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第五章 魔法

第五章 魔法


 ターミルは腕に走った痛みに顔を歪めた。左の二の腕からどくどく、という音が

する。

 二の腕にぱっくり切り傷が開いていた。

 今夜もまた夜の祭りへ向かっていた時、ターミルの予期しないことが起こった。

 こっそりと家を抜け出してきたつもりだったが、後を付けられていたのだろうか。繁華街を抜けた人通りのない路地で彼は襲われた。三人の男だっただろう。顔は目以外を覆っていてあまりわからなかったが、その内の一人はその体格、声から、以前にも彼を襲ったことがある男ではないかと思われた。二番目の兄であるアサドが金を払って雇った裏社会の殺し屋に違いない。死闘の生活の中で身についた剣術で逃げきれ、二の腕の傷だけですんだということは幸いだった。三人の、しかもプロの殺し屋かもしれない男に襲われながらも、人生を通して得た剣術はなかなかのものだったらしい。

 人通りのない狭い路地に彼は座り込んでいた。痛みはだんだん麻痺し、血も治まり始めていた。彼はスカーフを取って、それを傷口に巻いた。

痛みも麻痺してきたことだし、彼は祭りに行けるだろうと思い、立ち上がった。


 音楽というものは、それがなくても人は生きていけるが、それがあれば人は夢を見て心の傷を癒す。そしていつしか、薬がなければ身体の傷がもとで命を落としてしまうことがあるように、音楽がなければ心の傷がもとで病に伏すことがあるのかもしれない。耳が不自由な者も楽器とは縁遠い者も、やはりその心には音楽が流れている。風が肌を撫でていく感触も音になり、星がきらめく様子も音になる。鼓動が指揮者となり、人は体内で音楽を育む。指揮者が指揮台を降りたとき、人は演奏会に幕を下ろす。

 演奏会の間には幾つもの自分の音楽とは違う音楽に出会い、そして時には混ざり合い、時には拒絶しあう。そして、時には自分の音楽を続けていくのに不可欠な音楽と出会うのだ。

 ターミルの、憂愁の昼、の音楽は終わりを向かえ、次の曲、至高の夜、の準備が始まった。次の曲は速い曲だ。

 ターミルの目にいつもの森が写った。それが合図、指揮者はタクトを振り始めた。曲は小さく始まった。序所にそのテンポは速くなっていく。彼の音楽は期待を膨らませていき、途中から外の音楽も混ざり始めた。太鼓の音、笛の音、人の声。音楽は混ざり合い、早くも最初の盛り上がりのパートへ入った。

「ノルハディヤ!」

 ターミルはいつものベンチで二人分のグラスに酒を注いで待っているノルハディヤの元へ駆けていった。

「ターミル! 今日は来ないと思ったわ。遅かったのね」

 駆けてきたターミルにノルハディヤは抱きついて彼の頬にキスをした。

 ターミルはノルハディヤを抱きしめ返して、その髪に鼻をうずめた。

「すまない。少しトラブルがあって。でも、ここに来られたんだ!」

「トラブルってどうしたのです?」

「ほんのちょっとしたことです。大丈夫!」

 ターミルはぎゅっとノルハディヤを抱いて彼女の頬にキスを落とした。

「あっ!!」

 ノルハディヤが小さな悲鳴を上げた。

「どうしました」

 ターミルはノルハディヤを離すと、彼女の顔を覗き込んだ。

「もしかして、怪我をしたのですか? ああ、私に見せてくださらない?」

 ノルハディヤはターミルの返事も聞かずに彼をベンチに座らせると、彼の腕に巻かれていたスカーフを取った。

「酷いわ。どうしてこんなことに」

「ちょっとした引っかき傷です」

 ターミルはノルハディヤの手からスカーフを抜き取ると、また傷口に巻き始めた。だが、すぐにノルハディヤが止めた。

「私に任せて」

 彼女はスカーフを取り除くと、何か小さく囁き始めた。歌のようであり、儀式の文句のようであった。いずれにせよ、ターミルには分からない言葉。言葉が連なっていくにつれて、何かがターミルの体の中に沸いてくるようであった。温かい力のようでなもので、それは腕の傷に特に集中しているようだった。その温かいものはやがて光を帯びて彼の傷をすっぽりと覆ってしまった。

 ノルハディヤの静かな歌が終わった。

 傷口を覆っていた光が消え失せ、現れたそこには傷などなかった。

「ノルハディヤ?」

 ターミルは呆然として、ノルハディヤを見た。

「何? これで、痛みなんて気にせずに今夜も楽しめますね」

 ノルハディヤは酒の入ったグラスをターミルに握らせた。

「あなたは、何者ですか?」

 ターミルは瞬きもできなかった。思考の奥に押し込められていた疑問が一斉に飛び出てきた。なぜこの時期に祭りをやっているか? 赤い月とは何か? なぜ馬は彼の家を知っている? お酒はなぜ尽きることがない? それに、なぜ若者しかいないのか? それも子供ではなく年頃の男女しかいないのだろうか? 

 あまり重要だと思っていなかった疑問が、今になって重要なことなのではないかとターミルには思えてきた。 

「私は……あなたに恋する愚かな月。夜にしか会えないこの身を呪いながらも、あなたに会いたくて、死ぬこともできない。夜のみの逢瀬を心待ちにし、あなたにあった時の鼓動の音楽に恋焦がれる」

 ノルハディヤは、ターミルの両目に映る自分の像を確かめる。

「私もです。あなたに会った時の鼓動の音楽が愛おしい」

 ターミルは、ノルハディヤの両目に写る自分の像を確かめる。

 そのまま、二人は唇を重ねて、互いの温もりを確かめた。



 白亜の壁の“牢獄の中”、ジャミーラはターミルの部屋の前に来ていた。部屋の主がいないのは知っている。ターミルは夜中に出かけているのだから。

 彼女は部屋に入る前に、扉を守る二人の護衛と対峙しなければならなかった。

「こんな夜中に何の用でしょう? ジャミーラ様」

 護衛の一人が無表情にジャミーラを見下ろしてきた。

「こんな夜中だからこそ、用があります。あなた方にお話ししたいことがあるのです」

「我々は今、警備中であります。用ならまたいづれ」

 もう一人の護衛がずいっ、と一歩前に出た。体格差でジャミーラを圧倒するかのように。

「私にはあなた方が何を警備しているのか解りかねますわ。まあ、私には重要なことでないので、いいんですけど」

 ジャミーラは二人の護衛を交互に見遣り、それから、くるっ、と背を向けた。

「それは……どういうことでしょうか?!」

 護衛は顔を見合わせた。お互い思い当たる節がある。

 ジャミーラは再び、護衛の方へ体を向けた。

「どういうことって、部屋の中を覗いてみれば解ると思いますわ」

 ジャミーラは片眉をあげてみせた。途端、一人の護衛が壁の蜀台を取り、もう一人が扉を勢い良く開け、二人は部屋のベッドへ駆け寄った。

「まただ。ターミル様はまた出て行かれたようだ」

 一人の護衛が毒づいた。

「ジャミーラ様。あなたはこのことをご存知だったのですね?」

 蜀台を持った護衛が部屋の外に立ったままのジャミーラへ歩み寄っていった。

「ええ。そのことについての用なんですけど、警備中ですもの、またいづれの時に」

 ジャミーラは、失礼、とドレスの裾を揺らして背を向け、廊下を歩いていこうとした。

「お待ちください。その御用を話してくださらないでしょうか?」

 もう一人の護衛がジャミーラを引きとめ、頭を低くして、彼女を部屋に迎え入れた。

 ジャミーラは部屋に入り、護衛に導かれ、ソファーに腰掛ける。一人の護衛は部屋に明かりをつけ、もう一人の護衛はバルコニーの二人の見張り番に声をかけた。

「大切な話があります。ターミル様がまた出かけられたようです」


 ターミルは空を見上げた。そこには輝く満月。星の絨毯を背景に、それは瞭然と黄金に輝いている。

「ノルハディヤ。赤い月が出るのはまだまだ先のことですよね?」

 ターミルとノルハディヤは踊りの輪に加わろうと、ちょうど立ち上がったところだった。ところが、ターミルは足を止めて、ノルハディヤの袖を引いたのだ。

「赤い月が出るのは明日の晩です。それはそれは美しい月です。私は赤い月を見るのが大好き」

 ノルハディヤは振り返り、ターミルの頬に手を当てた。若く張りのある頬に。ノルハディヤはしばし、彼の美しい顔に見惚れた。

「でも、赤い月が昇れば、この祭りは終わってしまうとあなたは言った! 明日で終わってしまうなんて」

 ターミルはノルハディヤを引き寄せ、抱きしめた。

「あなたとは離れたくありません」

「離れませんよ、ターミル。明日の赤い月の晩、私たちは一つになるのです。私とあなたは共に生き続けるのです」

 ノルハディヤがターミルの腕の中で顔をあげた。彼女はターミルの空色の瞳をじっと見つめた。その奥にある心の扉を見つめる。

「明日、必ず来てくださいね」

 ノルハディヤはターミルの心が逃げないのを確信した。扉の奥にすっかり入り込み、そこに自分の存在を根付かせる。

「もちろんあなたに会いに来ます。そして、共に生き続けましょう」

 金色に光ったノルハディヤの瞳を見て、ターミルは一層彼女を愛おしいと思った。彼女に身を捧げるのが最も幸福なことであり、自分の命は彼女のためのものであるのだと思い込むようになった。


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