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隆弘は深夜の方を向いたリリアンの横をすれ違うように通り過ぎ、深夜に近付くと、軽く拳を肩にぶつけて、そのまま去っていった。
残された二人はしばしその場で立ち尽くしたまま、見つめ合っていた。もっとも、深夜は相当走り回ったらしく、疲労困憊して動こうにも動けない様子だが。まだ息を整えようとしている段階だった。
「ふ、深夜………病院は…」
「……キャンセル、してきた…それ、どこじゃねぇよ…」
ようやく落ち着いてきた深夜がゆっくりとリリアンに歩み寄った。
「…すまん、あんなとこ見せちまって。でも、完全に誤解なんだ…津幡とは本当に何もないんだ。付き合ってたのは高校時代で、あいつが言ってたのはそのときの一回っきりのときだ。そのときは…あー…なんつーか…ちゃんと、対策した、し、それに、今十歳の子供がいるってことは、産んだのは少なくとも高校卒業して七、八年経ってからだ。子供できるのにさすがにそんなに時間はかからない。俺が父親なのはありえない。…それに!」
深夜は未だ黙ったままのリリアンにさらに一歩近付いた。
「いくら津幡が言い寄ってきたって、俺はお前のことしか頭にない! …お前が一番好きだ。…お前には幸せになってもらいたいんだ。だから、だからこそ……」
深夜は俯いてしまった。心中ではすさまじい葛藤が繰り広げられていた。亜紀との一件で、深夜はリリアン…花子への想いを再確認することができた。だから、離れるという決断は、自分が一番苦しいのだ。花子との時間が人生で一番幸せだったと、心から思うからこそ。気が付けば、目には涙が滲んでいた。
「もう…決めたはずのにな……まだまだ一緒にいたいと思っちまう。ホントに、いるだけでいいんだ。お前が隣に、いるだけで」
「深夜……」
深夜はそっと花子の手を取った。白く、形の良い指にそっと触れる。先ほどまでの隆弘のような力強さはないが、本当に大切なものに触れるような、繊細で優しいものだった。
いつでも振りほどけるはずなのに、その気にはならない。心地良いぬくもり。この優しさに、心を許したのかもしれない。リリアンはそう思った。
「深夜、戻ろう。学校に」
「……そうだな」
手が自然に離れる。これが二人の距離感だった。これがどのような気持ちなのかリリアンには分からなかった。しかし、今、彼女はどこかとても満たされていた。まだ涙ぐんでいる深夜が隣に歩いていて、水平線に沈む夕日を背にして、次第に辺りは暗くなっていくのに、隣にこの男がいなくなることはないと確信できる。以前花神楽高校を襲った危機のときも、この男は空港まで駆けつけ、その後も尽くしてくれた。
思えば、今こうして校長を続けていられるのは、この男を始めとする、周りの支えがあったからこそだ。
「深夜、退職後はどうするんだ」
「…姉が嫁いだとこで世話になることになってる。そこで出来る限り治療しながら、生活に困らないように訓練して暮らしていくことになる。若いやつならまだすぐ適応できるらしいんだけどな、俺はこの歳だろ? どのくらいかかるか分からねぇな」
「そうか…じゃあ、早めに色々したほうがいいな」
「何をだ?」
「卒業式までもつか分からないんだろ? だったらその前に送別会とかやっとくべきだと思うんだよな。あと、ここ最近色々あっただろ? だからそのお疲れ様を兼ねてさ」
「単に飲みたいってだけじゃねぇのか?」
「んー、そうとも言うな」
「なんだよ、結局そうなんじゃねぇか」
深夜が少し笑う。リリアンもつられて笑った。




