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第二章 犠牲者

第二章犠牲者


「汗を掻いてしまいましたよ。でも、もう汗だか酒だかわからなくなってしまいましたが。とても楽しい」

 休憩するために、最初に二人で酒を飲み交わしたベンチへやってくると、ターミルは満足そうな笑顔でそう言った。

「私もとても楽しいです。今日は特別に楽しい。お酒のシャワーも浴びて、すっきりしました。髪も服もべたべた」

 ノルハディヤは肩を竦めて、朗らかに笑った。彼女は酒を含んだ髪を右肩で集めると、ぎゅっと絞った。酒が線になって地に落ち、水溜りをつくる。

「どうぞ、お使いください」

 苦々しそうに顔を歪めたノルハディヤの目の前に白いハンカチが差し出された。ノルハディヤが顔を上げれば、ターミルが微笑んでいた。

「ありがとう」

 ハンカチを受け取り、まずノルハディヤは顔を軽く拭くと髪を拭いていく。

「気が利きますね。あなただって、濡れているのに」

 目を逸らして控えめに言うノルハディヤの唇は綻んでいた。

 ターミルはこの隙に炎に照らされた彼女の顔をじっくりと観察することにした。

 湿った髪が張り付くノルハディヤの頬は上気し、意志の強い目を縁取る睫毛は酒に濡れ、絶妙なシルエットの通った鼻梁を汗か酒かが伝う。そして、ふくよかな唇はみずみずしいさくらんぼうのようで、一言で言えば魅力的だった。

「大丈夫。そんなに必死にならなくても、その美しさは損なわれません」

 ターミルはノルハディヤの目に掛かる髪を除けながら、夢見心地でそう言った。

 ノルハディヤははたと手を止め、ターヒルに見入ると、吹き出した。

「ずいぶん酔っているようですね。もうこれ以上のお酒はあなたを獣に変えてしまいそうだわ」

「酷い! 笑うことはないのではないですか! 褒めているのですよ。あなたはすぐ人を馬鹿にする」

 ターミルは一気に夢から引き戻された気がした。顔を顰めるのを忘れない。

「ありがとう。でも、今の台詞はあなたには似合わないわ。恥ずかしがりやだと思ったのに、よく私の顔を見てそんなことを言う」

「似合わなくて、すいませんね」

 ターミルは膝の上に頬杖をついて、ノルハディヤから顔を逸らした。彼はどうにもノルハディヤの手玉に取られているよう気がしてならなかった。

「このハンカチは洗って返します。もし、あなたが明日もこの祭りに来てくれるならいいのですけど」

 ノルハディヤはハンカチを絞った。酒か汗かが音を立てる。

「明日もこの祭りはやっているのですか? いつまで続くのです?」

「赤い月が出る日まで」

 金色に輝く月を眺めながら、ノルハディヤは口角をきゅっと上げて、小さく笑んだようだった。

「赤い月ですか?」

 赤い月など見たことがないとターミルは思ったが、そんなことより、ノルハディヤとまた会うことが出来るのかどうかという方が彼には重要だった。

「あなたは明日もこの祭りにくるのですね?」

「ええ。この祭りが終わるまで毎日、私はこの祭りに来ますよ」

「それは良かった! では、明日もここに来ます! ああ、ハンカチは持って帰ります」

 ターミルはノルハディヤの手からハンカチを抜き取ると、キュロットのポケットに突っ込んだ。

「ああ、洗っておきますのに」

 ノルハディヤは驚いて手を伸ばすが、ターミルはやんわりと断った。

「もうそろそろ帰らなければ。また、明日」

 ターミルは立ち上がって、頭を下げた。

「待って。では、馬をお使いください」

 ノルハディヤが言うと、どこからともなく嘶きと共に黒い馬がたてがみを風に流して走ってきた。酔いしれる人々の合間をたくみにすり抜け、ターミルの前で止まり、静かになった。

「ありがとうございます。こんなにも美しい馬を」

 ターミルは、銀に輝くような馬のたてがみを撫で、その触り心地に息を呑んだ。

「その子はとても賢いから、あなたの家まで近くて安全な道を選んで、乗せていってくれます。……さあ、最後に一杯どうぞ」

 ノルハディヤは、いつの間にか用意していた酒の注がれたグラスをターミルに差し出した。 ターミルは実際、もう酒は十分だったが、鼻を掠めたそのいい香りに思わずグラスを手にとってしまった。

「ありがとうございます」

 彼はそれを一気に飲み下すと、ノルハディヤにグラスを返し、馬の背に上がった。

「必ず、明日来てくださいよ。待っていますから」

 ノルハディヤは馬上のターミルを見上げて微笑むと、馬が出発できるように数歩後ろへ下がった。

「もちろんです。では、また明日!」

 ターミルが馬のわき腹を軽く蹴ると馬は風に乗るように走っていた。

 あっという間にターミルを乗せた馬は木々の間に消え、蹄の音も遠のいていった。

 風が過ぎていって、また祭りの喧騒がノルハディヤの耳に戻ってきた。彼女は、先ほどターミルに渡したグラスに今一度酒を注ぎ、最後の一滴まで味わうと祭りの輪に戻っていった。


 ターミルは馬上で風を受けながら、何か聞き忘れていることがあるのではないかと、ぼんやりと考えていた。それが何だったのかは思い浮かばない。だが、もしそれが重要なことならば、あとで思い出すこともあるだろう、と彼は頭を横に振った。

 馬はターミルの誘導なしでも迷うことなく石畳の道を駆けていった。真夜中にも関わらず、人が群がっている通りもあったが、それを馬はうまく避けていった。その足の速さに関して言えば、ターミルが今まで乗ったどの馬よりもはるかに早く走った。空を走るかのような勢い。だが、振り落とされないようしっかりしがみついておかなければ、というようなことはなかった。受ける風は頬を撫でていくような優しさで、振動も鼓動と共鳴し合うような心地よさがあった。ターミルはこのまま馬上で眠りに落ちてしまうのではないかと思った。時間も時間であるし、酒も回っている。少しぐらい目を閉じても、この賢い馬なら心配ないだろう、と彼は瞼の意思に従おうとした。その時、馬が足を止めた。早くも家に辿り着いてしまったようだ。ターミルは渋々眠い目をこすり、馬から降りた。彼が馬から下りてしまうと、馬は再び風のように去っていってしまった。

 一人残されてしまうと、寒気が彼の背筋を這い上がってきた。夜の寒気というよりも、目の前にそびえる彼の家から冷え冷えとした空気と緊張感を感じ取ったからだった。

 月の光を受けた白亜の壁は、ターミルから祭りの興奮を奪い取った。熱狂なんてものは、この“聖域”に立ち入るのを禁止されているかのように。

 裏門にまわり、自分で秘密裏に作った鍵でその門を開けた。

 この時期、門番はいない。門の番より派閥に所属することの方が大切だ。そして、門を守るより派閥のリーダーを守ることが望まれるのだ。

 門の中に入れば、空気は一層緊張感を帯びた。ターミルの右手は自然と腰から提げられたサーベルへ伸びる。彼はその柄を握って、いつでも抜刀ができるよう備えをする。ついこの間まで手入れされていた庭園をできる限り陰を通って抜けていった


 真夜中の静けさが廊下を満たしていた。だが、全てが眠っているわけではない。息を殺して暗闇から目を光らせる者がいるかもしれない。

 ターミルが廊下の角を曲がろうとしたときだった。すすり泣く一人の女の声が聞こえた。それと、幾つかの男の声。

 ターミルは足を止めた。

「サラム。ああ、なぜなの……嘘でしょ?」

 その声はジャミーラだった。彼の妹。彼らの兄弟の中で唯一の女子である。

「こんなの嫌よ……サラム……サラム……」

 震える声で囁くジャミーラは泣きやむことを知らないかのようだった。止めようにも止まらない嗚咽が廊下に響き渡る。悲愴な場面であった。

 サラムは長子であった。兄弟たちの中で最も聡明で勇敢であった。ターミルは彼と張り合いながらも、尊敬していた。そんなサラムは最近、ジャミーラとの仲を噂されていた。ジャミーラはサラムの傍らを一時も離れることがなかったという。もともとたった一人の妹を大事にしてきたサラムだが、その保護は過ぎるものではないか、二人はまるで愛し合っているようだ、と周りの者たちは囁きあった。

 ターミルにはわけが分からなかった。ジャミーラは“死のゲーム”への参加を宣言したのに、その宣言後、彼女は大人しくサラムに付き従っているだけだったのだ。本当に参加する気があるのか、それともこれが策略なのか。ジャミーラは活発であり、大人しいという性質ではない。

「ジャミーラ。お前はどうしたい?」

 男の声が聞こえ、ターミルはおずおずと様子を窺った。

 二番目の兄、アサドであった。娯楽好きであったが、剣の腕前はなかなかのものであった。

 アサドは支持者たちを連れ、座り込んだジャミーラに剣を向けていた。ジャミーラは剣など気にならないといった様子だった。涙をひたすら流し、動かないサラムのからだを抱きしめていた。

「“愛しい”サラムの後を追うか?」

 アサドが皮肉な笑みを浮かべたときであった、ジャミーラはびくっ、とひきつった顔を上げた。そこには恐怖が表れていた。

「死にたくないか? ジャミーラ」

 アサドは剣の切っ先でジャミーラの顎を撫でる。

「アサドお兄様。私は……死にたくありません。だから……だから……何でもしますから……」

 ジャミーラは床に手を付き、涙に濡れた黒い瞳でアサドに請うた

「都合のいい事を言うなぁ」 

 ジャミーラを見下ろして、アサドはくつくつと笑う。

「では付いて来い」

 とうとう、アサドは剣を鞘に納め、ジャミーラに背を向けた。

「イフラース、ハーシウ。サラムの始末をして来い」

 二人の従者にそう命令すると、アサドは歩き出した。その後を彼の従者に囲われてジャミーラが付いていく。俯いて、口元を押さえながら。

 後には二人の従者が残された。その二人はこれからサラムの遺体を墓に埋めにいくのだ。

 ターミルは一歩後ずさりすると、音を立てないように廊下を引き返していった。やはり、サーベルの柄へ手が伸びるのは抑えられない

 静かな暗闇から敵は隙を窺っている。

 ターミルは一瞬たりとも緊張を解けない。

 しばらく歩いて、彼は一つの部屋の扉をゆっくりと開けた。どんな息遣いをも逃さないよう耳をそばたて、夜行生物のように目を光らせ、開けた隙間から部屋を窺った。右手は柄を強く握る。影よりも身を潜めて部屋に滑り込んで、すばやく、だがやはり静かに扉を閉めた。

 ソファを認め、彼はそこへ足を運んだ。どうやら、他にだれもいないらしいので、緊張を少しだけ解き、彼はソファに身を沈めた。右手は柄から離れ、両目を覆った。

 この部屋は元来、客間であった。ここを訪れた高貴な人々を通し、使用人たちが茶や菓子を出して、賑やかな談笑が行われていた。ここしばらく、そんな活気は遠のいている。今は使用目的を失っている。

 談笑の代わりに、ターミルの目を覆った手の下から涙が零れた。それは、彼の頬の上に軌跡を残し、膝の上に落ちて、染みをつくった。

 彼が尊敬していた兄の温かな笑顔は奪われてしまったのだ。


 夜の次には朝が来る。孤独に同情してくれる闇は去り、自分勝手に微笑み、世の中の広さを示すだけ示して突き放す朝がやって来る。

 ターミルは自室で肘掛け椅子に座っていた。右手には一冊の革張りの本。夜の間、ランプの光を頼りにそれを読んでいた。今は薄いカーテンを通り抜けバルコニーから差し込む光があるので、ランプは必要ない。

 本はほとんど読み進められていなかった。死んだサラムのこと、それを殺したアサドのこと、泣き続けたジャミーラのことが頭の中から離れなかったからだ。気を紛らわそうと思って手に取った叙事詩も役には立たなかった。それでも、夜の殻に閉じこもっていられた間は良かった。今は太陽が外に出よと手招きをしてくる。この日に限って、朝のなんと晴れやかなことか。彼は暗く沈んだ自分が見下されているような気がした。

 昨日までで、五人の兄弟が死んだ。

 自分がいつ殺されるか、という恐怖より、身内で殺しあわなければならない虚しさが彼の心を覆っていた。

 彼はしおりを挟んで本を閉じ、サイドテーブルに置いた。立ち上がるとバルコニーへ向かい、カーテンを開けた。バルコニーには二人の兵士がいた。一人は壁にもたれ、浅い眠りに入っている。もう一人は背筋をピンと伸ばした兵士で、彼はターミルに気づいた。ターミルはガラス戸を開けた。

「おはよう、アースィム」

「おはようございます。ターミルさま」

 ターミルが声をかけると、背筋を伸ばした兵士は頭を下げた。

「警備、ご苦労だった。ハーリスは眠っているのか」

 ターミルは壁にもたれている兵士を見た。その時、その兵士はターミルの気配を感じたのか、目を開け、あたふたと身繕いして立ち上がり、敬礼した。

「失礼いたしました! これは決して怠けていたのではなく……」

「分かっているよ、ハーリス。休憩の時間だったのだろう? 邪魔をしてすまない」

 ハーリスは敬礼したまま、目を伏せた。

「二人ともご苦労であった。もう、私は起きたので、バルコニーの警備は必要ないよ。また、私が呼んだ時に来てくれ」

「ですが、どこからターミルさまのお命を狙う矢が飛んでくるかわかりません」

 アースィムは仁王立ちになって、この場を離れない、という意思を表した。

「心配ありがとう。だが、このように一日中、まるで監視されているように警護されていても、気持ちが落ち着かないものでね」

「たしかに……そうですね。ですが、昨日のようにたったお一人で町へ繰り出すなんてことなさらないでください。なんという恐怖だったことか。あなたには監視も必要なのです」

「わかっているよ、アースィム。ハーリスも疲れているようだし、小言はやめて早く休憩に行くといい」

 言葉の切れないアースィムの背を押して、ターミルは兵士二人を廊下へ追い出した。

 一人になると、ターミルは部屋の扉を閉めて、バルコニーのガラス戸を閉め、カーテンまで引いた。部屋は当然暗くなり、戸の向こうの鳥の鳴き声が遠くに感じられた。

 彼はベッドに潜り込んだ。夜に眠らなかった分を取り返そうという魂胆だ。そして、今夜に備えて。

 目を瞑ると、さらに闇が広がった。ターミルは寂しさを感じたが、それはやがて安堵へと変わっていった。

 気がかりなことは全て断ち切られた。闇が外界から彼を切り離し、一切の煩わしさを取り除く。柔らかく、優しく、緊張した心を徐々にほぐして、闇は彼を眠りの世界へ導いていく。静寂の世界、安寧の世界、庇護の世界。いつしか、ターミルの寝息が部屋に漂い始めた。


 太陽が今日最後の光を地平線に投げかけるころ、ターミルは鏡の前で身支度をしていた。髪を丁寧に梳き、輝くその金髪を深緑のリボンで結んだ。首にはリボン結びにしたスカーフ。町で目立たないように飾り気はないが、彼は、ノルハディヤと並んで恥ずかしくないようにできる限りを尽くしたつもりだ。昨夜の悲惨なぼろとは違う。

 ターミルは心が浮きだっているのを感じた。昼夜が逆になって、いつか夜行性になってしまうのではないか、と思ったが、それでも心が浮き立つのを抑えられなかった。昨日、ここに帰ってきてからの息苦しさはどこにもなく、幸せだった。だが、悲しいことに、彼にはこれ以外の幸せを見つけられなかった。

 彼は、部屋の前で警備をしている二人の兵に対して、隣の衣裳部屋から何か物音がする、と嘘をついて見に行かせると、その間に部屋を立ち去っていった。


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