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波と風の音のみが支配した空間を突如引き裂いたのは、携帯電話の振動音だった。どうやら隆弘のポケットが発信源であるようだ。隆弘はしばらく無視していたが、あまりにも長いので、ついにリリアンを少し離し、片手でなおもリリアンを引き寄せたままで、携帯電話を見た。電話だ。
「何だ」
「隆弘さんですか」
「片倉か。どうしたんだ」
それは隆弘の父親が経営する会社の、父親の秘書の一人である男だった。隆弘が父の会社で唯一と言って良い知り合いだ。
「どうしたんだって…何も聞いてないんですか!?」
「あ?」
「ディアナ様が先ほどこちらにいらっしゃったんですよ!」
「は!?」
「どうやら隆弘さんに会うために日本にお忍びで来られたようで、こちらで呼びますからここでお待ちくださいと引き止めたのですが、『タカヒロは学生なのでしょう? だったら学校にいるわよね!』と言って出て行ってしまったのです…隆弘さん、今はどちらへ…」
「…少なくとも学校にはいないぜ」
声真似が地味に似ていて無性に腹が立ったが無視することにした。
「そうですよね…もう放課後の時間ですもんね…あぁ、ディアナ様にもしものことがあったら…」
「落ち着け。とりあえず俺は学校に行く。後のことはディアナを見つけてから連絡する。親父は?」
「社長は現在外出中で…」
「知らないんだな。よし、親父には言うんじゃねぇぞ。隠し通せ」
「は、はい…」
片倉は純粋で、嘘がつけない男だ。果たしてこの指示をどれだけ遂行できるか分からないが、時間稼ぎにはなるだろう。
「どうしたんだ? ディアナ、って…」
「あぁ………そいつは…親が決めた、許婚、ってやつだぜ」
「…あー…そうだった西野金持ち貴族だった」
「お袋のコネなんだ。そいつも貴族の端くれだぜ。俺からしたらそこらの女となんら変わらねぇ、うっとうしい女だ。俺の本命はあんた一人だからな」
「で? 学校に行くって言ってたけど」
「そうだな…学校乗り込まれてなんかされると困るし俺は戻る。あんたは……」
隆弘は財布からお札を抜き、タクシーでも乗れ、と手渡そうとしたのだが、リリアンの背後に走ってくる人影を認めて苦く笑った。
「あのくそったれに送ってもらえ」
そこには疲労困憊した深夜が立っていた。




