挑戦的な、彼女の話。
ゆらり、と立ち昇るタバコの煙。
言葉遊びに飽きてきたなら、違うゲームを始めましょうか?
オレンジ色の灯りが燈るバーの片隅。カウンターの一番奥で、彼の肩越しに店内を眺める。
「……良い店ね」
溜息混じりに呟けば、右隣りでコロナのボトルを持った男の手が止まった。
「だろ? 広くはない店だけどな、この空気感は他じゃなかなか無いだろ」
「なんだかちょっと、時間が止まってる感じよね」
「ああ、そうかもな」
目を細め口角を上げた彼は、ゆっくりと手の中のボトルに口をつけた。
たったそれだけの仕草が矢鱈と絵になる――なんて嫌味な男。
こっそりと溜息を吐いて、私も自分のグラスに手を伸ばしアルコールを飲み干した。
「ここなら一人で静かに飲んでいられそう」
「どうだかな。それはお前次第じゃないか?」
「え?」
一人飲みに良い店を教えて、と言った私をここに連れてきたのは佐野君だ。
相当モテる彼が『俺の隠れ家』と称し、私にも他言無用を約束させるほど気に入ってる店らしい。
そんな店に、一人で飲む女に声を掛ける無粋な輩が居るとは思えないのだけど。
「……随分と匂い立つ姿じゃないか」
彼の指先が、私の剥き出しの腕をなぞった。
触れるか触れないか。そんな微妙な接触にゾクリと肌が粟立つ。
それに気づかれたくなくて、私はスッと腕を引いた。
「そうね。ジャケットを脱いだ分、香水は強く香るのかも」
彼の言葉をわざと曲解し、何気なさを装ってさらりと流す。
すると佐野君は面白がるように瞳を煌かせ、鼻先を私の首筋に近付けた。
「成る程な。通りで今夜は、やけに甘い匂いがすると思った」
彼の吐息が喉を擽る。
思わず洩れそうになった呻きを唇を噛んでやり過ごし、カウンターに載せた手を握り締めた。
「今日の香りはシトラスなのに?」
答えた声が、自分でも驚くほどハスキーに響く。
「だったらコレは、宮本自身の甘さか」
囁いた熱い唇が肌を掠めた。
背中に震えが走ったけれど、何とか平静を保って彼の肩を押し返す。
「言葉遊びは他でどうぞ」
「男に絡まれたくないなら、そんなカッコで飲んでんじゃねえぞ」
「そんなって、ただのワンピースでしょう?」
ジャケットを脱いだ後のノースリーブワンピース。
確かにちょっと襟ぐりは深いけど、このくらい別に珍しい物でもないだろうに。
「肩だの腕だの、無防備に晒すなって言ってんだよ」
「良いじゃない、オシャレは女の特権よ。それに男にとっては目の保養でしょ?」
「……毒になることもあるんだよ」
「それは失礼」
軽く謝るけど、今更ジャケットを着直すつもりはない。
代わりにカウンターに放置されていたコロナを取り上げ、うっすらと髭の伸び始めた彼の頬に押し付けた。
「まだ残ってるわよ?」
「……要らねえわ」
鬱陶しそうに眉を顰めた彼はボトルごと私の左手を掴み、手首に唇を触れさせる。
そろりと這わされた舌の感触に鼓動を跳ねさせながら、私は右手で自分のグラスを引き寄せた。
「それならこれで、ゲームでもする?」
「ゲーム?」
唇をつけたまま、視線だけが向けられる。
このまま先に進むことを期待している瞳に、私はにっこりと笑って見せた。
私だって、この曖昧な関係に決着をつけたいとは思ってる。
だけど大人しく口説かれてあげるのも癪に障るのよ。
「負けるのが怖いなら、無理にとは言わないわよ?」
「誰が誰に負けるって?」
「それは勿論、佐野君が私に」
澄まし顔で挑発すれば、彼もニヤリとしながら乗ってくる。
「お前、俺に勝てると本気で思ってんの?」
「当然でしょ」
「だったら何を賭ける?」
言いながら手を放し、彼は憎たらしいほど様になる仕草で煙草に火を点けた。
『私の貞操を』とでも言ってやろうかと思ったけど、それじゃあんまり情緒がない。
さっきの言葉遊びの仕返しだってしてやらないと。
「そうねえ……在り来たりだけど、勝者の望みを一つ叶えるって言うのは?」
「まあいいだろ。で、どんなゲームをするんだ?」
「コレを使うのよ」
残ったビールを掲げ、引き寄せた空グラスに高い位置から勢い良く注ぐ。
炭酸の抜け切っていなかったそれは、半分以上が泡のままグラスを満たした。
「佐野君、コインを貸して」
「ああ」
私の意図を悟り、彼はポケットからコインを一枚取り出した。
それを受け取り、泡の上にそっと載せる。
「どちらから始める?」
横目で見上げると、彼はフィルターを噛みながら顎をしゃくった。
「宮本からで構わねえよ」
「OK」
彼と向き合うように身体をずらし、カウンターに片肘を付いて頭を乗せる。
同じようにこちらを向いた彼の唇から煙草を抜き取ると、ひと口だけ吸い込んで静かに泡に近付けた。
ふつり、と小さな音を立てて気泡が弾ける。
それを見届け、彼の唇に煙草を戻した。
今度は佐野君の番。同様に泡を消し、煙草は私の唇へ。
泡で湿ったマルボロを深く吸い、赤い火を燃え立たせてから再びグラスへ。
ふつり、ふつり。
言葉の消えた空間に微かな音が静かに響く。
ふつり、ふつり。
ふつり、ふつり。
幾度目かの泡が消えた瞬間、浮かべられたコインがゆらりと揺れた。
「次は宮本だぜ」
大分短くなった煙草を灰皿に押し付け、くしゃくしゃの箱を私の膝に投げて寄越す。
箱の中に残っていた最後の1本を取り出し咥えると、オイルライターの炎が差し出された。
「この1本が燃え尽きる前に、勝負が決まるな」
呟いた彼を見上げると、既に勝利を確信したかのようにニヤリと笑われた。
「俺が勝ったら、お前を口説くよ」
紫煙の向こうで悪戯な瞳がキラリと輝く。
「負けたお前に拒否権はねえからな、宮本」
「まだ勝負はついて無いわよ」
吐息でコインを揺らさぬように気をつけて、私はそっと泡を消した。
ゆらり。
今までで一番大きく揺れたけれど、コインはまだ浮かんだまま。
喉の奥でクッと笑って、彼に煙草を返す。
「さて、どちらが勝つかしら?」
「……俺に決まってるだろが」
苦笑して眉を顰めながら、佐野君は慎重に指を伸ばした。
「私が勝ったら、あなたを口説くわ……幸樹」
火が泡に触れる瞬間を狙って囁けば、彼の手がビクリと震える。
寸前で手を止めた彼は、もう一度煙草を咥えながら私の瞳を覗き込む。
「あなたに拒否権は無いわよ?」
私の言葉に瞬きを繰り返し、彼は何かを考えながら半分まで吸い尽くす。
これが消えてしまえば、もう後は無い。
「……さあ、勝負よ」
眼差しと声で促すと、彼の指先に挟まれた短いマルボロが、泡の中でジュッと音を立て炎を消した。