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花子の視線が深夜に突き刺さる。疑念の目だ。
「あー……何だ、その、初恋…は、こいつなんだ」
「ふふ、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
亜紀は穏やかに笑っている。その姿はかえって不気味でもあった。それを花子は少し警戒した目で見ているが、それもお構いなしだ。まるで花子の存在を認識していないように。亜紀と深夜、二人の世界を半強制的に作り出そうとしているかのように。
「ど、どうしたんだよ、突然」
「ふふ、あのね、たまたま花神楽に来たから、会いに来たの。霧がここにいるっていうのは知ってたから。本当はあの事件のすぐに行きたかったんだけど、こんなに時間がかかっちゃったわ。ごめんね」
「あの、事件…」
「霧がひどい目に遭った、あの事件よ。アレですべて失ってしまったのよね? でももう大丈夫、私ともう一度作り直しましょう」
「は?」
「愛も温もりも、私とならきっと取り戻せるわ。一緒に暮らしましょう? 家もちゃんと用意してあるの。霧なら和樹ともきっと仲良くなれるわ」
「ちょ、ちょっと待て、和樹って」
「私の息子。あなたの子みたいなものよ」
「そんな! いつ!?」
「今十歳なの。可愛い年頃よ。今日は連れて来れなかったけど、次は絶対連れてくるから」
「待て、それじゃあ俺の子ってありえねぇじゃねぇか」
「血のつながりなんて関係ないわ。そもそも和樹は誰の子だか分からないもの。だったら血のつながりがなくても、ちゃんとした父親がいた方がいいでしょう?」
「なんだって…?」
「何? それとも今霧には私のほかにいい人がいるのかしら? それはいいことだけど、私以上に霧を支えてくれる人なのかしら? 私より霧を支えて、包み込んであげられる人がいるのかしら?」
「お前」
鋭い、ヒールが打ち付けられる音で言葉が止まった。花子が吸っていたタバコを落とし思い切り踏みつけたのだ。その顔からは表情が消えていた。
「申し訳ありませんが、学校の前ですので、そういった下世話な話はご遠慮願えませんか。生徒たちに悪い影響があるといけません」
「あなたは?」
「花神楽高校校長、リリアン・マクニールです。ちなみにこの深夜はここで養護教諭をしている私の部下です。部下を困らせないでいただきたい。深夜、お前も嫌なら嫌とはっきり言ったらどうだ」
「花子…」
「深夜も予定が詰まっているようですし、今日のところはお引取りください」
「あなたはただの上司でしょう? どうしてプライベートに干渉してくるの?」
「っ、津幡!」
深夜が声を荒げた。亜紀がぴたりと止まり、深夜を見る。
「俺と、この人…俺は訳あって花子って呼んでるけど…俺と花子は、ただの上司と部下じゃ、ない」
「…………………」
「お前とよりを戻す気はないし、ましてやお前の言うとおりにする気なんてまったくない。…すまんが、帰ってくれないか」
亜紀は深夜と花子を交互に見ていたが、やがてふらふらと深夜に近付くと、深夜に寄りかかった。力いっぱい服を掴んでいる。
「…どうして? あんなに愛してくれたじゃない…私あれからたくさんの男と一緒になったけど、霧といた時間が一番幸せだったのよ…? 霧も幸せだって言ってくれたじゃない…あの日、一夜を過ごして、愛を交し合ったのに、お互いに幸せの頂点までいったっていうのに、あれは嘘だったって言うの!?」
「!?」
「津幡っ!!」
深夜は振り向いた。遅かった。花子は恐れ慄いた表情で深夜を見ていた。その瞳にははっきりと、軽蔑の色があった。花子はくるりと踵を返すと、学校の中に早足で入っていってしまった。
「花子!!」
深夜は亜紀を振りほどくと花子を追いかけた。亜紀が何か言っているが聞こえない。
「花子! 悪かった! あいつとはあれ以来何もないんだ! 今まで音沙汰もなかったのに何で今になって…」
花子の腕を掴む。
女性とは思えない力で振りほどかれ、同時に乾いた音と頬に衝撃が走った。
花子は、涙ぐんでいた。
平手で打たれた衝撃と、その悲痛な表情に茫然自失としているうちに、花子は校舎の中に姿を消した。