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第一章 酔夢

    第一章 酔夢

 

“国王がご逝去なされた”

 すぐに知らせは国中に駆け巡り、国を挙げて喪に服することとなった。華やかな祭りは中止され、通りを飾る鮮やかな色彩は取り払われた。

 対して、宮廷では鮮やかな赤が目に付くこととなった。以前から行われていた死のゲームがその激しさを増していったのだ。


 ターミルは家を抜け出してきたところだった。寂々とした夜の中、ふらふらと一人で散歩をしていた。こんな夜の一人歩きは危険なものである。すぐそこで盗人が待ち構えているかもしれない。どこに彼の命を狙う者がいるかもわからない。だが、彼はぼろに身を包んでいた。これなら少しは危険が減るだろうと考えたのだ。誰もこんなぼろを着た人間が盗む価値のあるものを持っているなんて考えるはずがない。 

 彼は気の向くままに道を折れ曲がり、下り、上っていった。家の窓から町を眺めることはよくあったが、町に出ることは少なかった。だから、町の地理には明るくない。それどころか、町を一人きりで歩いたこともなかった。それ故、ただ足が向く道へ歩いていくしかなかった。それでも、彼にはちゃんと家に帰れる自身があった。どこからでも彼の家は見えるのだ。

 彼は、好奇心で、駆け引きの声が上がる市場に入った。また、冒険心で、暗く人気のない裏路地へも入った。そして今、彼は家もまばらな道を森に沿って歩いていた。さすがに森に入るのは躊躇われた。それに森の奥からは一筋の煙が上がっている。火事だろうか。だが、彼の耳には届いたのだった。笛の細い音。いや、乙女の歌声。いや、震動する太鼓の音。いや違う、雑多な人の話し声。木々の間から漏れる音は、しかしそれら全てを含んでいるようだった。

 祭りなどあるはずがないのだが、と彼は心の中で囁いた。

 森の調べに誘われて、彼は恐れも知らずその中へ足を踏み入れた。

 

 森の調べがターミルを導いていく。調べが彼に行き先を教え、彼は足を止めなくてもすんだ。しばらく調べを追っていくと、熱狂の色が彼を包み込むように不意に音楽が空気に満ちて、闇を照らし出す炎の音が耳に届いた。

 彼はからだの芯から熱いものが引き出されるさまを感じた、煌々と輝く炎が眩しく、雑多な音の中の情熱的なリズムが彼の全身を刺激した。彼はこの高まりにからだを酔わし、聴覚を刺激する情熱に喉を鳴らした。

 激情、躍動、歓喜、本能……こんな感覚、ターミルは初めてだった。

 そこには何の策謀もなく、何の虚栄もない。虚しい王冠の争いもうわべの褒めごとも存在しないようだった。

 彼はそれに激しく惹かれた。たとえそれが王の喪に服すこの時期に逆らっていようとも、彼はそこに混じらずにはいられなかった。

 彼は木の枝を掻き分けて、ブロンドの髪に葉が引っかかるのも構わず、祭りの敷地に出た。目に飛び込んできたのは明るい光。中央に君臨する炎を囲って、男女が踊ったり歌ったり楽器を演奏したり。酒を呷って、酒に飲まれて、ボトルを抱えて夢に旅立ち、ボトルを片手に陽気に歌う。笑いが彼の耳をつんざき、酒気が彼の鼻を覆った。

 これは庶民が行う凡俗な祭りだ、彼は思った。けれど、その凡俗なものに心が捕らわれていることを否めなかった。耳慣れないリズム、耳慣れない和音、耳慣れない旋律に包まれて、彼はしばし、軽快なダンスに見蕩れた。そこへ、その視界に一人の女性の姿が入った。その表情ははっきりとは見えないが、彼は彼女と目が合った気がした。

「どこの坊やかしら? その顔は見たことがない気がするけれど」

 女性もターミルに気づいたようで、炎を囲む輪から離れて、緑のボトルを片手に少々左右に揺れながら、ターミルの方へ歩いてくる。その長身はワインレッドのドレスに包まれ、金の刺繍が施された裾を足元で揺らしている。艶やかな黒い髪は波打って光を反射し、何も飾りを付けていないのに、それだけで豪華だった。曲線を描いた細身のシルエットは美しく、顔を横に向けたときのその輪郭といったら、なんという鼻梁だろうか。その高い鼻は自信を表していながら、繊細であった。飾りなど、手首で揺れる腕輪だけなのに、ターミルが今まで見てきた女性の誰よりも豪華で優美で繊細であった。

「あなたは……」

 炎の女神か、そう喉まで出かかった言葉を彼は飲み込んだ。

 彼はそこでたちまち恥ずかしさを感じた。こんなに素晴らしい女性の前で、彼は対等に渡り合えるような立派な身なりをしていなかった。土と泥に汚れたぼろが彼の服装だった。だが、思い直して、彼は背筋を伸ばし、顎を引いて、顔に柔らかな表情を浮かべ、そして最後に深く辞儀をした。田舎ものではない、まるでどこかの貴族であると言うかのような身のこなしであった。

 そんなよそ者のターミルの様子は赤いドレスの女性にとって異様であったのかもしれない。彼が頭を下げた途端、女性は立ち止まった。ほろ酔い気味でありながらも、彼女は首を傾げて、分析するかのように細部にまで目を配りつつ、ターミルへ近づいていった。

 女性が不審とするのも当然のことであった。ターミルは貧しそうな身なりとは不釣合いに、教育を受けたものだけが持ち得る品格に溢れ、肩にかかるブロンドの髪は十分に手入れされており、端正な顔には貧乏人の苦労の跡など表れていなかった。

「あなたのお名前は?」

「ターミル」

 ターミルは答えたが、名字は言わなかった。

「私はノルハディヤ。ようこそ」

 女性はボトルを持っていない手でスカートの裾を少し持ち上げ、頭を下げた。

「ノルハディヤ……それは、素敵な名前です」

 ターミルはどこか恍惚として“ノルハディヤ”を発音した。 

「暗い夜の光明を見つけた気がします。ここに辿り着いたのはきっと光のお導き。久しぶりに楽しい時間がすごせるような気がします」

「それならば、さあ始まりのお酒をどうぞ!」

 ノルハディヤは広場の隅の木のベンチへターミルを案内し、そのベンチの上で寝息を立てている酔っ払いから彼が抱えているボトル抜き取ると、酔っ払いを転がし落としてターミルにベンチを勧めた。手荒なのではないかとターミルは思ったが、酔っ払いは気持ちよさげに眠っているので、ノルハディヤの勧めに応じた。

「さあ、これはあなたに」

 ノルハディヤは彼女が最初に手にしていた緑のボトルをターミルに渡し、ターミルの隣に腰を下ろした。

「美しいお客へ乾杯!」

 ノルハディヤが声高く告げると、二人はボトルを打ち合わせて、それごと酒を呷った。

「……何かあなたは妙なことを言いませんでしたか?」

 ターミルは酒をよく味わい飲み下すと、俯いてそう切り出した。

「いいえ、妙なことなど言っていませんよ。よそからの訪問者は珍しい上に素敵な男性が来てくれたのですもの。美しいなんて言われ慣れているのではないのですか?」

 そう言って、ノルハディヤはくすくすと笑った。

「それはあなたこそではないのですか?」

 ターミルは顔を上げて、炎の光に照らされたノルハディヤの顔をちらっと見ると、そう言ってまた顔を下に向けた。

「ねえ、なぜそんなに下を向いているのです?」

 ノルハディヤはまたくすくす笑うと、ボトルを置いて、ターミルの方へからだを向けた。

「恥ずかしいのですか?」

 そう言って、ノルハディヤは両手でターミルの頬を挟んだ。

 ターミルは、女神のようなノルハルディヤが実は意地悪なのではないかと思った。なざなら、今悪戯に微笑んだ彼女の顔が彼の顔のとても近くにあったからだ。

「あなたは不思議です。この服はあなたには似合わない。何かを隠しているような、気がします」

 両手でターミルの顔を持ち上げたノルハディヤは、正面から彼の瞳を見つめた。いや、見ているのは、瞳の奥の心の奥だったかもしれない。

ターミルは恐ろしくなって、目を逸らした。

 ノルハディヤの目は心の奥を見透かすようなではなく、見透かす力を持っていると確信させる薄ら寒さがあった。瞳から心の中へ入り込み、その奥にある扉を開かれるところで、ターミルは目を逸らした。

「不思議なのはあなたです。……いえ、この祭り自体が不思議です。今は王の喪に服す期間。こんな祭りを開いていることが知れたら、あなたがたは処刑ですよ」

 ターミルは、ここに足を踏み入れる前に思った疑問を口に出した。どうでもいいようなことに感じたが、今は何か別の話題が欲しかった。

「この祭りは大切な祭りなのです。命と同じ様に。……どんどん飲んでください。お酒はたくさん用意していますから。お口に合わないですか?」

 ノルハディヤはまたボトルを手に取ると、勢いよく飲み干した。ターミルはそれに圧倒されたが、女性がこんなにも酒を呷るのを始めてみたターミルにとって、それはいっそ快いものだった。つられて、彼もボトルを飲み干し、二人は空のボトルを打ち合わせると顔を見合わせて笑った。

 ターミルは頭がすっきりして、今は難しい考え事はよそうと思った。

「おいしいお酒です。これはぜひとも家に持ってかえって――」

 ターミルはそこで言葉を切った。せっかく気分が良くなったのに、もう少しで悲しいことを思い出すところだったのだ。この楽しい場所で涙を流すことはない、と彼は思った。

「まだ飲みますか? それとも、踊りません? あの輪に混じって」

 ノルハディヤはターミルの両手を掴んで、彼に笑みを見せた。

「ええ! ああ、でも踊りが分からないのですが」

 彼はノルハディヤに手を引かれるままに立ち上がったが、恥ずかしそうに踏みとどまった。

「心配なさらないでください。もちろん、私が教えますし、踊り方なんてありません。思うように踊ればいいのです」

 いつもなら、男であるターミルがダンスのリードをしていたが、今は違った。ノルハディヤに手を引かれるということに、ターミルは違和感があったが、それを素直に受け入れることができた。

 炎の近くに来ると、夜の寒さを忘れる暖かさが二人を包んだ。どちらもお酒を飲んでいて、からだの中から温まっていたので、炎の熱は暑いほどであった。その熱が祭りの興奮を一層盛り上げていた。

 ノルハディヤはスカートをたくし上げ、裾を結んで丈を短くした。叫び声を上げて、輪の中に加われば、ターミルの手を引っ張って、隣に連れてくる。

「さあ、手を打ち合わせて!」

 鼓を打つリズムに合わせ手拍子をし、激しく掻き鳴らされる弦楽器とその上に重ねられる素朴な笛の音を調和させた旋律に合わせて、踊り手たちは大地を踏み鳴らし、足を打ち合わせ、足を交差させてくるりと一回転する。膝を叩いて、近くの人と手のひらを打ち合わせば、「おい!」と声をかけて、雄叫びの合唱を起こす。腰を絶妙に振る美女に酒のボトルを持った男が雄叫びを上げて近づけば、美女は男の頬をパシリと叩くことで演奏に参加する。美女たちも気に入った男を見つければ、激しく四肢を動かして男たちに口笛を吹かせる。

 ターミルは中身がありそうなボトルを見つけて、輪を抜け出した。自分の分とノルハディヤの分を手にすると、また輪に戻った。

「もう一本どうです?」

 ノルハディヤと楽しそうに笑いを交わし踊っていた男を、ターミルは半ば弾き飛ばすような形で押しのけると、ノルハディヤの手にボトルを握らせた。

「ありがとう」

 二人はボトルを打ち合わせるとラッパ飲みしつつ踊りだした。口の端から泡を立てながら零れていく酒など気にしない。炎が音を立てるのが気持ちよい。酔っ払いが落としたボトルの割れる音が気持ちよい。栓が抜ける時の空気の音が気持ちよい。誰かがボトルを振りすぎたのか、酒の噴水が上がっている。それを見たら真似をしたくなったのか、新しいボトルを手に入れ、それを踊りながら振る者たちが現れた。

「はい。あなたの分です」

 初めて見る顔のターミルを珍しがって集まった女たちの中に割って入って、ノルハディヤは栓がされたボトルをターミルに渡した。

「ありがとう」

 二人もボトルを振りながら、踊った。

 リズムを刻む鼓に合わせて手拍子をし、掻き鳴らされる弦楽器の上に素朴な笛の乾いた音が幾つも被さる。踊り手たちは胸に響く大地の唸りを紡ぎだし、幾通りもの自由なステップを作り出し、体を楽器にして笑みを交わす。それを盛大に飾ったのは高く噴き出す幾つもの酒の噴水だった。




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