ミュージの悪夢
魔王という名のセイレーン
-ミュージの悪夢-
1
「…嫌だ…止めろ…」
ある家のベッドで、悪夢にうなされる青年がいた。
「…!」
青年はベッドの上で飛び起きた。
その視線はしばらく宙を彷徨い、自分の手元に落ちた。
「はぁ…」
夢だと分かった青年は、まだ暗い家の中を見渡し、床を見た。
床には端正な顔立ちの青年が寝ていた。
「…大丈夫なんて、よく僕の口から出たもんだ」
悪夢にうなされていた青年が独り言を言う。
青年は、この端正な顔立ちの青年と『契約』を交わしていた。
その時に、自分が言った言葉。
『大丈夫だから』
青年は自嘲的に笑う。
青年が、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉。
「僕は、音楽があれば…大丈夫」
呟いて、青年は再び横になる。
2
「大丈夫ですか?ミュージ」
私はベッドにいる青年に尋ねた。
「ちょっと熱出て来たかも…まぁ大丈夫かなぁ」
(嘘だな…)
答えた青年は、赤い顔をして答えた。
その顔は笑ってはいるが、だいぶつらそうだ。
「…でも、気持ちのいいもんじゃないから」
「すみません。その感覚が分からなくて…人間じゃないんで」
そう。私は人間ではない。
魔王と呼ばれていた、セイレーンだ。
「熱があるって感覚も?」
「そもそもだるいって感覚も…あまりに長い間歌わなければ」
「…ちょっとこっち来てみて」
「?」
私がミュージの元に来ると、ミュージは私の手を自分の額に付けた。
「…うあつっ!」
私はすぐに手を引いた。
「でしょ?まぁ、シュベルツには、ずっと契約の力が流れてると想えば」
「契約の力…」
3
私はミュージと契約を交わしていた。
この『契約』が発動した時、ミュージの命令は絶対だ。
そして、その発動は、私の体を熱くさせる。
ミュージ自身もその熱さは感じるようだった。
それと同じ感覚が今のミュージにあるとしたら…。
(相当辛いんだろうな…)
「風邪とか…苦手なんだよね。嫌な夢見るし」
「嫌な夢?」
「うん、特に意識してるワケじゃないんだけどね」
「…例えば?」
尋ねたが、ミュージから答えは返ってこなかった。
「ミュージ?」
ベッドを覗くとミュージは眠っていた。
私はため息をついて、ミュージの額に濡れたタオルを置く。
(ミュージがこんなに弱っている姿は、初めてだ…)
ミュージはいつも音楽のことを考えていた。
私があの子を殺すために、ミュージに力を使った時も。
その体が死に惹かれていても意識はあの子のことを思い。
(…すぐに歌を書けるほどの、強い意識で…)
あの時の元の楽譜は、ミュージは破り捨ててしまった。
だけど私の中にははっきりと残っている。
『子守歌』。そう書いてあった。
私は子守歌を歌われた覚えはないけれど、その優しさは深くて。
「ゆっくりと、眠ってくださいね…」
4
僕は、夢の中を彷徨っていた。
その手段はそれぞれ違うけれど、人が次々死んでゆく夢だった。
こんなものを見せられて、平気でいられるほど僕は強くない。
そして、やがて僕は自分が机に向かっているイメージに辿り着いた。
五線紙が、目の前にある。
真っ白な五線紙。
僕はペンを取り、頭の中の音を書いていく。
けれど、そのペンの跡は、さらさらと消えていく。
(え…)
僕は焦って頭の中の音を探す。
書きとめなくては。
けれど、消えていく。
書いても書いても消えていく。
(そんな…)
気がつくと、頭の中からも音が消えていた。
さっきまで確かにそこにあったはずなのに。
(シュベルツ…シュベルツ!)
シュベルツなら僕の歌を歌ってくれる。
そこにあると思わせてくれる。
5
僕は夢の中でシュベルツを呼んでいた。
その返事はなく、沈黙が耳をつんざく。
その沈黙はやがて一つの声になる。
『誰もお前を必要としない』
『音楽がなければお前は生きられない』
『お前の中の音楽は死んだ』
『死んだ』
『死んだ』
『死んだ』
(やめろ!やめてくれ!)
『死んだ』
『死んだ』
『死んだ』
(音楽がないと、僕は…!)
僕はたまらず、机の上のペンを取り、自分の手首に突き立てた。
「…ミュージ?」
痛みと共に眼を覚ますと、僕はベッドの上にいた。
自分の手首は、枕元にあったペンの先がその皮膚を切っていた。
「ミュージ?何を…何をしているんですか?!」
シュベルツが僕を責める声。
痛みよりも、その声に安心した。
「良かった…シュベルツが、いた…」
僕は泣いていた。
シュベルツが、僕の音楽を証明してくれる存在が、いた。
6
私はミュージの手首に包帯を巻いていた。
そこには古い傷もあった。
私と契約するのに使った傷痕だ。
「ミュージ…何を見たんですか?」
そう尋ねるのは何度目だろうか。
ミュージは答えてくれなかった。
『嫌な夢』というやつなのは、涙で分かっていた。
泣きたいと言っていた、あの子の死の時にも見せなかった涙で。
(質問を変えるか…)
「ミュージは…なんでこの傷を?」
「…」
「私は、私が好きなもので誰かを傷つけるのが嫌でした」
「前に…同じだって言ったでしょ」
「はい、ですが」
私が言葉を続けようとした時、ミュージが遮った。
「僕は、歌で、人を傷つけてしまった」
「…どんな歌だったんですか?」
「僕は…僕は嘘の気持ちなんか書きたくない!」
ミュージが叫んだので私は驚いた。
「だけど、僕が書いた歌は、人を傷つけるって…」
7
「え?前に言ってたのは、難しすぎるからって」
「それもあったけど」
叫んだ反動でミュージの呼吸は乱れていた。
私は手当ての終わったその手を片手で握った。
もう片方の手でミュージの背中をさする。
「…人の心に潜む影の歌で…たくさんの人が傷ついたと言った」
その声は、また泣きそうで。
私は思わず言ってしまった。
「自分に嘘をつくのは、良くない」
いつもの敬語が取れてしまったことに、口を出た後に気がつく。
だけど。
「私が歌ってきたミュージの歌は、誰かを楽にする歌だから」
ミュージが呟く。
「音楽は、音を楽しむって書くでしょ?だけど僕のは」
「音で楽にするって意味にも取れませんか?」
ミュージは意外そうに私を見ていた。
「その歌で…楽になる存在が、あったんでしょ?それが自分でも」
それは自己満足とも呼ばれるものだけど。
「自分も救えない歌で、誰かを救えるとは思いません」
私は夢中になってそう言った。
その直後ミュージはまた泣きだした。
その様子はまるで小さな子どものようだった。
「音楽が…音楽がなかったら僕は誰にも必要とされないのに…」
しゃくりあげながらミュージが言う。
「音が、消えていく夢なんて、耐えられなかったんだ…」
8
僕は数十分をかけて、涙を止めなくてはならなかった。
その間、シュベルツはずっと背中をさすっていてくれた。
もう片方の手は、傷を作ったその手を握っていた。
最初にその暖かさを知ったときと同じように、暖かかった。
正直、情けないと思った。
だけど、僕はずっとこんな風に泣きたかったのかもしれない。
僕が涙を止められたころ、シュベルツが言った。
「音がない世界なんて、私には考えられませんが…」
僕は鼻をすすりながら聞いていた。
「例えば耳が聞こえなくなったとしても、声は出ます」
頭はぼおっとしていたけれど、その言葉は力強くて。
「声が出なくなっても肌で音を感じることも出来ます」
「うん…うん、そうだね…」
僕は笑おうとした。
けれど、上手く笑えなかった。
その様子を見たシュベルツは、僕の頭を撫でた。
「こんな時まで笑わなくていいんですよ」
「…ごめん」
「なんで謝るんですか。あなたは私のマスターですから」
9
「マスター…」
「それ以上に私はあなたをかけがえのない存在だと思ってます」
「そうだね…契約なんて、関係ないよね…」
君が僕を必要として。
僕も君が必要で。
それだけで、いい。
「なんか、疲れちゃった…」
「…今は、ゆっくり眠ってください。大丈夫、ですよ」
そう言って、シュベルツはゆっくりと僕をベッドに横たわらせた。
そして、優しい声で歌い始めた。
「子守歌…」
(覚えていたのか…あの子のために、作った最初の歌…)
あの時は、殺すための歌だったから、僕をも死の影を見せた。
けれど、今は、ひたすら心地よい。
シュベルツは、音楽そのもののようだ。
シュベルツの歌が僕は必要で。
いや、シュベルツがもし歌えなくなっても、きっと僕は…。
そんなことを考えていると、眠気が襲ってきた。
恐怖は感じない。
優しい夢を、見ることが出来るような気がした。
(きっと…大丈…夫…)
『大丈夫、ですよ』
シュベルツのさっきの声が、耳に響いた。
10
ミュージは深く眠っていた。
いつもなら、私の力はあまりミュージには効かない。
けれど、今のミュージには少し効きやすいようだ。
それだけ今のミュージは弱っているということだろう。
私は、ミュージのために何が出来るか、考えていた。
(私には、歌しかない…)
作られた、その音をなぞるしか、出来ないのか。
だとしたら私は、ミュージがいないと何も出来ない。
それで、いいのか。
何か、出来ないのか。
ふと、五線紙が目に入った。
私がミュージに出来ること。
音楽しか、ないから。
11
「ふわあぁぁ…」
(あれ?なんかすごいすっきり…)
僕は、ベッドで体を起こした。
あの晩の、シュベルツが子守歌を歌っていたのは、夢だったのか?
手を見ると、その手首には包帯が巻かれている。
(夢じゃない、よね?)
包帯をそっとほどく。
傷はもうほとんど痛みがない。
(…僕、何日寝てたんだ?)
覚えがない。
(仕方ない…シュベルツに聞くか…ん?)
そういえば、シュベルツの姿が見えない。
不安になった僕は、その名をそっと口に出す。
「シュベルツ?」
「は…はい…」
声は、僕の足元からかすかに聞こえた。
「え」
シュベルツは僕のベッドの足元辺りによりかかっていた。
僕は慌ててベッドから降りる。
まだふらふらする。
かろうじて何メートルもないシュベルツの元へ行く。
「ど、どうしたのシュベルツ?」
シュベルツの目の下にはクマが出来ていた。
12
「ボロボロじゃないか…」
「ミュージ、良かった…元気になったんですね」
「あ、うん、すごいすっきりしたけど…もしかして」
(ずっと歌ってくれてたから…?)
「それより…ミュージに見てもらいたいものが…」
シュベルツは立とうとしたが、力が入ってないようだ。
そういえば、長い間歌い続けると、だるくなるって。
「…それじゃあ、シュベルツが風邪ひいたみたいじゃないか…」
「はは…そうかもしれません…」
シュベルツは力なく笑った。
僕も、半分呆れつつも、笑った。
今度は上手く笑えているだろう。
「で?見てもらいたいものって?」
「机の、上に」
「あ、いい。僕が取る」
僕はなんとか机のそばに行ってそれを取った。
(五線、紙…?)
そこには僕の文字ではない、いびつな楽譜があった。
そして、それは聞いたことのない曲だった。
「これ、シュベルツが?」
「ええ…酷いもんですが」
「『音のない世界』…か…」
想像するしかないけれど。
僕も、シュベルツも。
僕はクスリと笑って、シュベルツに言った。
「たまには、僕が歌おうか。酷いもんだけどね」
13
その日に生まれた歌は、とても切なくて。
だけど、大切な人を想って、優しくて。
そこに書いてあることが、不可能でも、嘘の気持ちじゃないから。
とある家に響く、いつもとは違う歌声。
ベッドに座った歌声の主は笑顔だった。
同じ家にいる、いつもとは違う聞き手。
聞き手も、笑顔だった。
『うん…やっぱり、音のない世界なんて、考えられないね』
歌い終わった青年は言った。
『そうですよ。そんなことになったら私は』
『“喉を潰す”って?』
青年は、楽譜に書いてある文字を読みあげて、考えた。
『僕は…さみしいな』
『まぁ、ミュージがいるなら、そんなことにはなりません』
二人は顔を見合わせて、笑った。
二人は、今日も傷痕を抱えて、生きている。
互いに互いを求めあって。
音楽という、絆を持って。
2010.06.28