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第三章 贈りもの

 すっかり太陽は沈み、今日も月が暗い空に黄金色に輝いている。

ターミルはそんな月を見上げて、ノルハディヤに思いを馳せた。すでに森の前まで来ているのだ。木々を抜ければ、あの光にまた会える。胸に何か抑えられないものがこみ上げてくるのを彼は感じた。もうここにじっとしてはいられない。早く、森の広場に出よう、と彼の足は浮き足立っていた。

 今夜も森の調べに導かれ、木々を分け入っていく。音楽に身を包まれ、炎が弾ける音が耳に入り、暖かな赤い光がちらつくのが見えた。辿り着いた、お祭りに。彼は祭りを見回し、ノルハディヤの姿を探した。彼女を見つけるのに時間はかからなかった。

「ターミル、本当に来てくれたのですね!」 

ノルハディヤの方から現れた。

「こんばんは」

 ターミルは浅く辞儀をした。

「こんばんは」

 ノルハディヤは、昨夜とは違うがやはり赤いドレスを着ていた。胸元の精巧な銀糸の刺繍が目を見張る。

「あなただと、すぐには気づきませんでした。まるで昨日とは別人。どこかの王侯貴族のようです」

 ノルハディヤは気品ある服装に身を包んだターミルを下から上までをじっくり見た。

「ありがとうございます。あなたと釣り合うためにできる限り身なりを整えなければ、と思いまして」

「会った時から思っていましたよ。あなたは絶対名だたる家の出身だろうと。なぜ、身分を隠そうとするのです?」

「身分など必要でしょうか? そんな話などしないでおきましょう」

 ターミルは顔の前で人差し指を立てた。

「そうですね。さあ、こちらに来てください! お酒を用意しておきました」

 ノルハディヤはターミルの手をとって、昨日のベンチへ連れてきた。そこにはすでに酒のボトルが一本と銀のグラスが二つ用意されていた。二人はそこに腰を下ろした。ノルハディヤが二つのグラスに酒を注いだ。酒は透明な緑のような青のような不思議な色をしていた。

「こんなお酒は見たことがありません。一体、何というお酒です?」

 ターミルはグラスを掲げて、月の光で液体を窺った。

「これはファルゴラーレというお酒。真澄の月光と夜のしじま、翡翠の緑がつくりだした珍酒。とても強いお酒です。一口飲めば、このお酒に魅了されるはずです。さあ、乾杯をしましょう!」

 ノルハディヤは揚々とグラスを掲げた。

 ターミルはノルハディヤの説明の意味がまったくわからなかった。本当のところ、怪しげに思った。だが、今までに嗅いだことのないとても良い香りに抗うことはできなかった。

 彼もまたグラスを掲げて、グラスを打ち合わせた。その酒を味わっていくと、ターミルはからだの芯から熱がこみ上げてくるのを感じた。気持ちよい酔いの熱。

「どうです?」

 ノルハディヤはターミルを下から見上げるようにして、彼の瞳を見つめ、ベンチの上に置かれた彼の左手に手を重ねた。

 ターミルは、今顔が徐々に赤くなっていっているのではないかと感じた。頬が熱い。心臓の音も体中に響くように高鳴っていた。ノルハディヤの瞳に引き込まれ、その手が柔らかくて、彼女の手を握った。それにノルハディヤは驚くことなく、握り返した。

「なんだか恐いです」

 ターミルは情けないことを呟いてしまった、と思ったが、それは真実の感想だった。目の前の美にいつか覆われてしまうのではないかという恐怖。

「何が恐いのです? ここは幸せになる祭りです」

「だから、恐いのです。……幸せすぎて、いつかここから出られなくなるのでは、と思いまして」

 ターミルは笑って、ノルハディヤの頬を撫でた。指に吸い付くように柔らかく、滑らかな肌だった。

「出られなくていいではないですか。幸せなのはいいことですよ」

 ノルハディヤも笑い、彼女の頬を撫でるターミルの手に自分の手を重ねた。

「ですが……そうはいかない」

 ターミルはノルハディヤの肌の感触を愛おしく思いながらも、胸がずきずきするのを感じた。

「なぜです? ここにいて、楽しく過ごしましょうよ!」

 相変わらず、ノルハディヤは美しく、女神以上に人を惹きつける、本能に訴える笑顔で首を傾げた。

「現実がありますから」

 ターミルは胸の痛みが一層強くなったのを感じた。兄弟たちの死。彼の支持者たち。彼の立場。そして、世の中から“死のゲーム”を隠蔽する白亜の壁。それらは、彼の胸の内に呼吸を妨害する石のような塊を形作った。ここの幸せを知らなければ、できなかった塊。ここの幸せを知ったからこそ、彼は現実を恨んだ。

「けれど、せめて夜だけはここに来たい」

 この幸せがなければ形成されなかった塊を消すには、もはやこの幸せに浸り我を忘れることだけ、ということをターミルは知っていた。

 ノルハディヤは、月の光のように優しく笑った。

「毎夜、毎夜、あなたを待ちますから」

 彼女は頬を撫でていたターミルの手から自分の手を放し、立ち上がった。

「今日も踊りましょう」

 彼女は繋いでいたターミルの手を引っ張った。炎を囲む輪に加わろうとする。だが、ターミルは手を放した。

「すいません。今日はもう帰ります。でも、明日は踊りましょう」

 

 ターミルは再び馬を借りて、家へ帰った。彼は自分の気持ちを抑えるだけで精一杯だった。ノルハディヤの笑顔は彼にとって危険な美しさだった。彼の心を優しく包み、満たし、彼女のこと以外を忘れさせるような魔法だった。肌の温もりから離れるのが恐ろしく、瑞々しい唇に触れたかった。この感情を何と呼ぶかは分かっていたが、真に認めるのは怖かった。それを認めれば、生に対するあきらめを失ってしまうだろう、と彼の中で何かが忠告していた。生に恋すれば、それは“死のゲーム”から逃げること。または……。

 家に着けば、白い壁が彼の熱気を奪った。高く天へ伸びるそれは、さながら、彼を囚人であるかのように冷たく扱う牢獄だった。ここの牢獄の最高責任者になるには、生に恋して“死のゲーム”を全うすること。

 彼は牢獄を嫌い、毎夜毎夜、家を抜け出しては祭りへ、ノルハディヤの元へ向かった。彼の支持者たちには小言を言われたが、何よりも頭に浮かぶのはノルハディヤだった。生に対するあきらめを失うのが怖くとも、やはり、ノルハディヤと過ごす毎夜が待ち遠しかった。


 今夜、ターミルはノルハディヤへの贈り物を携えて、祭りへやってきた。

 祭りの会場に着くなり、彼はノルハディヤと初めてお酒を飲んだベンチへ駆けていった。ベンチに着けば、ノルハディヤが笑顔で、酒が注がれたグラスを彼に渡した。そして、グラスを打ち合わせ、酒を呷る。これが習慣になっていた。

「ノルハディヤ。今日は、渡したいものがあるのです」

「あら、何ですか?」

 もちろん、ノルハディヤはターミルが何かを持ってきているのには気づいていた。彼女は、彼が背後からそれほど小さくはない箱を取り出すのを見ていた。

「これです。気に入ってくださるといいが」

「今、開けていいですか?」

「どうぞ」

 ノルハディヤはターミルから箱を受け取り、百合の花が彫られた箱の蓋を開けた。

「まあ、これは……」

 それはシルクのショールであった。闇夜の色と月光の色のグラデーションのそれは、一言では言えない神秘の美しさを持っていた。ある角度からは、それは小麦畑の妖精の表情を見せ、ある角度からは深い森の湖の瞬きのようであった。

「美しいわ。私には勿体ないほどの」 

「いえ、あなただからこそ、似合うだろうと確信しましたよ」

 ターミルはノルハディヤの手からショールを取ると、それを彼女の肩にふわりと掛けた。

「これで、肩を冷やさないようにしてください」

 ターミルがそう言うと、ノルハディヤは小さく吹きだした。

「保護者みたいな言い方ですね」

「そんなことはありませんよ。あなたが、そんな風に肩を出しているから」

 笑われたターミルは眉をひそめて不服を示した。

「肩も女の魅力の一つ。それとも、私の肩は見るに耐えられないかしら?」

 ノルハディヤは意地悪そうに肩眉を跳ね上げた。

「そういうわけではありません。ただ……」

 ターミルは言葉を失ってしまった。そんな彼を見て、ノルハディヤはくすくすを笑う。彼は、そんなノルハディヤの揺れる肩がショールに包まれているのを見て、安心した。ノルハディヤの細い肩は頼りなく、ターミルを不安にさせていたのだ。

「今日はグラートの日。私の歌を聴いてくれますか?」

 ノルハディヤは立ち上がって、ターミルに礼をした。

「あなたも歌うのですか! もちろん、よろこんで」

 今日の祭りはいつもと違っていた。一人ずつ楽団の演奏に合わせて、情熱的な歌や朗らかな歌や悲しい歌を歌っていた。歌の言葉はターミルの知らないものなので、その意味は理解できなかった。だが、どの歌い手も上手なので、その雰囲気は伝わってきていた。  

 炎の前にいる者が歌い終わった。やはり上手なもので、拍手が沸き起こった。だが、それよりもターミルは、ノルハディヤがどのような歌を歌うのか待ち遠しかった。

 ノルハディヤは、ターミルから贈られたショールを肩に掛け、炎を取り囲む輪の中心へ歩いていった。彼女がお辞儀をすると、楽団が演奏を始めた。

 雲の隙間から月が光を投げかけ、風が一筋、彼女の髪を揺らした。

 彼女は歌い始めた。

  

 月はまだ仮面を被ったまま

 あなたを迎える光は偽り

 狩が始まり いい男を探す

 私の魂を揺さぶるほどの魂を


 探し出した あなたという命

 酒という魔法があなたを捕らえる

 笑顔が味付け 美しいあなた

 あなたの命は私にとっての魔法

 

 指が触れた時に思うことはこんなこと

 あなたの肌は柔らかくっておいしそう

 あなたのワインの血は鮮やかで蕩けそう

 なんてすてきな贈り物なのかしら


 私が毎夜思うことはこんなこと

 あなたの血潮が私の喉を下っていく

 あなたの肉が私の命を作っていく

 なんて素敵な贈り物なのかしら


 月が素顔を現す夜に

 二つの魂は一つになる

 燃える炎を感じ 眠るあなた

 そんなあなたはすでに私の魂

 

 月が仮面をとるまで

 幸せな夢をみせましょう


 ノルハディヤが歌い終わると、拍手喝采が沸き起こった。炎さえも燃え盛って、彼女を讃える。立ち上がって、ターミルも拍手を送った。何を歌っているのか全く分からなかったが、彼は自分に送られた歌のように感じていた。乙女が月夜にバルコニーから想い人にあてたような切なさがあり、だが甘美で情熱的な響きを持っていた。

 ノルハディヤがターミルの元へ帰ってくると、二人は抱擁を交わし、ターミルはノルハディヤを褒め称えた。

「あなたの歌声を聞いたら、だれもがあなたに恋しますよ。あなたは世界一の歌姫です。ぜひとも、わが城にきていただきたい」

 ターミルはノルハディヤの手を握って、そう言った。その何気なく言った言葉にノルハディヤは引っかかりを覚えた。

「あなたの……お城?」

「あ、いえ、その、我らの君主のもとで、という意味です」

 ターミルは慌てて取り繕った。

「嘘は見逃せませんわ。あなたは国王陛下でいらっしゃるの?」

 ノルハディヤは一歩下がり、恭しく頭を下げた。

「ご冗談を。まさか、まさか。それに、国王陛下はご逝去されたばかり。今は、次期国王を待っているところです」

 頭を下げてしまったノルハディヤを下から覗き込み、ターミルは誤解を解こうとした。だが、ノルハディヤは訝しげに眉をひそめたままで、再び彼に質問をした。

「では、もしかしたら王子さまでいらっしゃるのでは?」

「王子? 王子がどうしてこんなところにいると思いますか? おかしなことを言いますね?」

 ターミルは大げさに笑いながら、ベンチに腰を下ろした。

「さあ、一杯どうですか?」

 ボトルを持って、彼はノルハディヤに座るよう促した。

「いつか、あなたの正体を暴いてみせますわ」

 強気にもそう言うと、ノルハディヤはベンチに座り、グラスをターミルに差し出した。ターミルはそこに酒を注ぎ、自分の分にも注いだ。

「とにかく、ありがとう。この、ショール。それから、歌を聴いてくれて」

 ノルハディヤはグラスを両手で抱え、一気に飲み干した。

「今日はいつもより温かい夜だわ」

 彼女はグラスを傍らに置くと、ターミルの肩へもたれかかった。

 ターミルもまた、飲み掛けたままであるグラスを置くと、酔いのせいか上気したノルハディヤの頬に手をあてた。

「ありがとう、と私こそ言わなければなりません。歌を聞かせていただいて、あなたに感謝します。それから、誰に感謝すればよいのか。あなたに出会えたことに感謝します」

 彼はショールの上からノルハディヤの肩を掴み、彼女のふくよかな唇に自身の唇を重ねた。無条件に沸き起こってくる感情など、抗えるものではない、と彼は悟った。


 今日は良い夢を見るだろうと夢見心地に思いながら、ターミルは馬上からノルハディヤにお休み、を言った。

 彼は、今まで生きてきた中で一番心が優しくなった気がした。世界は幸せでできているのだ、と言ってしまえるほどであった。

 黒馬の上で流れていく風に愛撫されながら、ノルハディヤが見えなくなるまで、彼は手を振り続けた。そして、彼女の姿が小さくなって消えてしまうと、後は冷たい空気と暗い通りが彼を迎えるだけだった。それでも、彼の頭の中では祭りの楽団が演奏し続けていた。情熱的な曲もしんみりした曲も、今夜祭りで聞いたあらゆる音が彼の興奮を蘇らせていた。ノルハディヤの歌う姿が、目の前にいるかのような鮮明さで頭の中で再生された。もっと言えば、あたかも彼女が彼の瞳の中に入り込んでしまったかのような鮮明さであった。唇には、まだ彼女のそれの感覚が残っていた。柔らかで、瑞々しい温もり、そして、酒のほろ苦さを思い出して、彼は自分の唇を指でなぞった。


 ターミルの姿が見えなくなったのを確認すると、ノルハディヤはくるりと背中を返して、踊りの輪に加わろうと駆け出した。だが、何者かがその肩を捕らえた。

「まあ、シャーヒド」

彼女が振り返ると、そこには大柄でスキンヘッドの男が立っていた。

「うまくいっているようだな」

 彼は唇の端に笑みを浮かべて、ノルハディヤの肩を叩いた。

「もちろんよ。この私は失敗しないわ。彼ったら、こんな素敵な贈り物までくれたわよ」

 ノルハディヤは光の加減で表情を変えるショールを広げて見せた。

「私に夢中みたい」

 彼女はほくそ笑んだ。ところが、反対にシャーヒドは笑みを消し、真面目な顔で言った。

「おまえもはまりすぎないよう気をつけろ」

「何を言ってるの!? 相手は、相手は獲物よ! いつだってうまくやってきたわ」

 ノルハディヤは目を大きく開け、馬鹿にしないでと言わんばかりに、つんと顎をあげて腕を組んだ。

「だが、目がこれまでと違う」

 そう言うだけ言うと、シャーヒドは立ち去っていった。その背中は荘厳を絵に描いたようだった。見る者に畏敬の念を抱かせるが、近寄りがたく、侵しがたい。故に、獲物は彼に引っかかりにくい。それに比べ、ノルハディヤは獲物を引き寄せる魅力があると自負していた。

 どうせ、シャーヒドの妬みだろう、とノルハディヤは鼻で笑った。

 彼女は、炎を囲んで享楽する踊りの輪に加わった。



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