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第四章 罠

 白亜の壁の前に立ったターミルは、自然と心に鍵を掛けた。楽しいという感情も悲しいという感情も、この壁の内側に入ってしまうと厄介なだけだ。感情を閉ざすということが、平安を招いてくれることなのだ。ターミルが一番上の兄の死に涙したのはまだ最近のことだが、彼の死が兄弟の中で一番最近のものだということではない。一昨日は、六番目の兄弟が死んだ。死が溢れる日常で、泣くという感情が存在していては、丸一日、泣く以外のことができなくなるだろう。

 彼がいつも通り裏門へ回ると、木の上から何かが落ちてきた。

 人ではないかもしれないが、彼は思わず、腰のサーベルを握った。

「こんばんは。ターミル兄様」

 月明かりの下に出てきたそれは、兄弟の中の唯一の女、ジャミーラだった。

 おかしな妹の登場に、一瞬ターミルは気が緩んでしまった。だが、それが妹だとわかった以上、気を引き締め、サーベルに意識を向けた。

「どこから来たんだ?」

「木の上からです。おわかりになるでしょ? それより、お兄様こそどこから来たのです? どちらに行かれていたのです?」

 ジャミーラは意地の悪い笑みを浮かべた。

「どこかに女をつくったのですか?」

「そんなことは断じてない。それより、お前はどうしてこんなところに、しかも木の上にいた?」

 ターミルは妹のからかいを何とも思わず、ただ、ジャミーラの動きに注意した。ドレスを着て、腰にサーベルを提げていない彼女が、どこから武器を出すか分からない。ゆったりとした袖口から武器がでてくるかもしれないし、胸元の大きな首飾りに毒を塗った針でも仕込んでいるかもしれない。

「木の上にいたのは、ただ私を殺そうとする人たちから隠れるためです。ここにいるのは……ターミル兄様を待つためです」

「私を待つため? だが……」

「侮らないでくださいね。これでも、生き残っている兄弟たちの行動は細かく観察していますわ。お兄様が毎夜、毎夜、城を出てって、日が出る前にそこの門から帰ってきていることだって、知っています」

 ジャミーラは白亜の壁の中に埋まった裏門を指し示した。

 ターミルは意表を突かれた。まさか、支持者のいない妹がそんなところまで目が行き届くとは思っていなかったのだ。

「一人でそこまで調べているのか?」

「いろいろなコネクションがありますから」

 ジャミーラは得意げに口の端を上げた。

「コネクション? どういうことだ?」

 そう尋ねたターミルに、ジャミーラは、さあ、と答えただけだった。

 ターミルは二番目の兄・アサドを思い浮かべた。サラムの死以来、ジャミーラはそのアサドに付き従っているらしい。二人が手を組んだというより、ジャミーラがアサドの支配下にあるということらしが、それはジャミーラがアサドの保護下にあると言うことを表すのではないだろうか。ジャミーラにとっては、今や兄弟の中で最強の剣士の保護を受けながら、自分が手を出さずしてライバルが死んでいく、という最高のポジションなのかもしれない。そして、彼女の保護者であるアサドやその支持者たちは、彼女にとってコネクションの一つでしかないのかもしれない。

 ターミルは妹を恐ろしく思った。

 ジャミーラは従順な仮面を被りながら、いつその仮面を取るかわからない。兄弟たちに可愛がられて育った少女は、いつの間にか策略をめぐらす小悪魔に化けていたのだ。彼女の短い答えは、そう物語っているようにターミルには感じられた。

「ジャミーラ。私にはどんな罠を仕掛けるつもりだ?」

 ターミルはサーベルを抜いた。今や、ジャミーラは一人ではないということに気づいたのだ。彼女にはアサドという強力な盾がある。もしかしたら、アサドがどこからかターミルの隙を窺っているかもしれないのだ。ターミルは誰も傷つけたくはなかったが、まだ死ぬ気にはなれなかった。もう少しだけ、ノルハディヤといっしょに過ごしたい、という気持ちがサーベルを抜いた結果だった。

 ジャミーラはさすがに数歩下がった。

「剣をしまい、下に置いてください、お兄様。私はお兄様の命を頂きに来たのではなく、交渉に来たのです」

 ジャミーラは真摯な顔になって、深深と頭を下げた。

「冷静で賢いお兄様でいらっしゃるから、正面から挑む方がよいと思ったのです」

 面を上げたジャミーラは外交官の風体を持っていた。

「交渉とは?」

 ターミルはサーベルを置くどころか鞘に納めもしなかったが、切っ先だけは下ろした。まだ、ジャミーラを信用できないと思ったのだ。彼は、妹に対する評価を変えつつあった。兄弟の中で最も聡明なのは、もしかしたらジャミーラであるかもしれない。彼が尊敬したサラムよりもだ。きっとジャミーラは、サラムやアサドに対しても“交渉”を行ったに違いない。その形は、今から彼らが行おうとするものとはかけ離れていたかもしれないが。

「まず、お兄様は剣を下に置いたほうがよろしいですわ。私は、それがお兄様にとって無意味だと思います。今まで、お兄様は暗殺の計画や実行を行っていないでしょう? そんな兄弟はお兄様だけ。誰も殺す気がないのではありませんか?」

 ジャミーラはターミルに歩み寄り、彼のサーベルが届く範囲内に立った。彼女は澄ました顔でターミルを見上げた。

「だが、剣は自分を守るためにも存在する」

 ターミルは、ジャミーラがサーベルを下に置けとしつこく言うのは、身からサーベルを離した隙を突こうと彼女が考えているのだ、と思っていた。だから、頑なに拒んだ。

「交渉は対等に。私は武器がありません。だから、お兄様もそれを持つべきではないのではないですか?」

 ジャミーラにとって、サーベルは言葉による交渉の敵であった。武器を持つものは、言葉による敗北を感じたとき、それでも負けを認めずに武器の力に頼るのだ。しかも、その場合の力は厄介な争いを生み、当事者だけでは収集がつけられなくなる、ということを彼女は知っていた。

「悪いが、今この場に我々二人だけという確信が持てない限り、この剣はしまえない」

「お兄様も知っている通り、私には支持者はいません。だから、ここには私の敵となる人はいても、お兄様の敵となる人はいませんよ」

「支持者はいなくとも、保護者はいるだろう? たとえば、アサド兄さんだ。それに本当にお前が武器を持っていないのか疑わしい」

「アサド兄様のことなら、保証します。アサド兄様には、ターミル兄様が毎夜そこの門から帰ってくるということは、言っていません。だから、ここにもいません」 

 ジャミーラは辺りを見回した。

 月がなければ、闇だけが二人を覆っていただろう。月を恋い慕うようなか細い虫の声が遠くに聞こえる。

 ターミルがサーベルを鞘に納める素振りをみせることはなかった。

「わかりました。この時期は誰だって、慎重になりますものね。ただ、嬉しいです。お兄様は私を女だからと馬鹿にしていないようで」

 その瞬間、ジャミーラはターミルにとって懐かしい笑顔を見せた。彼女は昔、褒められると時々はにかむような笑顔を見せるときがあった。それは、どうやら今も変わっていないらしい。

「馬鹿になどできそうにない。兄弟の中で一番の策士家と言ってしまっても、間違っていないような気がする」

 ジャミーラの懐かしい笑顔を見て、ターミルは気が和らぐのを感じた。けれど、それも彼女の計算の内なのかもしれないと思うと、寒気が走るのを感じた。彼女は見えない武器をその頭の中に持っているのだ。

「では、交渉を始めましょう。お兄様はゲームに勝つ気はありますか?」

 交渉というよりインタビューだ、とターミルは思った。ジャミーラの意図が読めない。

「正直に言えば、その気はない。だが、まだ死ぬ気もない。ジャミーラこそどうなのだ?ずっとアサド兄さんに追随していくのか?」

 ジャミーラの計画を探り出せないかと、ターミルはさりげなくそう切り替えした。

「私は勝つ気がありますよ。この国の歴史上で初の女の優勝者として。今は状況を窺っているところです」

 ジャミーラははっきりとそう言った。自信を強く持って、負けなど考えていないようだった。

「お兄様は複雑なことを言っていますね。勝つ気もないけれど、負ける気もないと言うのですか? このゲームに引き分けというのはないのですよ」

「そんなことは知っているさ。成り行きに任せるということだ」

 ターミルは自分の運命を呪った。男に生まれたばっかりに、この“死のゲーム”に否応なしに拘束されてしまった。女であったら楽であっただろう、と彼は幾度思ったことか。

「では、成り行きに任せて、私に手を貸してくれまさんか? 殺しをするのではありません。情報を集めてください」

 一歩前に進んで、ジャミーラはターミルを見上げた。黒い瞳は淀みなく、迷いに揺らめいてはいなかった。

 ターミルは気圧され言葉に詰まったが、固まりかけた思考を溶かしてジャミーラの言葉の意味を考えた。

「それは、私にお前の支持者になれということか?」

「はい、そうです」 

 ジャミーラは頷いた。

「断る! 私は誰の味方にもつかない! できるだけこの争いから離れたい」

 ターミルが強く拒絶すると、ジャミーラは下を向いてしまった。それは今夜最初のジャミーラの弱気だった。

「私の周りには母を除いて信用できる者がいません。アサド兄様だって、いつ私を捨てるのか……。毎日必死です。私の世話係だった者にだって、助けをいつも期待できるわけではありません。なによりも……」

 ジャミーラは顔を上げ、ターミルを見た。その唇は笑いと苦々しさを形作っていた。

「ハーレムは私の存在が禍だと言っています」

「ジャミーラ……」

 ターミルは何も言う言葉が思い浮かばなかった。

 気を許せる者が一人もいないということがどんなに息苦しいことか、どれだけ心を締め付けることか。気を張り詰めて眠れぬ夜。若くありながら、年老いてしまったかのような疲労感。

 活発で愛らしかった子供のころのジャミーラを今はもう窺えないのでは、という不安がターミルの思考をよぎった。

「私が王になったら、ハーレムの人たちにとっては死活問題ですものね。私はハーレムなんてものいりませんから」

 ジャミーラは鼻で笑った。

 その笑いがまるで自分に向けられたものであるかのようにターミルは感じた。

 彼はサーベルを鞘に納めた。

「ジャミーラ。私は誰の味方にもつかない。それは変わらないが、もし私が死んだら、お前を助けてくれないかと私の支持者たちに言っておこう」

 ジャミーラは少し開いた口を閉ざせなかった。

「あと少し、少なくとも赤い月が出る夜までは待ってほしい。それまでは死ねないから。それが過ぎたら、私は死ぬかもしれない。そしたら、私の支持者たちは、お前のところへ向かうだろう」

 ターミルは片手をジャミーラの肩に置き、月の光に照らされた彼女の顔をよく窺った。

 すっかり大人になった彼女は、無邪気な笑顔ではなく、世の中の影を知った複雑な表情だった。鉄の仮面で繊細な部分を覆い隠しながら、仮面から覗く二つの目だけは脆さを宿していた。だが同時に大いなる野望を夢見ていた。

「そんなことを言わないでください! 死ぬだなんて」

 ジャミーラは震える唇でそう言った。

「王冠をその頭に輝かせるのを願うよ、ジャミーラ」

 ジャミーラの肩を叩いて、ターミルは笑顔で彼女の前を去っていった。


 ターミルが去ってしまうと、ジャミーラは木の根元に腰を下ろした。

 彼女はため息をついた。  

 彼女は交渉の結果に満足していなかった。結局ターミルを味方につけることができなかったのだ。

 それでも、少しは事が自分に有利な方向に動いたことに、思わず笑みが零れた。

 

 冷ややかな風を受けながら回廊を歩いていたターミルは、不意に立ち止まった。彼はジャミーラの罠にはまってしまったことに気が付いた。彼はまったく彼女に同情してしまっていたのだ。それを彼女は計算していたに違いない。ただ全てが彼女の思い通りにいったとは思えなかったが。

 ターミルは歩き出した。

 罠にはまったことに気が付いても、ジャミーラの言っていたことは真実だろうと彼は思った。一人の孤独、心労。だが、彼は、彼女の心の強さについて思い違いをしたことを悟った。二つの目が脆さを宿していたなど、勝手な思い込みだった。月光の演出に違いない。彼女の瞳が宿していたものは、覇者のみが持つ大志ではなかったか。そして、やはり彼もジャミーラを女だからと甘く見ていたのだ。

 


  


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