またいつか、どこかで
――…ピンポーン
部屋の呼び鈴が鳴った。専用の受話器を取り、応対した。
「はい」
誰の声も聞こえない。まるでいたずらのようなシチュエーションに心が苛立った。叩きつけるようにして受話器を戻す。
――…ピンポーン
――…ピンポーン
――…ピピピンポーン
冬なのになんて懲りない奴だ。
彼女は思いきって玄関を開け、その懲りない奴を怒鳴りつけようと出てきた。が、彼女は怒鳴るどころか唖然としてしまった。
「やぁ、里桜」
目の前には遠距離恋愛中の恋人がいた。だが、冬だというのに彼はそれらしい服装をしていない。里桜はすぐに彼を家に入れてやった。
彼を部屋に入れるのは初めてだ。何だか、照れくさい。
「いきなりどうしたの。あんなインターフォン趣味悪いよ、冬也」
笑いながら“悪い悪い”と口にした。いつもと変わらない彼だ。突然の訪問だったので何かがあったのかと思ったが、そうではないらしい。
彼女はほっと胸をなで下ろした。
「で、どうしたの」
「…」
不利になると黙り込む、彼の子供っぽい癖だ。怒られてしゅんとしている子供のようになる。廊下に立ったままの彼を部屋まで通し、座布団に座らせた。里桜はキッチンへお茶を取りに行く。
さすがに恋人といえども客人にお茶を出さないわけにはいかない。
彼女はお湯を沸かし始めた。
「何言っても怒んない?」
里桜は手を止めた。
「なんでよ」
彼はまた黙り込む。
彼にとってよっぽど言いづらいことだということが伺える。
「浮気したとかの報告はいらないよ」
「そんなんじゃないよ」
真顔でこちらを睨み付けるように言われた。この圧力にはいつも負ける。
なんか、こっちが悪いみたいじゃん。
「ごめん。わかってる」
「わかればいいんだ、わかれば」
本当に調子のいい恋人だ。
「で、冬也、どうかしたの」
「…えっと」
里桜がお茶を持ってくる。目の前の彼は俯き、視線を泳がせていた。その様子を見て、彼女は溜息をついた。この状態に陥ってしまうと、冬也は30分近く喋らなくなる。誘導尋問のような会話になってしまう。
「私は冬也じゃないよ。冬也の思ってることは当てられないからね」
念を押すように言ってみる。すると、冬也がスーっと息を吸った。
「――今日から里桜といちゃだめかな」
その言葉を聞いたとき、一瞬だけ目の前が真っ白になった。嬉しいのか面倒臭いのかはよくわからなかったが、何かでいっぱいになった。そして、後からなぜ?という質問が押し寄せてきた。彼にも仕事がある。人間関係がある。確かに寂しいとは思っていたが、こういう形になるとは予想はしていなかったので、驚いていた。
言ったあとの冬也はまっすぐと里桜を見つめていた。答えを待っているようだ。圧力のようなものを感じる視線だった。
「ちょっと、なんでいきなり」
「やっぱりだめだよね。いきなりだもんね」
「違うの!ちょっと待って」
いきなりで慌ててるんだよ。答えをすぐに出させようとしないでよ。
彼がこう言い出すのにも理由があるはずだ。理由もなくて彼を泊めさせるわけにもいかない。これでも生活は少し苦しいのだ。
「いきなりなんで?理由は?」
「…ただ、寂しくなった」
「それだけ?」
「うん」
ばか。ばかばかばか。そんなん言われたらこっちだって何も言えなくなるじゃない。
紅潮していく顔を隠すために、里桜は台所へお菓子を取りに行った。その間、沈黙が続く。彼女が帰ってきてもそれは続いた。お互いが顔を俯かせたまま市販のクッキーを口に入れていく。
この沈黙に耐えられなかったのは彼の方だった。
「ねぇ」
「ん」
顔を俯かせていたので彼がどんな顔をしているのかなんてわからなかった。
「寂しかった?」
「一応」
「素直になってよ」
里桜はもう一度「一応」と念を押して言った。すると冬也が立ち上がった。そのままカウンターキッチンに置いてある写真立てに向かった。それを見て彼は微笑んだ。背景には海と雲が少し散らばった青空がある。幸せそうな男女が二人微笑んでいる。男は女に抱きついていて、女は照れくさそうに笑っている。
やっぱり、なんだか照れくさい。
それから、彼は里桜の傍まで来てすぐ隣に座った。彼が頭を彼女の肩にそっと乗せる。彼女は視界に彼を入れないようにじっとしていた。
「飾ってたんだ」
「いいでしょ、別に」
「うん。悪くはないね」
そのままじっとする。ふと時計に目をやると夜の23時を過ぎていた。いつもならこの時間帯にはベッドにうずくまっている時間だ。なのに、今日は風呂にすら入っていない。
里桜は彼の頭をどかして立ち上がろうとした。その彼女を彼が抱きしめて引き留める。
「どこ行くの」
「風呂。入ってないから」
そう言うと、彼は素直に手離した。立ち上がり、引き出しから下着を取り出し、洗面所へと向かおうとする。
「俺も入っちゃだめ?」
「嫌だ。入ってこないで」
「何で」
「いつも言ってんでしょ。嫌なもんは嫌なの」
彼がしゅんとしたのを見届けてから、洗面所へと入る。台に下着を置き、脱いだ服を洗濯機に放り込んでいく。髪の毛をまとめて、風呂場の扉を開けようとした。
「何、洗濯はテキトーなんだー」
冬也の声。
「嫌だって言ったでしょ!何で来るの!」
とっさに手元にあったバスタオルで隠すべきものを隠す。改めて見た彼の顔はにやけている。今までこの時間帯まで人を家に入れていることがなかったせいか、思いっきり調子を狂わされている。
「…もう。リビング行ってて」
鷲掴みにしていたバスタオルを下着の上に手放し、すぐに風呂場へと入り、扉を閉める。ガラガラと風呂の蓋を開け、シャワーを浴び始める。外への警戒を緩ませることなく全てを終え、風呂桶の中へと入った。
もっと早くに同棲してたら、こうなってたのかな。
風呂の水を手ですくう。それを顔にぴしゃんと当てた。そして、濡れた顔を濡れた手で拭う。
「冬也、いるのー?」
声が風呂場で反響する。里桜の質問に扉のノックで返ってきた。
まだいるみたい。
「――…俺も入りたい」
「あたしが出た後に入ればいいでしょー」
「――…やだー。今がいいー」
子供か、お前は。
「じゃあいいよ。お好きなタイミングでお入んなさいよ」
その言葉と同時に扉が開いた。最初から一緒に入るつもりだったらしい。
里桜は生温かいお湯に浸ったまま、天井を見つめる。白いもくもくが天井へと昇っていく。
気がつくと、冬也はシャワーを止めて、風呂に入りたそうにしていた。
この時期だ。さすがに寒いのだろう。
「すぐあたし出ようか」
「それじゃ意味ないでしょ。ほら、そっち寄って」
冬也が里桜を促す。そのまま空いた隙間に冬也が入浴する。そして、自分に寄っかかるよう里桜に言う。
「こうしたかったんだよねー」
「あっそ」
「何、嬉しくないの」
里桜がそっぽを向く。その里桜の態度にも冬也は笑顔を見せる。
「嬉しいのね」
「里桜」
夜。セミダブルのベッドに二人で横になっていた。里桜は壁に顔を向けたまま、冬也はその里桜に抱きつくように眠っていた。
「俺、里桜に触れてるよね」
泣きそうな声だった。悲しそうな声だった。初めて聞くその彼の声に思わず顔を向けた。冬也は泣いていた。里桜を強く抱きしめたまま、泣いている。身体を転がし、冬也を抱きしめ返す。彼女にはそうするしか方法を知らなかった。
きっと冬也に何かあったんだ。“何か”が。
「うん、大丈夫だよ、冬也。あたしも冬也に触れてるでしょ」
その夜、冬也は子供みたいにうずくまって眠った。
翌日。
里桜が起きると朝食ができていた。冬也が用意してくれたらしい。
「ごめん、作らせちゃったね」
「いいよ、どうせ居候みたいなもんだしね、俺」
のっそりと起きて、洗面所へと向かう。歯を磨いて、顔を洗って、髪をまとめて、部屋へと戻っていく。すでに机には目玉焼きとトーストとサラダがある。里桜が一人で暮らしていた時よりずっと健康的な食事だ。いつもはカロリーメイト一箱で済ましているため、見た目健康的な食事とは言えなかった。
寝起きのテンションでテレビをつける。テレビの中で女性アナウンサーがはきはきと喋っている。噛みかけては笑顔でごまかしている。この食事と冬也の存在と、それらを抜かせばいつもの風景だ。時計もいつも通り動いているし、テレビもほぼ似たような内容を流し続けている。
「ねぇ、今日は仕事ないの?」
ふと冬也が食べながら喋り出した。クチャクチャ言っている。
里桜が口に手を当てながら「食べながら喋らないの」と返す。
冬也が急いで噛み砕いて飲み込む。その姿がまるで子供だ。恋人と同棲していると言うより、おっきな子供を一人預かっているような感覚だ。彼は“これでいい?”と言うかのように目を輝かせる。
「よろしい。よくできましたね、冬也君」
「小学生かよ」
拗ねるような言い方だが、彼なりに楽しんでいるようだ。それならそれでいいのだろう。「で、答えは」と彼は答えを求めた。「フリー」と一言返すと彼は満面の笑顔で再び朝食を食べ始めた。
やっぱり、年下の男の子を相手しているみたいだ。
ふとそう思ってしまった。
目が覚めると、不思議と身体の痛みはなかった。血も傷もなかった。唯一の違和感といえば、あれだけのダメージを受けて、なぜこの地に立っているのか、その問題だけだった。この場所はどこだろうと辺りを見回すと、見覚えのある名前が目に入った。
確か、彼女の住んでいる住所に…。
直感で辺りを探る。いくつかまわった後に見つけたアパート、そこに彼女の名前があった。
時間はもう遅いだろう。寝ているかもしれない。そのような不安もあったがインターホンを鳴らした。しばらくするとガチャっという音と共に受話器が上がった音がした。
「はい」
ありきたりな返事も聞こえた。声が出なかった。久々すぎて心臓が破裂しそうで何も出てこなかった。彼女のイライラしたような溜息が聞こえてきた。ずっと会えなかったのはこっちの都合のせいだ。もう自分のことは嫌いになっているかもしれない。溜息を聞いて、もっともっと不安になった。そして、受話器は乱雑にガチャっと切られてしまった。
もう一度インターホン押した。本人が出てくれ。どんな顔をしているんだ。出てくれるまで何度も何度も何度も怒られてしまうかもしれないくらい、ボタンを押した。
もうすぐだ。もうすぐ扉が開く。
「やぁ」
里桜。
「冬也、どうしたの」
彼女の声で戻ってきた。ここに来たときのことを思い出したようだ。
時間が経つのはとても早かった。あのときに思った一番近くにいたかった人、それは彼女だった。その願いを神様は受け入れてくれた。それだけでも感謝すべきなのだ。きっとこれ以上のわがままを神様は受け入れてくれないだろう。
「…あのさ、冬也」
「どうしたの」
「聞いちゃいけないことかもしれない。でも、聞いちゃだめかな」
わかってる。君が聞きたいことはわかってるよ。
ベッドに寄っかかりながら彼は里桜を見た。彼女の唇が震えていた。今にも出てきてしまいそうな涙を抑えている。膝をさらに胸に近づけて、彼女はもっと小さくなった。いつもは堂々としている彼女がずっと弱々しく見える。何よりも弱く見える。今日、隣にいる彼女はいつもととても違う彼女だ。
もっと早くにこういうところがあることを知りたかった。一番好きな人を最後に傷つけてしまうなんて。そして、大事なことはいつも最後まで言えない。
それは俺のいつもの悪い癖だ。神様、わがままを言いたいよ。
「…冬也は一番最後に、あたしのとこに来てくれたんだよね」
今の君は泣いてるの?顔を見せて。
「いつ気づいたの?」
「この間。冬也のお姉さんから、電話があって」
「そっか」
ごまかせなかったなぁ、と彼は戯けてみせた。彼女は顔をあげなかった。
彼女の口からぽろぽろとこぼれる。彼が事故で死んだということ。その事故はとてもひどかったもので即死だったということ。やはり駆けつけたときには亡くなっていたということ。式はもう終えたということ。事故の起きた当日に彼が彼女の家に来たということ。そして、今日で49日目だということ。
「今日で、お別れなんでしょ」
彼女の嗚咽が聞こえる。
離れたくないと思った。でもこの願いはもう叶わない。
「ごめんな。何も言えなくて」
「…あたし、なんでここに来たのかって、聞く勇気がなかった。嫌な予感がしたの。だから、聞けなかった」
そして、彼女がやっと顔を上げた。頬には涙の痕がある。目は赤い。頬も鼻も赤い。彼女のこんな顔は初めて見た。
生きている内に見たかった。
「あたしこそ、ごめんね。言えないよね。死んでたんだ、なんて。冬也が一番辛かったよね」
「里桜」
「…またいつか、どこかで会おう。天国ででも、ここででも、地獄ででも」
泣き顔の中に希望があった。明るみがあった。こんなきれいな表情、人間らしい表情ができる人が他にいるだろうか。
できる限り強い力で彼女を抱きしめた。
「当たり前だ」
彼の手がだんだんと透けてきた。もう神様が迎えにきている。
「…里桜。もう時間だ」
「うん」
彼女の目がしっかりと透けていく彼をとらえる。抱きしめたまま、その最後の時間を感じようと彼女は必死になっていた。その彼女がとても愛おしい。
しっかりと抱きしめていよう、俺のすべてが伝わるように。
彼は抱きしめて、彼女の髪を撫でてやった。そして、耳元で囁いた。
「またいつか、どこかで」
人の温もりが手から消えた。でも、感触は残っている。
大丈夫よ。またいつか、会えるから。
またいつかどこかでと言えるような恋人が欲しいものです。
死んで生まれ変わってもまた会いたいと思えるような。