、怨嗟ではなく執着だった。


私は思い知った。ルシフェルは、ただただミカエルを、私だけを求めている。彼を焼く野望も怨嗟も、私の存在と天秤にかければ、虚しく軽きに傾くのだと。


私は全てのものを愛し、全てに愛されてきた。愛とは均等に分け与えるべきものだと教わって来た。


もてる愛の全てを注がれる。それは私にとって胸を貫かれる以上の衝撃を伴い、胸を焦がした。


天使も古の神たちも、父なる神さえも、ルシフェルの瞳に映る事は叶わない。彼は私だけを渇望している。


ルシフェルの愛は甘美なる束縛となり、私を雁字搦めにする。私は、ルシフェルの手を払えなかった。


「ルシフェル……」


私は呟いた。焦点を失った瞳にルシフェルだけを映して、上言のように。


己にのみ注がれる愛。愛ゆえの執着が酩酊させる。全てに愛を振りまくことこそ美徳と教えられてきた私は、狂おしく求められる愛に惑った。刹那の恍惚が、私を妖しく手招いている。


もしも、父なる神の裁きの炎がルシフェルを堕とさなかったなら、私はルシフェルと共に奈落へと至っていたのだろうか。「もしも」の仮定を思い巡らせるのは、ルシフェルが翼を焼かれ地に堕ちた後だ。


「さようなら、ミカエル。地獄の底から幾久しく、幸多かれと祈っているよ」


最期にそう告げたルシフェルは諦念の微笑を浮べていた。白々とした炎に包まれた瞳を覆ったのは、暗雲の如き絶望だった。拒絶された思いこんだまま、ルシフェルは堕ちていった。


私に捧げられる喝采。世界中が私の勝利を寿いている。愛すべき世界の祝福の花弁が、私の心を虚しく上滑りして柔らかい場所に突き刺さる棘になる。


「私じゃない、私じゃない!」


私の発語は、ルシフェルが穿ち堕ちて行った大穴まで届く事は無かった。

私を讃える賛辞が、掻き消していたのだ。



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